亜人間恋愛物語 作:d1199
補講とは補充の為に行う授業である。その対象は、テストの点数が低いなど勉学が一定の水準に達していない生徒または何らかの理由で出席日数が足りない生徒だ。凛の場合は後者だった。もともと成績の良かった彼女にとって二週間少々の遅れは大した事が無かったのである。それ故に。彼女が受ける補講は、教壇で船を漕ぐ教師に付き合う形式的なモノになった。
その教室に一人。彼女は、机の上に広げた英語のテキストを放ったらかしにして、もうじき赤くなるであろう空をぼんやり見ていた。
その教室の白い壁には、何年か前の生徒が刻んだ相合傘があったが、ハートマークは読み取る事が出来ない程に掠れていた。
補講は珍しいモノではなく進学校ほど行われる。学期末毎に補講を行っている穂群原だったが、三週間前より冬木市全域で起こり始めた集団困睡・集団失踪・破壊現象などの様々な事件により自発的に休んでいた生徒が多く、今期の補講は規模が大きかった。
凛の居る教室の前の廊下が騒がしいのはその為だ。廊下のとある一人の男子生徒がこう言った。
「これから遊びに行こーぜー」
「えー。もうすぐ陽が落ちるから止めておかない? まだ危険だよ」
「ちょっと位なら大丈夫だって。事件も一週間前から起こってないし」
「一昨日新都で通り魔が出たらしい。妊婦さんが被害に遭ったとか」
「危なくなったら守ってね」
「君は俺が守る」
「脈絡もなく二人の世界を作るな」
「たいちょー。全会一致で駅前カラオケツアーに参加します。別名。二人きりにさせてなるものか作戦」
「「異議なーし」」
「ちょ。お前ら少しぐらい気をつかえ」
「馬鹿な事言っていないで寄り道せずに真っ直ぐ帰りなさい!」
「「タイガーでたー!」」
「タイガーって言うなぁぁぁ!」
「「きゃーーーーっ」」
逃げる生徒の集団と追い掛ける一人の教師が走って消えた。教壇上のパイプ椅子に腰かけ居眠りする風采の冴えない中年男性教師は、パチリと目を覚ますと、思い立った様に腰を浮かせた。
「今日はここまで。遠坂も帰れよ」
「はい」
教師が消えた教室の出入り口に立っていたのは士郎である。
「衛宮君? どうしたのよ」
「俺らはもう帰るけど、一緒に帰るか?」
「あら。勇気を振り絞ったじゃない」
「そんなんじゃない。一人だと危ないって意味だ」
士郎の傍らに居る男子生徒は、壁に隠れたまま姿を見せなかったが、凛に聞える様には言った。
「人の善意をからかう魔女など放っておけ」
「そう言う訳にもいかないだろ」
「柳洞君の言う通りよ。そもそも私に大丈夫かって聞くのは失礼なんだから」
士郎は、幾つかの判断の後にこう言った。
「桜はタイムセールがって慌てて帰った」
「知ってるわ。ライダーと落合う手筈になってるから心配は無用よ」
「なら先に帰る。待たせた一成」
「構わん。が。時に衛宮。最近お前の家に関する良からぬ噂を耳にしたのだが……」
「良からぬってなんだ」
静かになった教室で、彼女が付くのはため息である。
「衛宮君は本当に素直よね。誰かさんとは大違いだわ」
彼女は、学生鞄を机の上に置いた。開いた学生鞄にテキストやノートを詰めた。留め具が閉じられなかったのは、吐かれたため息が、彼女の手を鉛の様に重くしたからだった。
「あの時みたいに強引にしなさいよ。ちょっと拒絶しただけで退いちゃってさ。そうすればちょっと位、」
《キャスター以外頼めない。なんでかというと、自分の好きな人に敵対して良いと言える程の器は俺に無い》
