亜人間恋愛物語 作:d1199
トントン。家の階段を軽快に降りるのは遠坂姉妹であった。凛は、一般社会的に地主とも呼ばれる不労所得で生計を立てる社会人になっていた。桜は三年生になっていた。右腕に小さな鞄をぶら下げる桜が、左手で階段の手すりを支えにしているのは高いヒール靴に慣れていないからだった。
「姉さん。急がないと遅れちゃいます」
「桜が着替え直すから遅れたんじゃない」
「だって。白が駄目なんて知らなかったんです」
「結婚式で白は花嫁だけの特権よ」
凛は赤色だった。桜は濃い桃色だった。二人のそれは、膝下丈のシンプルなドレスだった。二人は髪は結い上げていた。キャスターが急遽呼んだタクシーに二人は乗り込んだ。二人の向かった先が教会なのは、その日が聖杯戦争終結から一年と三ヶ月が経った六月〈June Bride〉だったからだ。
クロスのシンボルが掲げられた礼拝堂には、凛と桜を含めた関係者が立ち並んでいた。響くパイプオルガンの音と共に扉が開いた。新郎の待つ祭壇に向けてバージンロードを歩くのは舞弥にエスコートされるセイバーである。出席者達から溜め息が漏れたのは、純白の衣装に身を包む花嫁を見たからだった。衣装合せに立ち会った桜と凛も同様であった。
(アルトリアさん。綺麗)
(本気で着飾ると太刀打ちできないわね)
指輪の交換と誓いの口付けが交わされ、鐘の音が鳴った。感極まった桜は、涙をハンカチで拭っていた。朗らかに笑っていた綾子の目も潤んでいた。
祭壇に立つアルトリアと士郎を見た凛が思い浮べるのは、アルトリアではなく彼女自身だった。彼女が呆けていたのは、己のベールを開いた相手に驚いたからである。
セイバーのブーケを受け取ったのは氷室鐘だった。蒔寺楓や三枝由紀香を初めとした人物に囃し立てられる彼女は、「困った物を受け取ってしまった」戸惑いつつも頬を染めていた。鐘に擦り寄った「氷室さん。譲ってくれないかなー」大河を見た桜が「藤村先生が変です」不思議そうな顔をしたので、綾子は「弟分に先を越されて焦ってるんじゃない?」苦笑いをするのみである。その綾子は隣に居た凛にこう言った。
「どうしたのよ。ぼーっとしてるけど」
「セイバーと衛宮君が結婚したんだなって」
「当り前だろ。結婚式なんだから」
「美綴さんは、この一年と少しの時間を何をしてた?」
「受験して大学に入った」
「これからどうするか考えてる? 私は、お金の工面と魔術の修得のみで何も考えてなかった。これからどうしようかって考えたら、考えられない事に気がついた」
桜と顔を見合せた綾子はこう言った。
「実は私たちも何も考えてない。考えたいんだけど一番大事な事が決まってなくて、何歳の時まで何をするかって人生の指針が立てられない」
綾子はカラカラと笑って言った。
「安穏としていた子供時代が終わったなら、過ぎていく時間をただ見送るのが不安になるのは当然だ。私が許すから遠坂はもう歩き出しな。変なのに付き合ってたら変になるから」
ソフトドリンクコーナーの近くに立っていたスーツ姿の男性に、凛が話し掛けたのはその人物を知っていたからだった。
「いらっしゃっていたんですか」
「ええ。少し興味もありましたし」
その人物の視線の先には、元クラスメイトから賑やかな歓迎を受ける主賓の片割れがいた。
「十九のくせに早々にゴールインしやがって! 爆ぜろ!」
「爆発だ爆発しろ!」
その人物が笑ったのは賑やかだと思ったからだが、その発言をしたのは私的な理由だった。
「遠坂さん。また次の週末に付き合ってくれませんか」
「友人連れでも、ですか」
「今度からは貴女だけを望みます」
凛が驚かなかったのは、予想していたからだった。
「私は、貴女と支え合う関係になりたい」
「結構、素の私を知って頂いてからその回答をしますわ」
凛に話し掛けたのは、入れ違いで現れたキャスターだった。
