ようこそ綾小路がいなかった教室へ   作:せご曇(せごどん)

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私の生まれはそこそこ裕福で、優しい両親に恵まれ何不自由なくここまで育ててもらった。欲しいモノは何でも買ってもらったし、その分習い事や塾も上位の成績で学んできた。

親は子供の優秀さに感謝し、子供は親の優秀さに感謝する。

そんな非常に良好な関係を築いていた。

更に、自分で言うのも何だけど容姿も恵まれた方だと思っている。

この事実を知れば多くの人が、そんな私を羨むだろう。

大人になって、恋愛を重ねて、やがて経済力のある男性と結婚する。

私の人生には多分、一番ではないけど恵まれた人生のレールが敷かれている。

(1年生編 11.5巻  P254〜255より引用)





√松下
生まれてから一度でも本当のことを言ったことがあるんですか?


 

『千秋は将来、何になりたい?』

『うーん………私はね……!!』

 

─────────────────

 

 

朝、目覚まし時計が鳴る。

 

その音を聞いた瞬間に、眠気という眠気は一瞬にして消えていき、私──────松下千秋は即座に身体を起こした。

 

「っ……!!」

 

その瞬間、頭に痛みを感じる。昨日の三次会まで続いた飲み会が祟ったんだ。ズキズキと疼く痛みを我慢して、歯を食いしばる。

 

今日も1日が始まる。

 

始まって欲しくなかった1日が。

 

肺を通りゆく空気は、その重さで私の息の根を止めてしまいそう。そんな息苦しさに呼応するように、私の心音は徐々に大きくなっていく。

 

その場にいたい、動きたくない。もっと眠っていたい。そんな私の心の内を置き去りにして、気付けば私は扉を開けて自室を出ていた。

 

 

 

 

朝食の味は覚えていない。もう随分前から、食事を楽しむということをしなくなった。ただ身体を動かすための栄養摂取。

 

食べるという字は人が良くなる。昔どこかでそう聞いたことがあるけど、いくら食べても私は良くなっていない。今では食べることさえ億劫になった。

 

スーツを着て、化粧をする。鏡の前の私は、覇気の無い暗い顔をしている。それももう見慣れた様相。私は化粧水の瓶を手に取って、顔に指で触れた。

 

「……………ははっ」

 

乾いた笑いが溢れる。指先に伝わる肌の弾力。小さい頃はもちもちとしていて、艶に満ちていた。

 

今では見る影も無い。高校時代とは比べるべくもない程に、そのハリツヤは劣化していた。

 

「私も老けちゃったかな」

 

もう、あれから10年も経った。私はもう子供じゃない。27歳の、アラサーの女だ。

 

 

 

 

 

マンションを出て、最寄り駅まで歩いていく。頬がチリチリするような冷風を無視して、黙々と歩く。もう師走になってから数日が経ち、今年もそろそろ終わりを迎えようとしていた。

 

歩きながら目に入る、幾度となく見てきた街の光景。夜になると、光の海へと様変わりする。

 

私は今、結構都会と言える所に住んでいる。近未来的なビルの群れ、忙しなく行き交う人々の足音。やっとの思いで契約して住み始めたマンション。

 

夜景は確かに綺麗だった。中学時代から憧れていた、輝ける夜街。私のキャリアウーマンとしての第一歩目。初めてあそこで過ごした夜は、どこか興奮がこみ上げてきた。多くの人々は眺める機会が無いであろう、メトロポリタンのナイトビュー。選ばれた、限られた人間にしか味わえない快感。

 

年甲斐も無く胸をときめかせて、一晩眠って。次の日には靴を履いて会社へと向かう。そして……夜遅くに帰ってきた私は、無言で窓のカーテンを閉めていた。

 

 

 

 

最寄り駅に着くと、私は改札を通ってホームへと向かう。階段を上っている時に、私の会社の広告が駅看板に貼り出されているのを見てチクリと胸に痛みを覚える。

 