(好きな人って誰よ)
ガリと言うノイズ音を出したのは、凛が一人で居る教室に設置された校内放送用のスピーカーである。
◆◆◆
それが口を利いたのは、何事かと彼女が注視した時だった。
『初めて出会ったのは夜の新都だった』
「くぐもって聞きにくいけど、これ……男子生徒?」
『それ以前から知っていたし、すれ違う程度には会っていたけれど』
「あら。いやだ。告白だわ。誰よこんな恥ずかしい事する奴。あはは。こんなイベントに遭遇するなんて、補講も来てみるものだわ♪」
『一人の人間として認識したのはこの時が初めてだった』
「何処の馬鹿なのかしらね。お相手の娘も可哀相に♪ いや男の子でも良いけどさ♪」
『いや。一人の女の子だな』
「一人の女の子だな……ってあはは。聞いてるだけで悶絶しかねないわぁ♪」
『それ以前は、ミスパーフェクトとだけ見ていたから』
「はぁっ!? どこの誰よ! こんな迷惑な事する奴! 二度とこんな馬鹿げた真似ができない様に再起不能なまでに罵って……こんな馬鹿な事する……こんな馬鹿……嘘でしょ……」
『その時の衝撃は今でも克明に思い返せるよ』
「この抑揚。この嫌みったらしいまでの言い回し」
『あの時の君が、なんて僕に言ったか覚えているかい?』
「確定。この白々しいまでの歯の浮く様な台詞。確定だわ……あ、あは。あははは」
プチとは、彼女の自制心が切れた音である。凛は、鞄の存在を忘れ被る猫の皮も忘れ教室を飛び出した。
「何を考えてるのよ! あの馬鹿は!」
教室を出た彼女が最初に向かったのは、下のフロアに続く階段である。
『《夜遊びをなさるなんていけない方。わたくしはそうご忠告しましたのに》って言ったんだ』
「言ってない! 私はそんな風になんて言ってない! 《夜遊びはいけないのよ。そう言わなかった?》こう言ったに決まってるから!」
彼女の右足と左足は、交互に一段ずつ階段を降りていった。
『僕が、その時の君の服・立ち振る舞い・表情までつぶさに思い出せるのは、これが取り繕いの無い君からの言葉だったからと思うんだ』
「新手の呪いかこれは!? この私を呪おうなんて百年早いわよ!」
階段を降りる彼女の右足と左足は、一段飛ばし始めた。彼女の表情は、苦い梅干を食べた様になっていた。
『だってそうだろう? 陽が落ちた新都の公園で一緒にベンチに腰かけて、からあげ君を食べ合ったなんて今でも夢じゃないかって思う』
「止めろって言ってるでしょ! 止めなさいよ!」
彼女の足は、とうとう三段飛ばしになった。渋い顔の目尻は、これ以上ない程に釣り上っていたが、珠の様な涙が浮いていた。
◆◆◆
「ふんっ!」
階段を五ステップほど端折った凛は、階段から放送室に続く廊下に着地した。ギッ! ギギギッ! ドリフト走行するアイススケーターの様な姿勢で、或いは、足が廊下の床を蹴る方向と身体の向く方向が異なる姿勢で、T字路という曲り角をクリアした。上履の靴底が大きく摩耗したのでグリップ力に注意しなくてはならなくなった。
『僕は、君の家を三回訪れた』
「まだあるの!?」
その廊下にあるのは、燻ぶった色のスチールラックや連なる窓、緑色フェルトの掲示板に消火器、そして『廊下を走るな』という貼り紙だ。凛はこれらの間をズドドと疾走した。その先には複数の人影が集まる扉があった。その扉のネームプレートには放送室と刻まれていた。
『最初は、私用ではなくて家同士の用事だった』
