亜人間恋愛物語 作:d1199
彼女はゆっくりと目を開けた。ベッドの感触・部屋の匂い・圧迫感・漂う魔力……日常的に見聞きするモノを感じ取った彼女は、身を起す事なく頭すら振らず、重苦しい眼球でベッドの天蓋をぼぅと見たまま、自分の部屋に居るのだと気がついた。
「いつも以上に気怠いわね……」
身体に鞭を打った彼女は、ゾンビの様な顔で、ベッドから這い降りた。スリッパの音をズルズルと立てながら、部屋と廊下を仕切る扉を開けた。同じタイミングで隣の部屋から出てきた制服姿の桜と出くわした。
「「……」」
「おはよう桜。よく寝れた?」
桜は葵の部屋で寝たが、桜の出てきた部屋は葵の部屋ではなかった。凛を見た桜は、目を逸らした。ためらいがちに顔を上げたが、何も言わずまた伏せた。桜はそれを数度繰り返した。
「……」
「まだ慣れないとは思うけれど、普遍的である挨拶ぐらいしたら?」
「お、はようございます」
「まだ堅いけど、ま。良いわ」
桜の髪には千歳が渡した黒のリボンが結いられていた。
「それにしても随分早いわね。部活はもう再開されたの?」
「まだです。蒼月の家によってから学校に行きます。お母さんの朝御飯を用意しないと」
「そっか。千歳さんも、ここに住めれば良いのにね」
凛は桜が出てきた部屋をチラと見た。桜は凛をチラと見た。
「……大丈夫ですか?」
「なによ。その質問」
「倒れてたって兄さんが言ってましたけど」
「倒れてた?」
「ええ。それで兄さんが、」
「真也がなによ」
桜はとても嫌そうに笑っていた。
「部屋まで運んだんです。“お姫様抱っこ”で」
凛は一瞬驚いたが、直ぐに髪をかき上げて不敵な笑みを溢した。
「あら。それ位で気にするなんて可愛いところあるじゃない」
「そう言う憎まれ口を叩くなら教えません」
「負け惜しみなんて益々カワイイわ。頭撫でてあげよっか?」
妹は表情に影を落としながら笑っていた。
「前日の最後から目が覚めるまでの記憶を探ると良いですよ」
「……」
凛は、自分の髪が櫛梳かれていない寝起きの状態だと気がついた。着ている白い衣類は、ネグリジェという寝間着であった。凛は努めて冷静にこう言った。
「誰が着替えさせたのよ」
桜は声を出さずにあははと笑って答えた。凛は平静を装いつつ、桜に詰め寄った。
「母さんよね? それともキャスター? それともライダー? 分かった、桜でしょ」
「早く着替えた方が良いですよ。遅刻しちゃいますから。そうそう兄さんは寝ていますので起さないでください」
「……真也じゃないわよね?」
「それじゃ先に行きますから。ねえさん?」
桜は廊下をトタトタと歩くとタッタッタと階段へ降りていった。
「さくらーーーーっ!?」
冬木市シスコン奮闘記外伝~亜人間恋愛物語~
第五回の聖杯戦争が終わった翌日に、桜と真也が葵と千歳の取り決めで遠坂の家にやってきた。一段落できると誰もがそう思った。だが突然キャスターが、魔術に関わる全員を呼び出したのである。
「かつてのマスターを一言で説明するならば多重性格者です」
月が映る窓を背にするキャスターは、静かにそう言った。彼女がフードを目深に被り口元だけを見せ、魔術師だと言う事を強く顕示しているのは、凛への圧力であり見極めである。
「相手によって態度を変える、これは一般的な事ですが演技の範囲に収まります。雑な性格の人物に細かい作業を強いれば、それはストレスとして跳ね返るでしょう。逆もまた然り。
マスターがそうならなかったのは、演技ではなく性格自体を切り替えてきたからです。ある時は戦闘狂にまたある時は人格者に。勉強家・高校生・幼馴染み・道化師・そして非情家。相反するこれ等を内包しながらも個として存在できたのは、蒼月真也という根底に個が無く、桜さまのみを前提としていたからです。