就活の時は、憧れていた会社。私だけでなく、一流大学に通う学生であれば多くの人が志すだろう、国内最大手商社の一角───星野野商事。

 

私は選考を順調に進んでいき、約500倍という倍率をくぐり抜けて、晴れてその一員になれた。大学の友達は皆羨ましがっていたし、私も嬉しかった。

 

その時の私は、こんな暗い顔をする自分のことを想像していただろうか。

 

……全く想像なんてしていない。これから続く明るい未来、キャリアウーマンとしての華やかな人生。かねてから思い描いていた人生のレールを、踏み外すこと無く進めていると思っていた。就職前に会社のことなんて分からないし、一流企業に入れば安泰だと考えていた。

 

……………駄目だ。こんな弱気になっていては。

 

私はまだレールから外れていない。営業成績だって、上位に位置している。今は色々と、本当に色々と大変だけど、それを乗り越えて昇進する。いずれは海外勤務も経て、経済力のある優秀な男性と結婚する。その後は子供も産んで、誰もが羨むような幸せな家庭を築く。

 

それから。

 

それから………。

 

 

 

 

会社に着いたのが7時40分。朝礼が8時から始まるため、その時に上司から現在の案件に関する質問攻めが行われる。私はその質問に答えるための営業資料一式を手元に用意していた。

 

上司の星野(ほしの)課長は、部下の失態を嫌う。自分の思い通りにならないことに対して怒りを顕にする。

 

1日の中でも、特に嫌いな時間だ。

 

そして8時になると、課長が私と同僚たちの前へと姿を表す。シワシワの小汚い、ボテ腹の中年のおじさんが。

 

「おはよう」

「おはようございます」

 

全員、口を揃えて一斉に課長に挨拶をする。

 

「早速だが、朝礼を始めよう。まずは…………」

 

 

 

「────引き続き迅速に対応してくれよ。………では次、大岩くん」

「はっ、はいっ!!」

 

私の隣の席の同僚、大岩さんがどこか上ずった声で返事をする。

 

「山中電工との取引はどうなっている?」

「は、はい……! 現在、会談の日時を調整中でして……」

「調整中………?」

 

星野課長の眉がピクリと動く。それと同時に、場の空気が変わっていった。

 

「既に会談を終えているものだと思っていたのだが?」

「も、申し訳ございません……! 何分、山中さんも日程が埋まっているようでして……!!」

「関係無い。我が社との取引が、その埋まっている日程とやらをこじ開ける程の価値を持っていると思わせれば良いだけのことだ。………君はその程度のプレゼンも出来んというのか?」

「も、申し訳ございません……!!」

 

大岩さんは慌てて何度も頭を下げる。

 

理不尽な星野課長の怒り。しかし、私たちの中に彼に逆らえる者はいない。

 

創業者の一族でもある彼は、私たちの人事評価に大きく関わっているから。

 

「……………はぁ。大岩くん」

 

星野課長は大きくため息をつくと、大岩さんの真横に立って口を開く。

 

「あと数ヶ月で人事異動の時期になるな……………君、『島』に行くか?」

「……………!!?」

 

その言葉と共に、私の肩も一瞬震える。

 

「島」。要するに左遷。「島流し」という言葉から、ウチの会社ではいつしか使えなくなった社員を地方に飛ばすことを「島に行く」と表現するようになっていた。

 

一度島送りにされたら最後。もう出世コースからは永久的に外れてしまう。あんなに、あんなに高い倍率の採用面接をくぐりぬけて、辛い思いをしながら働いてきたというのに。

 

「そ、それだけは………!!」

「私とて、こんなことは言いたくない。後は………分かるな?」

「は、はいっ……!! 山中さんとの会談の日程を、今日にでも確定させます……!!!」

 

同僚たちは冷や汗を流す。いつ私たちも、彼のようになるか分からない。この会社にいる限りは、一瞬たりとも気は抜けない。

 

「では次………松下くん」

 