(やばっ。先生たちがもう集まっちゃってる……)
「コラ! 出てこんか!」
「ここを開けなさい!」
「いやはや。こんな昭和めいたイベントを起こす生徒がまだいたとは。誰でしょうかな」
「なに感心してるんですか。校長先生」
「これはなんでしょうか。扉の隙間に紙が挟まっています」
『君の家に驚いて君のお母さんに驚いて、こういう雰囲気の家の女の子なんだと驚いた。第一印象なんてアテにならないって僕は反省するのみだ』
「大変お忙しい所、この様な騒動を起こしてしまい誠に申し訳ありません」
教師たちは、ツカツカと淑やかに歩み寄る生徒に気がついた。教師の一人である大河がこう言った。
「遠坂さんの知り合い?」
「確証はありませんが、私に好意を持ってくれた生徒の一人ではないかと」
「遠坂。この騒ぎをどう収集付けるつもりだ」
「先生。それを彼女に求めるのは酷でしょう。彼女の及び知らない事なのですから」
「まったく。華過ぎると言うのも考え物ですな」
彼女は、(一人・二人・三人……全部で五人。いける)ステージ上を流れるスポットライトの様な滑らかさで、全員に暗示を掛けた。夢と現の狭間に陥った教師たちは、ふらふらと職員室に戻っていった。
「先生たち全員を抑えたのは幸運だわ」
『あの時の俺はおかしくて何も思わなかったけれど、いま思い出すと心臓が破裂しそうな程にドキドキする! だってそうだろう! 君のお母さんと談笑していたら、君が血相変えてリビングに飛び込んでくるんだから!』
その扉を仁王立ちで睨み付ける凛は、放送室の扉にボコン! と蹴りを入れた。
「開けなさい!」
扉は沈黙していたので、ボコンボコンと蹴りを何度も入れた。
「開けろって言ってるでしょ! アンタね! こんな事して許されると思ってる!? 私はぜーったい許さないから!」
『その時の君は、そうだ。《その男は私が連れてきました。勝手にされると困ります》って』
「確かにそう言ったけど!」
『君は、君のお母さんと僕が仲良くしているのが不安だったんだね』
「そうよ! 不安だったわよ! でもその時は母さんが心配だった訳で! それ以前に妙な言い方するな! と言うか! その歯の浮く様な口調を止めろってのよ!」
彼女の蹴りは、込み上げる羞恥と憤りのあまり、扉に足跡を付けていた。衝撃で、扉と枠の間に挟まっていたわら半紙が、ふわりと廊下に落ちた。それにはこう書かれていた。
『勝負をしようではないかミスパーフェク。この放送が終わるまでに、この校舎の何処かに居る俺を捕まえる事が出来たなら君の勝ちだ。何故ならば。予備を含めて放送室の鍵の在り処を知っているのは俺だけであり、テープの最後には重大なメッセージが記録されているからだ。ていうか実名言っちゃう。もちろん人並〈身体能力強化の魔術は使わない〉というハンデは付けよう。あ、そうそう。
この放送は録音テープで無限再生〈リバース〉設定だ。鍵は掛けてあるぞー。扉を破壊したら怒られるぞー。もちろん放送設備は機械だぞー。放送設備を壊したらもっと怒られるぞー。止められるモノなら止めてみろー。再見〈サイツェン!〉』
「し、ん、やーーーっ!」
◆◆◆
『二回目も家の用事だった』
長い髪をなびかせながらズダタと走る凛は考えた。
どこだ。どこに居る。あの男の性格を考えろ。人を怒らせるのが得意なあの男がどこに隠れるか考えろ。一般教室? ありえない。かと言って完全には隠れまい。微妙なラインで見つけられ、かつ怒らせる場所に決まっている。
