亜人間恋愛物語 作:d1199
リビングのソファーに隣り合って腰かけるのは葵と桜だった。横座りの桜が身を乗り出しているのは葵の膝にあるアルバムを覗き込んでいるからだが、それに葵と凛の写真が乗っているのは葵が十年の間隙を埋めようとしているからだ。ぺらり。そこには顎鬚を生やした三〇前後の男性が写っていた。桜が身を固めたので、葵はアルバムを慌てて閉じた。
「今日はこの辺にしましょうか」
「……どうやって知り合ったの?」
「時臣さんに見初められたのよ」
葵が桜の口調が砕けている事に安堵した事と扉がノックされた事は同時だった。葵はどうぞと言った。一礼したキャスターの目的は葵だった。
「葵さまにお電話です」
「珍しいわ。どちらさま?」
「禅城の方だとか」
「……禅城?」
「ご都合が悪ければお断りしますが」
キャスターがそう言ったのは、葵に不安を見たからだった。
「はい。はい。しかしまだ考えていなくて……はい」
「問題でしたら私が対処しますが」
キャスターが申し出たのは、受話器を置いた葵が深刻さを隠さなかったからである。
「いえ。そう言う問題ではなくて。これは困ったわ」
「とにかく電話内容をお教え下さい」
◆
時計は午後九時を指していた。葵に呼び出された凛はリビングに赴いた。一体何事かと困惑する凛を待っていたのは、唯一の男子を除くキャスター・ライダー・桜・葵の全員だった。何かあったのだと彼女は思った。葵は、正面に腰かけた凛に言った。
「忙しい所ごめんなさい」
「大事そうなのは分かるから良いけれど」
葵がためらったのでキャスターが変わろうかと言った。彼女はそれを断った。なので凛が言った。
「それで何事よ」
葵の発言は凛の予想通りだった。
「今日真也さんと学校に行って来たのだけれど、退学する事になったわ。その代わり二人は在学できる。これは真也さんも了承済みよ」
「魔術師として生きるなら問題ないわね……ちょっと待って。その内容ならここに本人が居ない理由にならないけれど」
「ここからが本題なのよ。禅城という家を覚えてる?」
「母さんの実家よね。それがどうかした?」
葵が凛の前に置いたのは、キャスターから受け取った高級なファイルだった。凛の態度が硬化したのは、それが何か知ったからだった。葵の声は重苦しかった。
「御前様から縁談を持ち掛けられたの」
「私たちに?」
「桜が戻っている事はまだ知らないから凛にだけよ。先方が相手を探していたところ、そういえばと言う話になったの」
「断っておいて。そう言う事はまだ考えてないからって」
目の前の二人とよその家の一人を思い浮べた葵は、ため息をついた。
「そう言う訳にも行かなくて。こういう状況だから可能な限り尊重したいのだけれど、十年前に私たちが一時期身を寄せた事もあって断り切れなかったの」
はぁとため息をついたのは凛は、「顔を立てて受けるだけなら受けてあげるけど私は断るから。まだ十七なのに冗談じゃないわ」と言ったので、葵は安堵した様に「そこは確認してあるから大丈夫」と言った。するとキャスターが「万が一強硬な手段に訴えるのであればおっしゃってください」と続けた。
「その前にこてんぱんにするけどね」
あははと笑った凛は一同を見渡した。桜は、やぶ蛇になる事を怖れて何も言わなかった。
「話は以上ね? キャスター。姑獲鳥の話なんだけど、」
◆
口を挟んだのは、ライダーである。その発言に凛は不愉快さを隠さなかった。
「断るのを前提にするのは早計です」
「桜の為に邪魔するって事?」
「私は言いました。リンの身に及ぶ危険は全力で排除すると。これはリンの為です」
「それは私が決める事よ」
◆◆
その町に、ビルはまだ無く信号もまだ無かった。舗装されていない大地を剥き出しにした道路は、自動車をまだ知らなかった。道を歩くのは黒髪黒目の人達で、全員が着物を着ていた。鍬を持つモノが居た。背負い子という手紙を納めた木箱を担いで走るモノが居た。頭を結っているモノは刀を携えていた。点在する民家の屋根は、コンクリートでもなく瓦でもなく、茅葺きだった。
《くぅぅぅぅぅ》
その茅葺きの屋根の中に、苦悶の表情を浮かべる女が居た。土間に敷かれたスノコの上に立つその女は、土間の天井から吊るされた力綱と呼ばれる綱を握りながらいきんでいた。しゃがむその女を見守る数名の人影は、その女の母親や姑などの経験者のみだった。その女の腹は臨月を迎えていた。
