阪神優駿を終え、カイソウはその日の夕方に調教を行う。
「っ!!」
今日は重りを引いて走る調教を行う。
この時代、まだ明確な調教方法や厳格なルール決めが浸透していなかった。それ故に調教は調教師の経験と勘に委ねられていた。
「ほーい、走れ走れ!!」
戦後に整備されるトレーニングセンターと違い、この時代の競馬学校は各競馬場と隣接しており、小さな調教場を有したものばかりであった。
ウッドチップコースやプールなどと言った設備が十分に揃っておらず。プール調教の現場が近くの川なんていうこともざらにあった。
「うりゃぁぁぁあああああっ!!」
腰に巻いた皮ベルトを思い切り引っ張って走るカイソウ。それを遠くから声をかけて指示する窪田。
「気合いぃぃいいいいいっ!!」
本格的に調教を始めて一年。緩やかな本格化が始まって二年。
万全の体制で新馬戦に臨むための準備は着々と進んでいる。
「この様子じゃあいけるだろうな」
「それは…良かったです」
軽く息をして自分の蹄鉄の打ち直しをするカイソウ。実家の時とは違い、蹄鉄の打ち方は競馬だと大きく変わってくる。
時速六〇キロ程のマックススピードで馬場を駆け抜ける為に蹄鉄は薄く頑丈でなければならない。その上、戦時下の物資統制や金属制限の影響で蹄鉄の質も年々落ちている。少なくとも戦前では考えられないほどの物だと言う。
「はぁ…これじゃあ時間がかかるかもな」
「大丈夫ですよ。まだ私が走るまで時間はありますから」
彼女はそう言ってにこやかに窪田に表情を作る。
「安心しろ。お前さんは強い。俺が必ず優駿を勝たせてやる」
「絶対ですよ?」
「あぁ、絶対だ」
窪田は自信のある表情でカイソウに言うと、そこで声をかけてくる人がいた。
「お久しぶりです。窪田調教師、カイソウさん」
「よぉ、噂の敏腕調教師」
前山が話しかけてきて、彼はベンチで座っていたカイソウと窪田を見る。
「お久しぶりです。前山さん」
「久しぶりだね。この前の鳥飯、美味しかったよ」
「それは良かったです」
挨拶に来た前山とはそんな軽い挨拶を済ませた後、窪田が聞いた。
「その様子じゃあ…並走を頼みに来たな?」
「ははは…流石に分かりますか」
前山は軽く笑ってカイソウを見た。
今度の京都農林省賞典で、彼の担当であるクリフジは変則クラシック三冠を獲得することになる。
優駿馬・阪神優駿馬の二つの賞杯を獲得した彼女は、これから予め出馬を表明した京都農林省賞典を取るために準備を進める必要があるが、彼女の周りは全てが敵という状態。
最強の名を欲しいまましている今の彼女を倒そうと多くの馬娘、調教師が血眼になって彼女の弱点を探しているはずだ。
並走なんてしよう物ならどこから情報が漏れるかわからないということなのだろう。
「徴兵は引っ掛からなかったようだな」
「はい、まさかこの身長に感謝する日が来るとは…」
東京優駿の直後、彼は徴兵検査を受けたが結果は『丙種』彼はあまりにも身長が小さすぎた事で徴兵対象にならなかった。
窪田は軽く前山の呟きに笑った。それじゃあ非国民では無いか?と。
「すみません。お願いしても良いですか?」
「それはカイソウに聞いてくれ…まぁ、」
そこで窪田は隣に座っている自分の担当馬娘を見ると、そこで軽く笑った。
「やる気は十分のようだが」
そこでは目を輝かせているカイソウの姿があった。
「是非やらせてください!」
彼女はそう言うと、そこで窪田はベンチから立ちながら言う。
「じゃあ、前山。こいつのこと頼んだ」
「分かりました」
「あれ?テキ、どこ行くんです?」
「ちょっと野暮用」
