亜人間恋愛物語 作:d1199
彼は妙な夢を見た。
それは、旅の相談をする為に綾子と桜を同時に誘う夢だったのである。朝起きた彼は、綾子には電話で桜には口頭で、同じ時間に声を掛けた。その日の彼は、綾子もしくは桜と絶えず一緒に居たが、その二人は顔を合わさなかった。幾つかの出来事を経たその日の最後に凛の姿を見ると、その日の朝に巻き戻った。彼が強烈に覚えているのは、その手で光る宝石剣とこぼれる涙である。
「このレストランとアミューズセンターが手頃か。お財布的に」
土曜日であるその日は朝から良く晴れていた。気温も高く暖かかった。彼は、自室で冬木市の情報が掲載された冊子をペラリペラリと捲っていた。
『冬木市の皆さまこんにちは。三月七日土曜日の午前九時。おはようサタデーの時間です』
静かな屋敷の静かな部屋に軽快な音を流すのは、丸いテーブルの上に置かれた古いAMラジオだった。
TVやパソコンなどの文明の利器が置かれているのは葵の部屋のみで、尚且つ彼に充てがわれた部屋はTVのアンテナ線が敷かれていない。それは、こう言った状況において外部の情報源に窮した彼が、《ラジオぐらいないのか》と当主に要求した結果だった。
半世紀を経ても無事に動くのは五つの鉱石が織り成す結界に守られていたからだが、凛から鉱石のレクチャーを受けた彼は、保管の結界に予知のムーンストーンが使われていた理由を疑問に思った。彼女にも答えられなかった。
彼は、雑誌をめくるのを止めてそのラジオを見た。
『この番組は、~の提供で生放送でお送りしています。さて。本日は映画の紹介です。“Cat in the Box”と銘うったこの映画は、量子理論を題材にしたタイムリープモノで、科学者が何十年も前に別れてしまった恋人の危機を実験中に知り、助けに行くというストーリーです』
ただの夢だと一蹴できない点があった。夢の中で出てくるキャスターは、思念を記録・再生できる術式結晶を、彼に必ず渡すのだった。夢の中の彼は、電話など間接的な接触を除き縁の深い人物を同時に二人以上認識できない。また会った人物との記憶を、別の人物に会っている時に思い出せない。その術式結晶は、そう言った問題を抱える彼をサポートする魔道具だった。
なにより。夢の中で聞いた放送と今聞いている放送が全く同じだった。収録ではないなら、これらは何を意味するのか。
彼はしばらく考えたが止めてしまった。仮にそれが事実ならば、誰かと会ってしまえばその思索内容は再現されない。つまり、誰にも相談できない。ならば意味が無いのである。
◆◆◆
彼はラジオを消して廊下に出た。彼は「……」左に行くか右に行くか迷った上で、右に行く事にした。隣の部屋の前に立った彼は、その扉をコンコンとノックした。小さく開いた扉の隙間からから現れたのは、普段着の凛である。
「何か用?」
それは、彼女を見た彼の第一印象だ。
(激おこぷんぷん丸?)
