謎の映画監督の物語 無の映画監督 作:dwwyakata@2024
高宮監督の目論む計画が、徐々に進展していきます。
計画の内容については秘密だ!
黒田恵子はほっとしていた。面接が通った。
それも完全リモート。しかも定時が約束されている。病院に行く日の休みについても、だ。
お給金は初任給としても、前の会社よりもぐっと高い。ありがたい話だとおもったけれども。
問題はそれらが本当に守られるか、だが。
契約書には、守られなかった場合は即座にやめていいという事と。
更に違約金を払うという事まで書かれていた。
こんな契約書は初めて見る。
前にいた会社は、黒田が体を壊して辞めたとき。
「休日に筋トレを五分すれば全て治る」だの、「気合いが足りていないから内臓を壊す」だの好きかってほざき。
医者が言う事を信用するなだの。お前は五年間何もしていなかっただの罵声を叩き込んできた挙げ句。
辞めた後にも労基に対してごね散らかした後。
労基が抜き打ち検査をちらつかせて、やっと会社都合での退職を認めたクズの集まりだったのだ。
そして、それがむしろ今の時代の普通の会社だと言う事も黒田は理解している。
それ故に、高宮監督の会社はあまりにも異質。
今の時代、こんな会社があるのか。
そう驚かされた。
ともかく、リモートで作業を始める。
高宮監督の映画は全て見た。
他の人が言うように、眠くはならなかったのだけれども。
感性は人次第だと思う。
前の会社の重役は、勝手に他人の感性を決めつけて。その趣味はおかしいだの、感性がおかしいだの人格否定を平然としていたし。
お前の顔は気持ち悪いだの、好き勝手なことをほざいていて。それがパワハラに相当するとすら理解出来ていないような輩だった。
それでも、この就職難の時代に拾ってくれたことを恩義だと考えて頑張り続けたけれども。
何一つ報われなかった。
CG作成の技術だけは身についたが、代償が大きすぎた。
いずれにしても、今日の仕事が終わったら、病院に出向いて。
幾らかのお薬を受け取ってこなければならない。
今、一日七錠の薬を飲んでいるが。
医者に言われている。
一年や二年で治る状態ではないから。
じっくりやっていくように、と。
理解している。
だから、もう諦めて。薬を飲みながら、仕事をしていくしか無かった。
特に自律神経が壊れているのは致命的で。
今もかなり強い睡眠導入剤を貰っているのに、それでも睡眠は全くというほど安定していない。
睡眠障害について告げたときに、根性が足りないからそうなるとかほざきちらした上司の事は絶対に生涯許さないだろう。
病院から戻ると、後は寝る。
CG作成については身についているし。
家のPCはゲーミングPCをやれる程度のスペックはあるので、特に問題はない。
幸い、社畜をしていた事もある。
起きるのは絶対に出来る。
淡々と作業を行っていき。
朝昼もちゃんと食事を取る。
食事は殆ど、近くの量販店で買う癖がついていた。
場合によってはコンビニの半額である。
ただし量販店の場合は、あからさまに品質が落ちる商品がまれに売っている事があるので。
気を付けて、そういうものは弾くようにしていたし。
そういうのを見分けることも、いつの間にか出来るようになっていた。
かといって自炊が得意かというとそうでもないので。
いつも苦労はしていたが。
定時まで仕事をして、進捗をメールで送っておく。
直接の上司は井伊というもっと若い子なのだが。
この子がとんでもない切れ者で。
的確な指示を毎度送ってくるので、はっきりいって困る事が全く無く。仕事はとんでもなくスムーズだった。
「コミュニケーションが得意」とか抜かしていた、今までの上司達とは雲泥どころか、完全に別物だ。
たまーに産まれると言われる一種のスペシャルなのだろうが。
それにしても、本当にこう言う子がいるんだなと、感心させられる。
そしてやはりと確信する。
高宮監督は、馬鹿じゃ無い。
世間一般では、変な映画ばかり作っている人と思い込んでいるようだけれども。実際に仕事の一部を任されて理解した。
