ほんの数ミリ普通だったら   作:ぞんぞりもす

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破廉恥の裏側

 イチカはむすっとしたまま、私の手を引いて歩いた。やり返すことを諦めた彼女は、しかし見捨てることを諦めなかった。

 

 暮れ残った団地を進む様子が逢引のようで、することのない私は古典の授業を思い返す。

 やがて建物の中に連れこまれてエレベーターに入った。操作で手が離れ、再びしっかと握られる。

 

 たどり着いたのは電子ロックのかかった扉の前だ。背後に広がるトリニティ自治区はとても広い。数多くの電飾によって、星空を落っことしたみたいに彩りにあふれている。

 

「立派なお家ですね!」

「別にそんなんじゃないっすよ」

「豚小屋みたいですね!」

「グレード下げろって言ったわけじゃないんすよ」

 

 イチカは手慣れた操作でロックを解除し、なかなか一歩を踏み出せない私を部屋に招き入れる。誰かの部屋に入ったのは初めてだった。

 想像していた通りの女の子の部屋だ――と感動したけれど、あまりにも友だちいないアピールがすごすぎたので淡白な反応を心がけた。

 

「誰かの部屋に入るのは初めてすか?」

「え、い、いや、そんなんじゃ!」

 

 イチカは口もとに手を当てた。細い目が柔和な弧を描く。

 

「きょろきょろしすぎっすよ」

「高そうなものを探してるんです!」

「盗む気じゃないすか」

「コンビニとか行ってもらっても全っ然構いませんから! お気遣いなく!」

「盗む気じゃないすか!」

 

 スニーカーを脱いだあとにちょっとした段差で躓いて「ふらふらっすね」と心配される。

 心が穴の空いたマラカスみたいに、自分でさえ想像つかない音を出していた。どうにかして穴から飛び散る血を止めなきゃと思ったけれど、バレてないなら放置でいいかもしれない。

 

 イチカはリビングに私を座らせたあと、扉の奥に消えていった。いくつか扉があって、生活の高さみたいなものを感じさせるアパートは、マンションと言ったほうがより正確な気がした。

 

 芳香剤が見当たらないのに甘い香りが立ちこめていて、猫のにおいがどうしても混ざってしまう私の家よりも居心地が悪い。整然と置かれた家具の質と品がよくて、きっとここにミズタキがいたら喜ぶだろうと思う。

「楽にしていてくださいっす」と言われたけれどソファとか椅子になんて座れるはずもなくて。ラグの上に正座したまま、何度も居住まいを正した。

 

「もう、緊張しすぎですよ」

 

 イチカはプラスチックの箱を抱えて出てきた。

 私は慌ててガラス戸を見やり、ベランダの塀によって遮られたキヴォトスを想像した。

 

「五分と歩いていない場所にこんな観光地があるなんて!」

「観光地のわりに人入れたのは初めてっすけど」

「穴場ですね……!」

「まず人んちっすね」

「たむろしてもいいですか!」

「知ってるすか? たむろって複数人が集まってることを指すんすよ」

「言ってなかったんですけど。――私、影分身できます」

「あとで見せてくださいね?」

「あ」

 

 笑いながらとなりに腰を下ろしたイチカは、てきぱきとプラスチックケースから物を取り出す。消毒液にピンセット、ガーゼ、ペトリ皿みたいなもの、ちょっと高そうな絆創膏。

 手品師がさささささっとトランプを並べるみたいにテーブルに物を広げて、濡らしたガーゼを私の頬に当てた。

 ちょんちょん、ちょんちょん、と優しい手つきで触れられるたびに、冷たさと清涼感と痛みが走る。

 

「……」

 

 イチカは何かを言いたそうに私をちらちら見た。

 先ほどまでの軽い雰囲気は一瞬にして吹き飛んで、今は呼吸するのが苦しいほどに空気が重い。

 

