ぴっちりと閉め切られたカーテンが、寝室を世界から切り離していた。瞼の裏側から光が差し込むみたいな薄暗い部屋には倦怠感がずっとつきまとい、ただでさえ少ない気力がごっそりと削り取られるような心地がする。
私の寝室は昼前の路地裏みたいだった。
いつも閉め切られたカーテン越しの世界は、冬が終わり、芽吹きの季節となっているらしい。私はその変化を家の中の空気とイチカの服装だけで感じていた。
と、イチカが階段を上ってくる足音が聞こえた。
霧の中からはっきりと聞こえてきて、その音は私と現世を繋ぎ止める証だった。
「カアナ? いいっすか?」
勝手に入ってきてもいいと伝えているけれど、イチカは律儀にノックをしてから入ってくる。
私はベッドに仰向けになったままイチカを目だけで追った。
「調子はどうっすか? 一応消化によさそうなもの作ったっすけど」
食事は申しわけ程度に取っていた。
私の体近くで丸くなるミズタキに気をつけながら、よたよたとベッドから足を出す。イチカは私の体を支え、部屋の外まで連れ出してくれた。
ミズタキが出入りできるよう、扉は少し開けておく。
死にたいわけじゃない。生きていたいわけでもない。ただ、私という役割を放棄したいのだ。私という人間が背負った役割は、私にはあまりにも重すぎるから。
それが具体的な形になったとき、死という名が与えられるだけ。
でもそれをしたら感情の奴隷になってしまうと思って、こらえた。奴隷になるなら、私をもっときれいに飾ってくれるものがいい。
「……おいしい」
私の言葉に、イチカはふっと雰囲気をやわらげる。
生きている理由すら曖昧なのに、卵の雑炊はおいしかった。だんだんと咀嚼することすら億劫になってきて、舌と口の上側で押し潰すようにしてご飯を食べたら、米から熱があふれ出てやけどした。勢いそのままに飲みこんだら傷跡が食道を通って胃に広がる。
一口、二口、三口、と時間をかけて食べ進めたけれど、限界で。結局イチカと一緒にわけて食べた。
イチカは私が残した食事を食べてくれるのに、なぜか少し痩せた。その様子を見たくなくて頑張って食べようとしても、空っぽだった胃が突如として固形物を押しこまれ、驚き、拒絶し捩れた。
咳きこんだ拍子にSwitchの赤色と青色が目に入って、三体に減った人形も目に入る。
「誰かの愛を否定した人間が愛されちゃいけないのなら、きっとみんな、愛を受け取れないっすよ」
イチカが不意に言う。木さじで土鍋の底を丁寧に掃除して、汁の一滴まで残さないようにしている。
私は小さな口を小さく開けた。木さじすら入り切らないほどだった口はイチカによってむりくり広げられ、あたたかな汁が胃に流れる。
「誰を愛するか選ぶ権利があるのと同様に、誰に愛されるか選ぶ権利もあるんすよ。受け取れなかった愛は、いつか、誰か自分の知らない人に渡してあげればいいんす」
「でも、私が拒絶したものはもう、誰の手にも渡されなくなっちゃいました」
イチカは何も言わず、泣きつかれたような顔でほほえんだ。
料理しないように設定されたルイは暇を持て余したらしく、最近では充電用の床の上で休んでいることが多い。起動音がしてイチカに近づいた。どうやら洗い物をすると言っているらしい。
イチカが首を振って断ると、充電場所に戻ってスリープ状態になる。私がこうなってからというもの、私の家は静かになった。
この家の日常は、人生の伴侶を失っていきなり年老いてしまった人のように、急速に崩れた。
今日はイチカが午後から夜にかけて巡回に行く日のようで、それを聞いてようやく土日のどちらかなのだと思い至る。
「今日は平日っすよ、春休み」
「あぁ……もう、そんななんですね」
私の秒針は置き去りになっている。置き去りにした事実だけ忘れずに、平穏を消費している。
洗い物を済ませて――私が拭くのがあまりにも遅すぎて巡回時間に遅れそうになったけれど――イチカを玄関まで見送った。
そうして訪れた沈黙に誘われるように、私は寝室へと迷いこむ。ドアを開けると、私よりも先にミズタキがベッドに潜りこむ。最近のミズタキは私から目を離せないようだった。
「にゃ〜」と鳴いてみる。
ベッドで丸くなる白猫がくすみのない満月をちらと向けた。
「にゃ、にゃ、にゃ〜……にゃにゃ、しゃ!」
重い体をできるだけ俊敏に動かした。あっちへゆらゆら、こっちへふらふら。
もっと、もっとと動かして、バランスを崩して床にごちん。
早く寝ろと言わんばかりに、ミズタキがひらひら尾を振った。私は力なくベッドに倒れこむ。
「もう、いいじゃん。少しくらい。……駄目?」
これではどちらが主なのか分からない。しっかりとおやつは食べるくせに、どうしてキャットフードは残すんだ。一日たりともないけれど、もしも私が食事を完食できたらミズタキも完食してくれるのだろう。