あの人は、多分だけれども。
実態は、世間一般で馬鹿にされている存在とは別物だ。
映画を見ても、眠くならなかった。
それは黒田が、自律神経を徹底的に壊されている、というのも原因なのだろうけれども。
それはそれとして、高宮監督を馬鹿にする奴は、見る目が無いんだなと言う事を黒田は理解していた。
仕事が定時で終わる。
かといって、体を壊しているから、これからが本番だ。
風呂にはゆっくり入るように。
これは医者から言われている。
適度に歩くように。
これも医者から言われている。
できるだけ、無理をしてでも規則正しく生活するように。これも当然、しっかり守っている。
今の時代。
社会人をやっていたら、どれもできない事ばかりだが。
それでも出来るのは、この職場だから。
勿論他にも出来る職場はあるかも知れないが。
そんなものは稀少なのだと。
黒田は身で知っていた。
実際、何度か仕事で他のオフィスに足を運んだこともあるが。それらもだいたい似たような職場だった。
ある職場では、泣いている新人に対して一日中怒鳴り散らしている奴が複数存在していた。
仕事がその間とまることなんてお構いなし。
つまり仕事なんてどうでも良く。
新人叩きが名目なのだ。
その怒鳴り声を耳に。仕事のやり過ぎで遠くなりかけている意識を必死に叱咤して仕事をして。
提出物に駄目出しをされ。
何度も何度も修正し。
それでいながら、また駄目出しを受ける。
やっと完成した成果物を提出しても、それが採用されるとは限らない。
明らかに出来が悪い成果物が採用されることも多く。
そういう成果物を作ったのは、上司に媚を売るのがうまい奴であるケースが珍しくもなかった。
更に書類関係は悲惨だ。
職場ごとに独自のルールが存在していて。
テンプレートに沿って内容を入力して、それでも文句が出る。
勿論テンプレートなんかない職場もあって。
そういう所では、上司の気分次第で書類の是非が決まるのだった。
思い出したくも無いものばかりだが。
今回の仕事は、井伊という上司の的確極まりない簡潔な指示と。
それに成果物をごく全うに評価してくれる事もあって。
ストレスは零に等しい。
前は連日胃がいたくて。
血尿血便なんて日常茶飯事だったのだけれども。
今は、それもない。
とにかく、淡々と仕事をして。
その後は、治療に専念する事が出来ていた。
「まるで天国と地獄かな……」
黒田は、一人でぼやいていた。
風呂から上がると、夕食にする。
かなり早い時間だ。
前の職場だと、次の日になってから夕食なんて珍しくもなかったし。職場でおにぎりだけ食べるとかもザラだった。
今は袋麺にしても卵を入れる事が出来るし。
かなりバランスを考慮して食事を取ることが出来ている。
とてもいい傾向だと思う。
だけれども、これが本来の人間の生活というものであって。
そもそも今の労働環境がおかしすぎると言う事を考えると。
あまりこれに感謝するのも、変な気もした。
いずれにしても、この職場は手放したくない。
メールは翌朝にならないとこない。つまり深夜作業は一切強要されない。
井伊という人物も、仕事は大半リモートでやっているそうだ。
何度かテレビ会議で顔を合わせたが、口数が極端に少ない小柄な女の子だ。女として綺麗とかそういう事は一切無く。
ただ仕事が出来る、ハイスペック人間だと思った。
他の会社だと、この子は一切評価されなかったんだろうな。
いや、高宮監督でなければ、この子を見いだせなかったんだろうな。
そうテレビ会議で思って。
暗澹たる気持ちになったっけ。
寝る時間が来た。
まだかなり早い時間だが、本来は人間は、日没とともに寝て夜明けとともに起きていたのだ。
それが電球とか言うものが開発されたせいで。
一日中ずっと起きて仕事をするのが当たり前になっていった。
電球は人間世界を便利にしたけれど。
幸せにしたのかは微妙だと、高宮は思う。
勿論エジソンが、えぐい性格の変人だったことも知っている。
それを加味しても。
なんだか世の中は上手く行かないのだなと、色々考えながら眠りにつく。
