アリウス生の戦いは終わった。
ナナカは自分の言うことを聞く生徒は校舎に集め、待機させる。
まだマダムは戦っているだろうが、彼女はユスティナ聖徒会を使うはず。彼らが顕現した時点で彼女の中でアリウスの生徒の役目は終わったも同然なのだ。
ナナカは彼らに傷の手当てをするように言い置いて、自室まで戻ってきていた。
十年弱ずっと暮らしていた部屋の扉は、いつからか開く度に軋んだ音を立てるようになった。鍵を掛けようにもそこまで扉が閉まらないぐらいには変形していて、玄関扉は既にパーソナルスペースと外を分断する役割を放棄している。
部屋に入れば、正面に続く廊下の先にまるで砲弾でも撃ち込まれたような大穴が見える。その原因が爆弾だったかロケット弾だったか、ナナカはあまり覚えていない。ある日の地震で崩れたのはここか、別の場所だったか、それすらも
料理をするためのはずのキッチンは丸々その存在を失くしていて、凄絶な爆発の跡を残したままだ。確か部屋に潜り込んだ誰かが悪戯でガスを引火させたのだったなと思い出して、その実行犯だった彼女も後に離反して殺した記憶が蘇る。
寝室はもう見る影もなく、ベッドはただの木片に、壁と天井は残っている部分を数える方が簡単なぐらい。途中からほぼ機能を停止したこの部屋に足を踏み入れることはなかった。
大きな風穴の所有者であるリビングは、ナナカが最も多くの時間を過ごした場所である。嫌な思い出が大半であれど、彼女の中に濃く深く残っている。部屋の隅にある天井が人一人分だけ残っている壁がここ数年の彼女の就寝場所だった。
「あった」
崩れかかった部屋に似つかわしくない、分厚い鎧を纏った金庫がその口を開ける。
そこを住処にしていた契約書は、ナナカがベアトリーチェと最後に交わした契約のもの。自身の失敗で果たされなかった契約が書かれたそれを握って、ナナカは出口へ向かう。
ふとリビングの出口で立ち止まったナナカは、机の上に契約書を置いた。
それから丁寧な仕草で背負っていた愛銃を肩から降ろし、スライドを引く。装填していた弾を全て排して空になった銃身は、彼女がいつも休んでいた壁に納められた。
その身を労わるように撫でながら、ナナカはその相好を崩す。
「ありがとうございました」
それだけ言い置いて、再び紙切れを掴んで今度は迷いなく部屋を後にする。
頼りない玄関扉も丁寧に閉じて、近くに転がる瓦礫で外側から動かないように固定した。
「やっぱり、そんなことだと思いましたよ」
彼女の手の中で、契約書が姿を変えていく。
何かしらの術を用いて偽装されたものだったのだろう。黒服に話が行った時点で碌なものではないと思っていたが、別の契約を結ばされているとは思わなかったので呆れた息が零れてしまう。
しかしナナカはその文面を見て、眉一つ動かさずただ契約内容を追うだけであった。
なぜならそこに書かれていたのは、彼女からしてみれば当然のことだけだったのだから。
「マダム。私は元より、そのつもりでしたよ」
アリウスで起こったすべての事象は、その責を牢ナナカが背負うものとする。
ベアトリーチェからナナカへの責任の押し付けが記されたその契約書は、彼女からしてみれば嫌がらせにもならない。恐らくはもしもの際にスケープゴートにするつもりだったのだろうが、ナナカはそれを拒むつもりなどなかったのだから。
『監督官、トリニティ生がカタコンベに侵入しました』
「投降してください。マダムも先生に敗北しました」
契約書の内容が変わったのは、マダムが命を落としたか、自我を失ったのどちらかが起こったということ。どちらにせよ敗北は疑いようはなく、アリウスの再生はありえない。
それにトリニティが侵入してきたということは、カタコンベのルート解析を終えたということだ。いつでもこの自治区に彼らが踏み込めるようになったのだとすれば、もうこの場所は隠れ家としての機能を失うだろう。
