イチカは私との距離を測りかねているようだった。
心情としては関わりたいのだろう。しかし周囲の目がそれを許さない。私はイチカを生贄にしたくなかったし、周囲だって火の中に飛びこもうとするイチカの背を突き飛ばそうとしなかった。
不思議な三角関係のまま過ごしていたある日、イチカは私に『屋上に来てください!』とモモトークをよこした。
「交換条件があるっす」
イチカは踊り場で腕を組んで、門番みたいに仁王立ちしていた。左右に大きく広げられた翼が壁の両端についている。
閉め切られた薄暗い階上には熱気がこもっていて、衣替えをしたばかりだというのにじっとりと汗が滲んできそうだ。
「それ、私がその提案を聞かないっていうのは選択肢に入ってます?」
「カアナに拒否権はありません!」
「どこの独裁政治ですか……」
どうせ、いっとき減った物減りが最近また増えていることだろう。それに関する何かに違いない。イチカの優しさは見え透いている。
私の声には覇気がなかった。
「それで、どうしたんです」
イチカは溜めを作って、おもむろにミニスカートの小さなポケットから鍵を取り出す。そして自信ありげに「実は」と切り出した。
「私、うまいことやれば屋上の鍵を借りられるんすよ。防衛戦とか総合演習とか関係なく。なんで、一緒にお昼ごはん食べません?」
「なるほど。パン買ってこいってのが条件ですか」
「どこの不良ですか!」
罠の気配はない。一体何を条件にするつもりなのだろう。私はイチカが条件とやらを口にするのを待ち続けた。しかしイチカは一向に口を開かない。
まさか、頷かせて屋上に連れ去ったあとに条件を飲ませるつもりなのだろうか? 前時代じみた詐欺じゃないんだから、そういう手はよくないと思う。
だんだんと私の目が険しいものに変わっていった。
「ミズタキのことを話すカアナ、とっても楽しそうだったっすね。屋上の写真を見せてあげたら喜ぶんじゃないすか」
「それは……そうかもしれませんけど。だからといって条件を聞かずに頷くわけにはいきませんって」
イチカは唇を尖らせた。
「引っかかるわけありませんって。なんだと思われてるんです?」
「ミズタキのことを話し始めるとIQが三くらいまでなるかなーって」
「あなた私といるときだいぶボケますね」
「鏡見てから言ってほしいっす!」
「鏡見てきますね」
「わーわーものの例えっすから行かないで!」
階段をずだだっと下りてきたイチカに手を引かれる。糸目と目が合った瞬間、イチカは顔ごと横にそらして「一緒に買い物に来てください」と言った。
○
「バカとなんとかは高いところに上る!」
「せめてなんとかと煙って言いましょうね」
全方位の写真を撮ろうと動き回る私に合わせて、イチカも後ろをついて歩く。同じ景色を見たいというようにとなりに並ぶ。
そうしてフェンスごしにひと通りの光景を撮った私は、思い出したように買い替えたばかりのリュックを肩から下ろした。それに合わせてぶらぶらと南京錠たちが左右に揺れた。
「そういえば日焼け止め塗ってませんでした」
「屋上だと日差しを遮るものないっすもんねー」
イチカは手で庇を作りながらいまだに遠くを見ている。あの方角は大型ショッピングモールを始めとした娯楽施設が連なる場所だ。もしかしたら私たちはあそこに行くのかもしれない。
安物の日焼け止めを取り出して薄く伸ばして塗り拡げる。前までは少しいいのを使っていたのだけれど、最後まで使い切れる保証がないので安物で済ませてしまうようになった。
イチカが私を見て唇を引き結んだ。視線は日焼け止めの銘柄やリュックに向けられている。
まさか
「社会に理不尽はつきものです。そして私たちは社会の中でしか生きられません」
「話し合いをすることができるから、人間は人間なんすよ。できなきゃ野生の人間になってしまうっす」
「あらイチカ。トリニティのお嬢様方を指さして野性的だなんて言ってはいけませんことよ。口は災いの元ですわ!」
イチカはさらに口もとをぎゅっとさせる。何度手を伸ばしてもらおうと、私はきっとイチカの優しさを押しのけるだろう。
でも、おかしいな。きっとイチカはこんな空気でご飯を食べたかったわけじゃないのに。イチカを笑わせる方法はきっとあるはずだ。
