四階まで駆け上がったところで私の体力は尽きた。
合唱部でも体づくりはしているけど、全力階段ダッシュなんて負荷が高い運動は中学ぶりだ。
勢いで馬鹿をやるもんじゃないなと手すりにもたれかかって息を整える。
「……なにが、もちろんだよ」
本気で彼の恋人と仲良くしようだなんて思うはずがない。
ただ、彼に嫌われたくないだけ。
それなのに、あの時の自分はよくこころよい返事ができたものだ。
これで諦めが付いているならまだいい。
だけど、いくら自分の頭の中をさらっても諦めなんて文字が見当たらないのだから、自分でも笑えてくる。
――交子の悩みって打ち明けた時にはなんでも
目を瞑ると踊り場で聞いた言葉が耳の奥でこだまする。
そうだね、鳴衣の言う通りだ。
「部活終わったら、鳴衣に謝らないと」
しばらく座り込んでいたからだろうか。残暑だと言うのに冷えた汗が気持ち悪い。
タオルごと忘れたリュックを取りに帰るのも気まずいなと考えながら、私は手すりに力を込めて立ち上がった。
「ていうか、らんかたちに会うのが気まずい」
あんな様子を見せたら勘ぐられるのも無理はない。
部活が終わる頃には帰っているだろうし、LINEか明日会った時に取り繕おう。
そんなことを考えながら音楽室までの道のりを重い足取りで歩く。
最上階の渡り廊下を半ばまで進んだところで、向かいの校舎から会いたくない人が姿をあらわした。
「……南さん」
「あっ、金石さん」
こちらに気づいた南さんが私の前まで歩いてくる。
彼女は黙っている私を見て不思議そうに首をかしげると、向こうから話しかけてきた。
「さっきぶり。金石さんは部活?」
「う、うん……。そんなとこ」
「なんかテンション低いね」
動揺を隠せてない私に対して南さんはくすりと笑う。
彼女は水切りの溝より一歩、こちら側に立っていた。
「南さんがキャラ違って驚いたからかも。いつもなら会釈だけでどっか行きそうな感じじゃん」
「ふふっ、なにそれ、鳴衣とかには普段からこんなのだよ」
「へぇ、じゃあ蓬くんにも?」
声の調子を合わせてふざけた風に探りを入れる。
「んー、まあ。彼女ですから」
「お熱いね〜」
熱すぎて焼かれてしまいそうだ。
皮肉を込めた私のからかいに、南さんは少し視線を落とす。
「……お熱いって言われると、どうなんだろ。喧嘩中だし」
「…………」
昔からよくわからない女の子だった。
浮世絵離れしているし、嘘つきだし、鳴衣が友達でいるのが不思議で仕方がなかった。
そんな子がなぜかはわからないけど、私に弱いところを晒してくれている。
ここが岐路なのだと、そう思った。
私が彼らの間に介入できる最後の機会なのだと。
――これからも南さんと仲良くしてくれると、すごい嬉しい
ああ、仲良くしようとも。
だけど、二人の仲を応援するかどうかは別の話だ。
「二日放置はやばいよね〜。めっちゃ腹立ったでしょ」
「あー、金石さんは知ってるか。……実はさっきまで爆発してた」
女子の共通言語である愚痴は南さんにも通じたようで、剣呑な話でも朗らかな雰囲気になる。
「蓬は優しいけどいつも受けの姿勢なんだよね。LINEが途切れたときも再開させるのは私からだし、土曜のデートも私が言い出さなきゃ出かける予定なかったし」
「お、おう……」
なんだこいつ不満すごいな。
私がなにもしなくても別れるんじゃないか?
