基本的に京都競馬学校の歴史は他の學園の中でも比較的歴史は浅い。数年前に目黒競馬場から府中競馬場に移転してその名前は消えたが、それでも印象的な意味合いでは京都の方がまだ強かった。
ちなみに、日本で最も古い競馬場は横浜競馬場であり。かつては根岸競馬場と呼ばれていた。
「ぬごごごご……」
そして今日の調教内容は丸太引きだった。河原を土埃を軽く立てながらカイソウは走る。
現在時刻午前六時。基本的に早朝に起きて調教を行う馬娘達は昼は授業を受け、夕方に再び調教に戻る。
当時、ウィニングライブはおろか、グランドライブというものすらも存在しておらず。競馬学校での一日は調教と授業の二つだった。
また、当時は脚に自信のある馬娘や。アメリカンドリームならぬ競馬ドリームを夢見て競走に出る事が多かった。
「よーし、次は坂道行くぞ」
「はい」
丸太引きを終え、カイソウは繋げていた紐を解くと次に神社の石階段を登る。頑丈な脚が自慢なカイソウはそれを生かした、本格化後の馬娘と変わらない調教を行っていた。
「よしっ、あと二〇本だ」
「はいっ!」
どっぷりと汗を掻きつつも、彼女は言われた通りの数を行い、その体の動きを後ろからしっかりと窪田は観察していた。
「しかし、外泊に行けないないのもなかなか酷だな……」
米英蘭中と開戦した数年前よりも前から日本はABCD包囲網によって諸外国からの全面的な対日石油輸出禁止令を喰らって日本国内の石油は制限を受ける事となり、そもそも日中戦争が始まってから我が国は燃料統制が始まっており、今では木炭自動車や馬車が市民の足となっていた。
そんな状況で合宿なんてもってのほかだった。
「できれば砂場での特訓をしたいものだが……」
足に負担をかけるという意味では馬場のダートを走らせれば良いと言われて仕舞えばそれなのだが。そもそも本当の競走で使う馬場を調教で使っている今の状態が異常なのだ。
元々あった調教場は、今は更地になって歩兵部隊の訓練場に変貌してしまっていた。
「テキ?」
「ん?ああ、もう終わったか?」
そこで声を掛けられ、意識が戻ってくると目の前には今の教え子のカイソウがこちらを見ていた。するとカイソウは窪田に報告する。
「はい、二〇本の坂道を終えました」
彼女はそう答えると、窪田は早速カイソウの脚を触って軽く確認を取る。
本格化の最中の馬娘に本格化後の調教を施すと言う……バレたら大目玉を喰らうか、もしくはドン引きされて勧告を受けるかもしれない所業をこなしている。
その為、一切の故障なく事を終える為にも調教事の軽い触診は必須だった。
「……うしっ、問題は無さそうだな」
「ええ、違和感は感じられません」
いつもの確認作業故にカイソウも慣れた表情で脚を見せると、窪田は確認を終えると彼女に水筒と白い粉を渡した。
「ほれいつもの」
「ありがとうございます」
そこで水筒と白い粉を受け取ったカイソウは白い粉をビチビチと舐めながら水筒を飲む。
カイソウが舐めているのは決して危ない粉ではなく、ただの塩だ。そして水筒の中身はただの水。要は水分補給と塩分補給を直接行っていたのだ。
「午前中の調教はここまでだ」
「了解です」
窪田の言葉にカイソウは頷くと、そのまま寮に戻って行った。
寮に帰ると、そこで一人。カイソウは体操着から着替え始める。
部屋に置かれた敷布団は一つ。毎晩同室だった馬娘と和気藹々と今日起こった事を話しながら布団を敷いていたものだ。
「……はぁ」
彼女に教えをする調教師が見つかったことは大変喜ぶべきことであり。私自身、彼女を見出してくれた緒方調教師には感謝している。
しかし、数ヶ月同室だった相手が居なくなるというのも非常に寂しいものだ。
この寮には大勢の馬娘が通っているが、家が近い馬娘は実家から通うこともあった。
「慣れというのは、怖いですね……」
戦時下で出された分しか食事を摂る事なく、欲張った行動をしなかったり。生徒会の仕事で大忙しになったり、こうして同室の相手が居なくなることに慣れて生活の一部とかしたその事実に、カイソウは自分の適応力の高さに驚いていた。
体操着から制服に着替えて、彼女は鞄を持つ。
自分の本格化したという情報は知っているのはテキと自分のみ。同級生は同時に競走時の好敵手でもあり、蹴落とし、落とされる間柄だ。
自分も、かつての同室馬娘と東京優駿で走る約束を交わした。
「負けるつもりは無いよ……ヤマちゃん」
カイソウは改めて自分の目指す夢を口に唱えると、そのまま部屋を後にしていた。
「ところでカイソウ」
「はい、なんでしょうか?」
間食に蒸したさつまいもを食べながらセントライトが同じく間食中のカイソウに問いかける。
今の生徒会の大きな仕事は一時的に転校してくる阪神競馬学校の生徒達の受け入れ作業だ。カイソウも、出るのは再来年で。契約した調教師が京都所属だったという理由でセントライトに勧誘を受けていたのだ。
「そっちの生徒の情報をくれないか?」
「わかりました。はい、どうぞ」
セントライトに言われた資料を手渡すと再び席に座って今日の業務をテキパキこなしていた。