微妙な雰囲気の中、私は弁当箱とスマホを屋上に置いて、ハンカチを敷いて座った。
ギャラリーからミズタキのアルバムを開いてイチカに見せると、観念したように肩を落としてからとなりに座った。
広い屋上を狭いみたいにして、二人きりで並んで座ってご飯を食べている光景が、なんだかとても嬉しくて。手を広げたところで屋上の何にも届かないけれど、背を預けたフェンスと手を伸ばした範囲にあるすべてが私の気持ちのすべてだった。
イチカに伝えたら嬉しそうに笑ってくれた。
○
その日の夜、ふと疑問に思ったことがあってスマホを手に取った。リビングにあるソファでうつ伏せになっていたのだけれど、ミズタキが背中で丸まってしまったせいで身動きが取れなくなっていた。
『私がずっと屋上に出入りできるようになる権利と、イチカとの一回きりの外出って釣り合っていなくないですか?』
すぐさま既読がついた。
『私がそれだけ価値を見出しているってことっす!』
イチカが胸を張っている姿が目に浮かぶ。空も飛べるくらい翼を大きく広げていることだろう。
『ならいいんですけど、少し申し訳ないですね』と送りながら、「価値を見出している」と呟いた。
嬉しいけれど、ほんの少し、重い。
ごろんと寝返りを打って天井を見ようとして、ミズタキが背もたれに激突したらしく鳴く。
何による、どんな重みかは分からない。だから見て見ぬふりをした。
リアルで話したら目をつけられてしまうのに、イチカはときどき愚行を犯す。きっと愚行なんて言っちゃいけないんだろうけれど、自分の信念を胸に抱いて『傷ついても大丈夫だから』と行動するのは、あまりにも高潔だ。そして世間は、高潔なだけじゃやっていけない。
……でも、すごい。波風を立てないことを望む私は、きっとそんなふうにはなれないだろう。
イチカは世話焼きだ。あなたの手を取りたい。一緒に歩いた先にある景色を見たい。親しみが芽生え始めたイチカへの気持ちは、澄んだ星空のどこまでも響いていきそうなほど高い音を立てていた。
○
「騙すのはよくないですよ」
「……でもほら、これでカアナの中では釣り合ったんじゃないすか?」
「たしかに申し訳ないなって気持ちはなくなりましたけど! だからって嘘は駄目です」
「はーい。すみません。今度からはしません」
イチカが出かけると言ったのは、イチカを含めたトリニティ生と外出に行くという意味でだった。私はてっきり二人きりだと思っていたから、待ち合わせ場所に現れたイチカが私の手を取って他の人のもとへ案内した時点で面食らった。
こうでもしないと私が他の人と出かけないと思われていたのだろう。実際にそれは正確な読みだし、私は一度きりの注意にとどめた。
女子高生らしい買い物を済ませ、今は食べ歩きと称して別行動中だ。
ずっと私のような異物と行動している子たちには毒抜きの時間が必要だと思う。なんて口にしたら怒られそうだから、思うだけにしておくけれども。
「それにしても今日のコーデには鍵がないんすね」
ショッピングモールの雑踏を眺めていたイチカの視線が私に向く。彼女は椅子から軽く腰を浮かせて前傾姿勢を取り、となりに座る私の反対側まで見ようとした。翼まで覗き魔みたいにそろそろと珍妙に動いていた。
私はウエストポーチをイチカに見せた。
「これは学校に持っていくわけじゃありませんから。それに今日はイチカだけだと思っていましたし」
これだけでイチカは何かを察したように唇を噛んだ。伝わってしまうだろうとは思った。でも、変に嘘をついてイチカとの距離を取るぐらいなら、真実を伝えたほうが誠実だと思った。
もしも他の人たちがいることを知らされていたら、私はオシャレなど度外視で学校用のリュックを持ってきただろう。気を抜けば物に足が生えてしまう環境なんて、信じられるわけがない。
様々なテナントが並ぶショッピングモールの空気は、空調で無理やり動かさなければ停滞してしまう。そんな重みとか淀みとかが、都会の喧騒にはよく合っている。特にトリニティには合っている。
「もともと高校に上がるまではあんなふうにじゃらじゃらしているわけではなかったんですよ。ただ、予想以上にトリニティの方々が上品で」
「物の扱いがなっているっすね、本当に」
