シーンとの戦闘中に正義実現委員会から呼び出されたイチカは、軽い聴取を受け終え、再びカアナを探して走っていた。
「――っ」
虫の知らせとでも言えばいいのか、路地裏で血痕を見つけて足を止める。悪寒が靴裏から這い上がって背骨を通り、脳を冷やす。鳥肌が立った。毛羽立った翼を整えるようにして数回羽ばたく。
悪魔が現れたかのような不気味な羽音が闇に響いた。小さな石と埃が舞い上がった。もしも戦闘が発生した場合にトリガーを引く指が極度に緊張しないよう、イチカは片手を開閉させた。
やがて血痕を辿って疾走した。
「――カアナッ!」
夜を突き破って、イチカの声が路地にこだまする。予想した通りだった。血痕の続く先にカアナはいた。
「ちょっと、大丈夫すか!」
「えへへ……ちょっと戦闘に巻きこまれちゃって」
イチカは走ってカアナに追いつき、後ろから肩を揺さぶった。
カアナは首だけで振り返ってふにゃりと笑う。肩に置かれた手をそっと押し返す。「激しいです」と口に出すと、イチカは慌てて謝った。
イチカはスマホで自分の手を照らす。濡れた感触に、もしやと思ったのだ。
「……肩、怪我したんすか」
「肩だけじゃありません。足もやられました」
正義実現委員会の制服に夜の闇が合わさり、照らしても分からない。スラックスのせいで素足が見えない。血色が悪くなっているのかどうかも、カアナが色白なせいで分からない。
ほのかな生臭さと細い息遣いだけが真実を伝えていた。
「とにかく私の家に行くっすよ」
「救護騎士団は……?」
「距離があんまり変わらないっす。あと、あのあたりにはまだ正実がいるんで」
カアナは壁に手をついて黙りこんだ。イチカがむりやり壁と手の間に入って肩を貸してようやく歩き始める。
「肩、いいですよ。身長差がひどいのでイチカが腰をやっちゃいます」
「でも」
「下を照らしてもらえるとありがたいです。石畳のずれとかにも躓いちゃって大変で……足を擦りむいてしまいそうです」
「えへへ」という気の抜けた笑い声は穏やかながら頑固だった。イチカは渋々カアナの足もとを照らす。二人の数歩先を光が先導した。手入れの施されていない石畳の道だった。
目につくところは華やかで、それ以外には冷淡で、そんなトリニティらしさにイチカはいらだちを覚えた。だが八つ当たりしたところで何も変わらない。
「私の家じゃ駄目ですか? ずっとお世話になりっぱなしなのもなんだか――」
「じゃあそこに私も行くっす」
「そんなに私って信用ありませんか?」
「そんなに私に手当てされるのが嫌っすか?」
カアナが立ち止まった。一歩先でイチカも立ち止まる。満月がイチカを捉えた。
「嫌ではないです。ただ……さっきも言おうとしたんですけど、申しわけなくて」
「別にそう思わなくてもいいんすけど」
「こういうのは感じる側の問題なんです。せめて何かお返しできればいいんですけど」
「じゃあ、あれっす。あー……ええと。えぇ……そうだ! カアナの肌すべすべで好きなんすよ、私。だから手当てのお礼に触らせてください!」
「……変態みたいになってません?」
緩慢な歩調で進みつつ、イチカは百合園セイアが重傷を負ったことを伝えた。夜に呼び出されるなんて何事だと思っていたけれど、異例の呼び出しにはふさわしい理由だった。
イチカから伝えられた内容をカアナが繰り返す。
「襲撃者の侵入経路も分からなければ、逃走経路も不明。セイア様が怪我しただけ……どうなってるんですかね。政治的な問題とか?」
「政治で対立していると言えばゲヘナっすけど」
「そんな陰湿なまねするとは思えないですね。ゲヘナは冷房、私たちは除湿で涼しくなれるじゃないですか」
イチカは軽いため息をついてカアナの言葉を流した。カアナはどこ吹く風といった調子だ。
「私が襲われた理由だってよく分からないですしね」
「他にも何人か銃撃された人はいるらしいっすよ。固まって動いてたんで何事もなかったらしいっすけど」
「固まって動いてなくても何事もなかったですよ!」
「……カアナ。戦闘に巻きこまれたって最初に言いましたけど、その口振りからするに、襲われたんすね?」
