ほんの数ミリ普通だったら   作:ぞんぞりもす

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信奉派

 ルイに料理の注文を細かく出すことと、自分の洗濯物は自分で洗うことが、目下の目標となった。

 そつなくとは言わないまでも、程々にこなせるようになった初夏、私は少しずつ行動の範囲を広げはじめた。

 

 

 せめて自分一人で買い出しに行けるようにならなくちゃ。イチカが私の家に泊まるかどうかは彼女の予定次第だけれど、週の半分以上来てもらっているから。

 

 

 風呂上がり、ふとハンドソープの容器が空になっていることに気づいた。

 詰替え用を入れるための回す部分が中途半端に外れ、プラスチックの細い管が覗いている。両親の点滴を思い出した。首の取れかかったぬいぐるみにも見えた。

 一過性の鋭い痛みに叫びたくなったけれど、誰が叫んでいるんだと叱咤して、空っぽの胃に言葉を押しこんだ。

 

 

 そんなふうに、三歩進んで二歩か三歩下がるような生活を繰り返しているとき、いきなり私は襲撃された。

 

 

 走った。必死だった。運動不足の生白い全身に血流が行き渡る。荒い息を吐いている事実に、生きていると思った。桜色に上気した頬は、さぞ私を魅力的に見せているだろう。

 小さなころから私の成長を見守ってくれた買い物袋を手放し、ミズタキのおやつも自分の食料も手放して、貴重品を入れたバッグすら手放して、路地をひた走る。

 

 狙撃したいが相手は多く、なおかつ市街地という地の不利を私は背負っている。初夏の夕方は明るいけれど、曇天のせいで薄暗かった。これでは視界を確保できない。

 正面からやり合うべきではない。とにかく巻かなければ。

 

 

 しかし物量作戦によって徐々に逃げ場を失い、人生みたいに身動きが取れなくなっていく。

 

 

 過度な運動を要求したことで全身が悲鳴を上げた。途中から走る理由を見失って、襲撃者たちの叫びを聞いたことで、とうとうすべてを放棄した。

 

「教官をなぜ殺した」

 

 彼女たちはそう言った。信奉派なのだとすぐさま気がついた。

 両親はもしかしたら、私を救い、そして弱きものの多くを救ったのかもしれない。その事実を突きつけられ、自分勝手で私は何人を殺したんだろう、と思った。

 

 

 せっかくうまくいき始めたと思ったのに。

 イチカの笑顔が増えたのに。

 イチカが家に来る頻度が下がって、またみんなと一緒にゲームできるようになったのに。

 

 心も体も限界で、でも乾ききった私はどれだけ絞られても雫のひとつ落とせやしない。泣く権利なんて私にはないんだ。

 

 ひびだらけの石畳に座りこんで、曇天に手を伸ばす。あざ笑うかのように、鮮烈な橙が雲間から覗いた。世界から放り出された気がした。

 

 

 苛烈な銃声が朦朧とした意識に割りこんだ。

「支援兵だ!」「散開しろ!」私を取り囲む何人かが声を荒らげた。

 

 顔を上げると、血の滲んだ視界にイチカが映る。すっかり日が落ちた路地は暗かったけれど、彼女の黒は鮮やかで、夜に浮くように際立っていた。

 安心を覚えて、同時に情けなくて、呼吸が浅くなった。

 

 イチカはコンマ数秒で狙いをつけて銃撃し続ける。リロードの合間に、張り詰めた空気などお構いなしに進むローファーの音が聞こえてくる。

 

「で、何やってたんすか」

 

 やがて一本道から銃声が聞こえなくなり、代わりに怒気の滲む朗らかな声がこだました。イチカの呼びかけに答えるものはいなかった。

 イチカはしゃがんで私を見た。糸目がふありと孤を描く。

 

「まったく。何してんすか、もう。友だちから通信入ったなーと思ったら緊急事態って、ほんと。勘弁してくださいっす」

 

 彼女の名を呼びながら私は正面から抱きついた。服に顔をこすりつけて、全身をイチカで満たす。眠れなかった日に抱き合ったときのような、私を泥沼に引きずりこむ甘い悪夢みたいな香りが血流を支配する。

 

 何度も謝ってしまって、でも理由を説明しなきゃ相手には何も伝わらないよな、と思い直して、深呼吸を繰り返す。

 イチカは私が落ち着くまでの間、ずっと頭を撫でてくれていた。

 

 私がイチカに本気で縋りついたあの日から、イチカはよく「大丈夫」と言うようになっていた。

 

「背中……イチカ、きれいって言ってくれたのに、私、わたし……!」

 

 イチカの手が頭から離れる。私の背中が血で濡れていたのかは定かではない。熱も感じないほど、おそらく背中に移ったであろう手が分からないほど、痛みのせいで感覚が麻痺していた。

 

 銃撃され、拳や棒状のもので叩かれ、蹴り飛ばされた。彼女たちの一撃いちげきには激情がこもっていた。だからこそ私は誠心誠意受け止めようとした。

 彼女たちの大切を奪った私は罰を受けるべきだ。たとえ自分の心を守るためだとしても、私は信奉派の心の拠り所を奪ったのだ。

 

「イチカが大切にしてくれてたのに、わたし、それ……壊してしまって」

 

 もしも私の体が傷つかず、信奉派の受け取ってきた痛みを受け取る手段があったなら、きっとイチカを悲しませなかった。でも、そんな手段はなくて。ここはただひたすらに現実だった。

 

「私、カアナのことご両親から託されたんすよ。だから離れないでください」

 

 何度この声に慰められたか分からない。私を心の底から安堵で締めつけてくれる声音だった。

 

