「結婚を申し込まれたのよ」
ケッコンってなんだっけ…… 時雨は茫然と真白の告白を反芻していた。
うみどりに所属する艦娘たちはみな高練度を誇り、司令官であるハルカちゃんこと伊豆提督により練度上限解放の儀式を施されている者が多い。
「一応言っとくけど、上限解放のあの儀式じゃないのよ。ガチのやつ、カッコもつかないマジマリッジ」
艦娘がこの世に初めて顕われてより八十余年、戦間期を挟みつつ三度にわたり戦われている人類と深海棲艦との大戦。その第一次のころ、純粋種の艦娘しか存在しなかった時代には、ケッコンカッコカリと呼ばれる上限解放の儀式として、提督から艦娘への指輪の贈呈が行われていた。当時からの唯一の生き残り、元・潜水艦の主である丹陽から聞いた話だ。
それ故なのだろうか、かつては人間である提督と純粋種の艦娘が本当に愛し合い、結ばれて夫婦となる例は少なくなかった。ただし、普通は人間と艦娘の間に子供を持つことはできない、丹陽自身も結局子宝には恵まれなかった。時雨の知る限りでは、その唯一の例外が伊豆提督とその両親である。
ただ、純粋種が戦争の表舞台から姿を消し、公的には人間から艦娘になるカテゴリーC艦娘のみしか存在しない現在となっては、ケッコンに際して指輪を贈る風習も廃れた。うみどり所属の純粋種にもケッコンの儀式を受けた者が複数いるが、別に指輪はしていないし伊豆提督の妻になったわけでもない。
「まあねぇ、こう見えて私も現役だった頃にはケッカリを受けてた身だったのよ。最古参戦艦としてエース張ってたんだから?」
「驚いたな、真白さん強かったんだね」
混乱してケッコンと結婚を混同しどうでもいいことばかり思い返している時雨をよそに、真白の昔話は続いた。
「いや昔のことはいいんだよ真白さん、大事なのは今でしょう。求婚されたんだよね? それで、返事はどうしたのさ」
時雨が問うと、真白は耳まで紅潮して視線をそらし、時々口籠もりながら白状した。
「……すぐにはお返事できないって答えたら、来週また来るって…… ねえ時雨、私どうしたらいいのかしら」
「そんなこと僕に聞かれても。真白さんの提督のことはできる範囲で調べはしたけど、人柄まではわからないからね。悪いけど答えようがないかな」
我ながらすげない返事だとは思ったが、思うところを正直に言葉にしたら、真白はしばらくきょとんとした顔で硬直したのち、はたと手を打って言い訳をした。
「あぁごめんなさい時雨、つい昔のようにうちの時雨と話してるような気分になっちゃってたわ。そういやあんたうみどりの子だったわね、提督のことわからなくて当たり前よね」
「ここのお店は観光客向けの通りからはすこし外れているからね、軍港に立ち寄る艦娘さんがこっちまで来るのは多くないのよ。だからこの前あんたが雨宿りをしてるのを見つけたときは驚いたわ、まるであの子が改三になった姿を見せにきたみたいだって思った」
海から生まれる艦娘や深海棲艦は、ずっと過去の人間同士の戦争で沈んだ艦や乗組員の無念と恨みから生まれると言われる。いまだ確証はないが、長年そういう仮説は根強い。しかし、今やこれまでの人間自身の非道のために艦娘ですら恨みと呪いばかりを背負うようになってしまった、時雨自身もそう生まれた。けれど、今ここにいる時雨の内にもほんのわずかだけでも、真白が亡くしたかつての時雨の想いが宿ってはいないだろうか? もしも本当にそうだったなら、それを伝えることができたなら真白はどれだけ救われてくれるだろう? そう願っても、時雨自身は何も憶えてはいないのがもどかしかった。
「僕は、ただ真白さんが幸せでありさえすればそれが一番いいと思ってる。きっと、かつての時雨も同じように考えるだろう。でも、どういう選択があなたにとって幸せになるのか、それが僕にはわからない。だって僕はまだ真白さんのことも、その提督のこともよく知らないから」