私が起きている間はずっとミズタキも起きていて、呼びかけると静かに鳴いた。
私はあんまり眠れなかった。夜に眠れない分を補うように日中横になっても、ちっとも体力は回復しない。
やがてイチカが帰ってきて、夕食の準備の前に一緒にお風呂に入った。ミズタキは水が嫌いだから、このときばかりは脱衣所のドア前に座っている。
「カアナってすべすべできれいな肌してるっすよね。羨ましいっす」
浴槽に浸かりながら、ラッコ座りの背後でイチカが言う。私の前面で組まれた腕がきゅっと締まる。
「すべすべなのは一緒じゃないですか」
イチカの手首を掴んで感触を確かめる。
私の声はぼそぼそしていた。寝起きじゃないのに寝起きみたいだった。
イチカが私のうなじに頬を当てる。張られた湯が静かに波紋を広げた。私のほうが少しだけ体温が低い気がした。
「……人生にはいろんな出来事があるじゃないすか」
「はい、あります」
「私はそれ、ザルの網目みたいなものだと思ってるんすけど」
半同棲みたいになってから、上っ面じゃない言葉を交わす機会が増えた。
「カアナは網目が細かいと思うんすよね」
「ザルの網目が細かい、ですか」
「はい」とイチカは耳もとで囁いた。天井まで見通せないほどの湯気が、人生にかかった霧みたいに不安を煽る。その向こう側から電灯の光がぼんやり差した。掴めない希望みたいだった。
イチカの感触を確かめたくて、手首を握る手に力を込めた。
「人生にはいろんな出来事があるじゃないすか。それを、ザルに漉される水とか、砂とか、砂利だと思ってください。網目が細かい人ほどたくさん溜まっていって、耐えられる限界値まですぐに到達してしまうんす」
「網目の粗い人なら、人生の出来事がどんどん抜け落ちていって、耐久力の器が満杯になりづらい……ってことですかね」
「そう、そんな感じっす」
満足げな声がした。翼が大きくはためいて、水しぶきがタイルや壁で跳ねる。私にもちょっとかかった。
「それで、普通は満杯にならないようにみんな調整するんす。耐久力を。相談とかして。そのために友だちがいるんすよ」
相談してほしい、ということだろうか。でも、私はもはや何に苦しんでいるのか分からないところまで来ている。信念を捨てられたらよかったなんて相談も論外だ。
それに、友だちってきっと、もっと心が遠いんだよ。私の愛しい人。
私は感情を受け取るものをお椀みたいに考えていたけれど、ザルだと思えたら楽だったのかもしれない。そうすればあふれることはなかったし、外壁を工事して増築する回数も減っただろう。今となっては後の祭りだけれど。
「相談、もう、難しいところまで来ちゃいました」
「はは……そうかもしれませんね」
イチカは乾いた笑いをこぼした。
生活を立て直すすべが、私もイチカも分からなくなっている。心を触れ合わせるような会話をしても、手遅れな感じは否めなくて。生活そのものが困難になりつつあった。
○
そんな生活が続いて、新学期を迎えて少ししたころ。
私は担任から呼び出された。イチカの付き添いのもと久々に登校した学校はすべてがよそよそしかった。自分のホームだったとはとても思えない。
何に近いのだろうと考えて、叔父さんと会ったときに近いのだと思い至る。明確な居場所なのに、心が拒絶するような落ち着かなさがあった。
放課後まで保健室ですごして、それから担任や学年主任と面談となった。
「これから、どうするの」
私は一人で座って、対面には二人のロボットが座る。世界を代表した二人から裁かれているようなこの形は、もしかしたら私が望んだものだったのかもしれない。
穏やかな色味の絵画や家具などで調和が取れた相談室で、私だけが不調和だった。
私は声を出すことすらままならなくてじっと俯いた。考えてみれば自分を弁護する必要なんて皆無だ。沈黙に意味を見出して、何を聞かれても答えなかった。
だんだんと教師の声に怒りが滲み始めた。石像に話しかけても無駄だと思ったのかもしれない。
「ひとまず去年は出席日数の貯金があったからいいけど、今年はまずいよ。もう学校に来ないつもりなんでしょ?」
来ないつもりなんでしょ。教師の言葉が体で弾けた。臓腑をぐちゃぐちゃにされて、思考もぐちゃぐちゃになって、言葉を失う。
色褪せたスラックスの上で握られた拳は、記憶にあるものよりひと回り小さい気がした。
私との面談は先生にとって仕事の一環で、他の仕事がつっかえているからか、先生は何度も時計を気にする仕草をした。無理に隠そうとしているところが、余計におかしかった。
どうせ先生にとって私なんて大多数の中の塵芥なんだから、気にしなくてもいいでしょ。気にされたらそれはそれで痛いし。イチカですら手に余っているんだから、もういいじゃん。
沈黙の秒数を数え、それに飽き始めたころ、唐突に扉が開いた。