ですから死ぬ事にもためらいが無かった。ここが己を前提とするサイコパスとの大きな違いでしょう。正確には桜さまではなく、遠坂の血を引く者だった訳ですが。
そのマスターは凛さまに精神構造を作り替えられ、遠坂という存在から解放されましたが、再構築直後に言峰綺礼と戦い心臓に負荷が掛りました。今のマスターは不安定な状態です」
ベッドのフットボード側に立ち、彼を見下ろすのは凛である。その表情は静かであったが、その瞳がベッドから外れる事は無かった。彼女は礼装である何時もの赤いニットを着ていたが、その赤は鮮やかさを欠いていた。
「ごちゃごちゃ言ってないで具体的に言ってくれない?」
「放置すれば赤の他人を遠坂の様に扱う、もしくは遠坂の人間に牙を剥く可能性があります」
「……」
凛は歪みそうになる表情を必死に抑えていた。
「皆さまをお呼び出ししたのは、治療の承認を頂きたい為です」
彼女らはベッドを取り囲み、身を横たえる少年をじっと見ていた。死んだ様にピクリとも動かないのは、キャスターの術で眠っているからだ。部屋はポール状の間接照明のみで薄暗かった。彼女らが置かれた状態と心象を表しているかの様だった。
沈黙を破ったのは、ベッドを挟んでキャスターの反対側に立つライダーである。彼女は目隠しと黒い装束という何時もの格好で、部屋の暗がりに溶け込んでいた。
「治療方針の説明を求めます」
「対策自体はとても簡単です。マスターは認識ができなかっただけで、嬉しい事や楽しい事など人として正しい人格を構築するのに必要な正の記憶を持っています。愛情や温情といった感情を身近に感じれば、記憶から呼び起し、それを人格の基礎にするでしょう。類は友を呼ぶと言うことですわ」
凛はこの時初めてキャスターを見た。
「キャスターはそれを簡単だと言うわけ? 真也が良い思いを持っている人物は、なんらかの悪い思いを真也に与えているのよ? かといって無関係な人物は良い思いも持っていない」
「ええ。ですから慎重に事を運ぶ必要があります。具体的には魂の測定も視野に入れております」
ライダーが「それは可能な限り避けうる術です」と言ったので、キャスターは「危険性は把握しています。それだけ差し迫った状況だとお考え下さい」と答えた。凛は背を向けるとカツカツと乱暴に歩き出した。
「何をなさるおつもりです?」
「真也に暗示を掛けるのよ」
「暗示は被術者を誤魔化す代物です。被術者を複数持つマスターに掛ければ、今支配的である理性的な性質が消滅する危険性があります。そもそも。また傀儡にするおつもりですか」
「魂の測定なんて知らないけど、危険性なら暗示の方がまだマシよ」
「私はまだ蒼月真也の従者。それを見過ごす訳には参りません」
「真也は私たちが一緒に居る事を望んだのよ。それを邪魔するなら覚悟しなさい」
凛がポケットから宝石を取り出すと、何時でも投げ付けられる様に構えていた。フードから覗いているキャスターの口元に変化は無かった。
「……」
「嘆かわしいとか。現代の魔術師ときたらとか。未熟な魔術師がどうとか。言ったら?」
割って言ったのは、デニムにチュニックと身軽な服装の千歳だった。
「凜さん。私は所用を済ませ次第この地をしばらく離れます。真也が悪い思いを持っている存在、私はその極め付けでしょうから。押し付ける様で心苦しいのですが、」
「千歳さんは承認するんですか?」
「メディアにできないならば他の誰にもできないでしょうから」
キャスターは言った。
「下地を作りますから、凛さまと桜さまはしばらくのあいだ可能な限りマスターと接しない様にお願いします」
凛は渋々引き下った。それは千歳の発言だ。
「持参金という訳ではありませんが蒼月が持っている資産を後で届けます。是非使ってください。それとライダー」