「どうしてやり返さないんすか」

 

 イチカの声は真剣だった。できるだけ重くならないように、でも軽薄な口調で言っていいことでもないから……と迷ったすえの真剣さだったように思う。

 家に知らない虫がいて、とりあえず外に逃したいんだけど飛ばれると怖いからへっぴり腰で近づくような、恐怖と勇気のせめぎ合い。そんなふれあい。

 

 さて。逃げようか。飛ぼうか。

 相手の出方を伺おうかな。

 

「私ってけっこう強いから、やり返しちゃうと大変なことになっちゃうじゃないですか」

 

 空気の表層を上滑りする声。

 頬にガーゼをいきなり押しつけられ、私は情けない悲鳴を上げた。声はリビングを飛び出して外を突き破っていく。

 

「嘘って、なんとなく分かるっすよね」

 

 イチカの声は悲しみに暮れていた。表情を見たくなくて、私はふいと顔をそらす。

 

「だからといって暴力に走るのはよくありませんよ。暴力はんたーい!」

「……手当てしてるんすよ」

 

 ふてくされたようなイチカの声。私は顔をそらしたまま人さし指をぴんと立てた。

 

「いいですか? 話し合いができるから人間というものは人間なんです。人間から話し合いを取り除いたらどうなると思います? そう、野生の人間ができ上がるんですよ」

「……手が滑って消毒液をぶちまけちゃうかもしれないっす。気をつけてくださいね?」

「気をつけるのはどっちですか! もう! 片付け大変なのはイチカなんですからね!」

 

 イチカはほほえみの裏に傷を隠してくれた。手つきが再び優しいものに戻る。そして絆創膏を貼って頷いた。

 

「制服も脱いでください。他に擦ってるかもしれないんで」

「え、破廉恥ですよ」

「はいはい。私もあとで一緒に脱いであげますから」

「今なんか会話がぐにゃん! ってなりませんでした?」

 

 怪獣の口みたいに上下に広げた両手を回転させているうちに、イチカの手が伸びてきて私のスカーフを外した。「自分でできますから!」と制服のボタンを外したけれど、脱ぐのをためらってしまう。そうこうしているうちに脱がされた。

 

 肩を抱く私に何も言わず、イチカはむき出しの腕を観察した。ミズタキの引っかき傷があるくらいだ。キャミソールやブラの紐をめくって弾痕を確認し――先ほど撃たれた場所は赤くなってすらいなかった――引っかき傷に指を這わせて頷いたあと、イチカはようやく緊張を解いた。

 

「一応消毒はしとくっすよ」

 

 そうしてまじめくさった顔で言う。

 

「痛いですね」と言うわりに私の表情はだらしなく緩んでしまって。心の傷口も優しく手当てしてもらっている錯覚に陥りそうだ。

 でもこれは一過性の痛み止めであることを忘れちゃいけない。きゅっと心を引き締めると勝手に背筋が伸びて、慌てた様子のイチカから「動かないで」と注意された。

 

 イチカはなぜか私と話したいようで、しきりに質問を投げかけた。

 

「どうして正実入ったんすか」

「長いものには巻かれたほうがいっかなーって思って」

「……そういう主義には見えないっすよ」

「まぁまぁまぁ。一人での警備とか見回りとかもできると思ってたんですよ。友だちができてもできなくても両対応だと思ったんです」

 

 本当は弱い人の味方になりたかったというのもあるけれど、恥ずかしくて言えなかった。イチカは納得したようなしていないような首の傾げ方をして頷く。

 

「それよりも、ミズタキが好きそうな場所なんですよ。ここ」

「そうなんすか?」

「私の家って一軒家? なんですけど。こんなふうに高いところから一望することができなくて。でもミズタキって高いところが好きだから、いっつもキャットタワーの上に行くんですよ。もう届かないのなんの。構ってほしくて私がぴょんぴょんするのを見下ろしてます」