イチカが鋭い視線を向ける。カアナが立ち止まったのに合わせて、イチカも足を止めた。それから穏やかな口調で続ける。
「別に問いただしたいわけじゃないんすよ。聞いてるだけです」
空はいつの間にか曇っていた。人工灯すら届かない路地はひどく暗い。息を吸うだけで肺が重くなっていくような静寂が広がる。その中でぽつんと、スマホのライトが道の一部を照らして佇んでいる。
カアナは決まり悪そうに壁を見て、小さく頷いた。
「ごめんなさい」
「ううん。話してくれてありがとう、っすよ。カアナ」
イチカがカアナの手を優しく引いた。カアナが緩慢に足を動かす。一寸先の闇を払うライトは細く、けれども確かな光だった。
並んで歩く二人はしばらく黙っていた。
「私の他に、襲われた人たちは姿を見てないんですか?」
「襲撃者の? 見てないらしいっすよ。時間帯とか諸々の状況を合わせれば同一犯って可能性が高くなるっすけど、誰一人、何も残ってない。怪奇現象っすよこんなの」
「狙いにも一貫性がなさそうです。私を含めた一介の生徒とセイア様では重さが違いますから」
「複数の狙いがあったと見るべきすかね」
セイアが重傷なことから、物取りではない。であれば口封じか。しかしなんの口封じなのか。二人で考えても、情報が少ないせいで何も浮かび上がらない。
カアナは無言のまま、ときおりイチカの様子をうかがうように目を向けたり、口を開く素振りを見せた。イチカはその様子に気づかなかった。
最終的に、警備が強化される以上、しばらくは大人しいだろうという希望ありきの推測に落ち着いた。
○
イチカのマンションにたどり着き、カアナは制服を脱がされた。
カアナが制服の代わりにと手渡されたバスタオルを体に巻いて待機している間、イチカは汚れた制服を洗濯する。夏用の薄い生地なので、ワイシャツを洗うときのようにクリーニングじゃなくても大丈夫だろうという判断だ。
「ほら、傷!」
「もう止まってますって……」
「いいから!」
バスタオルを乱暴に引き剥がされそうになり、おずおずと自分から開いたカアナは下着姿で居心地悪そうに居住まいを正す。
清潔感のあるリビングに合う白い肌と穏やかな色の下着だった。原色の赤だけが異様に浮いていた。
「まったく、何に撃たれたんすか……7.62ミリNATOで撃たれてもなんともなかったのに」
カアナは息を詰めた。彼女の体がこわばった。
触れてはいけないことに触れたか、と思ってカアナの顔を見る。しかし恐怖は浮かんでいない。
カアナはきゅっと引き結んだ唇をまっかな舌先で濡らし、イチカから目をそらした。
「まだ隠し事してます?」
イチカの声が不審そうなものに変わる。
目をそらし続けるカアナはイチカをちらと見て、背筋を伸ばし、沈黙ののちにこくこく頷いた。
最初に嘘をついて、まだ隠し事とは――。イチカが盛大にため息をついた。
「いつから! 何を! どこまで!」
三度にわたり、イチカがカアナに顔を寄せる。声はリビングを突き抜けて外の沈黙をも食い破る勢いだった。
時限爆弾みたいにじわじわ迫るイチカと、頬を薄赤くするカアナ。カアナは体を縮こまらせる。胸の谷間が強調された。思っているより大きい、とイチカの目が下を向いた。
「あの、恥ずかしいので話しながらあれやってもらってもいいですか……?」
羞恥にまみれた蚊の鳴くような声でカアナは言った。
とてもいかがわしいことをしているような。恥ずかしさはないが、イチカの背中に走った快感がしみのように黒い跡を残した。
○
「イチカにしか話しません」とカアナは前置きする。理由を尋ねたイチカに、そこも含めていろいろお話すると説明した。
「おそらくタングステンです」
腿裏を消毒される痛みに悶えながらカアナは言う。うつ伏せのせいで声がくぐもっていた。
「タングステン」と繰り返したイチカは慎重な手つきを崩さないようにしつつ、思考を巡らせる。
「戦車の徹甲弾に使われてるやつっすよね? トリニティの弾薬庫で見た気がするっす。でも銃の弾薬として出回ってるんすか――あっちょっと動かない。しみるのは仕方ないんすから」
「……恥ずかしいです」
「どんだけ乙女なんすか……。ちゃちゃっとやっちゃうっすよ」