「凛様。あまり無茶はお控えください」
「良いのよ。被る猫の皮も厚すぎると大変だから」
◆
また月日が流れた。
桜がため息をついたのは、ポストを覗いたからだった。彼女の背後に立つのはライダーだ。
「お帰りなさい。サクラ。今日の帰宅は早い様に思います」
「講義が休講になったから。誘われたけど帰ってきちゃった」
「また妙な男に付き纏われているなら、追い払うので言ってください」
「ライダーが大学に来て大騒ぎになった事を忘れた? 羅刹の“特別な”関係者って言ったから事なきを得たのに」
ライダーがばつの悪い顔をしたのは、笑う桜の表情が陰っているからだった。二人の間に舞った櫻の花びらがポストの中にスラリと入ったのは、遠坂の庭にある櫻が咲いていたからだった。それを見たライダーが言った。
「前の手紙からそろそろ中間地点に居る筈です。ただ帰国予定は今日でしたが」
「ねぇライダー。兄さんは帰ってこないかもしれない。戻ってきたら私たちの事を何とかしないといけなくなるから」
「あの時の事をサクラが悔む必要はありません」
「でも。そうなるかもってライダーも思ってるんでしょ?」
「心配無用ですサクラ。必ず見付け出し首に鎖を付けてでも連れ戻します」
「戻らずにそのままどこかで暮らしてくれれば、諦めも付くかな。姉さんよりはライダーの方が良いって」
「サクラ?」
「なんて。冗談冗談」
屋敷の門から現れたのは、髪型をツーサイドアップからストレートに改めた凛だった。
「お帰りって言いたいけれど、早く家に入りなさい。昨夜だってこの家を伺う妙なのが居たんだから」
「姉さんは何時の頃からか素っ気無いですね。自分の弟なのに心配にならないんですか?」
「とやかく言っても仕方がないでしょ」
キャスターが手に持つ魔法棒を「では講義を始めます」振ったのは、その場所が地下工房であり、目の前で腰かける凛が生徒だからだった。
「まずおさらい。魔術と呼ばれる現象を起こす要素は、魔力と回路の二つです。これは現代で言う所の電気と電気回路に似ています。電気回路とは魔術刻印であり礼装であり魔術回路です。これらは魔術基板に繋がり某の現象を産みます。
私の行使する魔術が神代の魔術と言われる由縁は、アクセスする魔術基板が古いからです。魔術基板が意思によって構築されるならば、時代共に変化するのは当然ですから」
「二つあるって事?」
「段階的な物ではありません。変化と消滅は必ずしも同じではありませんので古代に構築された物も残っています。下層といった方が適当でしょうか。
現代において。古い意思の塊である古代の魔術基板にアクセスする方法は限られていますので、体内結界を用います。何故かというと、肉と魂から構成される体内結界の最大の特徴は、先程述べた電気回路を自在に構築できる事にあるからです。ただ。現代に残る言語では呪力が足りませんので、より多い意味を有する高速神言を用いる必要があります。なのですが、現代の術師がこれを発声する事ができません。
それは神代の言語という概念が無いからです。凛さまが行使するにはそれを知る必要がありますが、言葉では伝える事ができないので、感染の法則を用い私の有する概念を凛さまに転写します。この一年間。凛さまに施した色々はその下地になります。
それをこれから行う訳ですが、副作用が避けきれません。今まで使えた魔術が使えなくなる恐れもありますが、それは高速神言で代用が利きましょう。ですが馴染むのに必要な数年間の間は、睡眠時間の増加・情緒不安定・魔力の減衰など一次的な副作用が生じます」
キャスターは手に持つ本をパタリと閉じた。
「細心の注意を払いますが、この様に負荷は相応です。覚悟は宜しいですか?」
「一年アンタにヘコヘコしてきたんだから、止める訳ないでしょ」
「凛さまは図太い方ですから杞憂に終わると確信しております」