時雨にあるものといえば、現代に生まれ変わってからうみどりで暮らしたわずかな今生を除けば、150年以上昔に鋼鉄の艦として戦った記憶しかない。そのうちでも特に印象深く思い出されるのは、スリガオ海峡突入の失敗だ。僚艦をすべて失い、自らも舵が壊れ、戦場から単独で逃げ出すしかなかった痛恨の敗北だった。その時亡くした旗艦山城のことを、時雨の眼前にいる真白はどうしても思い出させてしまう。
「幸せかぁ…… 幸せになっていいのかしら、私」
「いいに決まってるさ。きっと時雨も、扶桑も、及ばずながら僕だってそう願ってる」
カウンターに突っ伏してうだうだ世迷言を垂れ流す真白が、ふと視線だけで時雨を見上げた。
「たとえば、あんたの幸せってなに? 私は、姉様と時雨」
提督の名は挙がらないんだ? と時雨は素朴な疑問を覚えた。
「……その提督さんのこと、好きじゃないのかな真白さんは」
「どうなのかしら。なんだか感情がぐちゃぐちゃで整理できないの」
真白は起き上がり頬杖をつくと、目を閉じて昔話を続けた。
「昔、上限解放の儀式の後でね。提督にこう言われたわ。『これまで私を支え続けてくれた君との関係を、こんな職務上の契約だけで終わらせたくない。君さえよかったら、戦争が終わったら私と結婚してほしい』って。官給品じゃない本物の婚約指輪も贈られたわ」
それってどうなのかなぁ? 職場で上司が部下に求婚とか、海軍のコンプライアンスはどうなってるんだと時雨は訝しんだ。しかし眼前で思い出話に身をくねらせる真白はどう見ても満更でもなさげな様子だった。
「なんだ、提督さんとはしっかり懇ろしてたんじゃないか。だったら、今さら何を迷うことがあるのさ?」
「その下品なハンドサインやめてくれるかしら? ……だって提督と艦娘だろうとも男と女だもの、そういう関係に踏み入ることだってあるわよ。今思い返せばあの頃の私、運は悪かったけど結構幸せだったのよね。姉様と時雨がいて、提督と愛し合って、艦隊みんな仲も良くって……」
まず真白に咎められたのはある同僚を見て憶えたハンドサインだったが、それが男女の恋愛関係というよりは肉体関係を露骨に示すものであったと時雨が知るのはまだ先の話である。
「でもあの日からすべてが変わってしまった。事件をきっかけに提督は更迭、生き残った仲間もよそへ転属したり、私のように艦娘を辞めてしまったり。今でもこの街で暮らし続けてるのなんて、もう私くらいのはずよ」
真白はふと立ち上がり、二人分の食器を片付けはじめた。洗い物をする水音を立てながら、真白は話を続けた。
「街を去る提督を見送る時、彼は約束したの。暮らしが立つ目処が立ったら、きっと迎えに来るから待っていてくれって。その言葉を信じて待って、何年も待って待ちくたびれて…… ようやくこの日が来たはずなのに、どうしてかしらね。私、どうしたらいいかわからないの」
キュッと音を立てて水を止め、真白はため息のようにつぶやいた。
「はぁ…… 幸せになりたいわぁ」
「僕だってそうさ」
そこまでで一度会話が途切れ、しばらく続いた沈黙の重苦しさに耐えかねて、話題を切り替えるように時雨は音楽をリクエストした。
「ねえ真白さん、僕がこないだここに来た時にかかってた曲、あれをもう一度聴かせてくれないかな」
どんな曲だっけ? と聞き返されたが、時雨はその曲名を知らなかった。だからうろ憶えの鼻歌を歌って聴かせると、真白はすぐ心当たったようだった。
「あぁ、『Time to say goodbye』ね? それならすぐ出せるわ」
真白が古めかしいレコードプレーヤーに針を落とすと、すぐに時雨お目当ての曲が流れ始めた。歌い出しは相変わらず時雨の知らない言葉だったが、やがて歌は時雨が唯一聴き取れた英語詞にさしかかった。