勿論自律神経を壊しているから、簡単には眠れない。
うんうん唸って、途中で何度も目が覚めて。
それでやっと眠って。
眠れるのは、生きるのに最低限の時間だけだ。
こんな体にしてくれた会社には、賠償をする義務があると思うけれど。
残念ながら。
今の時代は、そんな義務は機能しておらず。
責任ばかりが要求されるのが、実情なのだった。
幾つか任されていた仕事を納品していく。
高宮監督のCGは、とにかくシュールな場面。笑える場面。怒りを覚える場面。そういった感情の起伏が生じそうな場面を、悉く潰して行く。そういう傾向で作られているようである。
それについて疑問は口にしない。
そもそも口に出来る立場ではないし。
なんとなく、見る睡眠導入剤扱いされているのも、それが理由だろうと分かるからである。
そしてこの仕事をしていると、見えてくる。
高宮監督は、意図的に作品をつまらなくしている、と。
だけれども、どうでもいい。
淡々と仕事をやっていく。
CGを作っている時に。デザインのセンスがどうのこうのと、いつも罵声を浴びせられたっけ。
おかしな話だ。デザインについては、デザイナーが作ったものを正式に採用しているのに。
そのままCGにしているのに。
それどころか、明らかに歪んでいたり。
デザインから逸脱したものが。
上司のお気に入りの人間が作ったというだけで、採用される例を黒田は何度も見てきている。
だが、今の仕事ではそういう理不尽はない。
とにかく作業指示が的確極まりなく。
作業はやりやすくて仕方が無かった。
上司である井伊も、確実に仕事をする黒田を褒めてくれる。
これはとても嬉しい。
年下の、下手すると小学生くらいに見える子に褒められて嬉しいと言うのも妙な話だが。
それはそれだ。
見かけで人間を判断する事がどれだけくだらないか、というのもあるし。
そもそも井伊は本当に仕事が出来る人間だ。
だったら敬意を払うのが残当である。
だから黒田は敬意を払う。
実際、井伊はどうやら高宮監督のブレインとして働いているらしい。高卒で会社に入ったのに、である。
学歴社会が崩壊してそれなりに長いが。
大学で遊んでいる暇があったら、会社の第一線で働いてほしい。
そう言われて、そうしているようなので。
まあとにかく、凄い逸材であることは確かだ。
病院に行く日なので、有給の申請を出す。
勿論すんなり通る。
そもそも休日なんてものが存在しなかった前の会社に比べると、本当に有り難い話である。
ただ、病院に行く日は。
全日潰れてしまうし。
採血とかもさせられてしまうので。
それはそれで、嬉しいとは言えなかったが。
納期通りに仕事は出来ている。
無理のある仕事量はこない。
これだけで、どれだけ有り難いか。本当に感謝しながら、病院に必要なものを準備して。それでねむる。
睡眠障害に関しては、十年単位で治療に時間が掛かる事を覚悟しろと言われているが。それについてももう覚悟は決めている。
それでも。
どれだけ環境を整えても。
結構強いお薬を入れても。
全く眠れない事については、一切変わりが無い。
それはそれで辛いものだ。
起きる。
時間通りだ。
睡眠は四時間ちょっと、と言う所か。眠れる日は六時間程度眠れる事もあるのだけれども。
今日はこのくらい。
病院にいくまでに、気絶したりしなければいいけれどと思ったけれども。
何とか耐え抜くしかないだろう。
会社で何度か気絶して。
その度に、顔を真っ赤にした上司に。気合いが足りないだの、社会人としての意識が薄いだの、凄まじい勢いで罵倒され。
医者に書いて貰った診断書を見せたら、そのままシュレッダーに掛けられた事は忘れていない。
どこもこんな場所なのだと諦めていたが。
今はもう、それもない。
病院に到着。
予約を入れていても、今は病人で一杯なのがこういう場所だ。
業病がこういうところでクラスターを起こすのも納得である。
手を消毒して、保険証を出し。そのまま診察を待つ。
かなり早めに来たのに、たっぷり三十分以上待たされてから、診察を受ける。そして、採血された。