「喧嘩売ってる?」
「結構ですわ」
キャスターが工房に敷いた魔法陣を起動させたので、凛はスカートのホックに手を掛けた。
「Ad alba. Congregabo in dextro, Aeris in modico populo. Satani」
〈応えよ。我が右手に集え大気の小人たち。爆ぜよ〉
凛の不遜な顔がキャスターの唖然とした顔に向けられていたのは、天井に向けた凛の手の平にある空気の渦が、弾けるように消えたからだった。凛は言った。
「顕象規模はコモンレベルだけれど、ざっとこんなもんね」
「あの。凛さま。本当に異常はありませんか?」
「まったく無いわ。逆に快調なぐらいよ」
「(古代の魔術回路でも持っていなければ)説明が付かない……っ」
「なによその意味有り気な顔は」
「いえ。こう繋がるとは思いませんでしたわ。本日はここまでとしますが、私の立ち会い無しに決して行使しませんようお願い致します。生兵法となっては目も当てられませんから」
「分かってるわよ」
キャスターが不安を感じたのは、凛が素直な態度だったからである。
凛が開いたモノは、誰もが寝静まった遠坂邸の地下工房に続く扉だった。キャスターの目を盗んでいるのは宝石剣の魔術実験を行う為だが、片付いていた工房を散らかし始めたのは実験のスペースを作る為だった。
「馬鹿にされっぱなしってのも面白くないわ。目にもの見せてやるんだから。じゃないと事ある毎に馬鹿にされるじゃ、な、いっ!」
彼女は、黒いシルクに包まれた刃渡り二〇センチほどのナイフを床に置いた鞄から取り出した。黒猫の血とドクニンジンの汁が染み込んだ銀色の刀身と木製の柄には、古い神々の名が刻まれていた。それは魔法陣を描く道具である。彼女は、実験の成功率を上げる魔法陣を構築する事にしたのだった。順手に持っていたそれを放り投げると、パシと音を立てて逆手に持ち直した。それを床に斬り立て、六芒星の魔法陣を描いた。続けて鉱石を置いた。
「キャスターが作った物だからデキは非常に良いんだけど、古っ臭いナイフよね」
《凛》
気配を感じた彼女は唐突に部屋をキョロキョロと見渡した。
「なんだろ。この頭の奥を突かれるような感じ。少しずつ感覚が短くなってるのは気のせい?」
気を取り直した彼女が立ったのは魔法陣の中心である。右手には宝石剣があったが、魔力を再充填したハート形のペンダントは今回は使わないと机に置いた。
「Ad alba. Sunt et in patera aurea.」
〈応えよ。我が内に金色の杯あり〉
「Et disrumpam me. Et inebriatus est in meo sanguine: Et dolores mei comedent. Est malediceret satisfactionem.」
〈其は我を裂き、其は我の血を浴び、其は我が痛みを喰らいて、其は呪いを成す〉
「Ego occurrit. Ego occurrit――」
〈満たせ、満たせ――〉
凛は宝石剣から放たれる無制御の光に塗れていった。
「なんで突然暴走するのよ!」
凛の不平不満に答えたのは念話術式越しのキャスターだった。
『凛さま。師を欺こうなど一〇〇年早いですわ』
ズズーンという地響きと彼女の悲鳴が、深夜の遠坂邸響いた。
猫の箱を開く魔眼
彼女はゆっくりと目を開けた。ベッドの感触・部屋の匂い・圧迫感・漂う魔力……日常的に見聞きするモノを感じ取った彼女は、身を起す事なく頭すら振らず、重苦しい眼球でベッドの天蓋をぼぅと見たまま、自分の部屋に居るのだと気がついた。
「いつも以上に気怠いわね……」