足を止めた彼女が覗き込んだ場所は、他の場所より薄暗く湿度が高かった。タイルの壁や床には、薬剤の混じった水が付着していた。薬剤の臭いには鼻に付くアンモニアの臭いが混じっていた。そこには、立ち姿勢のまま用を足す事が出来る衛生陶器が複数置かれていた。
その部屋の一歩外側に立つ凛は、追い詰めた獲物を見るかの様な表情をしていた。
「障りやすい場所に隠れるなんて、あまりにもそれらしくって笑っちゃうわ」
その部屋に立つ彼は、自分自身への手紙であるメモをポケットにしまった。
「よー。随分と早かったな。男子トイレは複数あるけれど、どして?」
凛は、彼の手の甲に書かれている文字に気がついたが気にしない事にした。
「今日は土曜日で、掃除されるトイレは職員室近くの場所だけ。僅かでも清潔な所をと妙な気を回した。他に理由は要る?」
「うん。凛は探偵になれるな」
『ただ一回目と違うのは、君が夕食に呼んでくれた事だ』
彼女は、その部屋に一歩足を踏み入れた。心の奥底で(私、汚れちゃった)そんな事も考えた。怒らせた肩を振りながら、ズカズカとその部屋の最奥に居る彼に歩み寄った。
「観念して鍵を渡しなさい!」
「さーすがとっつあんだぜー」
「誰がおじさんよ!」
「そっか。知らないんだー。やっば。りんちゃんがお嬢様に見えた」
「そうやって馬鹿にするなら、」
「褒めたんだよ。俺」
「普通に褒めろってのよ! 真面目に! 素直に! 率直に!」
「だって。普通に褒めたらからかうだろ」
『もう陽が沈んでいたと言うのに、君と君のお母さんと一緒に食事をした事は衝撃的だった。僕が人見知りをするという訳ではなく、夕食に呼ばれるって映画の中の世界だけだって思ってたから』
「とにかくこれを止めなさい!」
「捕まったらな」
「逃げ場は無いわよ!」
凛は掴み手を伸ばした。真也はニカリと笑うと、窓の外へ身を投げた。そこは校舎の構造上、地面まで二階以上の高さがあった。
「魔術は使わないって!」
窓から顔を出した凛が見たモノは、屋上に降り注いだ雨水を地に流すパイプや耐震補強建築材を手掛り足掛りに、校舎の外壁を移動する真也の姿だった。
「魔術は使ってないぞー」
彼は、事前に開けておいた教室の窓の中へ消えていった。
「こ、このぉ!」
窓枠に膝を掛け、乗り出した凛であったが穂群原の制服はスカートだった事を思い出した。悔しさを隠さない彼女は、身を翻すと、男子トイレを飛び出した。
◆◆◆
『ここでまず謝りたいんだ。あの時の僕が冬木市を離れろという君の助言を軽視したのは、君の事をよく知らなかったからなんだ』
「そうでしょうね! あの時に桜の実の姉だーって言ってたら、少なくともその場のアンタは素直に従ってたでしょうね! あーもう! その時の私に伝えて、こき使ってやりたい!」
校舎を疾走する彼女が狙うのは、真也が逃げ込んだ教室もしくは教室前の廊下だ。
息を切らし口をへの字に結ぶ彼女が見たその場所は、無人だった。廊下に人影は無く、教室の中も同様で、白いカーテンと大きな窓と大きな段ボールとズラリと並ぶ生徒たちの簡素な机が在るのみだ。
『そして三回目。この時僕は色々な君を知ったんだ』
(読み間違えた? 待て待て。何か見落している筈だ。よく考えろ。遠坂凛。あの馬鹿は私の死角に潜んでいる)
