ロスタイム・トゥ・セイ・グッバイ   作:カレー味

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前編

「いい雨だね」

 

 そう一人ごちて、駆逐艦娘時雨は所在なく雨模様の空を見上げていた。

 

 ここは軍港都市、観光客で賑わう繁華街からは少し外れた商店街の端っこ。所属するうみどり艦隊の休暇で上陸していた彼女は、不意の通り雨に降りこめられて雨宿りをしていた。

 

 街に繰り出したときには、まだ幾人かの仲間が一緒だった。しかし繁華街を散策中に激しい通り雨が降り出して、避難先を求めて右往左往する人波に揉まれるうちにいつしか連れとはぐれてしまっていた。

 

「レーベたちは無事帰れたのかな……?」

 

 支給されている端末から連絡をしようと思ったが、いざ確かめるとバッテリーが切れていた。そうだった、昨夜配られた端末を充電にかけておくのを忘れて、今朝出がけになって充電切れ寸前だったのに気がついたのを今さらながら思い出した。

 

 時雨は端末の扱いを覚えられないほど愚かではなかったが、どうにもこのような現代の技術が苦手だった。純粋種の艦娘として海で生まれてからまだそれほど長く暮らしていない時雨には、現代から150年以上昔の20世紀半ば頃、鋼鉄の戦闘艦として海を駆けた時代の認識から脱却しきれていないところがまだ残っていた。

 

 この端末は通話のみならず電子決済機能も兼ねている、艦娘の上陸においてなくてはならないものだ。それでも時雨にだって今日一日を遊ぶには困らないくらいの現金の持ち合わせもあったし、もしも艦隊から緊急連絡があったとしても、仲間の端末さえ無事なら大丈夫だろうと油断していた。それなのにまさかこんな簡単に仲間とはぐれてしまうことになろうとはうかつだった。

 

「いい雨だねぇ」

 

 強がりを言ったがちっともよくはない。せっかくの休暇につまらないトラブルに見舞われて、時雨は恨めしげに雨模様の空をにらんだ。

 

「ちょっと、あんたどこの艦娘さんよ? そこはうちの店先なのよ、雨宿りするなら寄っていきなさいよ」

 

 時雨のそばでドアベルが鳴り、反射的に目を向けた戸口からエプロン姿の女が顔を出していた。かすかに漂うコーヒーの香りが時雨の鼻をくすぐり、建物を見上げれば『純喫茶 プリムローズ』と銘された看板が掲げられていた。

 

 

 誘われるままに招き入れられた店内は、薄暗かったが清潔ではあった。時雨のほかには客の影はなく、カウンターを挟んで時雨と店主らしき女の二人きりだった。天井に吊られたスピーカーからは、時雨にはわからない欧州のどこかと思われる国の言葉で歌う女の声が流れていた。

 

 雨宿りをしていた事情を話すと、店主は充電器を貸してくれた。聞けば、海軍の端末とはいえ充電規格は民生品と変わりないらしかった。そのかわりになにか注文しなさいよと悪戯っぽく笑う女に、時雨はなぜか心惹き付けられる印象を覚えた。

 

 店主は、今田屋真白と名乗った。歳の頃は三十前後だろうか、彼女がコーヒーを淹れる仕草を眺めながら、綺麗な人だな、と時雨は考えていた。整った顔立ちもさることながら、ジーンズがはち切れそうな腰回り、エプロンを吊り上げるほどの豊かな胸……

 

「はい、お待ちどうさま。それで時雨、あんた所属はどこなの」

 

 ついよからぬ雑念に浸っていたところを不意に名前を言い当てられた。まるで内心を読まれたようで時雨は面食らい、弁解でもするかのように正直に答えてしまった。

 

「う、うみどりだよ。ゆうべ入港したんだ」

「あぁ、あの後始末屋の! それじゃあ今もこの街が平和なのはあんたたちのおかげってわけね、感謝してるわよ」

 