再起は不可能だ。アリウスは、今度こそトリニティに飲み込まれて消える。
以前よりも深い禍根と傷痕を残して。
「何を言ってる!? 投降などありえない! 最後まで戦え!」
「また罰を受けたいのか! さっさと銃を持て!」
ナナカは何も言わずにその後頭部に向けて発砲した。
冴え切った感覚を残した彼女の銃弾は狙い通りに吸い込まれ、対象を沈黙させる。
指導官たちの眼がナナカに集中する。こちらに銃を向けた者に対しては容赦なく撃ち抜いた。その横暴に大人たちの顔が強張り、緊張が広がる。
「牢ナナカ、血迷ったか!?」
「マダムは
彼女たちはもう、生き方を選べるようになったのだから。
逃げようとした大人を一人ずつ撃ち抜く。彼女の制止に従った者でさえ容赦なく、ナナカはその引き金を引き続ける。
彼女なりのけじめだった。皆に苦痛を強いた自分が、その後始末をしなければならないと考えていた。
どうせアリウスの現状はマイナスである。正しい導き手でない者たちを残したところで、この先の未来が好転するはずもない。既に汚れている手に汚れが少しばかり増えようと、ナナカは何ら気にならない。
この地を去る前に、せめてフラットに戻さなければ。
正義実現委員会が飛び込んできたのは、彼女がその場にいた全ての大人を黙らせることを終えた少し後。
「アリウスはトリニティに投降します。全ての責任は、監督官たる私に」
武装解除の命令に従わない者もいた。逃げ出したものもいた。戦闘は避けられず、どさくさに紛れてナナカを狙うアリウス生もいる。
それらを横目に、ナナカは大人しく手を後ろに預ける。
マダムから渡された責任の所在を示す書類を説得材料に、自分を代表者として突き出した。
連れられていく彼女に、後ろから声がかかる。
「私は、あなたに救われました!」
その言葉に、ナナカは後ろを振り返る。
黒と白が入り混じった特徴的な髪の少女が、ナナカを見て涙を流していた。
「訓練は苦しかったです。教育は頭がぐちゃぐちゃになりました。でも、それでも!」
ああ、生きていたんだ、とナナカは彼女の無事を安堵する。
耐えられていないと思っていた。姿を見ないからどこかで死んだのだと思っていた。けれど今見えるその体にはところどころ怪我はあれど、命に別状はなさそうだ。
いつか地に伏して命の灯が消えるのを待っていた彼女は、今もなお五体満足で生きている。
「あなたのおかげなんです。あなたのおかげで、私は今も生きています」
それは、ナナカがいつか誰かに届けた言葉とよく似ている。
「私を助けてくれて、ありがとうございました」
だからこそ、ナナカは自分が取るべき行動をよく知っている。
彼女は自分に縛られずに生きるべきだと信じている。
「ごめん、誰だっけ?」
その言葉に少女の顔が歪んだのを見届けて、体を前に戻して歩き出す。
背後で言葉の意味を解した少女が言葉なく頭を下げたのに気付いても、ナナカはただ進むだけ。
ああ、良かった。
ナナカは自分の行動の全てに意味がなかったわけではないことに、心の底から安堵する。
だって、誰にも言われたことがなかった。
責められたことはあっても、感謝されたことなど彼女にはなかったのだ。今までに貰った感謝は全て紛い物で、偽った自分に向けられたもので、彼女が受け取っていいものではなかった。
たった一つそれを受け取れただけで、十分だった。
アリウスは崩壊した。
絶対的な指導者を失い、導く立場の大人はその多くが捕縛され、残った者たちは逃げ出した。
向かうべき
隣人を信じるなと言われてきた彼女たちにとって、支援に来た者たちを受け入れることは容易ではなく、しかし生きるためにそれに縋りつくしかなかった。
そうやって緩やかに、『アリウス』という毒は消えていく。
ナナカはその行く末を、牢の中からよく噛みしめて呑み込んだ。
それで、彼女の役目は本当の意味で終わったのだった。