カナ=ミドリィの夜は長い。
人間には本来、最低限必要な睡眠時間があり、それは長さで1日の三分の一程度から四分の一程度とも言われる。
そして、その必要量を下回ると、途端に活動効率を維持できなくなるものだ。
いくら効率的な睡眠、他の健康的と言われる生活習慣を導入したところで、この時間的制約から逃れることは叶わない。
だが、必要睡眠時間には個人差がある。
大抵は一刻程度の差でしかないが、ごく一部にはとても長い睡眠を必要とする人、極めて短い睡眠しか要しない人がいる。
カナは後者の、
短期なら三日三晩寝ずに過ごしても不都合を感じないし、長期的にも1日に一、二刻の睡眠時間で事足りる。
仕事中毒の事務職員や受験生、作戦中の軍人にとって垂涎の体質ではあるが、本人にとっては不都合も存在するのだ。
「……退屈なんだよね」
夜半を過ぎた中央圕の中庭。
人一人いない瀟洒な庭園を眺めながら呟いたカナの独り言は、普段より幾ばくか寒い夜空に溶けて消えた。
同室で幼馴染のアヤは明日の案内室実習に備え予習を終えて寝台に入ってしまったし。
借りてきたモイラの新作小説は読み終えてしまった。
普段より時間をかけて予習と復習をやり終えても、一向に眠気は襲ってこない。
書架が開くのは日中だけだし、手持ちの本も読み終えたもの以外は退屈で気乗りせず、態々貴重な光源を消費してまで読む気にはなれなかった。
それなら、夜な夜な中庭を超高速で全力疾走していると噂される金髪の幽霊(勿論、正体に見当はついている)をからかってやろうかと意気込んで出かけたものの、行き違いになったのか姿は見えない。
あてが外れ、ため息をついてカナは夜空を見上げた。
妙に月が明るい夜だ。
月? 今日は新月だったのでは?
否――。
(マナの光?)
高密度のマナが放つ”イブ”と称される白銀の燐光。
圕内の光源として見慣れた光が、ぼんやりと屋根の尖塔を照らしている。
光っているのは、少女だった。
(あれは――)
シンシア=ロウ=テイ。
次代の”圕の大魔術士”とも目される、噂の渦中にいるカドー族の
彼女が、屋根の縁に腰掛けて、物憂げに夜空を見上げている。
他の司書見習いとは別にマナを制御するための教育を受けていたが、それに区切りもつき先日皆の授業と合流したばかり。
色々と謎の多い人物であるが、こんな夜更けにあんな立ち入りも難しい場所を徘徊しているのを見ると、俄然怪しさが増す。
普段なら危うきに立ち入らず、放って置く所だが――。
その日はたまたま暇を持て余していたのと、孤独に夜陰の中で佇む姿に昔の自分を重ねたこともあり。
「こんばんは。おチビちゃん」
かつてはアヤを追って野山を駆け回っていたカナの足腰は強く、庇を伝って屋根に登るくらいならわけはない。
驚かさないよう建物の反対側から登り、五六歩離れて声をかけたのだが、白い少女は大袈裟なくらい飛び上がった。
体から発していたマナの光を大急ぎで抑え込むと、追い詰められた小動物のように、身構えながらカナの方に振り向く。
「だ、...誰っ?」
ややたどたどしさが残るヒューロン語。
カナは肩をすくめながら敵意がないことを示すように両手を上げた。
「特に用事があるわけじゃないよ。夜の散歩中に知った顔を見かけたから声をかけたけど、お邪魔だったかな?」
「――アナタ、『大衆文学の会』にいた…」
「カナ=ミドリィだよ。君は、――えーっと、この間見習いに合流した…」
幾ばくか警戒を解いたシンシアは小さく頷くが、その顔にはまだ強い疑念と緊張が伺えた。
これは話しかけたのは失敗だったか、さっさと退散するか、などと考えているカナだが、ふと、シンシアの服の裾が濡れているのが目に入った。
「君はどうしてこんな時間に?」
「えーと……」
顔を伏せて暫し逡巡していたシンシアは、恐る恐るといった感じで呟いた。
「部屋が…その、雨漏り、して。
毛布がびしょびしょで」
見習いで唯一個室である総代候補の部屋は、厳重に警備された区画にあり、その一角は比較的金のかかった豪奢な外観で、雨漏りするような杜撰な造りには見えない。
明らかに気まずい何かを誤魔化している態度。
しかし、夜尿漏れに対するような羞恥を感じない。
それは、よく知っている、疎外感故の惨めさを耐える時の表情だった。
傀儡の大魔術師の強引な次期総代推薦が中央圕、特に守護室で顰蹙と反発を買っていることはよく知られている。
一部の従者による陰湿な追い出し行為でシンシアが精神的に参っていたことも、シオ=フミスから聞いていた。
(…ああ、そういう)
なんとなく状況が飲み込めた。
政治が絡む状況であり、カナにとって首を突っ込むメリットはない。
だが、見て見ぬふりをしたままでは、心地よく安眠できそうもなかった。
「一つ聞くけど、”雨漏り”は一、二刻で解決しそうかい?」
「……それ位したら、毛布は乾きそうだけど」
カナは屋根から近くのバルコニーに跳び降りるとと、シンシアに向けて手を差し出した。
「乾くまで、お茶でもしないかい?