彼はそう言うと、そのまま校舎に消えていった。
「じゃあカイソウさん。早速走れますか?」
「大丈夫です!いつでも行けます!」
彼女はそう答えると、この先で待っているはずのクリフジを前に興奮していた。
十月二三日
京都、二〇〇〇米。クリフジ、十馬身にて勝利。
十月二七日
グッドタイム作戦実施、ニュージーランド軍がトレジャリー諸島に上陸。
十月三一日
京都、二六〇〇米。クリフジ、十馬身にて勝利。
同時に京都農林省賞典出走権獲得。
十一月一日
ブーゲンビル島の戦い勃発。
十一月六日
東京にて大東亜会議開催、大東亜共同宣言発表。
ソ連軍によるキエフ奪還。
十一月十日
米艦隊がタワラ沖に侵攻。第三次タワラ空戦勃発。
十一月十四日
京都競馬場
その日、再び京都に歓声が巻き起こる。
今日は京都農林省賞典が行われる日だ。芝三〇〇〇米、天候は晴、良馬場である。
「第九競走だな」
「そうですよ!!」
今日は日本初の変則クラシック三冠馬が生まれるかもしれない日だ。京都の競馬場の立見席にはヘタをすると東京優駿の時よりも人が多いかもしれない。
「すげぇな。セントライトの時とは大違いだ」
「それだけ三冠の名前が有名になったと言うことでしょうね」
カイソウはセントライトに誘われて一番見やすいゴンドラの席に案内してもらっていた。
「どうだカイソウ。ここからの景色は?」
「最高です!ありがとうございます会長!」
そこで入ってきたセントライトに窪田が言う。
「悪いな。俺まで入れてもらって」
「無論だとも。ここは本来、競馬関係者が入れる空間。調教師資格を持った君なら入れないわけがないだろう?」
「そうだがな…」
窪田はなんとも言い難い表情でセントライトを見る。
今の彼女は現役を引退し、彼女についていた調教師は、今回はカンシヤと言う名の馬娘を教えていた。
「まぁ共に見ようではないか。今日行われる一戦を」
優雅に答えた彼女は、そこで馬場に上がって一気に歓声の上がる立見席を見た。
いよいよ来た。と言うのが正しいだろう。
私にとって、この東京優駿で勝つ事は始まりにすぎない。
一部観客から『そのまま横浜農林省賞典に行けばよかったのに』と言われたが、それでは意味がないのだ。
私が求めるのは日本初だ。そう言う点で、私はすでにクラシック三冠をセントライトに取られてしまった。
今クラシック三冠をとっても、それは所詮二番手の結果でしかない。
私は日本初の快挙を成し遂げたい。だから敢えて姫冠路線に進んだのだ。
東京優駿、阪神優駿、そして京都農林省賞典。今まで誰もとった事がない変則クラシック三冠。それを私は望んだ。
望んだ結果を得て文句を言われるのが一番腹立たしい。
「クリフジ」
すると歓声の上がる馬場、まもなく出走準備が入る直前である馬娘から話しかけられた。
「貴方は…ヒロサクラさんですね?」
「そうや」
話しかけてきたのは、前回の東京優駿では八著だったはずのヒロサクラ。彼女はクリフジを見て一言。
「もう一度勝負や。全力で来い、クリフジ」
「…」
勝負のお誘い。…なるほど、再戦の申し込みとは。
「望むところ、全力でお相手いたします。ヒロサクラ」
気を抜く事があったら許さん。
言外に彼女はヒロサクラに言うと、彼女は不敵に笑った。
「あぁ…楽しみにしておるわ」
そうして彼女達は次々とバリヤー式に入って行く。
枠はあって無いようなものでクリフジは五番枠に入ると、
「おっと」
態とらしく近づいてはぶつかって来ようとしたので、クリフジは邪魔だと言わんばかりに簡単に避けた後に睨んで両隣の馬娘達を黙らせると、目の前のバリヤーが勢いよく上がった。