頭が見えたと姑が言った。女は《くぅぅぅうぅぅぅ》朦朧としていた。遠くでは囲炉裏がパチパチと爆ぜていた。少し開いた引き戸の隙間から見える屋外は真っ暗で、かやぶき屋根からは大量の雨が滴っていた。女はいきみつづけた。腹が軽くなったのは、雷が地に堕ちた時だった。
女が怪訝に思ったのは、母や姑達が何も言わなかったからであり、その子が何も言わなかったからだ。口から血を吐く程の悲鳴を上げた女は、白骨となってしまった子に乳を与え続けた。
キィとは冬木の暗い空に響いた泣き声である。
遠坂家の地下工房に、以前には無かった黒板や書籍棚や整理整頓さがあるのは、キャスターが講師を務め凛が生徒を務めている結果であった。木の机にあるガス灯の仄かな灯りの下で、ペラリとページを捲ったのは、キャスターである。“和漢三才図会”題打ったそれは、古い百科事典の写本だった。
「姑獲鳥。元々は中国の伝承の鳥だったが江戸時代に日本にも伝わった。鬼神の一種で人間を襲い魔力を奪う。毛を纏うと鳥に変身し脱ぐと女の身となる。他人の子供を奪って自分の子とする習性があり、夜乾しの子供の衣類に付けられる血の印は予告であり結果。元々は普通の人間だったが、死を産んだ悲しみに耐えきれず悪霊となった、か。同情してしまうのは他人事ではないからかしらね。その目的は、自我の弱い子供の魂を魔力に変換し何かを産み出す事とみて間違いない。坊やが遭遇してから三週間経っている以上、呪術的な見地から見て満月〈臨月〉の今夜を逃すはずが無い」
彼女は描かれている姑獲鳥の絵を見た。{IMG17925}
「姑獲鳥が顕現したのが、おさん狐と同様に歪みで力を得たからとみるべきならば、顕現の触媒である和漢三才図会のオリジナルがこの地にあったとみて間違いない。顕現したのが姑獲鳥のみならば、美術コレクターが図会の切れ端を入手したと考えるのが自然ね。明確な因縁があるならば強力である事に不思議はないけれど、それでもサーヴァントはおろか剣製の坊やにすら勝てない。だけれど――」
その声は、念話の術式を介して伝わる凛のモノだった。
『これから出発するけれど家の事は任せたわよ』
『ご武運を』
水晶玉に移るのは、鎧袖一触〈がいしゅういっしょく〉の勢いで出かける凛である。
◆
日付変更線も変わった夜の住宅街を歩くのは、凛・セイバー・士郎の三人である。灯りの点いている家の方が稀な程に、その町は静かだった。凛は、聖杯戦争の余波がだいぶ落ち着いたのだと感じた。かくかくしかじかまるまる。姑獲鳥について手短に説明した凛は、立ち止った。こう言った。
「つまり。私たちは、確率の高いポイントを巡回し姑獲鳥に備える。即座に攻撃するか集合してからかは状況次第だけれど、一人で攻撃する場合は必ず一撃で仕留めること。逃す事は犠牲者が増えるって事だから。質問はある?」
デニムパンツを穿くセイバーは、縦セーターの様なニットポンチョを揺らしていた。荒事で破れでもしたらもったいないと思った凛だったが、悪霊程度ならば一瞬で片が付くだろうと思い直した。セイバーは言った。
「奇襲を掛けるならば待ち構えた方が良い」
「そのポイントは複数あるのだけど歪みは変動するのよ。見つかりやすい歪みの弱い場所に敢えて顕れるとは思えないわね。仕方が無いけれど、キャスターが知らせてくる予報に従ってポイントを移動するしかない。それで残念ながらそのポイントは私たち三人より多い。私は単独行動するけれど、二人がどうするかは任せるわよ」
凛が見た士郎はしっかりとしていた。
「俺たちも別行動をするけれどセイバーは良いのね?」
「不安はありますが、ここはそう言っていられる場合でもないでしょう」
凛のその質問に答えたのは士郎だった。
「イリヤは?」
「目は覚ましてる。けれど新しい体に慣れてなくて満足に動けない」
「リズもセラも付きっ切りか。久宇さんは?」
「置いてきた。その為に鍛錬を頑張ってるんだから」
「言うじゃない」
「未だセイバーには勝てないけどな」
「そう言う意味じゃないのだけど」
三人が立つのは十字路である。
「ここから別行動だけれど。サーヴァントよりずっと弱い悪霊だからって気を抜いたら駄目よ」
それは二人と別れた凛が五分ほど歩いた時の事だった。セイバーが追い掛けてきたのだった。
「セイバー? どうしたのよ」
「指定ポイントの指定時間までは猶予がありますから」
「ふぅん。衛宮君に聞かれたくない質問があるって事ね。なに?」
