計画の実行に向けて、作戦に動員されるすべての生徒はまだ中等部になっていない者も含めて夜間訓練の対象となった。睡眠がとれずパフォーマンスが落ちる者は医務室あるいは懲罰に送られ、次第に緊張感が高まっていく。
生徒会長肝いりのプロジェクトであるエデン条約の調印式を最大目標に準備が進められる中、今後を左右する重要な一報が届く。
雷帝、失脚。
エデン条約が生徒会長の雷帝に対抗するための策であったと仮定するならば、その遂行の動機を失い計画自体の破綻も考えられる。そのため今後に関する情報収集は急務だった。
「ナナさん! 聞いてくれますか? うちの首長がですね……」
トリニティ自治区にあるカフェ。そのVIPルームの一室にナナカはいた。
中途半端な情報を入手しても扱いづらいだけだということで、計画の全てを知る彼女が派遣されることになったのだ。
エデン条約に関しては情報統制が為されており、その情報自体の入手にはトリニティとゲヘナの中枢まで入り込む必要がある。そしてあわよくばエデン条約締結の方に誘導することが求められるとなれば、スパイだと露見した場合の心身の保証はない。
繊細な動きを要する危険な任務であったが、荒事よりはナナカの性に合っている。
実際、パテル派とフィリウス派のティーパーティーの一員との接触し、信頼関係を築くことまでは成功していた。サンクトゥス派を避けたのは、マダムが『予言の大天使』と呼ぶ狐耳の少女との接触を避けたためである。
「なるほど。上司が横暴だと疲れてしまうよね。私の方も結構無茶を言う人で、困ってしまうよ」
ナナカはキヴォトスでは珍しい卒業生であり、その容姿に翼を携えているわけではないものの大人びた雰囲気や落ち着いた物腰での話が受け入れられ、一部の生徒間で密かに話題になっていた。
背も高くスレンダーな体形の、どこか物憂げな表情をする年上の卒業生。嫌な顔一つせず自分たちの話を聞いてくれて、年が近い故に自分たちの話に共感してくれる。こちらが望めば卒業生としての違う視点を与えてくれるし、かと思えばたまに弱みも見せてくれる。
一部の女子生徒たちにカルト的な人気を誇り、興味本位で彼女に触れた者から絡め取られた。
もちろんそう振る舞うナナカのぎこちなさを見咎める者がいなかったわけではない。
「私の居たところはこんな華やかなところじゃなかったからさ、ちょっとまだ気後れしちゃうんだよね」
ぎこちなく笑う彼女を見て、沼に足を踏み入れていることに気が付けるのは一握り。
自分が見極めなければという感情から、自分だけが彼女の弱さを知っているという特別感に変わってしまえば、その時にはもう岸がどちらかもわからない。他の生徒と居る姿を見て抱く想いを猜疑心ではなく嫉妬心だと他者から言われて足を取られるものもいた。
そこまで話が広がれば、当然のごとく目は付けられるもので。
「正義実現委員会です。少しお話を聞いても?」
「きひひ……」
トリニティは元来、排他的な気質の組織である。
その戦闘能力の低さで見逃されてきたものの、ナナカという異物が影響力を持ち始めたとなれば話は変わる。それがトリニティにとって薬となるか毒となるか、見極めることが求められた。
ナナカは正義実現委員会の二年生、その中でも特に次期委員長と呼ばれている羽川ハスミと剣先ツルギが出張ってきたことに驚きを隠せない。少しやりすぎたかもしれないと思いながらも、いつか来たる戦場のことを考えればプラスになるかもしれないと気持ちを切り替える。
兼ねてより準備していた身分とトリニティにやってきた経緯などを話して、聴取は順調に進む。
話を一通り終えてひと段落したかと思ったとき、ハスミの横で話を聞いているだけだったツルギが突然踏み込み、ナナカに向けて銃を向けた。
「きゃははははは!」
「ツルギ!?」
ハスミの動揺の声を聴きながら、ナナカはその動きを捉えて思案する。
どうせ回避が間に合わないだろうという結論を下して一歩足を引こうとしたところで、銃口がナナカの額へ突き付けられた。それから少し遅れて後ろに下げた右足が地面を捉え、ほんの少しだけ銃口との隙間が空く。
彼我の実力差は悲しいほどに顕著だった。抵抗は意味を持たず、目の前の生徒が制圧を試みた時点でナナカの拘束は不可避の事象に変化する。
しかしその銃口はいつまでも火を噴くことはなく、持ち主のつまらなさそうな表情と共にゆっくりと下げられる。