じっくり聴いてみても意味を掴めたのはそれくらいで、あとのほとんどはやはりどこの国の言葉ともわからなかった。首をひねりながらも夢中で聴き入っている時雨に目を細めながら真白が尋ねた。
「『お別れを告げる時が来た』…… なんだか寂しいような歌だけど、お気に召して?」
「そうだね。僕にはほとんど意味はわからないけど、なにか胸を衝かれる歌だよ。さみしくて不安で、それなのにどこか明るい期待も感じられて。ゆったりとした力強いリズムはまるで海上を進んでいるような。 ……そうか、似ているんだよ。生まれて初めて外海に漕ぎ出したときの気持ちに」
「それ、なんとなくわかるかも。私も訓練所の洋上公試の時は大変だったわ。あんたは駆逐艦だからわからないかもしれないけど、私は扶桑型だから艤装が重くてねぇ。パワーアシストも慣性制御もあるけど、質量が消えてなくなるわけじゃないもの。振り回されてすっ転んで酷い目に遭ったっけね」
仰向けに転んだからよかったものの、うつ伏せに倒れてたら危なかったと語って真白はケラケラ笑った。
そうしてしばらく談笑を続けているうちに、急に窓の外が暗く曇りだした。
「あらやだうっかりしてたわ、今日は午後から低気圧が来るのよ。時雨、あんたなにか聞いてないの?」
現役の海軍なら民間より詳しい予報持ってるでしょ、と訊かれたが、あいにく時雨の記憶からそんな話はスッポリ抜け落ちていた。前日からもうここに来るのが待ち遠しすぎて、今朝艦を下りる前の訓話でもそんなことを聞いたかどうかまるで定かでなかった。
返答に迷っているうちに表通りの石畳にはぼつり、ぼつりと大粒の雨が次々に落ちだして、あっという間にたらいをひっくり返したようなゲリラ豪雨となった。
「まずいわね、シャッター下ろさなきゃ」
ここで待っててと一言言い聞かせて、真白は一人で雨の通りに出て行った。ウインドーのシャッターはすぐ下ろされたが、それなのに真白はなかなか戻ってこない。心配になって時雨も表に出ると、大声で真白を呼んでみた。
「真白さん! どこ行ったの!?」
返事は店の脇の細い路地から聞こえてきた。路地に入ると、裏口の周りに土嚢を積んでいる真白を見つけた。
「表にも土嚢を積んでおかないと……」
「わかった、僕も手伝うよ」
でも、と言いかけた真白を制して、時雨は表口へどんどん土嚢を運んだ。作業はすぐ終わったが、最後に表口のシャッターを下ろす頃には二人ともすっかりずぶ濡れになってしまっていた。
「ごめんね、一張羅を泥まみれにさせてしまって」
暗い店内で灯りと暖房をつけて、泥跳ねにまみれた時雨の格好を認めた真白はすまなそうに詫びた。
「いいんだ、だって僕は後始末屋だよ? 汚れるのはいつものことさ」
服を都合してくれたイリスにはあとで謝ろう、真白に借りたタオルで身体を拭いながらそう考えていたところで、時雨は小さなくしゃみをした。
「時雨、今すぐお湯張るからお風呂入りなさい。いくら艦娘でも、そのままじゃ風邪をひいてしまうわ」
えぇ、いくらなんでもそれは悪いよ。と固辞しようとしたが、いいから言うこと聞きなさいと真白の勢いに強引に押し切られて時雨は今浴槽に浸かっている。
「やっぱり狭いんだなぁ……」
いつもはうみどり艦内の広い浴場を利用している時雨にとって、このような個人宅の浴室というのはずいぶん狭いものだと思った。しかしそれが不満というのではなく、むしろ新鮮にすら感じた。それに、そういうもの珍しさだけでなく、棚に置かれたシャンプーやコンディショナーなど、そういったありふれたバスグッズからも真白のプライベートな生活に触れられたような気がして、時雨はささやかな興奮と密かな後ろめたさを覚えていた。
(待ってよ、これじゃ僕はまるで変態みたいじゃないか!)