ガサリ・ガサリ。ガサ・ガサリ。音がしたので彼女は教室を見渡した。誰も居なかった。ガサリ・ガサリ。ガサ・ガサリ。また音がしたので彼女は、教室を見渡した。だが誰も居なかった。ガサリ・ガサリ。ガサ・ガサリ。黒い親猫小猫マークで有名な、大きい段ボールが、教室の後ろを扉に向けて移動していた。凛の声は掠れていた。
「……何の真似よ。それ」
「有名なゲームの有名なテクニック」
「ゲームは駄目だって言ったわよね。私」
「一日一時間だろ」
「今日から全面禁止よ!」
彼女は飛び掛った。彼はがばりと立ち上がった。
「パス!」
「ふぇっ?!」
凛は投げ付けられた段ボールを受け取ってしまったので、彼は走って逃げる事ができた。
「待ちなさい!」
『朝が弱い事。夜遅くまで起きてる事。取っ付きにくく見えて実は面倒見が良い事』
「私のプライベートをペラペラと!」
「ちゃんと配慮してるー。おでこコツんことか。黒ストとか収録してないからー」
「私の人生の恥部を誰かに漏らしたら殺す! それを知ってる真也も殺す!」
彼は階段を一段飛ばしで駆け上がった。彼女も一段飛ばしで追い掛けた。なので彼は二段飛ばしで駆け上った。彼女も二段飛ばしになった。
「真也! こっそり魔術使ってるでしょ!」
「使ってないー」
「嘘つきなさいよ! 息一つ切れてないじゃない!」
「これでも十年修行してるからまだ持つー。と言うか、その華奢な身体で、」
ピタリと足を止めた彼は、踊り場で彼を見上げる彼女にこう言った。
「そのスタミナが信じられない」
「舐めるなっつーのよ!」
二人は追跡劇を再開した。疾走状態の彼は、手摺りをレール代わりに階段の踊り場を速度を落とさずに曲がりきった。衝突した壁で勢いを殺した彼女は、ワンテンポおいて彼を追い掛けた。
『あの時の君は、俺の構造に薄々気づいてたんだな。俺はどんな時も余裕だった。違うか。どんな状況も深刻に考えた事の無い俺を、君と言う存在を深刻なまでに感じ取ってい俺を、君は案じてくれた。妹が心配だと言った俺に、君はお守りすら渡してくれた。料理を作ってくれた事もそうだ。朝に目脂を取ってくれた事も』
「なんで事細かに覚えてるのよ!」
「繊細な男の子だから―」
『ハンバーグを食べ損なった事は今でも、いや。今だからこそ悔んでる』
二人はドタドタと階段を上り続けた。凛の伸ばした手は、彼の腰を掠めただけだた。
「セイバー呼び出した後の夜みたいに《それで気づいたんだけど、凛が他の男といるのは気分が悪い。俺、凛の事が好きだ》って面と向かって言えば良いじゃない! この期に及んで何ヘタレてる訳?!」
「今朝、誘ったのに素っ気なかったどこの誰だー」
「嘘ばっかり! ランサー絡みって事は分かってるんだから!」
「もう一度告ったらOKする?」
「盛大に振ってあげる!」
「はっきり言われるとザックリくるー」
逃げる真也が開けた扉は、フロアという意味では最後の扉だ。そこは、校舎という施設において最も見晴らしが良い場所だった。周囲をグルリと囲むフェンス越しに、住宅街はもちろん新都まで見る事ができた。少々の花壇やベンチが置いてあり、憩う事ができた。見上げる空はどこまでも広がっており、掴み手を差し伸ばす気にもなれなかった。暖かくなり切れていない三月の風で、びゅうびゅうと吹き曝しになっていた。
「むぅ」
そこが校舎の屋上ならば、彼が困惑するのは当然だ。何故ならば、屋上にある出入り口は一カ所のみだと相場が決まっている。出入り口の間で立ち塞がる彼女は、ビシリと指を差した。
「観念して、この恥ずかしいテープを止めなさい!」