「大切なものを傷つけられた怒りをぶつけていいなら、私だって――いいっすよね?」

 

 そんなのいいわけがない。彼女たちは生まれたときから虐げられ続けたのだから。あげくの果てに自分の教官を殺害されたのだから。私と信奉派、どちらが悪いかなんて分かりきっている。

 

 でも口を開けなかった。みっともなかった。私は立ち上がるイチカを見上げるばかりだった。

 

 すべての存在が音を発することを罪だと思っているような沈黙と、重い空気が横たわっていた。

 

「なぜ、カアナだけが愛される。カアナの行動だけが許される」

 

 一人が姿を現したのを皮切りに、信奉派が増える。声が大きくなる。私への責め苦がもはや気持ちよかった。

 もう何もかもどうでもよくなったとき、罵声は快楽へと変わるのかもしれない。

 

 そしてミカ様は他人を憎んだ。

 私は()に罵声を響かせた。

 

 

 イチカがひとつのマガジンをあっという間に撃ちきる。

 信奉派の声が聞こえなくなったけれど、彼女らの銃声は聞こえない。イチカに気圧されているようだった。

 

 空のマガジンが石畳を叩く音が沈黙を際立たせる。

 

「許されるとか許されないとか、関係ないんで。私の愛する人を傷つけるなら、正義のヒーローだろうがなんだろうが憎悪の対象なんすよ。弱者がカアナの足を引っ張るの、ほんとやめてくださいよ」

「そいつは強いのにどうして――」

「だから弱いことを誇らないで」

 

 鬱陶しそうな声は、けれども澄んでいた。曇天を突き抜けて銀河を食い破るほどの情熱が、朗らかな声にこもっていた。

 レッドドラゴンに伝わった熱が弾丸として宙を穿つ。

 

「自分たちはこんなに惨めなんだから、持っている側のあなたたちから奪っていいよね。持っている側のあなたたちを逆恨みしていいよね。いいわけないっすよそんなの。私のカアナを穢さないで」

 

 イチカは半笑いになっていた。

 

「強い人間がどれだけ神経をすり減らしやすいのか知ってるんすか? 強く握ったら壊れちゃうから、必死に自分の感情を抑制して、力まないようにしてるんすよ」

 

 勘違いだよ、イチカ。私が強く握らないのは、私のわがままなんだ。

 愛したら返されるから。甘えたら愛されるから。もう縋ることしかできなくて。そんな出来損ないの感情すらもイチカは優しい誤解に沈めてくれるの。

 

「それを、全力で握ったところで大切なものひとつ満足に握れない弱者が羨まないで。全力で何かを叩けることを誇らないで。感情を爆発させて当たり散らかすことを当然と思わないで。本当に優しい人は、痛いことを痛いって言えないし、そう思えないんだから、これ以上カアナに関わらないで」

 

 生きたいなんて思っていなかったのに、どうして死にたくて、生きたいんだろう。ちゃんと生きようとすることって、こんなに苦しいんだね。

 

 イチカ。

 

 私は、両親のおこないを肯定できないから、せめて自分のおこないが招いた責任を取りたかったんだ。

 

「ほんと、うざい。全員死ねばいいっすよ」

 

 過激なイチカを呼び起こしてごめんなさい。きっと今のイチカは、イチカの好きなイチカじゃないよ。だから私が抑えなきゃいけないんだ。

 弱きものを守る信念を好いてくれたあなたのために。私の不器用を受け止めてくれたあなたのために。そして、イチカがほんのちょっぴりだけでも自分を嫌いにならないで済むように。

 私はひたすらに祈りを捧げる。

 

 自然と笑顔が浮かんだ。好きな人を思って行動するのって、本当に好き。受け止めてもらえなくても、愛しているって思うだけで心の知らない場所がぽんって弾ける。

 

 蹴り飛ばされたライフルケースまで、人生を歩くみたいにして血の跡をつけながら這った。

 

 

 背後ではほとんど一方的な銃撃戦が始まっている。終わったあとに、きっとイチカは後悔する。その後悔をやわらげられたら、とても嬉しい。

 

 

 ライフルケースを開けて、クロアメを抱きしめるようにして取り出す。近くの箱を銃座に見立ててバイポッドを展開する。何度も繰り返した動作だ。震える神経を深呼吸でなだめすかし、集中の世界に入った。

 

 本当はスコープなんて必要ない近さだけれど、スコープを覗く神聖な儀式を始める。

 標的を中心に据える。引き金に指をかける。鉄が心に反応して熱くなる。銃口に伝わるまで、もう少し。覚悟が決まるまで、もう数センチ。

 

 ごめんなさい。手当てしてもらってばっかりだったから、今度は私が愛するよ。

 

「――まったく。まだやっていたのか。何にもならないのだがな」

 

 ビルから鮮やかに着地した長身の女子は、凛と背筋を伸ばして立つ。ヘルメットを外すと、海底みたいに深い青の長髪が広がる。

 雲の向こう側に広がる星空みたいな、明るい夜が私を見た。

 

「このあたりなら好きにしていいと言われているのでな。加勢しよう。アリウススクワッドの――」

 

 私は迷わずに引き金をひいた。

 彼女は読んでいるとでも言いたげに必要最小限の動きで避けた。

 

「ほう。自己紹介の最中に撃つとは、ブラックマーケットの礼儀によく似ているな。だが甘い」

 

 濁りきった意識では銃撃か打撃か分からなかった。気がつけば私は石畳に頭を強打していた。意識が飛ぶ。直感と同時にすべてが暗くなった。

 夜の底から、こだまが聞こえた気がした。

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