前は枯れ木のように痩せていて、医者にどういう食生活をしているんだと怒られたのだが。
今は多少はふっくらして来ている腕。
太らないように気を付けてはいるが。
これは健康的にふっくらしてきているので。むしろ喜ぶべき事だろうと思う。
いわゆる拒食症になって、本当に骨と皮だけになった人の写真を見た事はあるけれども。
あれは本当に悲惨な状態で。
見ていて可哀想になってくる。
だから、今の状態はこのましい。
最近は、目の下の隈も薄くなってきている。有り難い話だった。
それはそれとして、採血は苦手だが。
ともかく、健康診断をしたあと、医者に言われる。
「だいぶ改善してきたけれども、まだ当面投薬を続けるので、規則正しい生活をしてください」
「分かりました」
「ともかく無理はしないように」
こくりと頷くと、診察を終える。
医者も医者で激務だ。
相当に大変だと聞いているので、気持ちは良く分かる。
そのまま病院を出る。朝一番に来たのに、もう十時をだいぶ過ぎていた。
後は移動して、薬局に。
お薬を受け取るが。
お薬の値段に、思わずうえっと声が出てしまう。
まあ一日七錠も飲んでいるのだ。
薬漬けもなにもない。
そうしないと、内臓がもう駄目なのだ。
肝臓は壊滅状態。
腎臓もかなりヤバイ。
体がこんな状態なのに、気合いだのなんだの精神論を口にしていた上司の異常さが良く分かる。
「みんな頑張っているのになんだその態度は」とか抜かしていたっけ。
そしてこれで保証も一切受けられない。
何のために生きてきたんだろうと、泣き濡れたこともあったっけ。
結局死なずに生きていられるけれども。
それも厳しい状態だ。
お薬を貰った後、家に戻る。
二時を過ぎていた。
外に出たので、色々生活物資も買い込んだからだ。
貯金はあっても一切使い路がない状態だったが。今は新しい仕事で給金が出るので、カツカツであるが何とか黒字にはなっている。
無言で家事を済ませている内に、夕方に。
昔はゲームが好きだったけれど。
今は、ゲームは大嫌いになっていた。
あれだけの事があったのだ。
当然と言えば当然である。
ただ、CGを使っていないようなインディーズゲームは割と好きである。
そういうのはたまに、ちょくちょくとやったりする。
低予算だけあってチープだったり。ゲームバランスがあらゆる意味でおかしかったりするのが難だけれども。
それはそれとして独自の魅力がある。
グラフィックがーとか。CGがーとか。
ゲームハードの性能がーとか。
そういう事をほざいて、作品を貶す阿呆がいるが。
実際にゲームを作っていた立場から言わせて貰うと。
ゲームの価値は面白いかどうかだ。
グラフィックがなんぼ綺麗でも、駄目なゲームは駄目だし。
そもそもとして、そのCGにどれだけ金が掛かっているか、考えた事はあるのかと。金が掛かっていると言う事は、どれだけの血涙が流れているか考えた事はあるのかと問いただしてやりたい。
実際、インディーズゲームでもいいものは幾らでもある。
そう考えると、黒田は今はたまにインディーズゲームをやるだけだが。
さかしげにゲームハードが云々と口にする輩は、反吐が出る程嫌いなのだった。
夕食の時間が来る。
明日の予定を確認。
納期の成果物についても確認しておく。
仕事に追われ続けた故、身についてしまった習性だが。
この程度の手間なら、楽なものだ。
今、かなり納期が厳しいものは特にない。
というか、どれも余裕を持ってやれる仕事ばかりである。
前倒しで出来る仕事すらある。定時の仕事なのに、である。
そして前倒しで仕事を終わらせると、井伊が的確に新しい仕事を回してくれる。それも有り難い。
仕事は面白い。
はっきりいって、今までの身を削って日銭を稼いでいた状態とはまるで違う。
これが本当の意味での、信頼関係で結ばれた上司と部下なのかなとも思う。
忠誠心と献身ばっかり要求して、自分では何もしない今までの会社とは大違いである。
翌日に、希望が持てている。
それだけでも、とても大きかった。