小柄な見た目に反して女性的なまろやかさが左右にもぞもぞ揺れる。むき出しの背中や足と短い黒髪、優しい色の下着が破壊力を生んでいた。
カアナが動くのをやめるまでイチカは手を止めて考えに耽った。
そのうちカアナも動くのをやめ、思考の海に潜った。
「外部の話ですけど、一応、サブマシンガンを母体としてタングステンを弾頭に使用する銃器開発の計画がありました。7.62ミリNATOだと貫徹できない歩行戦車くらいなら貫徹できたそうです」
「サブマシンガンが、すか?」
「らしいですよ。とんでもなくお金がかかるとかで頓挫したらしいですけど。でもケブラー素材のボディアーマーが発達しているところでの話ですから、頓挫したと言いつつ裏で開発されているのかもしれませんけど」
カアナは一呼吸置いてから「あと」と続ける。
「相手の技術がちぐはぐでしたね。高性能な弾丸を使っておきながらドローンが見当たらなくて。索敵とか手榴弾の援護で使うじゃないですか、私たちも」
「銃は高性能なのに、戦闘方式は近代的じゃない……となると確かに変っすね」
「おー、イチカ、まとめるのうまいです」
照れ笑いを浮かべて下を向いたイチカが、今は何をするべきかを思い出して凍りつく。
少し乾いたガーゼを消毒液に浸し、綿雪に触れるようにそっと腿裏に乗せる。
「あいつら、じゃないんすよね?」
「あいつら? たぶんゲヘナではないですよ? ドローン使ってないのでミレニアムでもないでしょうね。アビドスも今じゃ落ちぶれましたし」
「――や、そうじゃなくて」
「あぁ……。駄目ですよ、あいつらなんて言っちゃ。
気だるげに息をついたカアナがゆっくりと振り返る。細い眉が下がった。
「イチカ、今すっごい顔してますよ」
イチカは返事せず大きめの絆創膏を貼った。「もう」とカアナが呟いて姿勢を正す。
「エスカレートした自覚があるのか、物理的なことは一度きりです。それにブラックマーケットに流通するような弾丸を普通のトリニティ生が入手するのは難しいでしょう」
「――噂とか、流してもいいすか」
「へ、噂? なんの?」
「カアナがそういうことをされないような」
動きを止めた薄明と満月が交わった。
無言に居心地の悪さを感じたのか、それとも恥ずかしくなったのか、カアナが身動ぎする。
「余程のことじゃなければ構いませんけど……」
「余程のこと?」
カアナは少しだけ唸ってから説明を始めた。
自分はイチカの奴隷なので心が壊れたら困る。だから奴隷の心が壊れないよう、いじめるのをやめてくれ。こういったことなら噂なら構わないとカアナは口にした。自分とイチカの上下関係が反対の場合は駄目とつけ加える。
他には、同学年の対等な関係だとしても、付き合っているなどと事実に反するような紐帯を広めることも駄目と口にした。
「カアナは私の奴隷じゃないっす」
ひと通り聞き終えたあとイチカが反論すると、主人と奴隷の関係は両者が納得すればいいとカアナは言った。
「じゃあ、認めないっす」
「それならどんな噂を流すんです? さっきも言いましたけど、付き合ってるって言うのはなしですよ? もしかしたらイチカも巻きこまれますし」
部屋着のイチカと下着のカアナは一歩も譲らず見つめ合う。
最終的にイチカが折れるしかなかった。噂を広めてもいいかと尋ねているのはイチカだからだ。
でも、どうにも収まりきらない感情がある。どうにかして一杯食わせてやりたかった。
カアナは横座りで両腕を組み、むすっとした顔をしていた。
イチカもむすっとした顔をしていた。威圧的に翼が広げられている。
それでも雰囲気は悪くなかった。猫のじゃれ合いみたいだった。
「それ以外ならどんなことをしてもいいんすね?」
カアナが困惑をあらわにする。
「いいですけど……だいぶ限られてると思いますよ?」
「言質は取ったんで」
「まぁいいですけど」
ほほえみを浮かべ、そろそろとイチカがカアナに近づく。
カアナはラグに後ろ手をつくが、肩にうまく力が入らず下がれない。
メスヒョウのようなしなやかさでイチカはゆっくりとカアナを押し倒した。
カアナに影が差した。黄色い瞳を白黒させて彼女はうろたえる。
「どんなこともしていいってそういうことですか!? え!? 噂流すんじゃないの!?」
