秤アツコが目を覚ました時、その視界は闇に塗り潰されていた。
光のない空間に閉じ込められたのか、はたまた目を潰されたのか。そんなことが頭を過ぎったものの、頭部を覆う圧迫感が何か布を巻かれて視界を塞がれているのだと教えてくれる。
頭に巻かれた目隠しを取ろうと手を動かせば、自分を見張っていたであろう誰かにその手を掴まれた。彼女が暴れるよりも早く、頭上から声がする。
「お願いだから、そのまま何もしないで」
聞き覚えがある声。自身を攫ってサオリたちを人質に自分を脅す革新派の少女の顔が思い浮かぶ。憎むべき相手のはずなのに、アツコは少女の声が震えていたことに気勢を削がれてしまう。
みんなの命が握られている現状を考えればアツコにその言葉に逆らう選択肢はないのだが、自分の腕を掴んだ相手は『お願い』だと言った。ならば自分が動かない理由はない。
それなのに動けないのはあまりに少女の声が切実で、アツコの心が揺さぶられてしまったから。
「暴れないで。何も見ないで。何も聞かないで」
お願いだから。
突然ぎゅっと体を抱きしめられ彼女の在りもしない胸に顔を押し付けられ、アツコは覆われた布の下で目を白黒させる。
自分が床に座っているから相手は膝立ちで私を抱き寄せているのだろうか。そんなどうでもいいことが頭に浮かぶ。それで少しばかり心の余裕が生まれたのか、私と触れ合っている少女が震えているという事実に気が付くことができた。
されるがままにその抱擁を受け入れる。その両腕の拘束は力強く――拘束のつもりはないのかもしれないが――まるで母が子供を護るような優しさを併せ持った力加減で行われているその所作に、少し力が入ってしまっているだけなのだろうと考えて感じている息苦しさを無視することを決め込んだ。
「何が起こっているの?」
ようやく口にしたその問いと同時か少し遅れてか、体を解放されたかと思えば次の瞬間には彼女の手がアツコが両の耳を塞いでいた。
その直後、叫び声に似た何かが塞がれた耳に漏れ聞こえて届く。何の音だったのかと問おうとして、押し付けられた胸から伝わる少女の心臓が早鐘を打っていることに気が付いてしまう。
その変化に何かただならぬことが行われている気配を感じて、アツコは背筋が寒くなった。
ねえ、とアツコが声を上げる前にその耳を塞いでいた小さな手が離れ、周囲の音が戻ってくる。
耳を離れた手はまたアツコの後ろに回されて、アツコは再び少女の柔らかい腕の中に戻ることしかできない。
「ごめんね……ごめんね……」
嗚咽交じりの声でそう声を漏らす少女の言葉が誰に向けられたものなのか、アツコは判断ができなかった。
一層抱きしめる力が強くなった少女に、アツコは力では勝ち目がないことを思い知る。服の中に隠していた武器も回収されてしまっているようで、抵抗の手段も存在しない。
ポツリと落ちた一つの滴が頭に当たって、アツコは思わず顔を上げた。
顔を上げた後に目隠しをされていたことを思い出して今の行動に意味がないと気が付くが、視界の上に僅かにずれた布の隙間から少女の表情がのぞいているのが見えた。
「ねえ、どうしたの?」
思わずアツコが口にしたその問いに答えを返すように、耳を塞がれた。
誰かの叫び声。今度はかなり長い。何かを訴えるような勢いがあったけれど、何を言っているかまではわからない。
けれどそれが誰かに何かを伝える言葉で、聞く人が聞けば良くも悪くも心を動かされるものであることは理解できた。
アツコの目の前で頬に伝う涙を流す少女の様子が、それを物語っていた。
「どうして、泣いているの?」
盗み見るアツコの視線とその発言で彼女のことを見た少女の視線が交差する。
目隠しの隙間から自分が見られていることに気が付いた少女に布の位置を直されてしまったものの、視界がまた闇に閉ざされる前に見えたどこか悲しみと諦めが混じっている瞳の揺らぎが、アツコの心に鮮烈な印象を残した。
一瞬の後、浮遊感。
どうやらアツコのことを抱き上げたようで、アツコは落とされまいとする本能に従って少女の身体に手を回す。
さほどかからないうちにどうやら建物の外に出たようで空気が変わり、そこで彼女はゆっくりと丁寧な手つきで体を下ろされる。目隠しを外されて初めて、そこが勝手知ったる穏健派の地区であったことに気が付いた。
「もう全部終わったから、三人のところに戻りな」
明日になればどうせ、わかることだし。
そんなことを言いながらアツコを見る少女の顔は酷いもので、見上げるアツコは案じる様子を隠せない。
それに気が付いてにへら、と無理しているのがバレバレな笑みをこちらに向けた少女に、アツコは形容し難い感情が湧き上がってくるのを自覚する。自分より一回り大きいはずの少女が見せるそのあまりにも痛々しい姿に言語化できない感情を抱え、アツコは何も言えなくなる。
そして、少女が先ほどまで自分を何かから守ってくれていたのではと思い至る。見てはいけないものから、見ない方が良いものから遠ざけ、アツコの心を護ろうとしていたのだと。
耳を塞いだのも、きっと同じ理由。
「優しいね。でも、私のこと、恨んでくれて構わないから」
そう言いながら頭をゆっくりと優しく撫でられ、アツコはいつか母親にそうしてもらったことを思い出す。それと同時にどうしてかもう母に会えないことを理解してしまった。