身体に鞭を打った彼女は、ゾンビの様な顔でベッドから這い降りた。スリッパの音をズルズルと立てながら、部屋と廊下を仕切る扉を開けた。真也の部屋から同じタイミングで出てきた桜と出くわした。凛を見た桜は、目を逸らした。ためらいがちに顔を上げたが、何も言わずまた伏せた。桜はそれを数度繰り返した。凛は、妹の背が縮んでいる事と制服を着ている事を疑問に思ったが、桜との状態を思い出したので言うのを止めた。
なので桜がこう言った。
「……大丈夫ですか? 倒れてたって兄さんが言ってましたけど」
「倒れてた?」
「ええ。それで兄さんが、」
「真也がなによ」
桜がとても嫌そうに笑ったので、凛は髪をかき上げる不敵な笑みで応えた。
「部屋まで運んだんです。“お姫様抱っこ”で」
「あら。そんな事を今頃気にするなんて可愛いところがあるじゃない」
「そう言う憎まれ口を叩くなら教えません」
「負け惜しみなんて益々カワイイわ。頭撫でてあげよっか?」
「前日の最後から目が覚めるまでの記憶を探ると良いですよ」
妹は表情に影を落としながら笑っていた。凛は、自分の髪が櫛梳かれていない寝起きの状態だと気がついた。着ている白い衣類は、ネグリジェという寝間着であった。凛は努めて冷静にこう言った。
「……誰が着替えさせたのよ」
桜は声を出さずにあははと笑って答えた。凛は平静を装いつつ、桜に詰め寄った。
「母さんよね? それともキャスター? それともライダー? 分かった、桜でしょ」
「早く着替えた方が良いですよ。遅刻しちゃいますから。そうそう兄さんは寝ていますので起さないでください」
「……真也じゃないわよね?」
「それじゃ先に行きますから。ねえさん?」
トタトタと廊下を歩いた桜は、タッタッタと階段へ降りていった。
「さくらーーーーっ!?」
叫ぶ凛が感じたのは既視感だった。
◆
「一体何が起きてるのよ」
凛が歩くのは陰鬱な空気が漂う冬木市の住宅街であり、彼女が着るのは穂群原の制服であり、彼女が持つのは学生鞄だった。その道には、登校する同じ生徒の姿があった。
(時計塔から戻った私たちは皆に全てを話した。その後、キャスターの前で真也と言い合いになった私は、アインツベルン城で宝石剣の実験をした)
彼女の腕時計は三月二日を指していた。それは、聖杯戦争終結の中一日あとであり、葵と千歳が取り決めを行った翌日の事だった。
遠坂の屋敷に居る全員も、三月二日に巻き戻っていた。何が起こっているのか全く把握できていない凛が、戸惑いつつも学校に向かったのは状態を把握する為である。真也は、戦うどころか動く事すらままならない状態だったのでそのまま自宅待機を命じた。凛のフォローをしろという命を受けているキャスターは、家の防衛を担った。ライダーは、既に登校している桜の警護になった。葵には外出を禁じた。彼女にとって幸いな事は、二騎のサーヴァントが巻き戻っているのみで友好的な立場を取っていた事だった。穂群原の校門から見える校舎は、お通夜のように静まり返っていた。校舎の廊下を歩く凛が、行き交う生徒達から不安を感じるのは、大量失踪事件・原因不明の破壊現象が尾を引いていたからだった。
「この日なら当然か」
扉を開けた凛が見るのは所属クラスである二年A組だ。
(綾子はまだ来てないのか。こんなに遅いなんて珍しいわね)
「おはよう。遠坂さん」
「おはよう。三枝さん」
「インフルエンザって聞いてたけれど、大丈夫?」
「ええ。お蔭さまでもう完治しました。三枝さんも無事で何よりだわ」
由紀香の表情に陰りを見た凛はこう言った。
「ごめんなさい。無神経だったかしら」
「居なくなると初めて分かる事ってあるんだね」
「どういう事?」
「C組の衛宮君が――」
「ごめんなさい。今なんて言ったの?」
二人に落ちたのは、霞む影だった。背が高く手足が長いそれは、苔色のスーツを着ていた。割箸の様な脆さを感じさせたが、その振る舞いには得体の知れなさがあった。堅い樫の木でできた墓場で枝を伸ばす柳が表現として適当だった。
「授業が始まる。三枝。席に着け」
「は、はい」