凛は、廊下に続く自室の扉を開けたので立っている真也を見る事ができた。彼が見せた気遣いは、意識の隙間に陥った様な表情の後だった。意識の隙間とは、考える対象を別のモノに切り替える時間であり、日常的に生じる意識の途切れである。もちろん凛は、真也の表情の変化を、単純な感情の変化基づくものだと考えた。彼は言った。
「随分機嫌が悪そうだけれど」
彼女の物言いが事務的であったのは、内に籠もる苛立ちを堪えた結果だ。
「夢見が悪かった」
「どんな夢?」
「言いたくない」
「そう」
「それで答えは出た?」
「答って何の話だ」
「ランサーの槍を持って最近ずっと屋根で唸ってたでしょ。考え事以外あり得ないわ……ちょっと」
彼女が僅かな不安を感じたのは、彼の目の前に有る彼の両手が、開閉を何度も繰り返しているからだった。彼女にはそれが、凛を見る直前までに有していた今は再現できない思索結果を、手に残る魔槍の感触を頼りに手繰り寄せるかの様に見えた。
「頭とか打った? それともまだ何処かおかしい?」
彼は、思い出すのは後で良いと言わんばかりに両手を降ろした。こう言った。
「時計塔に出発する前に羽を伸ばさないか」
「なによ、それ」
「デートのお誘い」
「結構よ。これから学校へ行くの」
「土曜日に?」
「明日の夜つまり日曜の夜に時計塔に行くから、そのつじつま合わせね。都合が良いと言えば良いけれど」
凛は何を怒っているのかと彼は考えた。彼が思い出した彼女のと主な履歴は、一昨日に綾子が見舞にやってきた時に三回回ってワンと命じられたこと。その後に家事分担の任命やキャスター委譲を辞退されたこと。昨夜一時間ほど夜外出したと追求された事である。
「ひょっとして夜外出したかもって話をまだ怒ってるのか」
じろり。彼を見る彼女の表情は不愉快だが、拗ねも混じっていた。
「だから夢見が悪かったのよ」
「どんな夢だ」
「真也がまた私に酷い事をする夢」
「またっ、て?」
シクシクと痛む胃を押さえる彼の表情は、渋面である。
「あのだな。聖杯戦争中の出来事はチャラって」
「相談なら綾子か桜にしなさい。献身的なまでに親身になってくれるわよ」
献身とは何だ。彼が言い切る前に彼女は扉を閉めた。コンコン。彼が扉をノックする音が立った事と彼女がその扉に背を預けた事は同時だった。一拍。扉越しの気配が去った後、彼女はこう言い捨てた。
「どうしてあんな夢を見るのよ……あー! 腹が立つ!」
彼女とて相談に乗りたかったが、自身の精神状態ではまともな対応はできないと判断したのだった。
「機嫌が悪いに決まってるつーのよ。なんで分からないのよ……分かる訳ないけどさ」
『『……』』
「?」
扉越しに届いてくるのは、廊下に響く二人分の話し声だ。くぐもり内容は聞き取れないが声質とタイミングから真也と他の誰かと察しを付けた。他の誰かとは、この屋敷ならば女に決まっている。自尊心と嫉妬に挟まれた彼女は、その会話に介入するべきか扉のノブを握ったまま固まっていた。
(……)
◆◆◆
屋敷にある二階の廊下は、中程で一階へ繋がる吹き抜け構造のロビーと一体になっている。彼が立っているキャスターに気づいたのは、そのロビーに続く階段の手前だった。彼女はいつもの様にフードを目深に被っていたが、彼はその様子がおかしい事に気がついた。彼女は小さく身を下げ一礼とした。
「マスター。これからどちらへ?」
「えーと。あれ? 誰かに会いに行く途中だった様な」
「マスターは、美綴様が御見舞に来られてから、二人以上の縁者とお会いしていない筈です」
「ん~。そういえば二人同時ってのは最近ないな」
「これをお持ち下さい」
彼女が差し出したのはネックレスである。金属製の鎖には荒々しく削られた石がぶら下がっていた。それを受け取ろうとした彼の指は、途中で引っ込んだ。
「いや。要らない」
「これは、マスターに必要だと思われるものです。お受け取りください」