それがとても悲しくて、涙が溢れてくる。
そんなアツコを宥めるように抱きしめて、少女はその背中を優しく撫でる。母親のようにその小さな体で包み込んで、少女はアツコが泣き止むまでそうしていた。
生徒会長は死んだ。
アツコを人質に一人で来いという条件で呼び出してなお苦戦させられたことに苛立ったベアトリーチェの手によって生きたまま弄ばれ、絶命した。
ナナカとアツコはその場にいることを強制された。その場と言っても壁を一つ挟んだ向こう側だが、ガラス張りの部屋の様子はこちらからよく見えたためにナナカはその様子を余すことなく見せつけられた。
その意図はすぐに予想がついた。自分とアツコの心を折ろうとしているのだ、と。
だからアツコに目隠しをしたのは、ナナカなりのせめてもの抵抗だった。
敵対派閥の長である生徒会長のことは恨んでいたとしても、その娘であるアツコ自身には何の恨みもない。
小さな子供の心を壊すような真似は認められない。いくら倫理観が欠如しがちなアリウスで育っていたとしても、そのぐらいの正常な感性は持ち合わせていた。
「うぁ”ぁぁぁあ”!!」
生徒会長の母が痛みに悶える声が聞こえてくる。
ベアトリーチェが手を振るい、声が上がり、痛みに擦り切れそうなその様子をベアトリーチェが楽しむ。
目の前で繰り返されるその様子をアツコに知られてはいけない。
意識を取り戻して体を起こしたアツコが目隠しの布に手を伸ばしたのを見て、ナナカはその動きを制止する。
「お願いだから、そのまま何もしないで」
自身の発した声が震えていたことに気が付いたナナカは、ベアトリーチェの目論見通りになっている自分に辟易する。
自分の精神の限界を感じたナナカは人肌を求めてアツコを抱き寄せた。頭を自分の胸に押し付けるのがアツコの視界を狭めるのに好都合だったというのは、後から自分の行動を正当化するための言い訳でしかなかったとナナカは当時の自分を振り返る。
その体温は彼女が求めていたものではあったものの自分の身体の震えを強く自覚させることになり、結局その不安がアツコに伝播してしまったことをナナカは後悔した。
耳を塞いで叫び声を遮ったところで、手で覆うだけでは効果が薄いことは目に見えていた。
「ごめんね……ごめんね……」
自分の方が一回り年上なのに、護り切れない。
自分が引き起こした惨劇なのに、それを飲み込む覚悟ができていない。
あなたの家族が今まさにその命を落とそうとしているのに、あなたにそれを教えられない。
許してほしいなんて、言えるはずがない。
もう、限界だった。
アツコに抱きついて、壊れてしまいそうなその痩身に身を預ける。彼女が何かを察して受け入れてくれていることが有り難かった。
精神を擦り減らし目を閉じかけていたナナカが最後の役割を果たすことができたのは、彼女を心配したアツコの呼びかけがあったからに他ならない。
「ねえ、どうしたの?」
その声に少しだけ開いた眼がガラス越しに虚ろな目をした生徒会長と合ってしまって、私の意識は瞬時に覚醒する。
「■■■!! ■■■■!! ■■■■■!! ■■■!! ■■■■■■■!! ■■!! ■■■■■■!! ■■■■■■■■■■■!! ■■■■■■!!」
咄嗟にアツコの耳を覆ってよかったと心から思う。
呪いの言葉。アツコに絶対に聞かせてはいけない言葉。しばらく意味のある言葉を発さなかった生徒会長から飛び出した、最後の悪あがきとでも呼ぶべき辞世の祝詞。
彼女に抱いていた印象を変えるようなその言葉たちに、生徒会長と呼ばれるような立場にある人間から放たれたその言葉に、ナナカはただ涙することしかできない。
その言葉が癇に障ったのか、ベアトリーチェが生徒会長に止めを刺した。最後まで忌々しいという目で睨みつけている。
「どうして、泣いているの?」
どうして泣いていることが分かったのだろうと目を向ければ、目隠しがズレていたアツコと目が合った。視界の広さ的に向こうの光景は見えていないだろうが、念のためにちゃんとその位置を調整して。
メッセージでもう行っていいとベアトリーチェから連絡があったのを確認して、アツコを抱き上げて外に向かった。こんな場所から一刻も早く彼女を離したかった。
外に連れ出して拘束を解き、ナナカはアツコにサオリたちのところに戻るように言う。
しかし中々アツコは動こうとしない。なぜかと思ってこちらを見つめるアツコの表情を見て、ナナカは彼女が自分を案じているのだということに気が付いた。
また、アツコは何があったのかに薄々勘付いているようで。
「私のこと、恨んでくれて構わないから」
そう言いながら頭を撫でてやれば、正しくその言葉の意味を受け取ったのだろう。
アツコは決壊したかのように涙を流し始め、ナナカはそれを受け止めた。自分にそんな権利がないことを重々承知だが、今この場で誰かがアツコのケアをする必要があるのなら、自分がやるしかない。
アツコの心は、壊れていない。母親のためにここまで涙できるのがその証拠である。
その小さな少女の心を護れたことだけが、最悪な一日を過ごしたナナカの唯一の成果だった。
■で伏せられた部分は好きな言葉でもどちらでもいいので適当に入れてみてください。
ナナカさんのメンタルをボロボロにしたい方は罵倒や怨嗟の言葉を、アツコに祝福を与えたい方は祈りや願いの言葉がおすすめです。