学校に流れる告白は、強い風の影響で聞き取れない程に歪んでいた。
「今すぐ止めれば、一週間五感を麻痺させるだけで許してあげる」
「怖い事をサラリと言うね。この娘は」
「でもその前に、痛い目に遭って貰うから。これだけの事をしでかしたんだから当然よね」
「ビンタ?」
「肘撃。そうね、肘撃か靠撃か位は選ばせてあげる」
「暴力系ヒロインはもう廃れたらしい」
「訳の分からない事言わないで貰える?」
肩を怒らせ口はへの字に結ぶ。憤りを隠さない彼女は、ズンズンと彼を追い込んだ。彼は袋の鼠だ。魔術を使わないと言った以上打つ手はない。だがこの窮地において尚、腕を組む真也はどうしたものかと考えていたのである。鳴るのは、凛の危機察知能力だ。
(まだ策がある? いや。この距離なら逃がさない。震脚を利用した重心移動で、十メートルは吹き飛ばす)
それが起こったのは、凛が震脚を行使する間合いの一歩外の事だった。彼女の目の前に、カエルがあったのだった。彼女は意にも介さず右手で払い退けた。彼は、心の底からショックを受けた。
「うわー。なんというヒロインらしからぬ事をするのかね。カエルに驚かない事とか。小動物に容赦ないとか。二重にショックだ」
「曲り形にも聖杯戦争を潜り抜けた魔術師 蒼月真也がこんな小細工に頼るなんて、情けなくて私涙が出そう」
「ならこれはどうだ!」
しつこい。彼女がそう言いきれなかったのは、目の前に子ウサギが居たからである。彼女は、とっさに抱きかかえてしまった。
「何を考えて――」
キィ。それは出入り口の扉が開く音だった。彼が笑ったのは、可愛いモノに反応した凛が喜ばしかったからである。
「あはは。甘いぞ。ミスパーフェク!」
パタンと扉が閉まった。彼女の腕の中でヒクヒクと鼻先をヒク付かせる子ウサギには、飼育部の首輪が付いていた。
「……」
彼女の黒い髪は、強い風を受けて、荒れ狂う様に、踊っていた。
◆◆◆
ある特定の授業で用いる教室の前の廊下を、カツコツと音を立てて歩く人影があった。教室の内側から見るその人影は、すりガラス越しだったので、明確な姿は分からなかった。だが人影の天辺に、二つのリボンがある事だけは分かった。それはカツコツとその教室を通り過ぎた。
その教室の中で、人影が動いた事と盛大な音と共に扉が開いた事は、同時だった。その人影に向けて、凛は一歩足を踏み込んだ。その人影は、内蔵と皮膚がひっくり返ってしまった様な悪夢的な姿をしていた。そしてそれは彼女に襲い掛かった。
凛の左腕に刻まれた魔術刻印が唸りを上げた。魔力が力を持った証である黒いわだかまりがそれを砕いた。ガランコロンと直前まで人体模型だった人形の破片が理科実験室の床に散らばった。
「……」
真也が、人形の操り道具である糸を括り付けたモップを放り投げたのは、
「何処に行っていたの。沢山探したんだから」
凛が、うふふと青ざめた顔で笑っていたからであり、瞳の灯火も危険領域だったからだ。
(うわ。この雰囲気、激おこスティアック ファイナリアリティ ぷんぷんドリーム状態の桜に似てる)
『僕は、君を傷付けたくないと言う理由で別れを告げてしまった。君を傷付けてしまった事を、僕はどうして良いのか分からない』
「ほら! ごめんなさいって言ってみなさい! 聞くだけは聞いてあげるから!」
彼女が掲げた左手は、彼にとって紛れもなく重機関銃である。
「ガンド! ガンドガンド!」
「きゃーーーーっ!」