「せっかく作って貰って悪いんだけど、それはヤバイって気がする」
「根拠をお聞かせ頂けますでしょうか」
キャスターは、不安の中に更なる不安と不満を織り交ぜていた。彼は言う。
「自分の知覚外にそれの記憶がある」
「無意識と言う事でしょうか」
「日記を書こうとノートを開いたら、『それを受け取るな』とだけ書かれている様な感じ。因果的な根拠はないけど、自分の字で書かれてたら信用せざるを得ない。右手に残っている棒の感触みたいなもんだ」
「酷いマスターですこと。女の献身を無下にされては碌な死に方をしませんわ」
「キャスターはアレだな。従者の立場を取ったり女の人の立場を取ったりするな。ダブルスタンダードは良くない」
「もっとシンプルな話ですわ。マスター」
「してやられたって事ね」
「今後は、癇癪を受け止める程度の度量をお持ち下さい」
「メディアの癇癪ってシャレにならないな。動物に姿を変えられそうだ」
「いえ。ありふれたモノですわ」
「ありふれ?」
「刺されるなど如何でしょう」
「やめて」
「私の用件は済みましたのでこれで失礼させて頂きま、あの」
彼女が言い淀んだのは、背を向けた彼女の手を彼が掴んでいたからだった。彼女に向けられる瞳は、真摯的であったので彼女は戸惑った。
「俺は、キャスターがその術式結晶を作った動機が気になってる。俺は知るべき事か?」
「確証はありません」
「用心深いのは良い事だけど、石橋を叩いて壊すって皮肉を知ってるか」
「性分ですから」
「だから有り難いんだけどね」
「ではマスター。この石をお受け取り頂けないなら明日の午後十一時に御時間を頂けないでしょうか」
「水星の時間だな。キャスターに最も都合の良い時間なのは、そんなに大事なのか?」
「……」
「言うべきで無いなら言わなくて良い。でも判断が付かないならこう言う。言え」
彼女は叱咤される事を怯える娘の様だ、彼はそんな事を考えた。
「凛さまから話を伺い幽霊洋館の石の記憶を読みました。二度目の測定をさせて頂けないかと」
「洋館ってライダーと凛が調伏を行ったあの場所?」
「はい」
「測定って魂の測定?」
「はい。私に残された手段はそれのみです」
「妙だな。なんでそんなに不安そうな声をしてる」
「マスターへの影響が計り知れません」
彼は小さい息を吐いた。
「それでもやらないとならない状態って事か」
「予想ですが。今のマスターは、複数の人格を対面した人物に合わせて呼び出しています」
「相手に対して対応を変えるって普通の事だろ。そんなに問題か?」
「対応ではなく人格です。誰とも会っていない時、念話で私と話した時、ランサーの槍に対し思索していた時。この誰とも会っていない時のマスターであれば戦いをまず避けません。このマスターが仇なすモノと対峙した時、どの様な人格を呼び出すのか、またそれが基礎人格として定着してしまったら。私はそれを憂慮しています」
「成る程ね。綾子が見舞に来た一昨日から意識の飛んでる感じが多いって思ってたけど、それはそのせいだったか」
「愛憎は最も強烈な感情です。堪えきれず誰かを殺したいと思った時は、まず私をお狙い下さい。私は、私はしては成らぬミスを犯したかもしれません」
フードの中に隠れてる声は、深い沼に沈みかねない程に震えていた。
「この話を他に誰が知ってる?」
「おりません」
「なぜに」
「確証がありませんし、なにより有効な手立てがないからです。マスターを永劫幽閉するなど私には認められませんから」
「キャスターに無理なら他にできる人は居ないよな」
フードに隠れている表情を察した彼は、彼女の立場や性格や関係を踏まえた上で、慎重に言葉を選んだ。
「ヒントになるか分からないけど、他に言うタイミングが無いかもしれないから二つ伝える。俺は葵さんが好きなのに今でも苦手だ。これはなんでだろ」
「葵様が、ですか?」
「そう」
「もう一つを伺います」
「命令を微妙に変更する。君を凛に委譲するまでの間、」