鼻まで湯に浸かりながら内心で誰にともなく弁解を並べていたところで、脱衣所から真白が声をかけてきた。
「時雨、私も入るわよ?」
返事をする暇もなく真白が浴室に入ってきた。ほら詰めて詰めて、とせがまれた時雨が横向きに座り直して場所を空けると、真白も浴槽に入ってきて三角座りで肩を並べる形になった。
「さっきはありがとうね、時雨。あなたのお洋服、できるだけシミをとって干しといたわ。エアコン当てといたから帰るまでには少しはましになってるでしょ」
ウン、アリガト…… 時雨にはそんな蚊の鳴くような返事しかできなかったし、とても真白の方を向く度胸もなかった。
「このお店ねぇ、場所はいいけど立地はよくないのよ。観光客向けの大通りからほどよい離れ方で、それなりにお客さんは入るんだけど…… やっぱりこのお風呂二人じゃちょっと狭いわね、よっと」
真白は話しながら姿勢を変え、時雨の肩を引き寄せた。時雨には事情の分からない世間話の合間に急に肩に手をかけられて、時雨は抵抗する間もなくなすがままだった。
「ほら、これなら二人ともいくらか脚を伸ばせるわね? そうそう、話の続きなんだけどさ、このお店って地形と道筋がよくない立地みたいでね。大雨が降れば水が来ることもあるし、風が強いとショーウィンドーに物が飛んできたりするのよ。危ないからこんなお天気の日にはシャッターと土嚢が欠かせなくてねぇ」
時雨は真白にすっぽり抱きかかえられて豊かな乳房を枕にする形になっていて、耳元でささやくような真白の話ももうほとんど頭に入ってこなかった。狭い浴槽の中でぴったりと押しつけられた肌からはやや低めの真白の体温が伝わってきて、まるで魂まで抜けそうなほどに時雨の官能を痺れさせた。
(あぁ、僕もうどうなってもいい……)
だんだんと真白の身体が温まるにつれて、しまいに時雨はどこが触れ合っているのか、どこまでが自分なのかわからなくなってきた。それはまるで真白と一つになったかのような、天国のような生殺しだった。
「着替え用意したげるから、もう少し待ってて」
生殺しタイムがどれだけ続いたのか、すでに時雨には時間の感覚もなくなっていたが、とにかく真白はそう告げて先に上がっていった。最初は狭いと思ったはずの浴槽が、今度はやけに広く思えた。
静かな浴室でなんとなくしょんぼりしていた時雨だったが、準備ができたと声をかけられるまではすぐだった。脱衣場に出るとタオルと着替えが用意されていて、どうやらジャージとTシャツは真白のお古のようだったが、下着はおそらく新品だった。
紺地に白いレースをあしらい、差し色に赤いラインが入ったデザインは、まるで白露型の制服のように見慣れた色遣いで時雨にはしっくりくるものだった。しかし、ショーツははけたもののブラは少しサイズが小さすぎた。時雨がつけられないなら真白にはなお無理であろうその下着、いったい誰のものなんだろう? ブラだけ返すときに真白に尋ねると、それは亡くなった時雨のものだったと教えられた。
「あの子も孤児出身だったからね、遺品の引き取り先がなかったのよ。友達の遺品がただゴミとして処分されちゃうのも寂しくて、私が預かってたんだけど」
真白には着ることができない古着の大半は結局処分せざるを得ず、この下着は買い置きの新品だったらしきものだけいくらか手元に残しておいたものの一つだそうだ。いわば形見を僕なんかに貸してしまっていいのかと時雨は問うてみたが、真白は形見なんて大層なものじゃないわよ、と断ってこう答えた。