真也が理科教室を飛び出した時、その扉の窓硝子が粉々に砕けて散った。律儀に約束を守っていた彼は、硝子の破片を浴びながらも、手足を縺れさせる様に逃げ出した。
『君が怒るのは当然だ。ごめんと言って済みはしないが、他に方法が思い付かない。本当に済まなかった』
「もう遅いっつーのよ!」
二階を走る彼は消火器に躓いた。それは転がり、廊下に置かれていたブリキバケツを転がした。消火器もバケツも転がり続け、何処かへ行った。
「ガンド使うなんてどうかしてる! ここは学校だぞ!」
二階の廊下を走る凛は、ガンドを撃ちながら彼を追い掛けていた。
「そう思うなら、素直に殺されなさいよ!」
彼は、偶々入った教室の机などを押し倒しながら逃げ回った。彼の頭を掠めたガンドは、その教室と屋外を隔てる窓硝子を粉々にした。
「学校にまだ人が居る事を忘れたか?!」
「私がただ追い掛けるだけと思った?!」
ピタリと足を止めた彼は、自家用自動車二台分離れた彼女にこう言った。
「他にも魔術を使ったのか」
『だけれど! 本気で怒った顔を見て迂闊にも得したって思った。だってバカシロが見る事ができないんだから』
指を天にぴっと差した彼女は笑っていた。
「誘眠の魔術って初歩の初歩なのよ」
「知ってる。俺は使えないけど」
「同じガンドでも私のがフィンの一撃になる様に、術者によって威力は当然変わる。つまり私が使えば強力な物になる。強力とは、掛かりにくい人に掛かると言う意味であり、範囲が広がると言う意味でもある」
「……校舎中に眠りの結界を張った? こんな広域を?」
「もちろん複数の結界を作った。これを聞いたアンタは、術の基点となる術者無しの結界は、長時間維持できないって思うわよね?」
「……鉱石魔術?」
「手持ちのセラフィナイト十個を全て使ったわ」
「幾ら?」
「締めて三五〇〇円」
「単価は三五〇円か。意外と安いんだな」
「技術料込みで三五万」
「何と言う暴利」
「きっちり払って貰うから! ガンドガンドガンド!」
「消費者庁に訴えてやる!」
「何の面下げて役所に行くのよ!」
「皮肉に決まってる!」
◆◆◆
階段を駆け上がり駆け下がり。右へ左へ。跳躍したりサイドステップしたり。背後から飛んでくるガンドに脅威を感じながらも彼は考えた。
放送室の鍵は、別の鍵保管箱に移動させただけだ。在るべき所に無く、放送室が占拠されている様に思えば、鍵を持ち出されたと普通は考える。心理の死角を突いたのみなので、直に気づかれるだろう。無限再生と言うのもフェイクで再生は一回こっきりだ。最後まで再生されなくとも問題は無い。
やりすぎただろうか。そんな筈は無い。やりすぎたと感じるのは凛が魔術を使い始めたからだ。そう。魔術さえなければこんな致死性は無かった筈なのだ。おのれ魔術。
それにしてもどうしてこうなった。交際をもう一度など厚かましい事は考えていない。ただ相談をしたかっただけだ。何処で間違えた。綾子なら桜なら、どうなっただろうか。いや。どうなったかを考える以前にこんなまどろっこしい事をそもそもしまい。この状況は、相手が凛だからこそ起こった。
両手足を最大限に振る彼は、自嘲するのみである。
(あはは。俺は、女の子の距離が分からず戸惑ってるのか。なんだか、普通っぽい)
ガンドが彼の頭を掠めた。
「ちょこまかと動くんじゃないわよ!」
「無茶言うし!」
ガキン! 耳障りな音と彼の左腕に痛みが走ったのは同時だった。学ランの左袖が破れアザができていた。
(いってーーっ!)