 以前、街に潜伏していた深海棲艦が艦娘や住民を多数洗脳して大暴動を引き起こした事件はいまだ記憶に新しい。その鎮圧においてうみどり所属の艦娘たちの多大な貢献があったことは、軍港鎮守府の発表により市民にも広く知られていた。もっとも、時雨自身はまんまと洗脳されて暴動に加わり、あっけなく鎮圧された側だったのだが。

 

「……真白さんは平気だったのかな?」

 

 自身の失態はさりげなく伏せて時雨が問い返すと、真白は不機嫌そうに眉を寄せた。

 

「酷い目に遭わされたわ。あんなのもう二度と御免よ」

 

 あの騒ぎは歓楽街に始まり鎮守府へ、そして港へと波及した。この店のあるあたりは主な被害区域からは外れていたのだが、不幸にもたまたま外出中だった真白はしっかり事件に巻きこまれた。『量産』の曲解を受けて親玉と同じ破廉恥な格好にされ、暴動に加わっていたところを例の洗浄液で無力化されたのだった。

 

「元気出してよ真白さん。実を言うとね、あの事件では僕も不覚を取った口だったんだ。おかげで治療の実験台にされたんだよ」

 

 カウンターに突っ伏して不幸だ不幸だと呻く真白がなんだか可哀想で、時雨は思い出したくもなかった醜態をつい打ち明けてしまった。

 

「……なんだ、あんたもだったの? あの馬鹿みたいな格好を?」

 

 のろのろと起き上がった真白と二人顔を見合わせて、思わず一緒に吹き出してしまった。

 

 ところで、時雨は海で生まれた純粋種、本来なら呪いに侵されて人類を憎むカテゴリーMに分類される艦娘のはずだった。

 

 その呪いは今でこそかなり薄れていると評されてはいたが、時雨が信頼できると判断した身近な人々のほかには、人間に対するうっすらとした不信を今でも捨てきってはいない。

 

 それなのに、ついさっき知り合ったばかりの真白に対して、こんなに親しげに接してしまう自分がなんだか不思議に思えた。不思議ではあったが、それは時雨にとって好ましい気分だった。

 

 

「真白さんってさ、妙に海軍のことに詳しいよね? 僕の名前だって、すぐ言い当てられちゃったし」

 

 しばらく真白と話しこんでいるうちに、浮かんできた疑問がなんの気なしに口をついて出た。時雨自身に含むところはないつもりだったのだが、問われた真白は不審げな眼で時雨を見つめていた。

 

「あんた、もしかして相当な田舎者ね? 初めて艦娘が世に現れてから、もう八十年以上過ぎてるのよ。ましてやこの軍港都市で商売をしていて、艦娘の顔がわからないやつなんていないわよ」

 

 田舎者じゃないよぅ、と時雨も言い返しはしたが、まさか自分が海で生まれたとは言えなかった。純粋種は人類を憎む危険な存在、今となっては一般にはそう認知されていることは時雨にもわかっていた。もし真白にそれを知られたら、この心地良い出会いもこれっきりに終わってしまうかもしれない。少々癪だけど、しばらくはカテゴリーCのふりをしていようと、時雨はそう心に決めた。

 

「でもね、私が海軍に詳しいのもわけがあるのよ。なんたって、私もここ軍港鎮守府のOGなんだからね。時雨、私が昔どの艦娘だったか、わかるかしら?」

 

 そう問われて時雨はまじまじと真白を見つめ直した。化粧っ気は薄いのにまつ毛が長い、目鼻立ちが整っている、肌が白い、総じていえば顔がいい。いやそれは今問題じゃない。

 

 時雨はカテゴリーMの生まれなので、人間から艦娘になるカテゴリーCであれば当然教育を受けているはずの、艦娘としての基礎的な知識にうとい。うといなりにも真白と出会って心に引っ掛かっていたあれこれの事柄が、ふと組み上がって時雨に閃きを与えた。

 

「ひょっとして、山城? 戦艦山城なのかい?」

 