カアナの肩が縮こまる。白い頬は鮮やかな朱に染まっていた。
「肩の手当て、しないとっすよね?」
○
微妙な雰囲気のまま手当ては進んだ。
イチカはやっちゃったなぁという雰囲気をだだ漏れにしていたし、カアナは羞恥のために神経が過敏になって、触られるたびに体をびくびく震わせていた。
「すみません、ちょっと通話出るっす」
イチカはここぞとばかりに耳にスマホを当てたけれど、声に覇気はなく、返答はしどろもどろになった。通話の間にカアナは借りた体操着に袖を通す。
通話先の先輩に不審がられながらも通話を終え、イチカはいまだに顔の赤いカアナを見た。それから気楽に肩をすくめた。
「途中で抜けてきちゃったんで、あとからちゃんと報告書出さなきゃいけないみたいっす。マンションの近くで怪我したってことにしていいすか?」
「そして連れこまれたと」
「おっ言ったっすね? 続きしてもいいんすか?」
「……、……微妙な空気になるのにどうして振るんですか?」
「振ったのはそっちっすから!」
洗濯はいまだに終わっておらず、土日を挟むこともあって、後日カアナの制服とイチカの体操着を交換することになった。ちょうど二人はSwitchやモニターを一緒に買いに行く約束をしていた。
ライフルケースを背負ったカアナが、スニーカーを履いたあと、服装に違和感があるとばかりに体の各所を触る。シューズボックスにライフルケースが当たって鈍い音を立てた。
「すみません」とカアナが小さく謝る。
「あの、カアナ、私にだけ話すって言ってた件なんすけど」
カアナの背後に控える硬質な扉が開いたら最後、広がる夜にすべてを飲みこまれて聞けずじまいになる気がして、イチカは勇気を振り絞った。
カアナは頷いて続きを引き取った。
「私、トリニティでイチカしか信用できる人がいないので、イチカにだけ話すって言いました。ここっていろんな派閥があって、内部で争って、情報が錯綜しているじゃないですか。余計な場所に関わりたくないんです」
カアナはイチカを見上げ、「ですからイチカにもあまり話してほしくありません」と言った。
特別扱いだ。
イチカの心には暗い喜びが広がった。自分にだけ身を寄せてくれる野良猫がいるとして、優越感を覚えるのはきっと悪いことじゃない、と慌てて内心で言い訳する。
でも、カアナと出会った当初は五円玉の穴を通れた黒い気持ちが、今はもうきっと通れなくなっている。独占欲が加速して大きくなり続けている。
焦った。苛立った。でも、カアナは大切なものを傾けてくる。でも、でも、でも、と否定の言葉に溺れてしまいそうになる。
「あと、報告書のことなんですけど。私が怪我をしたことを伏せてくれませんか? 念のためマンションで確認したところ青痣があった、とかって書いてほしいです」
「……、いいっすけど、どうして?」
イチカの声はひどく乾いていた。内心に勘づかれるかもしれないと思って、イチカの焦燥は濃くなる。
カアナが壁に一瞥を向けて黙った。
内心は気づかれなかったらしい。イチカはそっと胸に手を当てた。
カアナはよく、目をそらす。居心地が悪いときとか、嘘をつくときとか、悪いことをしている自覚があるときに。
その嘘が自分を引っかけるものでなければいいと願いながら、イチカは辛抱強く待った。玄関と廊下の間にある数センチの段差にさえ引っかかってしまうちっぽけな心に呆れてしまう。さっきまであんなに焦っていたのに。
「トラップ、あるいは伏線のためです」カアナがイチカを見上げた。「さっきも言いましたけど、信用できる人がイチカしかいないんです。つける嘘はついておきたい。二人だけの秘密は多いほうがいい。そう思っています」
困ったと言いたげに細い眉が下がる。カアナはかわいらしくほほえんだ。
「イチカになら裏切られてもいい。なんだかもうそう思ってしまっているので、イチカに情報の取り扱いは全部任せます」
「裏切るなんて、そんな」
「じゃあ、一蓮托生で」
花開く笑みを見せたカアナを前に、イチカは喜びをひた隠して、ただただ真摯に頷いた。
家についたことを報告する無邪気なモモトークに、イチカは二重の意味で胸を撫で下ろした。