「っ!」
クリフジの眼中にあったのは、再戦を申し込んできたヒロサクラ。彼女のこと以外は正直眼中にもなかった。
七戦七勝、今の所無敗の自分に再度挑もうとする心意気に敬意を評しての事。ましてや出馬前にぶつかって来ようとするものなど風下にも置けないと吐き捨てていた。
「早っ?!」
「嘘だろ?!」
第一角を曲がった時、クリフジは早速動いた。今回は芝三〇〇〇、途中に京都名物淀の坂があり、途中で六回角を曲がる必要があった。
「ちっ…!」
ヒロサクラもクリフジの早い攻勢に驚きつつも彼女に食らいつく。
「(抜かせるかぁ!!)」
「(…なる程)」
クリフジは行手を塞いで最初の攻勢を抑えたヒロサクラを見る。現在位置は第三角半ば、間も無く中間地点。
彼女はこちらを標的にして動いているというのが伺える。
「(ならばっ!)」
クリフジはそこで大きく踏み込んで爆発的にその一歩を踏み出した。
「っ!!」
差しの脚で走るクリフジは飛ぶように健脚で走り、防ごうとしたヒロサクラの横から抜けて走る。
「くそっ!」
「…(抜けたっ!)」
正気、半分賭けであったが、大きく一歩を踏み出して前に出たクリフジはそのまま速度を上げで引き離す工程に入る。
現在位置は第四角の終わり。早々に先頭に躍り出た彼女はそのまま一歩一歩を地面に踏みつけ、淀の坂もなんのそのといった具合で加速し続ける。
「っ!!」
京都の土はやはり自分には合っている。申し訳ないが、後続の彼女は置いていく。
彼女は生涯走った記録の中で十馬身以上の記録を作った六本の競争の内、四本が京都で行われたものであった。
残りの二本は東京で行われたものである。
ッーーー!!
土を蹴り上げ、クリフジは走る。
第九競走ということもあり、馬場はガタガタ。しかし彼女は止まらない、ぐんぐん後続と引き離していく。
「くそぉ…!!」
二番手を走るヒロサクラから絞り出されたように出たその言葉も置き去りにして、彼女は走る。
五馬身、
六馬身、
七馬身…彼女の一人旅は終わらない。
『『『『『っーーーーー!!』』』』』
直後、京都のスタンドから溢れんばかりの感情・感情が湧き立つ。
『クリフジ先頭!二着との大差をつけてただいまゴール!』
『史上初、姫冠路線での菊花賞優勝・変則クラシック三冠・姫冠二冠を達成』
また後の日本のG1のレースにおいて大差勝ちで優勝をしたのはこの時の第六回菊花賞ただ一つである。記録は3:19.3、レコードとはならなかった。
「はぁ…はぁ…」
走り終え、肩から息をしていた彼女はそこで改めて観客席を一望する。
「おめでとう!」
「よくやったぞ!」
そんな声が彼女の耳に入ってくる。
「勝った…んですね」
その時、クリフジはこの一年の記憶がブワリと蘇ってくる。
八戦八勝、変則クラシック三冠馬、姫冠二冠馬。
自分の求めていた史上初の変則クラシック三冠。それを達成したのだと言う実感は未だに夢のようであった。
「っ…!!」
クリフジは溢れ出そうになった涙をグッと堪え、高らかに拳を掲げた。
『『『『『ッーーーーー!!!』』』』』
そんな彼女には溢れんばかりの称賛が送られ、また共に走った仲間達も彼女を褒め称える。
もはや伝説となった馬娘と共に走った事に、彼女達も自然と誇らしく思えてしまう。
後に「日本競馬史上最強の馬娘は?」と問われた際にシンボリルドルフの調教師が迷わずその名を挙げた馬娘のクラシックは、全戦全勝・三冠馬・レコード一つと言う、輝かしいものとなった。
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