「たしかに蓬くんは受け身だけどさ、それでも二日もアクションなしっていうのはアレかもね」
「アレって、なに?」
「倦怠期とか。よく言うじゃん、三ヶ月目は気をつけろって」
と、もっともらしい推測を南さんに提示する。
そんなことないのは重々承知だし、この後蓬くんが謝るだろうことを私は知っている。
だが、その謝罪も南さんの見え方が変われば別の意味になるかもしれない。
「男って安心したらすぐ手を抜くからね。釣った魚に餌をやらないっていうかさ〜」
「蓬はそこらの男とは、違うんで」
「その考え方が一番危ないんだって! 日曜飛ばしてるんだよ、休日も休日だよ!? 舐めてるとしか思えないじゃん!」
「あー、うん。……舐めてる。私舐められてるかも」
眉間にしわを寄せ、顎に手を当てる南さんを見て心の中でほくそ笑む。
蓬くんが日曜に何を考えて過ごしていたとしても、何もしなかったことに変わりはないのだ。
「今更あわてて謝ってきてもすぐ許しちゃうのは悪手じゃないかな〜。このままじゃイニシアチブ取られちゃうよ。
こちとら別れてもいいんんだぞって姿勢を見せなきゃ」
「別れる……?」
南さんは顔を上げて、きょとんとした目でこちらを見た。
別れるなんて、今の今まで考えたことのないといった素ぶりだ。
人を別れさせようなんて今までしたことないけれど、直接別れろなんて言っても返って反発されることくらいはわかる。
大切なのは、別れるという選択肢を示すことだろう。
あとは蓬くんに幻滅させられたらなお良いのだけれど、どうするべきか。
「あくまでフリだけどね。でも、南さんが言えばかなり肝を冷やすと思うよ」
「んー、どうだろ」
南さんは再び顎に手を当てるが、その顔は随分と柔らかい。
「さっき、蓬から電話がかかってきたんだよね。通話中の蓬、いつもより落ち着いてたっていうか、カッコよかったからさ。
なんか、結局許しちゃうかも」
思い返すような目で宙を見つめながら彼女はそう笑った。
なんだそれは。さっきまでの不満はどこに行った。
なんの脈絡もないじゃないか。
「……良くないと思うなー、勢いで許しちゃうの」
「そう?」
「そうだよ。今のうちに冷静に考えたほうがいいんじゃない?」
焦りが、深く考えないうちに口を動かさせる。
「考えるって、許す基準とか?」
「それもあるけど、南さん自身の気持ちも。三ヶ月も付き合ってたらはじめの気持ちとは変わるでしょ」
「はぁ……?」
不満を膨らませても無駄なのなら、好きという気持ちを揺るがせるしかない。
私だって蓬くんを四月から見てきたのだ。私なら、私ならできるはずだ。
「南さんって、蓬くんのことがどうやって好きになったの?」
「えー、あー……」
「あぁ、ごめん言いづらかったか。じゃあ、好きになったところ!」
「好きなとこ……。優しいとこ、とか」
毛先を指でいじりながら南さんはそう答えた。だいぶ大雑把だが、だろうなといった返答だ。
ここで顔なんて言われなくてよかった。優しさなら、いくらでも陳腐にできる。
「たしかに、蓬くんって優しいよねー。でも、南さんは優しいだけでいいの?」
「優しいだけ?」
「だって蓬くん、誰にだって優しいじゃん」
蓬くんは誰にだって優しい。
誰にだって優しいなら、恋人でなくても優しく接してくれる。
だったら、付き合う必要なんてないんじゃない?
南さんは私の言葉に毛先をいじっていた手を止めると、まっすぐ視線を合わせながら口を開く。
「誰にでも優しくないよ」
「……え?」
「蓬は確かにお人好しだけど、それは他人でも助けるからじゃないよ」
私と南さんの間を風が吹き抜けた。
少し日が傾いてきたからだろうか。たなびいた亜麻色の髪がいやに光って見える。
「誰かの人生を自分ごとにできるから、蓬は誰かのために頑張れるし、誰かのために泣けるんだと思う。
私はもう蓬の一部だから。だから、蓬の優しさが好きになったんだ」
風が止んで少し乱れた髪も気にせず南さんは言い切る。
そうか。蓬くんって、泣くのか。泣いてる姿を彼女は見たのか。
私はいつのまにか一歩後ずさっていた。足元の水切り溝が私たちを再び別ける。
「蓬を誰にでも優しいって感じたら、蓬にとっては金石さんも誰でも、じゃなかったのかも」
黙ったままの私を見て南さんは言葉を続けた。
「……私も聞きたいことがあってさ。金石さんにとって、蓬って何?」
そんな、南さんの相談事とは関係のないことを質問される。
私を見つめる緑色の瞳がガラス玉のように透き通っていた。
私にとっての蓬くん。
優しかった人。涙なんて見たことなかった人。
そんなの、
「ただの友達に決まってんじゃん」
そう笑って告げてから、たわいのない話を二、三言交わして南さんと別れた。
長話をして体力はだいぶ戻ったというのに、私の足はまだ重かった。