「カアナが構ってもらう側なんすね……」

 

 ガラス戸にはリビングが映っていた。鏡を見ているみたいだ。外が見えないせいで小綺麗な部屋に閉じこめられているように感じる。

 私の声は先ほどとは打って変わって悩まし気なものとなった。

 

「本当はこういうところに住んだほうがミズタキも喜ぶんでしょうけど……家を空けるわけにもいかなくて」

 

 イチカは一瞬だけ、ん? みたいな感じで身を引いて動きを止めたけれど、深くは聞いてこなかった。

 

「そうだ! 帰る前に外の写真撮ってもいいですか!」

「いいっすけど……外暗いっすよ? 明るいときのほうがいいんじゃないすかね」

「あ」

 

 イマジナリー・キヴォトスは日中だった。「せっかく来たのに」と途方に暮れる私を見て、イチカは堪えきれなくなったようにぷはっと吹き出した。そして声を上げて笑った。

 強く押し当てられたガーゼから消毒液が染み出し、清涼感が肘から手首、手の甲へと流れ落ちる。もう片方の手で薄く広げた。少し早い初夏が訪れたような涼しさだ。

 

「また今度来るといいっす。連絡してもらえれば対応できるんで」

 

 イチカはスカートのポケットからスマホを取り出した。手早くロックを解除してテーブルに置く。これは……そういうことだろうか?

 恐る恐る視線で問うと、イチカは「あぁ」と得心がいったらしく頷く。

 

「勝手に触っていいっすよ。私いま手離せませんし、ささっとやっちゃってください」

「……お、お言葉に甘えて」

「なんか違うくないすかね……?」

 

 ルイを抜かして二人目に追加された人だった。手慣れていますよ、という感じで操作したけれど、たぶん頑張っている感が滲み出ている。恥ずかしくてイチカの顔は見られなかった。

 

「せっかくなんでミズタキの写真送ってくださいよ――」

 

 

 しばらく雑談をして、私に数枚の絆創膏を押しつけたイチカは扉の奥に消えた。

 

 早く帰ったほうがいいという心の耳鳴りは常に聞こえていて、でも、もうちょっと話していたいなんて欲に抗えない。今日だけの魔法だと自分に言い聞かせ、輝く明日に伸びる手を押さえた。

 魔法はいつか必ず解けるもので、壁掛けの時計を確認して立ち上がる。楽しかったし嬉しかったから、ため息は絶対につかない。

 

 と、と、と、といやにゆったりした足音で廊下を進んだ。心音がリンクしている。これくらい落ち着いていられるときは、眠っているミズタキを膝の上に抱えているときとかな気がする。

 

「……どうしてやり返さないんすか」

 

 玄関でスニーカーを履く私の背中に、不意に声がぶつけられる。堪えきれずあふれたような声だった。

 玄関は廊下よりも一段低くなっている。だからイチカは、私をより深く見下さなければならなかった。彼女の顔は暗かった。

 

 これ以上ごまかすのは不誠実な気がした。こんなふうに心配してくれる人は変な人だ。でも、だから報いたい。

 気づけば私ははにかんでいた。

 

「私、争いがあまり好きじゃなくて。人を傷つけるくらいなら傷つけられるほうを選びたいんです。腹立たしいことに! 痛いって分かってても痛みの強度ってちっとも変わらないんですけどね」

 

 自分を守ってくれるクロアメのケースを後ろ手に撫でた。

 背中から伝わる感触。肩にくる重み。布地のケースはざらざらしていて、温かくも冷たくもない温度をしている。

 

「自分のために振るう力って嫌じゃないですか。力を振るうときは、必ず明確な理由を持つこと。それが信条です。子どものころ劇的な何かがあった、とかそういうのではないですよ。対立が好きじゃない。それだけです」

 