 時雨がそう答えると、真白は満足げな笑みを見せた。山城は時雨にとって縁深い艦であった、人間嫌いの時雨が最初から彼女に惹かれた理由が少しわかった気がした。ふと、さっき聞いたフルネームを思い出した。今田屋・真白、イマダ・ヤマシロ。それじゃあまるでダジャレじゃないかと少し可笑しく思ったが、時雨は苦心して笑いを噛み殺した。

 

 実艦の時雨に縁のあった艦をルーツに持つ艦娘には他にも幾人か会ったことがある。妹の夕立はうみどりの仲間であるし、村雨とも共闘したことはある。一水戦時代から西村艦隊、ヒ船団までの僚艦とも幾人も知り合った。しかし、元・扶桑型の艦娘と知り合うのは思い返せばこれが初めてだった。

 

「それじゃ、真白さんは保前提督の部下だったのかな?」

「いいえ、私の提督は保前さんの前任者だったわ。ある事件をきっかけに海軍を退いて、街から出てってそれきりよ。私もじきに艦娘を辞めて、あれからもう何年になるかしら…… 提督からは時々便りをよこすくらいで、もうずっと会っていないのよ」

 

 ある事件? 現在の軍港鎮守府を率いている保前提督がここに着任したのが何年前のことなのか、時雨はよく知らない。ただ彼の同期で時雨の上司でもあるハルカちゃんこと伊豆提督がうみどりに着任して十年ほどになるということは時雨も聞いていた。それくらい昔に起きた、この街を管理する提督が辞任するほどの事件とはなんだったのか。内心興味が湧いたが、訊ねるのははばかられる気もした。

 

「気になるって顔してるわね。……まあいいわ、あんたも艦娘なら聞いておいて損はないことよ、教えてあげる」

 

 真白は背後の棚から写真立てを持ち出すと、カウンターに置いて時雨に示した。

 

「現役の頃の私たちよ」

 

 写真の中央には、硬直した笑顔の艦娘が写っていた。今の真白と同じ顔ではない、今の真白はこんなに硬い笑顔もしない。それでも、戦艦山城であるという写真の艦娘と、目の前にいる真白との間に、確かな繋がりを時雨は見てとった。

 

 写真には他にも二人の艦娘が一緒に写っていた。一人は山城と同じ制服を着た、柔らかく微笑む長髪の女性。おそらくは彼女が扶桑なのだろうか。そしてもう一人、親しげに山城と肩を組む、改二制服の時雨が写っていた。

 

「扶桑姉様…… と言ってももちろん艤装姉妹というやつで、実際に私と血縁があったわけじゃなかったのよ? 結局、姉様の本名だって最期まで知らずじまいだった。それでも、まるで本当の姉のようによくしてくれたわ。いつも一緒だった、いつも私を励まして支えてくれた」

「こっちの時雨もね、なにが気に入ったのかいつでも私たちについて回ってねぇ…… 非番の日には三人でよくこの街を遊び回ったものだわ、このお店はもともと私たちの行きつけだったの。私が艦娘を辞めて、そしたら先代のマスターがもう歳だからこの店を継がないか、って誘ってくれたわけ」

 

 自分の身の上をそこまで話して、じゃあ本題に入るわと真白は話題を切り替えた。

 

「時雨、あんたの背格好はもう改三になれてるのよね? うちの時雨はなれなかったわ。もうじき届くはずだった、それなのに最期の出撃から帰ってこなかった。時雨も姉様も、他のみんなも。連合艦隊十二人が全員未帰還、そんな大惨事が昔あったのよ」

 

 ずっと昔の話なら、艦娘を捨て駒にする提督というのは確かにいたと聞いた。そういう人間の所業が時雨のような呪いに侵された艦娘を生み出す一因となった。しかし、人間から艦娘になるカテゴリーCが主流の現在では、そんな無茶な運用など常識的にはありえないはずだった。

 