「まったくです。私の体操着は燃えるゴミじゃないんですけど!」
ぷりぷりとした口調で両拳を腰骨に当てる。
イチカは笑っていいのかよく分からないような表情で苦笑した。翼が複雑な内心を表明するように毛羽立っていた。
座って話すと周囲の風景が固定されてしまうので、ぶらついて雑談した。
すれ違う女子高生はみんなきらきらしていて、私は店内よりも彼女たちを見ているほうが楽しい。夜空の星が歩いて移動しているみたいで綺麗だ。
イチカがトイレに行ったので、私はイチカと別れた位置から動かないようにして、遠目にテナントを観察した。背の低い私ではテナントの奥まで見渡すことができないけれど、見たところ服やアクセサリーの売り場が多い。
手で庇を作って、背伸びをしたり腰を曲げたりして不審者のように遠くを見ていると、とある店に視線が縫いつけられる。
内装は普通だった。客は異常だった。
三人のスケバンが、たった一人の女子中学生らしき少女の前に立っている。あれはどう見積もっても健全な関わりではないだろう。店員はすっかり怖気づいてしまっていた。
私は弱きものを守るため、その場所に早足で向かった。
「ちょっと、困ってるじゃないですか」
私の声はひどく乾いていた。顔からは血の気が失せていたように思う。それでも中学生とスケバンの間に割って入って三人を見上げた。
「やるのか」
「喧嘩を売っているのか」
「先に吹っかけてきたのはそっちなんだよ」
とか。
予想通りのつまらないことを言った彼女たちはグリップを握る手に力を込めた。私が一向に引かないことに腹が立ったらしい。
であれば私だって。弱いものをいじめるやつは、私の正義に則って私がいじめる。
癖で左手首に伸ばした手が、上品な服の生地越しにやわらかな肉を掴んだ。今日はおしゃれのためにリングを外していたのだった。
慌ててウエストポーチから鍵を取り出し、肩のライフルケースを床に置く。
「痛い目にあいたくなければ、今のうちに逃げることですよ。私はけっこう強いので」
使い慣れたセリフにはいぶし銀の重みが乗っている。
私はライフルケースの南京錠を外そうとしたけれど、手が震えてうまく外せずにいた。かつ、かつ、と鍵穴じゃない場所に何度も先端がぶつかる。片膝を床についてスケバンを睨み上げた。
「逃げるなら今のうちですよ」
動きとは反対に私の声は落ち着き払っていた。声と手の震えのちぐはぐさを、スケバンたちは後者が真実だと受け取ったらしい。
彼女たちの間でどっと笑いが起こる。
女子中学生が私の肩にそっと手を置いた。もしかすれば私よりも手が大きいかもしれない。少なくとも身長は大きかった。
スケバンはお腹に手を当ててひーひー笑い続けた。
その間にやっと南京錠が外れる。黒い外観の無骨な相棒は、店内の光を反射して輝く。店内がオシャレな色味にあふれている分だけ漆黒は際立っていた。
流れる動作でチャンバーを確認し、ボックスマガジンを装填、ボルトハンドルを動かす。
「さて、どうします?」
好戦的に笑った私を見て、スケバンたちの表情が一気に引き締まる。額に流れる汗を幻視することすら可能だった。
距離が近いので圧倒的に私が不利だが、相手の武器はショットガンやマシンガン。むやみやたらと発砲すれば店内の商品を傷つけてしまうだろう。弁償できるだけの金があるとは思えない。
私はクロアメを抱えて立ち上がった。わざとらしく腕の中で揺らして再び問いかける。
「どうするって言ってるんですよ。やりますか?」
顔を合わせたスケバンが頷いた。あぁ、これは明確な合図――。
「わーわーわーわー! ちょっと! 目離した隙に何やってるんすか!」
飛びこんできた暴走特急はひっきりなしに私に話しかけた。翼がはためいて聞いたこともないような音がしている。
バカとかアホとか、およそイチカらしくない語彙力ゼロの罵倒が飛んできて、面食らった私とスケバンとの間にあった爆弾は不発に終わった。
「はぁ!? もう、ちょっと本当に何やってるんすか! 正実が自ら厄介事起こしてどうするんですか! えぇ!?」
正実、というワードにぴくんと反応するスケバン。横目を交わし、一気に逃げ腰になる。
イチカからデコルテ周りを軽く掴まれたまま、私はイチカの向こうにいるスケバンを睨めつける。