「委譲は辞退されております」
「なら好都合だ。今後の行動を、凛のフォローから遠坂を前提とするようにしてくれ」
「その意味をご理解なさっていますか」
「してる。俺に刃を向けても良い」
「豪胆と評するべきでしょうが。こう申し上げますわ。貴方様は本当にろくでなしです」
キャスターは、廊下に連なる部屋の扉が小さく開いた事に気がついた。彼女が心中で失笑したのは、タイミングのあまりの酷さだ。露とも知らず彼は言う。
「キャスター以外頼めない。なんでかと言うと自分の好きな人に敵対して良いと言える程の器は俺にない」
「恩命承りました。もし、その時が来たならば刺し違えさせて頂きます」
真也は失笑したが、キャスターには苦笑に見えた。
「別に自害する必要は無いけど」
「マスターの命は絶対ですが契約が優先されます」
「契約?」
彼女は、身体に触れようとする男の手をあしらう貴夫人の様に戯けてこう言った。
「このメディアとの契約内容をお忘れ?」
「葛木先生を忘れろとは言わないけど自分の幸せを追っても良いぞ?」
「契約は絶対です。婚姻だろうと主従だろうと、それは変わりません」
「セイバーもそうだけれど昔の人は契約に対する意気込みが違うね」
「そもそも。主を優先せざるを得ないなら得た伴侶が気の毒です」
「キャスターのマスターに見合う様頑張るよ。後は宜しく」
「どちらへ?」
「取りあえず御飯。その後にもう一度凛に相談しないと」
「何を相談なさいます?」
「えーと。あれ?」
「ホワイトボードにメッセージを記しておきます」
「今聞いても意味が無いって事か」
「そこから先はマスターご自身でどうにかなさいませ」
「絶妙に厳しい。流石主婦。それじゃ」
「駆け引きも結構ですが程々になさるが宜しいでしょう」
彼女がそう言ったのは、正面の主を見送った後であり、背後にこの館の主が近づいた時である。
「これでは石橋を叩いて壊してしまいます」
「アンタには関係ないでしょ」
「もう命令が変わりましたので関係大アリです」
「新しい命令って何よ」
「それはお伝えできません」
「言っておくけれど。真也はあれでも人間の男の子なんだから、コルキスのメディアとでは釣り合わないわよ……その勝ち誇った様な口元は不愉快だから止めてくれる?」
「気遣われ、しでかした責は奪う様に背負われ、それでも必要だと言われるならば流石の私も揺らぎますわ。少なくとも今の私は、可愛げの無い未熟な魔女が相応しいのかと思う程に私情を挟んでいます」
「アンタは良いわよね。できる事が多くてさ」
「魔術指導の件はマスターより伺っています。その気がおありならば何時でも承ります」
「……時計塔から帰ってきてから頼むわ」
「私の指導は恐らく手荒くなりましょう……覚悟なさいな」
◆◆◆
彼が身を隠すコンクリートの門には、穂群原学園と刻まれた名札があった。ひょい。門の影から頭が一つ飛び出した。広がる運動場に部活動に励む生徒の姿は無く、ガランとしていた。校舎の高い所にある巨大な時計の短針は三と言う数字の辺りを指していた。校内には生徒と教師の姿がちらほらあった。
彼がここに居るのは、補講ではなくホワイトボードの予定表に学校と書かれていたからだった。学校に来る以上私服はありえないので、彼は制服を着ているのだ。
(キャスターが書いた以上、何か意味があると思うんだけど。もうちょっと具体的に書いてくれれば良いのに。曖昧なメッセージでいざ冒険! RPGみたいだな)
入るか入るまいか。彼が門で唸っているのは、学校を訪れる理由が彼自身定かではないからだ。何より教師に見つかれば事である。彼は、離れているので小さく見える弓道場を背景にする綾子に気がついた。学生鞄ではなく肩掛けのスポーツバックを持っていた。二人は目が合った。彼はいつも通りに「綾子は補講と関係ないよな。道場の掃除か? 言ってくれればリハビリがてら手伝ったのに」と軽い調子で声を掛けた。だが彼女はいつも通りではなかった。