私も眠れそうにないんだ」
シンシアは首を傾げた。
※
中央圕の水事情は大陸の中でもかなり恵まれた部類であり、態々井戸や水源まで足を運ばなくても水道の蛇口を捻れば無料で清潔な水が手に入る。
携帯加熱機で煮沸すれば、好きな時好きな場所でに茶が楽しめるのだ。
急須に加工された香草を入れ湯を注ぐと、いい香りが談話室に広がった。
適度に蒸らしてから茶杯に取り分け、常備している日持ちする菓子のつつみと共に、対面にちょこんと座ったシンシアに勧める。
「眠気が覚める類のお茶じゃないから、寝れなくなるのを心配しなくていいよ」
「……ありがと」
シンシアはおずおずと差し出された茶杯を受け取って慎重に口元に傾けた。
少し落ち着いたのか、目を閉じて一息つく。
「おいしい」
「そりゃよかった」
カナは手慣れた風に親指と人差指で杯をつまんで一口含む。
「あの……、ミドリィさんはどうしてこんな時間に?」
「さっき言った通り、中々寝れないんだよ。今晩に限らず、人より睡眠時間が短い体質でね。良い面は多いけど、寝たい時に寝れないのは困ったものさ」
シンシアもそういう体質の存在を知ってはいたが、実際に会うのは初めてなので、目を丸くする。
「困ることも、あるの?」
「毎晩暇潰しになるものがあるとは限らないからね。でもまぁ……」
カナは茶杯を卓に置いて、何かを思い出すように遠くに目をやった。
「人目を避けて外で遊ぶのには、便利ではあったよ」
シンシアは息を呑んだ。
「……どうして」
「ああ、大した理由じゃないよ。『陸側』と『海側』の軋轢は知ってるだろう」
ラコタ族の中でも陸側と海側と呼ばれる集団の間には歴史的な禍根が残っており、いまだにいさかいが絶えない。
「ご覧の通り、私は『海側』だけど、小さい頃周りは『陸側』ばかりでね。殴られたり直接どうこうはなかったけど、大勢の輪の中に入れてはもらえなかったな。それなのに目立つ行動は許されないから、一人になりたい時は夜、外に出て星を眺めていたよ」
カナは何でもない風だが、シンシアは目を伏せてうつむいた。
「つらく、なかった?」
「無彩の放浪者に生まれたカドーに比べたら、大したものじゃないさ」
それに、とカナは茶杯を取り上げて笑った。
「私にはアヤちゃんがいたからね」
シンシアは目を瞬かせる。
「グンジョーさんのこと?」
カナは頷いた。
「私が一人で虫をいじってたら、勝手に話しかけてきたんだよ。同情でもお節介でもなく、単に『すばしっこい虫を捕まえられるのがすごい』って」
変わった奴だろ、とカナは肩を竦める。
「でも、それからは退屈することはなかったな。学校に行くのが苦でなくなったのは、アヤちゃんのお陰だよ」
いつもは何処か皮肉げで一歩引いた態度のカナだが、その時の言葉からは素直な感謝と確かな友情が感じられた。
シンシアの脳裏に、窮地でかけられた師の言葉が浮かぶ。
『この世に苦しみを与えるのも、救いを与えるのも、あくまで人なのだ』
きっと自分にとって父が、シオがそうであったように、カナにとってはアヤの存在が孤独な夜の救いだったのだろう。
「……いいヒトだよねグンジョーさん」
「変わってるってだけさ」
カナは肩をすくめながらも、まんざらでもなさそうな様子。
「まあそんなわけで、何か困ったことがあるなら級友を頼るといいよ。フミス君が頼りにならなきゃ私でも、ね」
シンシアは勢いよく首を降る。
「シオが頼りにならないとかじゃなくって。いつも、ワタシが、メイワクかけてばかりだから。
しっかりしなきゃって思うけど、うまくいかなくて――」
そこまで言ってから、再度落ち込んだようにうつむく。
「シオもグンジョーさんもすごい成績なのに、ワタシは足引っ張ってて。これ以上厄介者になりたくない」
「まあ、おチビちゃんがそう思うなら無理強いはしないけど。そのフミス君も、ここに来たばかりの頃は酷い成績だったよ」
意外そうに目を丸くするシンシア。
「ホント?」
「ホントホント。
当時を思い出してクックッと含み笑うカナ。
「あの三人も、散々他の人の世話になったり、迷惑をかけてここまで来ている。
「あ――――っ!」
不意に頭上から大声が聞こえ、見上げると級友のミホナ=クォアハウとトゥトゥル=シウの寝間着姿があった。
「二人ともこんな時間にお茶飲んでる――っ!」
「ちょっとミホナさん、夜中だから声落とし……って、なんか二人だけでおやつ食べてる――っ!」
ふたりがドタバタと階段を下りてくる音と共に、談話室は騒がしくなる。
戸惑うシンシアに、カナは片目を瞑ってみせた。
「だいたい、君が一人で悩んでたら、きっと周りが放っておかないんじゃない?」
今作で、一旦シリーズは最後です