「席に着け遠坂」
凛の前に立っていたのは、聖杯戦争時に討った担任だった。
「葛木、宗一郎?」
人気の絶えた校舎の廊下で、二人が対峙するのは、凛の目配せを宗一郎が読んだ結果だった。人目のある校舎で仕掛けはしないという確信のある凛だったが、辛うじて左腕を堪える状態なのは、警戒レベルの振り切れているからだ。彼は、かつてそうであったように静かに言った。
「気を静めよ。ここで事を構える気は無い」
「そうでしょうね。であれば私は既に死んでるでしょうから。一応。葛木先生とお呼びします」
「疑問に答えておく。私がここに立っている理由は不明だが、誰かの対だからと言う原因は分かっている」
「対?」
「身代りと言えば理解できるか」
「誰かの代わりに生き返ったと言う事ですか」
「ただ私に明確な対が居ない。同じ明確な対を持たない人物が死んだに過ぎない」
宗一郎をじっと見る凛は考えた。聞きただしたいが知らないと言った以上知らないのだろう。自白させ様にも手間も時間も掛かる。何より今はその時間が惜しい。
「申し訳ありませんが、気分が悪くなりましたので早退させてください」
「衛宮なら死んだ。私が知ったのも今朝の職員室でだ。家は警察が見分を行っている。怪我人は冬木総合病院に搬送された。恐らく。私の対もその中に居るだろう」
「葛木先生は自分に対し何か思わないんですか?」
「疑問はあるが取り乱す事でもない」
凛がそう言ったのは、宗一郎が教室の扉を開けた時だった。
「キャスターの事ですが」
「来てはならぬ、そう伝えておけ」
◆
透明なガラス扉が開いた。彼女が大病院から出てきたのは暗示を使い忍び込んだからだが、沈痛な面持ちなのは宗一郎の話が事実だと確認したからだった。彼女は、重体のセラと行方不明のセイバーを除く、士郎・舞弥・イリヤ・リーゼリットの遺体を確認したのである。
(衛宮君は、斬り殺された。イリヤは巨大な何かに潰された。リーゼリットが死んだのは、イリヤが死んだから。久宇さんは自害。生き残ったセラは、重症で意識がない……)
凛は瞳に浮かんだ涙を拭った。彼女が念を籠めた右手の甲は、沈黙していた。
(この時の私は、念話の術式をまだ持ってないんだっけ)
凛が居るのは、病院前にある電話ボックスだ。
「という訳で何が起こっているか調べて貰える?」
『電話機にセイバーからのメッセージが入っていました。“私の顔に気をつけろ”と慌てているような口調でした。未明のモノですので、時間的に関係があるものと判断します』
「追われていたか追っていたかと言う事か」
『至急調査を開始します。凛さまは屋敷にお戻り下さい』
「葛木先生は来るなって言ってたけど。会いに行っても良いわよ?」
『その宗一郎様が何者か、衛宮家を襲ったのは何者か、これが分からない以上軽卒です。なにより契約は契約、今のマスターは真也様ですので』
「真也なら気にしないだろうし、会いに行く事と地獄に付いていく事は別物だと思うけど」
『マスターとの契約内容をお伝えした記憶はありませんが。何時お知りに?』
「(しまった)帰ったら詳しく話すわ」
『帰宅をお待ちしておりますわ』
凛の目の前に広がる歩道の上に、一人の人物が立っていた。士郎と同じ程度の背丈を持つその人物は、青ジーンズに白パーカーという若者らしい格好だった。目深に被ったフードから覗くのは白く細い顎だった。華奢な体付きだったがセイバーを彷彿とさせる訓練された身の熟しだった。
凛が警戒したのは、同年代だと思われる少年が同業者だと当たりを付けたからだった。
その声は凛の予想よりは低かったので、彼女は少し驚いた。
「遠坂凜さんですね。訳あって身分を明かす事ができませんが、貴女の警護をするようにと言われています」
「どこのどなたかしら」
「制限を受けていますので言う事ができません」