「特におかしな動きはないな。荒事に慣れているのかあまり緊張がないのは懸念点だが、そのぐらいだろう。戦闘では問題にならないな」
ツルギはそう評したが、今回トリニティでのナナカは一際慎重だ。
アリウスでの戦いの片鱗を見せようものならどんな目に遭うかわかったものではない。身体に染み付いた動きを意識的に抑えることでその観察眼を逃れることに成功したナナカは、撃たれなかったことと併せて安堵の息を吐く。
死ぬのは怖い。失敗することも。
もう既に自分の肩にどれだけの重荷が背負わされているのか、考えたくもないぐらいだ。
ナナカは自分を見咎めに来た二人に提案する。心配であれば自分を監視しないか、と。その提案に顔を見合わせた二人であったが、委員会に持ち帰ると冷静に判断して離脱されてしまった。
「ふむ。正義実現委員会が既に先回りしていたか。私の視た未来にこそ存在しなかっただけで、君はもしかすると何か別の物語の重要人物なのかもしれないな」
落ち着いた声音だった。誰かがそんな風に喋るためによく耳にしている、諦念に満たされた音。
振り返らずともわかった。会いたくなかった相手。アリウスが最も警戒していた、計画の漏洩が懸念されるパンドラの箱。
次期ホストと目されるサンクトゥス派の次期首長の訪問。
予期していなかった相手からの訪問が続き、ナナカは厄日かもしれないなと自身の今日の巡りの悪さに辟易する。
「あまり多感な時期の少女たちの純情を弄ぶのはよしてくれたまえ。我々はどこまで行っても学生という未熟な精神性を抱えた範疇にしか生きていない。最初から飛び立つ予定があるのなら、そもそも籠の中に入らないでほしいというのは、こちらの勝手な都合だろうか」
「私はそもそも自分が青い鳥だという自覚はないよ」
「であれば、なおさら厳重な籠に放り込まなければならないね」
彼女の言葉に困った顔で振り向けば、こちらに憂いを帯びた表情を向ける狐耳の少女がいた。
視線を動かさないように周囲の気配を探っても、大勢護衛を引き連れてきたような様子はない。
この邂逅に関して言えば彼女の独断専行、あるいは彼女の個人的興味である可能性が高いか。はたまたそう思うように仕向けているだけでティーパーティーの総意なのかもしれない。
手荒な真似はしたくないと言外に訴える彼女に観念して、そこの店で話そうと提案を投げる。
あちらならいいとナナカが指定した店ではない別の喫茶店を指定して、目の前の小さな少女――百合園セイアはこちらに背を向けた。
ここで逃げればセイア自体からの逃走は可能なはず。しかし、その場合は二度とトリニティの地を踏むことは叶わないだろう。前を歩く小さな背中からそう思わされてしまって、ナナカは足が重くなる。
「ところで、その制服は君が選んだのかい?」
ずいぶんと露出が多いようだけど、そういう趣味でもあるのかな?
そんなことを口に出せば凄い顔でこちらを振り向いて、「君は、君というやつは!」と詰められてしまった。ちょっとした軽口のつもりだったのだが、その反応に彼女自身が口にしていた年相応の少女でしかないという言葉を思い出す。
体が弱いのは、その薄着のせいではないのだろうか。
そんなことを口に出せば「往来でなんてことを言うんだ」と店に引っ張られる。羞恥を隠すようにナナカの腕を引く彼女の細さに、事前に聞いていた身体の脆さを実感する。ナナカの力ですら片手で折れてしまいそうなその身体は、その命の灯を消すのに重火器など不要だろうと物騒なことを考える。
「君の手口は何となく理解したよ。ギャップ、と皆がよく言うやつなのかもしれないね。緊張と弛緩を与えて感情を揺さぶり、自分のペースに持っていく。悪い大人の良く取る手法の一つだ」
「そんなつもりはないんだけどね。私はただ自分の思ったことを口にしているまでだよ」
「どうかな。心根まで別の誰かの模倣をしたまま話す言葉は、本当に君の思った感情を放ったと言えるのだろうか」
目の前の少女が放つ言葉の一つ一つに何か意味があるような気がして、ナナカは思わず考えてしまう。自分の知らない哲学の何かなのか。あるいは単純に彼女自身が感じた疑問であるのか。
その答えがどちらにせよ、ナナカの答えは変わらない。どちらでもいい。
言葉など発した方は余程のことがなければその過去を忘却するだけで、残るのはいつでも言葉を受け取った側なのだから。故に言葉には気を遣う必要があるのだが、必ずしも正しく伝わる必要などない。ましてや、業務命令などから離れた日々の言葉であればなおさら。