元々自分含めて三人しかいないここの生徒会。正直セントライトという強力な手札がいるおかげで成り立っているようんなものであり、部下にクリフジとカイソウの二人だけしかいないと言うまぁまぁ悲惨な状況だった。
おまけにクリフジ先輩は今年から本格的な調教を進めるので、生徒会にいる時間は減ると言うね……。
そしてカイソウはさつまいもを食べる反面、今年の全国中等学校優勝野球大会が中止となったことが書かれた新聞を読んでいた。
「毎度ながら、ここに来る新聞は数日遅いですね」
「仕方あるまい。元々新聞は検閲されてから発刊される上に、私たちはそこまで外の情報に興味を持っていない生徒の方が多いからな」
読んでいるのは高等科の生徒と教師と調教師が主だと呟くとカイソウは新聞を置く。
「走ること以外にも目を向けるのは高等科に入ってからと言うことですか……」
「まぁ、そう言う事になるな」
なんとも言えない表情でセントライトもカイソウの呟きに返していた。
基本的に、競馬学校に通う生徒達は卒業をするとそこから縁談の話に入る。
要は夫探しに奔走するのだ。なにせ二〇後半で結婚できないと売れ残り認定された為に、お相手探しにはかなり気を使う。
ただ、所詮は馬娘。一般の人とは違い、成人男性よりも体力や脚が強い分。夫が見つからずとも何かと働く口は見つかるが、結婚したい願望がどうしたってあるのも乙女の宿命と云うべき性だ。
「別に構わんさ。中等科の生徒は走ることに全力を注げればな」
「……」
セントライトはそう語ると、カイソウは少しだけ反論の目をセントライトに向けてしまった。
するとセントライトはそんな彼女の目に気づいていない様子で続ける。
「どうせ二十歳には私も結婚だ。一度嫁入りすれば、少なくとも自由に走り回るなんて出来るかもわからんからな」
「それは……」
セントライトは実家が華族で、尚且つ宮家の血筋も入ったお嬢様だ。おまけに日本初のクラシック三冠馬娘。そりゃ縁談が来ない訳が無い。流石に学生の内は結婚しないだろうが、卒業後すぐに結婚なんていうのもあり得る話だ。
「先輩は、大学に行くとかは無いのですか?」
「ん?ああ、行けたら行くかもしれないな」
当時の女子大学生の進学率は全体で見てもわずか0.2%、あまりにもその数は少なかった。
「そもそも、私は…結婚後は馬娘競馬会への就職がすでに決まっている」
「そうなんですか……まあ、当たり前ですか」
日本初のクラシック三冠馬娘を向こう側が宣伝役として勧誘したいというのは自明の理と言ったところか……。
「就職したら私はおそらく宣伝役に使われるのだろうな……」
「そのまま会長になれると良いですね」
「うーん、それはどうかなぁ……」
「え?」
セントライトの反応に思わずカイソウは首を傾げると、彼女は自身の思いを口にする。
「元々私は三冠馬を期待されていなかったんだ。幼馴染のブランドソールと言う馬娘の方が期待されていたんだ」
「ああ、知っています。その人」
カイソウは聞き覚えのある馬娘に顔を上げる。
競走前から期待されていたのはブランドソールと言うウマ娘で、セントライトはもさっとした動きから勝負はそれ程などと言われていた。
しかし結果は逆転、セントライトは日本初のクラシック三冠を獲り。反対にブランドソールは中山特別と横浜農林省賞典しか取れなかった。
「それ以降、彼女とは疎遠になってしまってね」
「でも、レコードを五つ持っている時点で優秀だと思いますよ?それに、二つも重賞を取っているんですし」
「……そうだな。欲張った言い訳だったな…」
ほとんどの馬娘は競走で走っても番号が掲げられるだけでも上澄みだけだ。一生の名誉になってもおかしくはない。
そもそも、現在行われている七大競走の優勝杯を手にいれることは一生の記録に残る程だ。少なくとも余人に聞かせたら反感を買ってもおかしく無い発言な事に間違いなかった。
「はぁ……難しいものだ。人付き合いというのは」
「そうですね……」
自分も少し思い当たる節があり、思わず納得してしまった。
まだ自分は走ってはいないが、姉のミネタカは阪神競馬場で初めての阪神優駿で四著、東京優駿は十著、春の帝室御賞典で四著だった。
優駿の杯を実家に持って帰ってくると約束した姉はその約束を果たすことはできなかった。
「……ところでなんだが」
「?」
するとセントライトは見ていた最後の書類を片付けると、カイソウに問いかける。
「明日、君の調教に付き合ってもいいかい?」
「……え?」
唐突に言われた事実に思わずカイソウは手が止まってしまった。一体目の前の先輩は何を言っているのか?
「まぁ、併走をしたいと言えばいいかな?」
「はぁ……」
「明日の併走で、一緒に走ってくれるかい」
「はい……」
なるほど。私はまだ、セントライト先輩の自由人気質な部分を完全に理解できていなかったのかもしれない。
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