「あの日、私は司令室で提督の側にいたわ。艦隊との通信も全部聞いていた、今思い返してもあまりに荒唐無稽すぎる報告だった。空母が戦艦砲を撃ち、軽巡が艦攻を飛ばしてきたわ。それどころか、奴らはどれだけこちらの砲撃を受けようとも、その場で損傷を直して何度でも立ち向かってきた。明らかに普通の深海棲艦ではなかったわ」

「提督は撤退を指示したけど、敵が多すぎてとても包囲を破ることはできなかった。通信はじきに途絶え、結局誰一人として帰ってはこられなかった。記録はすべて報告を上げたけど、大本営はそれをたちの悪い作り話と決めつけたのよ」

 

 時雨には心当たりがあった。その敵はおそらく、うみどりが今も追い続けている宿敵、出洲一派が造り出した改造深海棲艦だ。予備知識も対策もなしに、ただの艦娘が奴らに立ち向かうのは難しいはずだ。当時の軍港鎮守府の艦隊は奴らに襲われ、なすすべもなく蹂躙されたのだろう。その後は奴らの狂った実験の素材に供されたのに違いない。

 

「連合艦隊十二名が全滅した大惨事の戦闘詳報は、提督が自らの失態を糊塗するでっち上げとみなされた。彼は責任を問われ、海軍から放逐されたわ。私も程なく艦娘を辞めて、それからさっき言った通りこのお店を引き継いだのよ」

 

 当時の現場を知る真白が語った大本営の対応に、時雨は恣意的な不自然さを感じた。今でこそ瀬石元帥の手で一掃されたが、その頃の大本営内部にはまだまだ出洲一派の息がかかった幹部がいたはずだ。目的は素材集めか、それとも新兵器の実地試験か。軍港都市の艦隊を出洲に襲わせ、その責任を司令官にすべておっかぶせたのだとしたら? ありえない話ではない、これだから人間は! と時雨はあらためて人類の悪行に苛立ちを覚えたが、真白の前で怒ってみせても仕方がない。だから時雨は努めて平静な態度で耳を傾けていたが、この事件はあとで調べてみようと心に留めた。

 

「……そんなことがあったんだね。真白さん、あなたも辛かっただろうに話してくれてありがとう。僕たちも気をつけるよ」

「いいのよ、昔のことよ。 ……ねえ時雨、あんたはうちの子のように沈んでしまったりするんじゃないのよ。そして、また私のコーヒーを飲みにきてちょうだい」

 

 会話が一段落する頃には端末もそれなりに充電が進んでいて、電源が切れていた間に何度もレーベたちの端末から不在着信が入っていたのがわかった。それに、そろそろ店を出なくては出港に間に合わなくなる刻限が近づいていた。

 

「それじゃあ真白さん、僕はもううみどりに戻るよ。コーヒー美味しかった、次の寄港でもきっと来るから」

 

 店を出た時には、もう雨は上がっていた。夕暮れの迫る街を、時雨は小走りに港へ急いだ。名残は惜しかったが、次の休暇でもここに来ればまた真白に会えると思うと、柄にもなく心が浮き立つ思いだった。

 

 

 遅刻スレスレでうみどりに帰り着くなり、時雨はさっそく真白から聞いた事件について調べ始めた。まずはうみどりでも一番の古株である神風にそれとなく訊ねてみたが、彼女ですら事件についてはなにも知らなかった。ただ、イリスに頼めばうみどりのデータベースをあたることができるだろうという助言を得ることはできた。

 

 しかし、イリスに頼んで閲覧した内容には、真白から聞いた通りの大本営の公式見解がそのまま記されているだけだった。妙なことを調べているといぶかしむイリスに、時雨は真白に聞いた改造深海棲艦との戦闘記録について、真白のことは伏せたうえで打ち明けてみることにした。彼女はその内容が出州一派の活動の証拠として興味を引くものであることには時雨に同意したが、時雨自身がその謎を追うことには難色を示した。

 