彼自身が持つ対魔力は、彼自身の手によって最低Lvにまで落とされているが、それでも並の術師に突破される代物ではないのだ。凛の力量を思い出した彼は、青ざめるのみである。
(ヤバイ。直撃受けたら怪我で済まないかも)
「観念しなさい!」
「ちょ、タンマ!」
「ガンッドォッ!」
彼が、とっさに跳躍した先は下りの階段だった。
「きゃーーーー」
ゴロンゴロン。ゴロゴロゴロン。彼は階段を転がり落ちた。
『あの時の俺は、最低最悪で何をやっても駄目だった。でも今ならこう思う。君と出会ったから運を使い果したんだろうなって』
タン。トン。タントンタン。軽やかなステップで凛が降り立った廊下には、士郎が立っていた。
「衛宮君。ウチの馬鹿知らない?」
ふわりと舞い上ったスカートの影にある脚に見惚れつつも。彼は面白くない冗談を聞かされた様な顔で、階段の下を指さした。
「そっちか!」
タンタンタン。凛の足音が消えた。
「出てきて良いぞ」
壁の影であり士郎の影でもある場所から出てきたのは、真也であった。ムッスリと彼はこう言った。
「どうして士郎がここに居る。帰った筈だろ」
「何となく気になったから戻ってきた」
「トラブルトレーサーは相変わらずか」
士郎の表情は、店先のトマトを買いもしない客に摘まれる八百屋の様であった。なので真也は渋々の体でもこう言った。
「……タスケテイタダキ、アリガトウゴザイマシタ」
「できる所は片付けといてやる。早く遠坂を宥めろ」
ガタガタ。乱れた机を調える士郎が付いたのは、ため息である。
(セイバーは年上的であんな風に怒らない。じゃれ合う感じには少し憧れる)
逃げ切れるとラストスパートを掛けた真也が足を止めたのは、開く筈の非常階段が溶接されていたからだった。
「なして?」
「あれ以来学校を休んでるなら知らなくて当然だけれど、第一回キャスター戦の時にアンタが大暴れしたせいで閉鎖されたのよ」
彼の背後に立つ凛は、髪の乱れを気にしていなかった。息の乱れも気にしていなかった。汗は止め処も無く流れ、汗で透ける肩紐も気にしていなかった。彼女は、体裁を気にしていなかった。彼に向けられる彼女の魔術刻印は唸りを上げていたが、役得だと彼は思った。
「ようやく分かったわ。アンタが馬鹿だったって。馬鹿なら馬鹿って言いなさいよ! 諦めてあげるから!」
「諦めたら、無罪放免になる?」
「今度という今度は許さないから」
『……聞いてくれ。俺には。君の黒くて長くてウェーブ掛かった髪が、釣り上った目の中にある浅葱色の瞳が、弾ける様な颯爽とした身の熟しが、遠坂凛という全てが焼き付いて消える事は無い。だからこう言う事を許して欲しい。俺、蒼月真也は――』
◆◆◆
耳が痛くなる程の静けさは、彼にとって永遠の様に思われた。彼女は静かに左腕を降ろした。腕を組み彼を睨み上げた。
「この後は?」
「テープはここで終了」
「なんていう積もりだった訳?」
「君をずっと見ていたい。ずっと君の傍に居たい。それだけで良い」
「好きとか愛してるとかは?」
「入れてない」
「聞いてあげるから言いなさいよ」
「その後フる?」
「聞いてから考える」
「言いたいんだけど、片付けないとならない問題がある。その後にさせてくれ」
「それより大事な事って何よ」
「それを解決しないと、俺は進めない」
「だったら家で聞くわ」
「なんだその、見透かした様な言い方は」
「家に帰ったら、この意味を教える」
「なら先に帰ってる」
「馬鹿ね。片付けが先でしょ」
彼が思い浮べたのは、掻き回された机や割れた窓硝子だ。
「キャスターに頼む」
凛が握ったのは、念話の術式が刻まれた彼の左手である。
「私たちでやるのよ。窓ガラスは私が直すから、散らかしたモノはアンタが片付けなさい。簡単に頼まないで」
「硝子以外を直すのは非常に手間だろ」
「窓硝子以外は狙ってないから」
「……怒ってたのは演技だったのか?」
「半分は怒ってたわよ。もう半分は違うけれど。でも。もう一度本気で怒らせた時は覚悟しなさい」
「凛が怖いって今初めて思った」
「あの二人と違って私は、心地良いだけの存在になるつもりは無いわ」
「この感じは脱力ではなく脱帽って言うんだろうな」
「片付けたら一緒に帰りましょ。同じ家なんだから」
「……分かってる」