課長に名前を呼ばれる。私は息を整えて口を開いた。

 

 

 

 

 

カタカタと鳴り止まないキーボードを叩く音。忙しなく鳴る電話の音。

 

社内の空気はピリついている。同僚たちは皆、少しでも同期を出し抜いて成果を上げようと血眼になって業務に勤しむ。上司は、いつ自分の立場が脅かされないかと若手社員の動向に目を光らせる。

 

絵に描いたような、ガチガチの競争社会の縮図。大学時代は、もっと優雅な時間を過ごせると思っていたけど、それは私の思い過ごしだった。

 

高校時代──この国では最も競争社会を表しているといえる高校の高度育成高等学校に通っていたけれど、あの時を遥かに凌ぐ空気の重さ。正確には、私たちのクラスは他のクラスに圧倒的に突き放されていたから実質競い合いにはなっていなかったけど、あの競争社会の空気感だけは覚えている。

 

この会社は、高育のそれを上回っていた。

 

 

 

 

 

昼休憩の時間になった。

 

私は席を立ち、昼食を買いに行くために歩き出す。その時だった。

 

「っ……」

「ああ〜、ごめんね千秋ちゃん!」

 

私はある人にぶつかられて尻もちをつく。見上げた先には、どこか人を小馬鹿にした微笑を浮かべる厚化粧の女───捏見(こねみ)さんが立っていた。

 

彼女は少し身を屈めて、私に手を差し出してくる。

 

「立てる?」

「………大丈夫」

 

本当はすぐにでもその手を振り叩きたかったけど、私は微笑みながら立ち上がった。

 

「何でだろ……いつも千秋ちゃんにばっかり当たっちゃう。もしかして………私たち磁石なのかな?」

「ははは……面白いことを言うね」

 

捏見さんのユーモラスの欠片もない冗談を受け流し、私は振り返らずにその場を後にした。

 

こんなことで怒ってはならない。相手に余裕が無いと思わせては、隙を見せては駄目。

 

たとえそれが、自分よりも成績で劣る相手であっても。

 

いつも彼女はヘラヘラしている。営業成績なんて、基本的にドベ争いをしているようなもの。なのに現状から脱却しようとは思っていない。皆、いつ島行きにされるか分からない状況で日々生き抜いているというのに、その緊張感がまるで感じられない。

 

でも、彼女のことはどうでもいい。彼女がそれでどんな待遇を受けることになっても、私には関係が無いから。私は私の仕事にだけ集中する。10年後、そのまた10年後を見据えた人生設計。きちんとレールに沿った、堅実な生き方をする。私と彼女では、住む世界、人生の質が違う。

 

途中、星野課長とすれ違う。私は軽く挨拶をして彼の横を通り抜けようとしたけど、すれ違いざまに彼にお尻を撫でるように触られた。

 

「ひゃっ……!?」

 

変な声が漏れる。

反射的に課長を睨みそうになったけど、必死にそれを抑える。

 

「松下くん。今日の夜………空いているかね?」

 

そう告げられた一瞬、呼吸が止まった。

 

またこの日が来てしまった。

 

「………はい」

「宜しい。では、いつもの場所で落ち合おう」

 

そう言って、星野課長は薄ら寒いニヤけ顔のまま立ち去っていった。

 

今日の残り時間が、更に憂鬱なものになる。その場で吐いてしまいそうな程の嫌悪感が胸いっぱいに広がっていく。

 

私は唇を横一文字にぎゅっと結び、拳を握ったままその場を後にした。

 

 

 

 

 

 

昼食も朝食と同じ。楽しむための食事でなく、あくまでも栄養摂取のための食事。課長との件(・・・・・)があるから、一層気分がどんよりとしている。

 

だから何でも良いと思っていた。けれども………。

 

「いい匂い………」

 

気付くと私は、あるパン屋さんの前まで来ていた。

 

お店の名前は…………。

 

「モン………パルナス………」

 