 大本営が隠蔽している情報に触れるのは時雨やイリスはもちろん、うみどりの司令官であるハルカですら難しいことであった。そういう情報に触れようとするのなら、たとえばうみどりともつきあいの深い昼目提督率いる調査隊のような専門の部隊ほどのクリアランスを持つのであれば、元帥の許可のもと初めて知り得るくらいのものよと、イリスはそう教えてくれた。

 

 

 

 海の上ではそれ以上の調査はできず、それから数週間は瞬く間に過ぎたようだった。うみどりはまた一つ大きな任務を終えて、そろそろ荷を下ろしに再び帰港しなければならない頃合いだった。

 

 最終日の作業を終えた時の時雨は上機嫌だった。薬液シャワーを浴びながら、あの日真白の店で流れていた歌をわれ知らずうろ覚えの鼻歌に歌っていたところを、隣で聞きつけた深雪にからかわれたくらいだった。いつもの時雨ならきっと悪態の一つも言い返していただろう、でもその時ばかりはなにを言われようとまったく気にもならなかった。

 

 明けて翌日、清浄化率の経過観察日を時雨は一日そわそわし通しで過ごした。普段なら休暇をともに過ごす仲間とあれこれ街歩きの計画を練るのが常であったが、パンフをめくりながら皆が意見を交わしあう中にも、時雨だけはどこか上の空だった。シグレはどこに行きたい? と問われても、思い浮かぶのは真白の店だけだった。

 

 

 

 翌日の軍港へは早朝からの入港になった。今回はうみどりも船倉の廃棄物処理ラインなどを重点的に洗浄整備する予定があり、作業を請け負う専門業者が入ってくるので、寄港は一晩泊まりがけの予定となっている。普段は艦娘たちの休養を優先させて自分たちはあまり出歩かないうみどり司令部の面々も、今回はひさしぶりに羽を伸ばせることだろう。

 

「いやぁ、このところ寄港は厄介事続きだったからね。今回はみんな楽しめるといいね」

 

 昨夜より続く上機嫌からか、そんな時雨らしくない言葉も口をついた。周りからもそうだそうだと賛同する声が上がりはしたが、そうは言いながらも皆はいぶかしげに時雨の顔色をうかがっていた。誰かが熱でもあるんじゃないかとつぶやいたが、時雨は聞かなかったそぶりで流した。

 

 

 昼前までは時雨も仲間と一緒に散策を楽しんだ。幾度か訪れてすっかり見慣れたはずの街並みだったが、今日ばかりは見るものすべてが新鮮できらびやかに映ったのが実に愉快だった。

 

「すまないね、僕はちょっと行きたいところがあるんだ。午後は一人にさせてもらってもいいかな」

 

 皆がどこで昼食を摂ろうか相談を始めた頃、時雨はそう告げて独り抜け出した。呆気に取られて見送る皆を背に、足早にプリムローズを目指す時雨は有頂天だった。昼食は絶対そこで食べようと心に決めていた、パスタにしようか、サンドウィッチもいいな、もしかしたらご飯ものもあるかもしれない。なんでもいいや、真白さんの手料理、楽しみだなぁ!

 

 

 脇目も振らずプリムローズまで歩き着いて、店のガラス戸に手を伸ばしたとき、いきなり内から戸を開けられた。時雨は驚いて一歩、二歩後ずさると、店内から背広の男が姿を現した。男は目を丸くしてしばし時雨を見つめていたが、急に我に帰ったように頭を下げた。

 

「不躾な目を向けて申し訳なかった、あなたが昔の知り合いに似ていたものでね」

 

 そんな短い詫び言だけ述べて足早に立ち去った男の風貌に、時雨は見覚えがあった気がした。流れた歳月の分齢を取ってはいたが、彼こそは先日海軍のデータベースで見た、この軍港鎮守府の前任提督ではなかったか?