「学校では猫被ってるから私を知ってるのは別に不思議じゃないわ。でもね。今の私は、見ず知らずの誰かと話ができるほど暇じゃないの。そのフードを降ろして身分を明かすか、もしくは立ち去りなさい」
「遠坂凛さん。貴女が一人でいるのはとても不安なんです。ですから貴女を守る事を許してください」
「……付き合いきれないわね。言っておくけれど、付いてくるなら覚悟しなさい」
スタスタとしばらく歩いた彼女は、一度だけ振り向いた。病院前に広がるロータリの脇に立つその少年は溢れそうな程の不安を湛えていた。
(あの言い回しが真也に似てるのは、気のせいよね)
◆
凛が見回った冬木の町は、目だった異常のない第五回聖杯戦争直後の町だった。違いは廃墟と化した衛宮家のみである。彼女の脇に立つのは、キャスターが生み出す影だった。
『セイバーの遺体を見つけました。新都の裏路地です』
「そう」
『凛さまは、予想より冷静ですので驚いています』
「衛宮家が襲われたのが未明。もし生きてたなら、とっくに連絡が来るでしょ。死因は?」
『全身を槍か剣で貫かれたようです』
「セイバーの防御を突破する複数の槍か剣で串刺し?」
『はい』
「……キャスターは家の守りを固めて。私は千歳さんと綾子の家に寄ってから帰るわ」
『桜さまは如何なさいます』
「ライダーが居るならそのままでいい。けれど寄り道はしないように」
それが起こったのは、遠坂邸に続く道であり蒼月家の近くでもある道に、凛が至った時のことだった。和服を着るそれは、曲がってしまった腰を杖で支えていた。髪が抜け落ちた頭部には深いシワが刻まれていた。凛は会ったことはなかったが、それが老いではなく腐りだと知っていた。彼女は知れず後退っていた。
「間桐……臓硯」
「カッカッカ。遠坂のあの小娘が今や十七か。浮世を彷徨うのもよい暇潰しよ」
それは、笑みの表情を蠢くように浮かべた。バックステップを踏んだ彼女がセラフィナイト〈誘眠〉を蒔いた事と左腕の魔術刻印を稼働させた事は同じだった。
「急くでない小娘。儂にやり合うつもりなど無いわ」
「そう言う訳には行かないわ。こちらには理由があるんだから」
「桜の事を言っておるのであれば遠坂が間桐を責めるのは筋違いよ。我らが蟲を使うのは、前当主も知っておったこと」
「ええ。知っていたでしょうね。でもそれは、魔術師の大成を願っての事だったんだから」
「魔術師とは根原を目指すモノよ。偶々宝石を使うのみであって偶々蟲を使うに過ぎぬ。遠坂の術と我ら間桐の術の善し悪しをお主が決められるのか? そもそも親でなしが人でなしを嗤うのは滑稽よ」
臓硯が、満足そうな笑みを浮かべたのは、彼女が渋々左腕を降ろしたからだった。
「一つだけ聞くわ。間桐臓硯。アンタはここにこうして私と話している理由を理解しているの?」
「ただの酔狂よ。聖杯戦争を見物しようとな」
「死んでたなら知らないんでしょうけれど聖杯戦争は終わったわよ」
「カッカッカ。ふぬけたか遠坂。それでは儂の生き返った理由を説明できぬわ」
「違う理由ね。聖杯ももう壊れたんだから」
「大聖杯に巣くっておったアレが死を拒めば、ありえる話だろうて」
「完全に壊れていなかったとしても無理よ。魔力も無しにあり得ないわ。あの時七騎分の魂はあちら側への孔を開けるのに使ったんだから」
「その通り。だがお主には見落しがある。桜が扱える魔力量は一〇〇〇程度だがアレはどの程度かの。アレの肉体はあの魔槍で滅んだが、再開する程度の魔力を引き出しておいても不思議は無いわ。聖杯を汚染する奴の思念が残ったままならば尚更よ」
「現状を説明する為のこじつけに過ぎないわね」
「ならばお主に答えられるか」
「だからと言って断定なんてしないわ」
カッカッカと笑う老獪は背を向けた。
「いずれにせよ精々気をつけるがよい。死者が持つのは生者への嫉妬のみ。今やこの冬木は、死者が蘇る反魂都市ぞ」