お店の赤い看板には"Montparnasse"と書かれていた。今まで来たことのないお店。小さいけど、香りからして美味しいパン

 

どこでも良いから、何かを買おうと思っていた矢先のことだった。香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、私の食欲を掻き立てた。久々に、食べ物に執着を持った。

 

芳香の導きに従った結果、ここに行き着く。お腹がぐぅ、と鳴ったのを鑑みると、私は結構ここのパンを食べたいと思っているみたいだ。

 

久しぶりに、ちょっと気分が明るくなった。まだ私にも「人間らしさ」が残っていて安心した。

 

だけどどうしてか。パン屋さんに来ただけなのに、今朝と同じような胸の痛みを感じていた。やっぱり、疲れてはいるってことなのかな……。

 

お店の中に入ると、女性の店員さんが明るい笑顔を浮かべて口を開いた。

 

「いらっしゃいませ〜!!」

 

そばかす顔の女性は小柄だったけど、はつらつとした声で私を出迎える。

 

その元気の良さに少し面食らったけれど、私も微笑みをもって応える。

 

早速どのパンにしようかと店内を物色していると、他のお客さんも入って来たようだった。

 

「いらっしゃいませ〜!! あぁ、綾小路さん!!」

「どうも」

 

入店したのは黒いスーツの男性。綾小路、と呼ばれていたけど、店員さんと知り合いかな……。

 

妙に印象に残る人だった。ピクリとも表情が動かない真顔はインパクトがある。けど、それは主な理由じゃない。別に心理学者でも何でもないけど、このストレス社会の中でとても自然に呼吸をしているように思えた。邪念だとか雑念だとか、そういったものとは無関係、ほど遠い存在に思えて、それが印象的だった。

 

その後、店員さんは綾小路さんと何やら楽しそうに話していた。店員さんは綾小路さんとは別の意味で、まるでストレスなんて感じていなさそうな、一点の曇りもない笑顔。綾小路さんは終始真顔だったけど、2人とも決して悪い空気じゃなかった。

 

「………………………」

 

綾小路さんはいくつかパンを選ぶと会計を済ませて、手を振りながら店を後にしていった。

 

私はカツサンドとクロワッサンを選んで、レジへと持っていく。店員さんは2つのパンを手際よく袋に入れた。

 

会計を済ませて袋を持つと、私は彼女に背を向けて歩き出した。

 

「ありがとうございました〜!! またお越しくださいませ〜!!」

 

明るい声が耳に入ると、胸の痛みはさっきよりも増していた。

 

 

 

 

その後、近くの公園のベンチに座って、さっき買ったパンを食べることにした。

 

カツサンドを手に手に取って、口に運んでかぶりつく。

 

─────美味しい。

 

サクサクとしたカツの衣が癖になりそう。ソースのしょっぱさも、食欲を絶妙に刺激する。

 

長いこと冷え込んでいた胸の中に、ほんのりとした温かみが染み渡る───そう思った瞬間。

 

あの店員さんの太陽のような笑みが、頭に思い浮かんだ。

 

───どうして彼女は、あんなに笑えるんだろうか。

 

何がそんなに楽しいのか。どうしてそんなに幸せそうなのか。

 

私よりも勉強していないのに。私よりも美しくないのに。私よりも稼いでいないのに。私みたいに苦しんでいないのに。

 

どうして、私が欲しいものをもう(・・)持っているのか。

 

温まりかけていた心は急激に冷えていき、食欲も削ぎ落とされていった。

 

私は無言でカツサンドを袋の中に戻すと、袋を鷲掴みにしてベンチを立ち上がる。

 

足早にゴミ箱まで向かうと───そのまま放り投げるように袋を捨てた。

 

どさっ。

 

ただゴミを捨てただけなのに。

 

とても悲しい気持ちになるのは、一体どうしてなんだろうか。

 

 

 

 





サブタイトル:『DEATH NOTE』 Lの台詞より引用(アニメオリジナル)

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