ほんの数ミリ普通だったら   作:ぞんぞりもす

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夜明けの準備

 ぼろぼろの木目が視界いっぱいに広がる。シーリングライトが薄汚れた壁を照らしていた。窓には外壁と思われる灰色が鎮座していて、風景は一切見えない。かろうじて日中なのが分かるだけだ。

 体を起こすと、しわだらけのタオルケットがソファから垂れた。

 

「起きたか」

 

 料理の大皿をテーブルに乗せた女子は、サオリと名乗った。警戒心をあらわに睨み上げる私を見て、「そう警戒しないでくれ」と奇妙なほど真剣な表情で言う。

 

「お前に危害を加えたことは悪いと思っている。だが、あれはアリウス内部の問題だ。一応私はアリウス分校の出身でな。対処させてもらった」

 

 私は判断に困った。アリウス分校出身のサオリさん(虐げられた者)が、同じくアリウス分校の生徒(虐げられた者)を攻撃するという現実を受け止めきれない。

 

「いい加減前を向けと強く言い聞かせたから、カアナが信奉派に襲われることはもうないだろう」

 

 私は怪訝な顔でサオリさんを見つめた。

 サオリさんは軽く笑ってテーブルを指さす。白くて長い指だった。

 

「話をするのなら、ひとまず朝食を取りながらにしないか?」

 

 室内のくたびれた香りに料理の香りがまじる。無意識のうちにご飯が食べたいと思えたのは久しぶりだった。体は生きていた。

 

 私が気を失ったあと、イチカは私に駆け寄り、信奉派の残党処理を終えたサオリに銃を向けたらしい。

 サオリさんはそれにも対応し、二人の間では一応の解決を見せたようだ。

 

「イチカなら今日の夜ここに来ると言っていた。一緒に帰るといい」

「イチカの怪我は」

「手酷いことはしていない。関節をきめて拘束しているうちに、話を聞く冷静さを取り戻したからな。それからはここでカアナの手当てをして、イチカの擦り傷も軽く消毒した。今日は私が起きるのとほとんど同時に家を出ていったよ。どうにも予定があるようでな」

 

 サオリさんは食事を進める手を止めて、私に向かってわずかに目尻を下げる。

 

「まったく、イチカと同じことを言うのだな。彼女もお前の怪我を第一に心配していた。よっぽど大切なんだろう」

「それは、そうですよ」

「いい人を持ったな」

 

 私は反射的に頷いていた。

 サオリさんは不思議なほど自然体だった。愛だとか、幸福といった価値基準から切り離された世界を生きているように感じられた。

 

「どうして、同じ出自の人に危害を加えたんですか」

「……変か?」

「理解できません」

 

 サオリさんはふっと肩の力を抜いて笑う。

 いつの間にか小皿が空になっていて、私は大皿から少量をよそった。

 

「イチカからひと通りの話は聞いている。本当になんというか、融通が利かないな、お前は」

「これが私の選んだ生き方です」

「選びたかった生き方ではないだろう」

 

 私は痛いところを突かれて答えに窮した。責めるような口調でも諭すような口調でもなく、抑揚の少ない口調。そのくせ私の心を激しく波打たせる口調。

 サオリさんは気にも留めずに料理を口に運び続ける。大皿はすっかり空になって、料理の八割か九割は彼女の胃に収まった。サオリさんは音を立ててコップを置き、ふうと一息ついた。

 

「求められたことに応じているだけで、それを自分が選んだと思っているに過ぎない。手もとにあるカードがすべてだと思って、山札だとか、他の場所に目を向けない。私はそう感じたがな。イチカは放棄しないが、普通は耐えかねる頑固さだろう」

 

 知ったふうな口振りにいらだちが込み上げる。割り箸を握る手に力が入った。私の一生をそんな一言と一緒にしないでほしかった。

 

「何が分かるの、あなたに」

「何も分からないさ。だが、つらいと感じている時期は、生きることに必死になっている時期は、私のほうが長い。その教訓で話しているだけだ」

 

 サオリさんはアリウス分校に所属していた。ぬるま湯に浸かり続けた私とは違う。

 

 信念のない私は私じゃない。でも根底を取り払わないと、幸福にしてあげたい人が幸福になれない。イチカの笑顔を翳らせているのは私だ。

 歩行を手伝ってくれた杖をいきなり取り上げられたような気がした。

 

 黙る私に気を遣ってか、サオリさんは何も言わない。小皿の収まった大皿を流しに持っていった。そしてまた席に戻る。手にしたクリアファイルに数枚の紙が入っていた。彼女は中身を丁寧に取り出して机に並べた。

 

「信念には本当に大事な場面、人生で数度きりの場面でこそ従ったほうがいい。常に深い部分の判断に身を委ねていては、いつか身を滅ぼす」

 

 私の厳しい視線に「別に持つなと言っているのではない」と続ける。頬杖をついて退屈そうに書類をめくった。

 

「ただ、常に信念に従い続ける強さがないのなら、ここぞというとき以外は考えないことを勧める。忘れても、忘れたことさえ忘れても、本当に大事なときは自然と思い出せるだろう。何せ心に直接繋がっているのだからな」

「……どうしてそんなに知ったふうな口を利くんですか」

「私も私なりに苦しんだんだ。考え続けているんだ。だからしたり顔で話した。それだけだ」

 

 サオリさんはほほえんだ。それから表情を退屈そうなものに戻し、唸りながら書類とにらめっこをした。

 ゆっくりとご飯を胃に落としながら、私はその様子を眺める。食事を終えて、小皿の上に割り箸を置く。

 