内履きが床を叩く音が、相談室に張り詰めた緊張感を高めていく。イチカは私の肩にそっと手を置いた。
「もういいじゃないっすか。しばらく私が一緒にいますから、なんかあったら私によこしてください」
耳に馴染んだ子守唄。遠くから脳に優しく響いて、心を安心によって締めつけてくれる。
イチカに手を引かれるまま相談室をあとにした。部活の始まった校内は明るさと喧騒に包まれている。
外から春風が吹いた。窓からは新緑と澄み通った空と太陽が見えた。私の制服は黒かった。
「イチカはどうして私と一緒にいてくれるんですか?」
イチカは少し考える素振りを見せて、無言のままほほえんで首を振る。言葉の代わりとばかりに、手を繋いでいたのが腕を組む形になる。
玄関で靴を履き替えるとき、自然と私はイチカに支えられた。
「ごめんなさい」
イチカに抱き寄せられた。待ち焦がれた香りが私を満たす。喧騒が遠く離れて、世界は私たち二人だけのものになる。私がイチカの体に手を回すことはついぞなかった。
こんなときも、私は涙を流せない。
愛しい。愛しいけど、重くておもくて、鬱陶しい。愛しい。好き。好きだけれど、耐えられない。
イチカを見上げて、ふありとはにかむ。
「大好きです」
前は服を脱がされただけで恥ずかしがっていたのに、今ではほとんど毎日、家族とも恋人とも夫婦とも違う距離で過ごしているね。名前をつけるなら、この関係はなんだろう。家族なのかな、やっぱり。
イチカがほほえみを返してくれた。
「精神的に脆いんですから、もうちょっと寄りかかってくれてもいいんすけどね」
どうしてあなたは、こんな私を大切にしてくれるんだろうね。だって宝物のビー玉が割れたらそれはもうゴミにしかならないのに。捨て場所に困って、むやみに触れたら指を切って、触らないほうがいいに決まってるでしょ。
でも、ときおり犯す愚行がとても高潔だと思う。その高潔さが好き。
「私が自分を弱きものと認めたら、私は自分のために力を振るうことをためらわなくなってしまいます。それは嫌です。だから、けっこう強いって胸を張ります」
傾いた日が校舎に差す。長く伸びた周囲の影が薄暗闇をつくる。私たちの影が溶け合い、まざる。自立しなきゃ、と思った。
両親の記憶も、イチカとの記憶も、やがて薄れて透明になる。私は透明に苦しまないようにならなきゃいけないんだ。
「今だってそうです。私はけっこう強いから、これからきっとよくなれます。……休めば」
「じゃあ今日のご飯は張り切って作るっす」
「私が残したらミズタキまで痩せていっちゃいますよ、もう」
「えぇ……そこは頑張って食べるって言いましょうよ〜」
学校に行かなくてもよくなったことで、私は本格的に休めるようになった。
ほんの少し元気になれたから、今日は一緒に買い物をして帰った。
○
『――カアナちゃん、大丈夫そう?』
数回クエストに行ったあと、不意にミカが言った。雑談ですよという軽い調子には隠しようのない心配がこもっている。
『あ』とミカが声を出す。『そっか』とミカはいつもどおりの言葉を返す。春の日差しに触れたような声音だった。
『コハルちゃんも心配してたんだ。でも、自分じゃ何もできないからって』
「まぁ、カアナならはねつけそうっす。コハルのこと庇護対象にしか見てないでしょうし」
『ね☆ 何回か連絡を取ってものらくらかわされちゃうみたい。ひどいなー。……気持ちは分からないでもないんだけどね』
「経験者は語るっすか」
『今度そっちに遊びに行ってもいい?』
「暴れる気じゃないすか」
『ちょっと壊しやすいものを探しに行くだけだから』
「暴れる気じゃないすか!」
ミカがクエストを受注して、イチカが取った。手早く準備を済ませてクエスト開始の笛を聞く。
誰を救うか選ぶ権利があるように、誰に救われるか選ぶ権利がある。
愛する人を選ぶ権利があるように、愛される人を選ぶ権利がある。
ミカは分かっているから深く踏みこまないのだろう、とイチカは考えていた。
『ほんと大変な人を好きになっちゃったね、イチカちゃん』
はは、とイチカは朗らかに笑った。
「でもミカ様も、コハルちゃんが大変だったら助けるっすよね?」
『そりゃもう大学ブッチして行くかな☆ そこまで離れてないし、頑張れば一日で着けるんじゃない?』
「もしかして走ったほうが早いんじゃないすか」
『ん? イチカちゃん?』
大剣がイチカに振り下ろされる。イチカはガードポイントを駆使してミカとクシャルダオラの攻撃をいなす。
わちゃわちゃ騒いで、ふと訪れた沈黙を縫うようにイチカは言った。真剣な口調だった。
「カアナの場合は、ちょっと暗闇の中にいる時間が他の人より長いだけっす」
『……かもね』
クエストの最中にコハルが合流した。もう何度目かも分からない三人だけの夜は、どこか物足りなさを漂わせつつも、平穏に過ぎ去った。