僕がミノアと過ごした時間は、決して長いものでありませんでした。
しかし、僕は今でも、彼女と過ごした数日間を、僕の人生の中で、最も幸せだった時間であると、断言できます。もっともそれは、地球に帰ってからの僕が、あの数日間よりも幸せだということができる時間を、決して持たないように努力してきたからかもしれません。
幸せというのは、不思議な言葉ですね。僕の生まれた国である日本では、古くから漢字が使われていたのですが、漢字で幸せを意味する「幸」という字は、悲惨で悲劇的な状況を表す「辛」と似た形をしているのです。幸せであることと、辛いことは、実は一本の棒の違いしかないような、極めて近い状態であることを、古の人たちはわかっていたのかもしれません。
僕にとって、イノックス星で過ごした日々は、愛しいミノアという女性を救うことができなかった、辛い時間でした。しかし同時に、ミノアという美しい少女と共に過ごすことができた、幸せな時間でもあったのです。
そしてミノアにとっても、僕と過ごした時間は、幸せなものであったと、僕は信じています。
彼女は、彼女から見れば頭のおかしなよそものに過ぎないはずの自分を、何のためらいもなく受け入れてくれました。それは、外見上、僕と彼女の年齢が近かったからかもしれませんし、今思えば、彼女は、光栄に感じると共に恐れてもいた、あと数日後に迫った運命を思う時、誰かと共にいることで、その恐怖をやわらげたかったのかもしれません。
イノックス星で初めての食事をして、ベッドで熟睡を経た次の日に、僕とミノアは連れ立って、森へ遊びに行きました。彼女の方から、誘ってくれたのです。僕に拒む理由はありませんでした。僕たちは、森の中を走り回り、野原に転がって、大声で笑いました。それは、長い間宇宙船の狭い空間の中で過ごし、仲間の死や飢えと寒さと恐怖に震えた数日間を過ごした僕にとって、久しぶりに味わうことができた解放感と安心でした。イノックス星の植物の形状が、地球と似ていたことも、大きかったかもしれませんね。
僕はミノアに対して、昨日会ったばかりの女性に対する態度としてはいささか大胆ですが、キスの真似事さえしようとしたのです。ミノアは彼女に唇を近づける僕の頬を軽くつねりました。
「こら!」
僕が笑いながら、怒ったふりをすると、ミノアもまた、笑いました。ああ、その笑顔と言ったら! 今でも僕はあのミノアの笑顔を、ヒマワリの花が満開になったかのような、あの陽気で気品のある笑顔を思い出すたびに、胸の奥が暖かくなり、同時に、締め付けられるような痛みを感じるのです。だってもう、宇宙の全てを探しても、あの笑顔に再び会うことは、出来ないのですから。
森の中へ走り去っていくミノアを、僕は追いかけました。その時、甲高い悲鳴が聞こえたのです。
「きゃあっ!」
それは紛れもなく、ミノアのものでした。僕が声のした方に行くと、何か地球のバラに似た植物の前に立つミノアが、手の指先を、蒼白な、世にも恐ろしいものを目にしたような顔で、見つめていたのです。
指先からは、赤い血が、つ、と、垂れて、土の上に、滴りました。
なんだ、と僕は、拍子抜けし、安心しました。あまりにも恐ろしい悲鳴に驚き、駆けつけてみましたが、単に指先から出血しただけでしたからね。おおかた、植物のとげにでも指を傷つけられただけでしょう。むしろ僕は、ミノアの様子に、不審なものを感じました。悲鳴にしても、今見せている顔にしても、あまりにも大げさに感じられたのです。いくらミノアが、年ごろの女の子であるにしても、です。
「一体どうしたのだい。ミノア。単にちょっと、とげがかすっただけじゃないか」
しかしミノアは、まるで僕の言葉など、耳に入っていないようでした。突然、走り出したのです。僕は、追いかけました。
ミノアが住居に帰り、出血した指を見せると、彼女の両親をはじめ、共同生活を営む人たちは、大騒ぎとなりました。ミノアをベッドに寝かせ、医師を呼びに行き、そして彼女にいろいろと説教をしました。
「どうして森になんかいったのよ」
と、ミノアの母は言いました。
「もう、お前一人の体ではないのだぞ」
と、ミノアの父は言いました(彼は、僕に対して、「どこの厩舎に飼われているんだい」という奇怪な質問をした人物だった)。
ミノアは、両親からの、半ば 責にも似た言葉に対して、ごめんなさい、ごめんなさいと、小さな声で謝るばかりでした。
僕は、そんな様子を、呆気にとられてみていました。ちょっと血が出たくらいで、あまりにも大げさすぎると思えたし、「お前ひとりの体ではない」という言葉にも、違和感がありました。
ドアをノックする音がしたので、歩いて行って、開けました、
ドアの外に立っていたのは、服を着て、二本の足で立ち、鞄を抱えた、牛でした。