ナナカは難しく考えすぎだ、と対面に座る少女に向けて言葉を紡ぐ。
「心なんて移ろい惑って矛盾した結論を出すものだよ。誘拐犯に恋心を抱いてしまうこともあれば、自分を地獄に突き落とした相手に情が芽生えることもある。突き詰めればそれらも心の作用によるものであると説明はできるが、それを知ったところで変えられるものでもない」
「ああ、その通りだね。だからこそ我々はすれ違い、傷付け合う。整合性を求めれば求めるほど矛盾した自分が自分を害そうというのだから、何とも皮肉な話だ」
ナナカは目の前の少女の視線がずっと下を向いていることに気が付いた。目が合ったのはこちらを非難する時ぐらいで、それ以外はずっと表情を崩すことなくティーカップの中身に向けて注がれているように見える。
彼女が自身を『我々』という括りでトリニティの生徒としての枠組みに含んでいるところを見るに、大人びて見える態度とは裏腹に年相応の悩みと苦悩を抱えているのだろうと邪推する。先ほどからの問答を考えても彼女の目的はあくまでもナナカの思想についての確認だけでなく、彼女自身の歩む道についての惑いに対する回答を探しているといった様子が伺えた。
その様子からナナカは、自分が百合園セイアの予知夢に出てきたわけではないのだろう、と解釈を行った。もし彼女をアリウス生だと知っていたのであれば、もう少しそれに対する言及あるいは出会い頭での拘束を行われても不思議ではないはず。
それがないのであれば自分は『予言の大天使』にすら軽んじられるほどの存在であると思っていいはずだ。それは本人の物語に対する影響力の欠如を意味する無慈悲な通告であれど、ナナカの行動がしやすくなるという大きなメリットを持つ。
「君は誰かが傷付くことを恐れているんだね。その諦観はきっと、君の知る人たちが精神的に大きな傷を負ってしまったりしたのかな」
きっと彼女はこれから起こる未来を見てそうなっているのだろうが、時系列を過去に移して彼女の予知夢の力を知っていることを悟られないようにする。
目の前の少女の眼がまるで縋るような目でナナカを捉える。
次の言葉を待っている彼女の姿は、進む先を惑う一人の少女でしかない。先程逃げ出せないほどの圧力を感じたその背中と比べると、身長差を考えても足りないぐらいには小さく映った。
「案外、君が何もしなくても上手く転ぶこともある。ただ
私のように無暗に手を出して、ダメな方へ進むよりは後悔せずに済む。
ナナカはやって後悔するより、やらずに後悔する方がまだいいと常々考えている。やってしまった後悔の場合は、取り戻せない場合がほとんどだから。やっておけばよかったという後悔は機会損失にすぎないが、やった場合の後悔は十字架を抱えることになるのだから。
それと彼女に大きく動かれては困るというのもあって、ナナカはセイアに傍観を提案する。
ナナカの言葉に少女の眼が揺れる。その手段を選んでも良いのだろうかと惑う瞳が閉じられて、時間をかけてその言葉を飲み込んでいる。
「そうか。私は全て自分でどうにかしようとしていたのかもしれないね。ありがとう。少しだけ心が楽になったよ。エデン条約を進めてみることにしよう」
そう吐き出して、少し肩の力が抜けた様子の少女は落ち着いた様子で紅茶を含む。
ナナカも会談の終わりを悟ってティーカップを持ち上げ、先の言葉に気付いて手を止めた。
信じていいのだろうか。こちらをおびき出すための文句ではないのか。突然の情報に混乱したものの、こちらを気にする様子のない彼女に本当に出てしまっただけなのではと思い始める。
会計を済ませてトリニティにある宿屋に戻った後、ナナカはすぐにマダムへと連絡を入れた。
「『予言の大天使』と接触しました。このまま進めて問題なさそうです」
百合園セイアが見ていた自分たちによって引き起こされる悲劇。彼女がそれに抵抗をしないというのならば、このまま進めば現実のものとなるはず。
それからはカモフラージュのために行動を行った。翌日から監視にきたツルギとハスミと親交を深めつつ一月ほど過ごし、ナナカはトリニティを後にした。
自分たちの結末がそう遠くない未来に存在していることを悟ったナナカは、アリウスの自室の壁に空いた穴から見える月を仰ぎながら穏やかな終わりを祈る。血に濡れて凄惨な末路を辿る未来が頭に過ぎりながらも、一人でも多くのアリウス生が今より良い生活ができるように願いを捧げた。