「なんでしょうか」
「真也が粗相をしたら遠慮無く小突いてくれて良い。腕力で抑えられるのはお前だけだからな」
「分かりました」
「それでは失礼します」
彼女は黒く長い髪を揺らしながら真也に背を向けた。それはキャスターであった。
「どちらへ?」
「数日はあの家にいる予定だ。何かあればその間に言ってくれ」
「お見送り致しますわ。念話の術式もお持ち頂きたいですから」
「好きにしろ」
二人が部屋を出ると、扉がパタンと閉まった。凛の言葉は疲れを隠さなかった。
「ため息しか出ないわ。事務処理だけかと思ったのに……ライダー。しばらく真也の面倒見て貰える? 時計塔への報告や事後処理でしばらく奔走するから手が回らない」
「サクラも学業で忙しいと言っていましたから構いませんが、」
彼女の口調は確認である。
「しょうがないでしょ。少なくとも今の段階でマイナスよりプラスが多いのは、アンタかキャスター位なんだから」
彼女はベッドに手を突くと身を乗り出し、その額に唇を添えた。
◆◆◆◆
自室の机に向いノートにペンを走らせるのは、凛である。
(部屋のリフォームにデスク・チェスト・カーペット・照明・エアコンなどの調度品を追加で三人分か。サーヴァント〈使用人〉とはいえ、最低限の待遇を与えないと遠坂の看板に泥を塗る事になるから仕方がないけれど、これは結構な出費だわ。千歳さんの支度金って幾らだろ)
三人分の部屋を用意するのにかかる費用は相応だが、一回こっきりだ。それに対して新たに増える四人分の生活費は、毎月発生するのである。更に桜・凛・真也の今後の身の振り方を考えれば、無駄な出費は避けねばならないのだった。
(進路は一度話し合った方が良いわね)
凛の頭の中ではカシャカシャとレジスターが音を立てていた。
(新たな金の種は……衛宮くんからの見かじめ料か)
その姉はベッドの上の妹を見た。屋敷に部屋は沢山あるが、ヒトが住める状態にあるのは三部屋のみなので、桜は葵と凛の部屋を交互に使っているのだった。
(桜の中の孔から魔力を取り出して売るってのは流石にダメね。流石に怪しまれる……新たな収入を確保して家計を安定させてから二人を受肉させたいところだけど)
シャープペンを止めた凛は、皆中でもしたかの様な表情だった。
「キャスターに作らせる魔道具の分をすっかり忘れて……」
おほほとは、凛の脳裏で笑うキャスターの声だ。凛は渋い顔になった。
(確かに何も出来ないわよ。魂の測定なんて、考えすらしなかったわよ。《私はまだ蒼月真也の従者。それを見過ごす訳には参りません》だって。一体何様よ。千歳さんも千歳さんだわ。キャスターなんかに肩入れするんだから……普通そう判断するわよね。私でもそうする)
ミシとは、凛の手にあるボールペンが軋んだ音である。
(どうにかして、一泡吹かせないと。キャスターは真也の従者だから、真也を私の従者にすれば、間接的にやりたい放題……そんなみっともない真似ができるか)
そのペンは、ピシリピシリと断末魔の悲鳴を上げていた。
(まったく。神代の術を知ってる位で、偉ぶっちゃってさ)
凛が幻視するキャスターは、仰け反りながらオホホと笑っていた。バキリと折れたのは、凛の手にあるボールペンである。
「(イライラする。何かないか何か……)ものは相談なんだけど桜。ライダーに頼んで、キャスターを追い出すとかどう?」
ベッドの上で枕を抱きしめる桜は、ピクリとも動かなかった。体は縮こまり、その瞳が見るのは下のみである。凛は言った。
「冗談よ。それよりそんな悲壮な顔するんじゃないの。これは期間限定の話なんだから。したい事ができないってのはストレス溜まるけどね」
「そう、ですね」
消沈の権化となった妹に、凛は頭を痛めるのみだ。