メディナ=ハハルクにとって、書とは娯楽のためのものではない。
幼少の頃から親しんできたのは、教典であり、教科書であり哲学書だったり。
詩や古典も、楽しみのためではなく教養の一部として身につけさせられた。
冒険譚や恋物語、滑稽ものを与えられた記憶はなく、漠然と「程度の低いもの」「愚かな衆愚のためのもの」と、見下す考えができている。
だから、他人に勧められた娯楽小説を探すという体験は、初めてのことであった。
最新、と言うには少し古く、既にある程度評価の定まった娯楽小説を集めた書棚を前に、不朽の名作、と言うには僅かに格の落ちる10年ほど前の恋愛小説をめくりながら、メディナは若干白けた気分でいた。
(別に、悪くはない)
悪くはないのだ。文体も筋書きもちゃんとしているし、語り口は洒脱。登場人物一人ひとりの考え方や行動を真っ当と思わせる説得力は強く感じる。
だが。
(感情移入しにくいのよね)
書を閉じた所で、不意に横から声をかけられた。
「メディナじゃねーか。何読んでんだ?」
メディナは吃驚して、思わず書を取り落としかける。
横を向くと、級友のマドハ=カムランが気安げに手を上げていた。
今となってはわだかまりがないとは言え、出会った当初は不倶戴天の敵の如く火花を散らした相手であり、気まずさを感じないわけではない。
メディナは目を背けて書を棚に戻そうとするが、マドハは回り込んで勝手に表紙を覗き込む。
目をしかめるメディナをよそに、マドハは目を輝かせた。
「『セマスとヒロマッテ』! 名作だよな、
これ! メディナも好きなんか?」
「いや、ミホナに勧められたからちょっと見てみただけだけど……」
マドハの好意的な態度に、メディナは意外な思いがする。
司書見習いの中でも特に男勝り、論理武闘派で知られるマドハが、包み隠さず恋物語などに興味を示すとは思わなかった。
「あなた、こんなものも読むの」
マドハは口を尖らす。
「”こんなもの”じゃねーよ。いい作品だぜ、これ。『身分差を乗り越えて恋を成就させる』なんて書くとコテコテのお約束に見えるけど。両親の妨害とか周囲の無理解はあえて厳し目に描かれているし、育ちの違いで生じる考え方のすれ違いとかも現実的じゃん。それでも互いの考え方を尊重することを学び成長していく2人の姿とか、離れ離れになっても再会を信じて誘惑を跳ね除ける心の強さとか、ほだされて仲を応援してくれるようになっていく周囲の人々との絆とかーー」
「わかった。わかったわよ」
早口で詰め寄るマドハをげんなりしつつ押し留める。
ため息をつきながら、棚に戻しかけた『セマスとヒロマッテ』を再度手に取った。
「良い作品なのはわかったけど、私は乗りきれないわね」
「なんでさ」
メディナは挿絵の中で寄り添う貴族男性と使用人の女性を見やり、目をしかめる。
「
メディナの父と母の間に、”下半身”以外の関係があったことは間違いないだろう。
互いに想い合っていたのか、男の一方的な思慕で女は端から打算しかなかったのか、それ以外の事情があったのか。
だが結局の所、父は外聞を優先して母を遠ざけ、母は庶民としては破格の恵まれた幽閉生活に安穏としている。
厄介者の女児のおまけ付きで。
「子供にとっては、いい迷惑。高層側には受け入れてもらえず、低層の社会にも適合できない半端者の出来上がり。
身分差然り、世代差然り、種族の違い然り。
異なる社会階層間の過度な交流は、不幸しか生まないわ」
「言いたいことはわかるけどさぁ」
マドハは腕を組んで唸る。
「でも、そもそも”男”と”女”の時点で別の社会にいるはずだろ」
「————それは、そうね」
メディナは虚を突かれ暫し考え込む。
「でもそれはあくまで再生産の都合の問題よ」
「乳児死亡率が端数以下に下がって、孤児院が満員になってる現状で、”再生産の都合”は無視できるだろ」
都会を離れると事情は違うかもだけど、とマドハは続ける。
「オレは良かったと思ってる。圕に入って、アフツァック以外の人達と仲間になれて、異種族の友達ができて、それが当たり前じゃないって人の考えも知れて」
「……その”異種族の友達”が、自らの出自のせいで苦労したことは知っているでしょ」
『苦労』の一部に、自分の過去の言動も含まれている。
その事実が齎す小さな痛みを、メディナは少しづつ受け入れつつあった。
「大変だったことは知ってるし、それを否定することも美化することもできないけど。
少なくともオレはオウガとシオが生まれて来ない方が良かったなんて絶対思わないし、そんなこと言うやつは全員ぶっ飛ばす」
「————」
宙に向かって拳突を放つマドハを見ながら、貴族の不都合な落とし子が『生まれて来ない方が良かった』と言われていても、同じようにぶっ飛ばしてくれるのだろうか、とメディナは考えた。
ぶっ飛ばすのだろう、きっと。
マドハはそういうやつだ。
メディナは再度ため息をつき、『セマスとヒロマッテ』を抱えて受付に向かう。
「お。借りるんか、それ」
「勧められた手前、仕方ないから読んでやるわ」
澄まし顔でそっぽを向くメディナに、マドハはニヤニヤと笑いかける。
「そんなこと言って、明日にはハマってる姿が容易に想像できるぜ」
メディナも負けじと口の端を吊り上げる。
「クソつまらなかったら、思う存分馬鹿にしてやるわよ」