「逃げる気ですか?」
「あなたはやる気なのかって言ってんすよこのスカポンタン! 喧嘩売るな!」
「売ってきたのはそっちですって」
「あなた今言ってることそこらのスケバンと同じですからね!?」
店内BGMに負けないほどの声量がショッピングモールに響く。高く澄んだ声は悲鳴じみていたけれど、気狂いじみてはいなかった。
イチカに命じられて銃をしまっているうちに、スケバンはどこかに行ったし、イチカは各方面から事情を聞いた。
助けてもらった少女も、店員も、争いを止めたイチカも、みんながみんなぺこぺこと頭を下げる。
弱きものを守れたのか、私にはよく分からない。確たる証拠のない成功が不安となる。店内の明るさが、さながら処刑場のスポットライトのように感じられた。
ミズタキを拾ったときもこんな感じだった。
周囲の野良猫からいじめられる彼女が、傘を打つ雨の音が、心にまとわりついてくるようなじめじめが、蘇った気がした。
私は靴を試着するための小さな椅子に腰を下ろして待った。私の小さな体躯では、その椅子ですら少し大きい。
すべてを終えて戻ってきたイチカはげんなりしていた。そして私の肩に両手を置いてうなだれる。
「せめて事情を聞いてから喧嘩売ってくださいよ……」
「でも、先に吹っかけてきたのはあっちだったでしょう?」
「そうでしたけど……それでも、それでもっす! ほんとに焦ったんすから! トイレから出たらいないし! なんかこんなところでスナイパーライフル取り出してるし! 何事かと思ったんすよ!?」
「私は正実ですからね。武力行使も厭いません」
「枕詞に『救護のためなら』とかってついても違和感ないっすからね!?」
女子高生のきらきらをイチカも放っていた。私を相手に放たれているのかと気がついて、それがなんだかとても嬉しい。
「ミズタキを拾った日のことを思い出しました」
「は、え……?」
ことのほか真摯な私の声と表情に、イチカは困惑をあらわにする。
私は足をぴんと伸ばしてからゆっくりと曲げた。スニーカーの踵が蹴込み板みたいな布地にそっと当たった。
様々な衣服が店内にはあって、そのどれを着たところで内面までは変わらない。ここみたいに内装が鮮やかでも、地味でも、内面は変わらない。変わらないものは異常だ。世界はどんどん変わっていくから。
でも、だからこそ変わらないものが好きだ。意地が好きだ。
下を覗きこむと、細いジーンズの裾と小さなスニーカーが目に入る。私の一歩よりもミズタキの一歩は小さくて、それでも懸命に、プライドを持って生きようとする姿に憧れた。
「ミズタキを拾った日から、私は弱いもののために武器を取ると決めました。できるだけ助けたいと思ったんです。でも、私には限度がある。だからすべての捨て猫を拾う代わりにミズタキに深い愛情を向けるんです。自分ではどうしようもないから」
気づけば肩に乗せられた手が離れていて、イチカは私をまっすぐ見下ろしていた。夜の底が白くなったときのような瞳に浮かぶ感情は読み取れない。翼でさえ身動きをやめていた。
「すべてを抱えられないから代わりに何かをするっていう独善なんですよ、所詮」
私はわざとらしく手をぱんぱんと叩いて立ち上がった。
イチカは虚を突かれたように時間差で「えっこれで終わりすか」と口にした。
「人を待たせるわけにはいきませんよ。もともとお昼休憩ってだけでしたしね」
イチカは難しそうな顔で私の一歩後ろを歩いた。テナントを出てすぐ、私は彼女を振り返る。
「あと、すみません。私ちょっと大勢の人といるのとか、自分のものを取る可能性がある人と一緒にいるの、気を遣っちゃって疲れちゃって。誘ってくれたイチカの気遣いはありがたいんですけど、ここでお暇させてくれませんか」
イチカは一瞬目を見開いて、それから枯れそうな花に水を与えるときみたいにほほえんだ。
「私がいないほうがみんな楽しそうとか、そういう自虐をしたいわけじゃないんです。今度からは二人きりでお出かけしましょう」
イチカの手を両手で包もうとして、迷ったあげく、そっと背中に手を回して抱きしめた。思っているよりも薄い背中だった。とくんと私の心臓が跳ねた。
冷房の効いたうるさいショッピングモールの中で、私はやっと気を抜けたと思った。