真也を見た彼女は、昨夜の情事を思い出したかの様に頬を真っ赤に染めた。そして大事な誰かを裏切ってしまったかの様な悲痛な表情を作った。彼は戸惑うのみである。
「どした?」
「いや、ちょっと。夢見が悪くて」
「夢見? どんなん?」
「良い夢もあったんだけど悪い方が……」
彼女が自身の両腕を抱き締めたのは、身に刻まれた忌まわしくも抗えない甘美な衝動を押え込む為である。彼女の物言いは懺悔の様にか細くたどたどしかった。
「私、私は。何度も駄目だって言ったのよ。でも何時の間にかぼーっとして何が何だか分からなくなって強引でそのままライダーさんに……」
「ライダーに?」
「私はゴメンって真也に何度も謝ったのに。でもライダーさんは、『アヤコのココは私をヨロコんでいます』って許してくれなくて」
「マッサージでもされたか。どうでも良いけど定番過ぎてイタい台詞だね」
「そうしたら……そうしたら!」
「そうしたら?」
「真也のより気持いいって私は、思って、思っちゃったのよ……」
「綾子に肩もみした覚えは……二回か三回はあったっけか」
「済まない真也! もう顔を合わせられない!」
「全身オイルマッサージだったんだろ大げさな。お肌もつるつるで万々歳じゃないか」
聞く耳持たない彼女はうわーんと走って逃げた。閃く電球のイメージは、彼の直感である。彼が頬を掻いたのは、気まずさを誤魔化す為だ。
「すっとぼけてみたものの、……まさか、なぁ」
「私は普通の恋愛がしたかったのにーーっ!」
にーにーにーとその声は冬木の空に消えた。
「どうしてここに居るのよ」
彼がガランとした校舎の廊下で出くわしたのは凛である。威嚇は大げさだが、腕を組み鋭く睨み上げていた。彼ははたと気がついた。
(なんで俺は学校にいる? 意識が飛んでる?)
「なによ。そのなんで俺はここに居るんだーって顔は」
「……」
「ボサっとしてないで何か言ったら?」
「何でもない。それよりも機嫌が悪い理由を言ってくれないか。今朝からだろ」
「イヤ」
「体調的なモノなら言ってくれ」
「女の子の生理周期を知りたいなんて最低。と言うか変態」
「あのな。俺は真面目に言っている」
「だったら私にキスできる?」
「それは――」
「そう言うこと。私に近づかないならしばらく私に話し掛けないで」
彼は黙って見送るのみだ。
(そうできるモノなら俺だってそうしたいのに。相変わらず手強い……)
後ろから肩に手を置かれたのは、彼が諸々に気づく前だった。彼が洗濯をしていた時に帰ってきた鬼を見た様な顔をしたのは、振り返った彼の頬に刺さったのが大河の人差し指だったからである。
「三週間ぶりに蒼月君が登校するなんて、先生はとっても感激しています。動機は不純の様だけど」
「ごぶしゃたしておりまふ。ふじみゅらせんせい」
◆◆◆
そこはありふれた生徒指導室である。少々手狭なワンルームマンションの一室程の広さで、複数の書類棚と一つの長机と複数のパイプ椅子が置かれていた。椅子に腰かけ向い合うのはもちろん大河と真也である。頬杖を突く大河は余った指で机の表面をトントンと突いていた。
「噂は事実だったかー。それで君はどうしたいのかな」
「わかりません」
「ハッキリするのは良い事だけれど。何時までも分かりませんじゃ困っちゃうんだからね」
「十年振りに再会できた母娘を引き離したくはない。ところがその娘と俺は義兄妹で、はいどうぞと言うほど浅い繋がりでもない。その娘は、俺の実母である養母を慕ってる。でも、その娘の実の母と姉は俺にとって少なくとも今は他人。社会的体裁を考えるなら最も適した落し所は二人のきょうだいに成ることです」
「君はそれを受け入れられる? 初恋の女の子がきょうだいって辛いとは思うけど。どんなに好きでも触れちゃ駄目なのよ」
「でしょうね。ですから踏ん切りが付きませんって……何故初恋とかそんな恥ずかしい事を言いますか」
「あのね。桜ちゃん一辺倒だった君が他の女の子に悩むなんて他にありえないでしょ」