 イチカはきれいな空を広げて私を見た。明ける前の空に浮かぶ孤高の月みたいになれていたら嬉しい。

 私はくるりと背を向けた。扉一枚隔てた先には暗闇が手をこまねいて待っているだろう。

 

 いつだって一歩目は重いけれど、いつまでも光に当たっていたら、日焼けしてしまう。日焼けには気を遣っているのだ。

 

「私に関わったらあなたも追放されますから、今日のは魔法だったということでお願いします」

 

 どうして目をつけられたのかは霧の中だ。たぶんお局的な人に嫌われたのだと思う。というか、裏を牛耳っている人の名前を知らずに『お局的な人』なんて表す時点で、私が目をつけられるのに十分な理由だ。

 

「――っ」

 

 ノブを回して外に溶けようとした私の手が突如として後ろに引かれる。イチカは靴も履かずに私の手を掴んでいた。

 闇と光とに視線をさまよわせ、私は結局その場にとどまった。イチカの手が離れるようそれとなく動く。

 

「どうしたんですか?」

「今日くらいは一緒に買い物に行くことはできないんすか。ほら、コンビニ行くならお気遣いなくって言ってたじゃないすか。せめて今日くらいはちゃんと魔法にかけられてくださいよ」

「ううん。ミズタキは命よりも大切なんです」

 

 重いことを言っているはずなのに軽い口調で、口もとが自然と弧を描いた。

 

「私が目を離した隙に毒とか入れられたら大変じゃないですか。あの子意外と食いしん坊なんですよ。すみません」

 

 えへへ、と笑いにすべてを隠す。イチカの顔を見ることはできなかった。意図的に傷つけておきながら、傷ついた顔は見たくない。自分の血を見るだけでいい。

 ノブは先ほどよりもずっとずっと冷えているように感じられた。ドアは重かった。

 

 嫌われちゃったかな。でも、退けない一線が私にだってある。小学校のころから一緒に育ててもらった家族なのだ。ぽっと出の優しい人の厚意とどっちを優先させたいかなんて決まっている。

 それに、私と関わり続けるせいで他人が生贄になるのは嫌だった。

 

 あぁ、でも、約束は守んなきゃ。

 

 迷い迷って思考だけがその場でぐるぐる回転し続ける。

 

 外はすっかり暗くなっていて、イマジナリー・キヴォトスとの明暗の落差で大怪我をしてしまいそうだ。澄み深まった空は、青じゃなくて黒をたたえている。

 心地よい春の夜が私を誘っている。早く出ていけと言うように、後頭部から頬に甘い風が吹き抜けた。最後に一言だけ伝えるために振り向いた。

 

「影分身」

「へ?」

 

 暗かったイチカの表情が不思議そうなものへと切り替わる。俯いているのには変わりがないけれど、俯く角度が変わって、だからか少しだけ表情が明るく見えた。

 

「あとで見るって。だから、動画、その。はい」

「……送ってくれるんすか? せっかくモモトーク交換しましたもんね」

 

 これが私にできる精いっぱいだった。嫌われたくなくて飛び出した言葉とは思えないくらいふざけた内容だった。

 

「はは、じゃあ……待ってるっす」

 

 半ば祈るような、見えない神様に両手を組んで跪いている様子がよく似合う声。

 傷ついたことを隠す不器用で優しい笑みに、私は何よりも深く傷ついた。自分で傷つけておきながら、イチカの優しさに切りつけられるなど、何をほざく。

 こういう関係は、友だち、なのだろうか。

 

 空には無数の星が浮かんでいて、唯一無二なんて存在しないように思われた。一つくらいなくなっても誰も気づかなそうだ。半分以上食べられてしまったアンパンみたいな月から、穏やかな光が降り注いでいた。

 

 日付が変わるころに『まだっすか?』と連絡があって、私は泣く泣く全力の反復横とびを録画する羽目になった。これは友だちなのだろうか。

 高鳴る心音は、運動したせいじゃないような気がした。

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