 

 扉をくぐると今日も店内には客はおらず、真白は肘を抱いてカウンターの向こうに立ち尽くしていた。

 

「……あら、お帰りなさい。時雨」

「こんにちは真白さん。あの、今出て行った男って」

「うちにだってお客さんくらい来るわよ、喫茶店なんだから」

 

 お帰りなさいと言われたのはなんだか嬉しかったが、真白はそっぽを向いたままだった。その場を取り繕おうとしている態度があまりに露骨すぎて、時雨はつい真白に詰め寄ってしまった。

 

「あの人が真白さんの提督だったんでしょう? 詮索してごめんね、事件が気にかかってあの後僕もいろいろ調べたんだ。たいしたことはわからなかったけどね」

「それでも何年も顔を見せなかったっていう人が急に訪ねてきたところに居合わせたら、さすがに僕だって気にかけるよ。真白さん、もしかしてあの男になにかされたの? もしそうなら、あんな奴二度とこの街の土は踏ませないよ」

「待って待って、あんたなにか勘違いしてるわ。彼はそんな人じゃないのよ」

「じゃあなんで今さらここに?」

「あんたが気にすることじゃないのよ」

 

 真白は鼻息を荒げる時雨をなだめようとはするが、時雨が肝心なところを聞き出そうとすればはぐらかした。

 

「真白さん、それは貴女から見たら僕なんてただの客で他人なのかもしれないさ。でもさ、まだ二度目だけど僕は本当にこのお店が気に入ったんだよ。この前、ここで美味しいコーヒーをいただきながら真白さんと過ごしたひとときは本当に楽しかった。あの日から僕は毎日海の上で働きながら、またここに来れる今日をずっと待ち焦がれていたんだ。それなのに真白さんが辛そうにしていたら、僕も悲しい。いらないお節介かもしれないけど、僕が真白さんを心配するのはそんなにいけないことなのかな?」

 

 思いの丈を一息に打ち明けて、時雨が見上げた真白は少し涙ぐんでいるようだった。

 

「……はぁ、やっぱりあんたも同じ時雨なのね、強情なところはあの子に似てるわ。あと感情が重たいとことか」

 

 軽く涙を拭って、真白は時雨にカウンター席を勧めた。

 

「なんでかしらね、あんたがうちに来るのは決まってあの子のことを思い出してたときよ。あるいはこれもあの子の引き合わせというものかしら」

「お昼まだでしょう? 私もまだだから、一緒に食べながら話をしましょうか」

 

 

 なぜか出された昼食はカツ丼だった。喫茶店には似つかわしくないようで時雨にとっては奇異に感じられたが、真白が昔同僚に教わったトンカツを活かした人気メニューだと聞かされた。

 

「提督に会うのも何年ぶりだったかしら」

 

 食後のコーヒーを用意しながら、真白は話を切り出した。

 

「提督が海軍を辞めるときは、内陸の故郷に帰って家業を継ぐつもりだって言ってたわ。こんな時代だから商売も楽じゃなくてね、それからどうにか軌道に乗せるまではずいぶんと苦労をしてたみたい」

 

 ふうん、と生返事をしながら時雨は真白の顔ばかり眺めていた。穏やかな表情で、少し浮ついた声で、かつての上官のことを語る真白のたたずまいは、一見して昔馴染みとの無事の再会を喜んでいるように見えた。だが時雨が入ってきたときの、所在なさげに肘を抱えて立つ真白から見てとれたのは、不安と戸惑いだった。

 

「あのね時雨、今日提督が訪ねて来たのはね」

「うん?」

「海軍を辞めるときはいろいろあったけど、心機一転家業に精を出して、あの事件のことで悪い噂を囁かれることもあったけど、誠意と努力でようやく周りにも認められるようになって……」

 

 意を決して話を始めたはずなのに、ずいぶん回りくどい説明から入るんだなぁ、と時雨は内心呆れ、まだまだ先は長そうだとコーヒーを一口すすった。

 

「だんだん暮らし向きも安定してきたということで、結婚を申しこまれたわ」

 

 時雨はコーヒーを吹き出すような不作法はしなかったが、こらえた拍子に少しだけ鼻腔に入ってしまった。

 




 真白のビジュアルイメージは迅鯨の春グラになんとなく山城っぽい顔を乗せた感じでご想像ください。
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