「藤村先生が未だ独り身って少し信じられないです」
「生意気言わないの」
窓から見える運動場には誰も居なかった。空調も掛かっていないのでその部屋は非常に静かだった。
「生徒に言う話じゃないのだけれど、君は桜ちゃんの保護者でもあるから言うわね。千歳さんが居ないなら葵さんだったかな。遠からず二人に来て貰う事になるから」
「先生の言いたい事は分かりますよ」
「んー。何が分かるのかな? 十七歳の男の子が」
「そっちの問題は簡単です。ほんの三週間前まで同じ学校の生徒同士でしかなかった男子生徒と女生徒が一つ屋根の下。藤村先生でも見過ごせないでしょう。ですから、」
「簡単に決めるんじゃないの」
「他に方法がありません。日本の学歴システムでは高校中退と高校留年に大差ありませんし、俺は問題児ですから俺が適任です」
「そこまで考えていた事は褒めてあげます。でもね。仮にその方法しか無かったとしても一人で決めたらダメ。君の家には相談できる家族が居るんだからね」
彼の見る大河が教師よりは年長に見えたのは、彼が驚いたからだった。
「やーっぱり自覚してなかったか。この男の子は」
「してますよ。ただ忘れてただけです」
「それは同じなんだなー」
「先生。俺とケッコンしてください」
プスとは眼鏡の隙間を通り抜けた大河の二本指が、彼の両目を突いた音である。手で目を庇う彼は「目が! 目がぁ!」生徒指導室のあちらこちらを手探りで彷徨った。
「大人をからかうとねー。そう言うことになっちゃうんだからねー」
「……教師が生徒に目潰しなんて、なんて事しますかい」
「ほら。そろそろ補講も終わる時間だから遠坂さんと一緒に帰りなさい」
「いえ。一人で帰ります」
「ひょーっとして気まずいとか思ってるのかな。この男の子は」
「よく分からないんですけど朝から機嫌が悪くて。今朝も相談をと思ったら避けられた位です。なんです。そのニヤニヤは」
「直接話せないなら手紙を書きなさい」
「手紙……」
「王道よねー。いやー。甘酸っぱいわー。あはは。困った困った」
閃く電球のイメージは、彼に直感が起こった証である。彼は美人英語教師に抱き付いた。
「先生愛してる!」
「うひゃぁぁぁっ!」
大河がひっくり返っている生徒指導室を走って後にした。
◆◆◆
彼の居る部屋は、学校の設備の一つで比較的広い二つの部屋で構成されていた。
片方の部屋は防音壁が使われており、誰かが向い合ってなお、台本などが置ける大きいテーブルが置いてあった。他にもカラオケルームなどにも設置されている声を電気信号に変換する機材が置いてあった。もう片方の部屋には、複数の音を一つの音に纏めるノブが沢山付いた音響機材や映像を映す画面があった。
防音室側の机に向かう彼が見るのは、二部屋を仕切る窓越しの浅岡〈Aさん〉だ。二人は、声を電気信号に変換する機材と電気信号を声に変換する機材越しに、会話をし始めた。
『浅岡が委員会で学校に居てくれて良かった』
『流石のインフルエンザも相手が悪かったようやな。真也の馬鹿さ加減が悪化しとる』
『止めるか?』
『一つだけ確認したい。その娘で良いんやな?』
『良い』
『なら良いわ。好きにやり』
『実を言うと協力されないと思ってた』
『馴染みを不幸にさせたくないだけやで』
『あ、そう』
『それにこういう馬鹿は一人位おらんと学生生活も面白ない。平日でないのが残念やけどな』
インカムを付ける浅岡は機材を操作した。そして準備が済んだと彼に合図した。彼が大きく息を吸ったのは、暴れる鼓動と僅かに震える手を抑える為である。それを見た浅岡は遠い目だ。
(あの馬鹿が緊張するとはな。長生きするもんや)
(ふ。ミスパーフェクトよ。俺をその辺の悟り系男子だと思っては困る。強引に振り向かせるのも甲斐性ってね)
彼は。デスクスタンドに固定されている、声を電気信号に変換する棒状の音響機材に向けて、大きく息を吸ったのである。