「何してるんですか」

「む? 次のバイトの資料だ。部隊の配置などから賃金のことまでいろいろ書かれている。覚えておかねばな。私は社会生活に疎いんだ」

「……なんか、楽しそうですね」

「楽しいかどうかはまだ分からない。だが毎日が初めての連続だ。とても新鮮だよ」

 

 私の目にはサオリさんがとても幸福な人間であるように映った。唇を引きつらせるようにして、慣れていないのが丸分かりな笑みを浮かべる彼女は、今この瞬間を生きている。

 

 心が軽くなった気がした。でも体が軽くなったわけではなくて、サオリさんのとなりに座ろうとした私は立ち上がった勢いそのままに床に衝突した。私は今のいままで、怪我していることを忘れていた。

 呆れたようなため息が聞こえた。椅子を引く音がする。

 

「何をしているんだ」

「サオリさん、となりに座らせてください」

 

 甘えるような声音じゃなくて、何食わぬ様子で人に手を求めることができた。サオリさんは私の手を取ったあと動きを止め、肩を貸してくれた。

 

「そういえば答えるのを忘れていたが、私が信奉派と敵対したのは、いい加減目を覚ましてほしかったからだ。八つ当たりをしたところで仕方がないだろう。人には人の選択がある。憎しみは何も生まない。私はそれを伝えたかったんだ」

 

 サオリさんの言葉一つひとつに、私は何かから解放されたような軽さを感じつつあった。まったく予期していなかった出会いは、凝り固まった私とイチカの関係にひとつの雫を落とした。

 

 

 その日の晩、私は怪我を案じてくれたイチカと一緒に寝ることにした。風呂を終え、ケアも終えて、お揃いの寝間着でベッドに入る。

 うつ伏せで寝ようとするイチカにぎゅうと抱きついた。暗闇にはむせ返るほどの安堵が充満していた。

 

「もう、どうしたんすか」

 

 優しい声音を出すイチカが本当に愛おしかった。正面じゃなくても、端っこでも、外であろうと、私はあなたの記憶の一部であれたことを喜ぶのだろう。

 

 イチカの片腕に両腕を絡ませ、片足に両足を絡ませる。イチカは呆れた様子を見せつつも、片方の翼を私の背後に回した。

 長い黒髪の一房が顔に当たってくすぐったい。私の数倍の時間ドライヤーと格闘していると思うと、その一本いっぽんですら愛おしかった。

 

 寝ているだけでシーツにしわが寄るみたいに、生きているだけで何かのしわ寄せが来る。私はけっこう寝相が悪いらしくて。でも今だけは関係ないとばかりにイチカにしがみついた。私たちを包むタオルケットが生々しく形を変える。

 

「好きです、イチカ」

「ふふ、私もっすよ」

 

 なんの抵抗もなく、愛の言葉が滑り落ちる。暗闇に調和するような怪しい快感と囁き声が体の隅々までおかしくした。

 

 私があまりにもぐいぐい体を押しつけたせいか、イチカは横向きになって私を見る。少し離された私はためらわずに正面から抱きついた。規則的に揺れる命の火は小さいけれど、確かなぬくもりを放っている。

 もっとくっつこうとしたら、不意に唇が触れ合った。

 

 二人して照れたように笑った。

 

 もしもイチカに、体を隅々まで、心を隅々まで愛してもらえたら。私は快楽と安堵と痛みで気が狂ってしまうだろう。想像だけで下着が濡れてしまうのだから、実際に触れ合えばそれはもうきっと洪水が起こる。

 それもいいけれど。イチカになら狂わされてもいいけれど。私たちが生きているのは現実だから。ままならない現実だから。

 

「愛していると伝えられることが、私はとても嬉しいです」

 

 最終的にあなたの中から私が抜け落ちるのなら、それでもいい。私が愛している事実は絶対に変わらない。覚悟はもう、決まった。

 

 

 翌日のことだった。深夜と早朝のどちらか迷う時間に私はこっそりとベッドから抜け出した。

 自分のぬいぐるみと大量のボックスマガジンをリュックに詰めて背負い、ライフルケースも背負う。イチカのぬいぐるみを母さんの部屋から持ってきて置いた。もじゃもじゃが三体並んでいるだけに見えるけれど、まぁ分かるだろう。

 

 にゃぁ、と控えめな鳴き声が階段を下りてくる。ほんの少しだけ開けていたリビングの扉を頭で押し開けてミズタキが入ってきた。

 彼女に目線を合わせた。

 

「駄目な主人でごめんね。私はあなたみたいになれなかったんだ」

 

 いつもごろごろ言うくせに、今ばかりは顎を撫でても何も言わなかった。それどころか気持ちよさそうな素振りひとつ見せなかった。

 

「次の主人は優しい人だよ。よかったね」

 

 玄関に向かう私の後ろをついて歩いたミズタキは、スニーカーに履き替えた私の後ろもついて歩こうとした。

 

「だーめ」

 

 振り返った私はミズタキの鼻先をつんと押す。彼女の前足は空中で止まり、やがてフローリングの床に戻った。

 にゃぁ、と再びミズタキがないた(・・・)。こんなとき、言葉が分からなくてよかったと思う。想像力は言語の壁を超えられないから、私は知らんぷりしてあなたにお別れを告げられる。

 

「あなたが生きているうちに必ず戻るから、今は少しだけ旅をさせてね」

 

 私は離れなきゃいけないんだ。

 

 朝が近づいている。残り少ない暗闇に紛れるように足早で家を出た。朝を迎える準備をするために、私は夜を歩かなきゃいけない。

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