「キャスターから、サーヴァントとヒトの間の子供について聞きました」
「あら。セイバーったら大胆♪」
「まだです」
「(まだなんだ)御祝贈ってあげるから、分かったら直ぐ連絡しなさいよ」
「それでシンヤの事ですが……」
「ライダーに軟禁されてるけれど。それがどうかした?」
「……いえ。申し訳ありませんが忘れてください」
「出して引っ込めるなんて歯切れが悪いわね」
タッタッタ。セイバーの足音が夜の街に消えた。
「子供か。こんな仕事してるなら後継者を少なくとも考えないといけない歳なのか。いつまでも子供ってわけにも行かないものだわ」
彼女はまだ誰も居ない下腹部を擦った。
◆
それには雨を凌ぐ屋根があった。風を防ぐ壁もあった。見えない壁の中には屋根を支える柱があった。上下ではあったが離れて重なる二枚の床は、階段で繋がっていた。それには、台所やリビングや寝室があった。そこはそう言う建物だった。
白いベランダの高い所に渡された洗濯竿には、その建物に住む家族の衣類が干されていた。面する細い道路には、車どころか人影も無かった。周囲には家が隣接していたが、どれも死んだ様に静まり返っていた。
干されている子供の衣類に付いた血の印は、蔓の様な滑らさと多くの画数を持つ文字が寄り集った様な複雑な図章を作っていた。
印鑑の吉相体〈きっそうたい〉に似たそれをただ見るのは、その家の、玩具が置いてある部屋とベランダとを仕切る窓の内側に立つ子供だった。栗毛の長い髪のその子は、デフォルメデザインの熊が黄色の生地にプリントされた綿の長袖長ズボンのパジャマを着ていた。
その子供の干された衣類が夜風に揺らいでいた。窓が開いたのは、その子供が内側から鍵を開けたからだった。ベランダには、夜に溶ける程に黒い髪が立っていた。
「まま」
その子は。その黒い髪に向かって行った。陶器よりも白い腕の中に抱かれた。陶器よりも白い右腕は、その子の腰から両の腿を支えていた。陶器よりも白い左手は、その子の首から頭を支えていた。その黒い髪は、優しく愛おしく抱きかかえていた。子供に数回頬擦りしたそれは翼音と共に消えた。ベッドで寝ていたその子は、もう起きなかった。
その長い黒い髪は、黒い着物の下にある腹を膨らませていた。
そこは幽〈くら〉かった。点在する街灯の白い灯りで、マンションや一軒家などが幽がりに浮び上っていた。スクールゾーンと白い文字で印刷されているアスファルトの道路には、家々の敷地からはみ出す庭木や自転車の影が街灯で落ちていた。
暗がりに、呑まれ押し潰され擦りきられてしまいそうな場所に立つのは、パーカー・デニムパンツ・スニーカーと言った形の少年だった。路駐自動車と家の塀の隙間に潜んだ彼は、魔術で強化した眼球を使って周囲をぐるっと見渡した。街灯には、たむろする蛾が鱗粉を散らしていた。
ここが予想される出顕ポイントの一つだったが、その範囲は広く彼の周囲には少なくとも二〇から三〇世帯があった。マンションも含めればその三倍を見積る必要がある。ただ。狙われるのは、親無しでは行動できない三歳から四歳までの子供が居る世帯なのである程度は絞り込む事が可能だった。彼が手を置いた自動車は完全に冷え切っていた。
彼は、キャスターが用意したメモを見ながら、対象となる白色の家や茶色の家や三角の家や四角の家を順番に見ていった。止まれの道路標識が赤く灯っていた。周囲は静かだった。彼の腕にある時計は十分経過したと告げていた。
彼が次のポイントへ移動しようとした事と霊的な泣き声が「キィ」暗がりに響いた事は同時だった。
バサリと羽ばたいたそれは、赤い翼を体に巻き付けた。伸びた脚はコンクリートの床に着いていた。翼は髪になった。マンションの廊下に、長い黒髪を綺麗に切り揃えた赤い着物を纏った女が立っていた。そこは、606と刻まれた扉の前だった。その戸のベランダに干されている子供の衣類には、血の印が付いていた。その声は、扉の内側だった。
『まま』
女が降り立ったフロアを確認した彼は、そのままロビーのエレベーターに駆け込んだ。彼が階段を使わなかったのは手後れを怖れた為だが、魔力を遮断する金属の箱というエレベーターのカゴを「トレースオン〈投影開始〉」利用する為でもあった。エレベーターの高い所にあるフロアを示す数字は、一つずつ上がっていった。それが止まったのは、チンという音とともに扉が開いた時だった。飛び出した彼の手にあるのは一振りの剣である。