「まあいいんじゃない? あんたに使ってもらえたほうがあの子もきっと喜ぶわ、これも供養というものよ」
ものが下着だけに返されても困る、時雨さえよかったらそのまま使ってくれると嬉しい。と真白が言うので時雨も厚意に甘えさせてもらうことにした。
時雨が店舗に置きっぱなしだった手荷物を取りに戻ると、端末には何度かの着信とメールが届いていた。
「えぇぇ、これどうしよう」
メールを読んだ時雨が思わず悲鳴を上げると、その様子をいぶかしんだ真白が覗きこんできた。
メールの内容はうみどりからの連絡で、高浪警報の発令を受けてうみどり船内の整備作業を急遽中断し、今夜は洋上に退避するという連絡だった。安全上出航を遅らせるわけにはいかないので乗員全員の帰艦を待つことはできず、出港予定時刻に間に合わない者は軍港鎮守府に連絡して、今夜一晩はご厄介になるようにという指示だった。その予定時刻も、二人が風呂に入っている間にとっくに過ぎていた。
「置いていかれちゃったのね。まあこの軍港じゃよくある話よ」
真白が現役だった当時にも、よその艦隊に宿を貸すことはよくあったそうだ。
「とは言っても、今から鎮守府まで行くのは薦められないわね」
続けた真白の声からは深刻さが感じられた。屋外の風雨はまだ収まる兆しもなく、今無理に外に出るのは危険だという。強風に煽られて艤装もなしに海や水路に落ちれば、たとえ艦娘でもひとたまりもないだろう。
「今夜は泊まっていきなさいよ。大丈夫、宿代取るなんて言わないから」
端末からうみどりに電話をかけてみたが、伊豆提督の意見も同じだった。今いる場所の安全が確保されているなら下手に動かないほうがいいとのことだった。うみどりの様子を聞いてみると、そもそも出かけてなかった者や帰艦が間に合った者七割、軍港鎮守府を頼った者三割、時雨を最後にこれで全員の居所が確認できて安心したという。時雨の事情を報告すると、ちょっと店主さんと電話を代わってちょうだいと言われた。端末を渡すと、よそ行きの声で挨拶をしている真白がなんだか可笑しかった。
「伊豆さんって面白い方なのね。軍港の危機を救った英雄はどんな人なのかと思ったけど」
うん、本当面白い人だよ…… 初めて会ったときは我が目を疑ったくらいにね? 時雨はひそかにそう念じはしたが口には出さなかった。生きとし生ける全人類を憎んで生まれた時雨の認識を改めさせたのはまぎれもなく彼の存在であり、今では数少ない信頼を置ける人間と認めていたからだ。
「今は忙しいけどいずれご挨拶にあがります、ってさ。律儀な方なのね」
「でも軍人らしい武骨さとは無縁な人だよ。僕たちは皆、普段から彼をハルカちゃんって呼ぶんだ。そうしないとちょっと残念がる」
「ハルカちゃん!?」
「ハルカちゃん」
時雨が真顔で念を押したので、うちだったらサダノリちゃんかしら…… とつぶやく真白は神妙な顔をしていた。
宿の問題は解決したが、相変わらず外の風雨は収まる様子もない。しかし苦心した土嚢とシャッターはきちんと役に立っているようで、とりあえず店には心配はなさそうだった。
店から奥に入ると真白の住まいになっていて、一階にはさっきの風呂や台所など、そして二階が真白の私室になっているそうだ。
そろそろ日も暮れて、夕食のことを考えるべき時間が近づいていた。焼き魚でいい? と聞かれたので、ありがとう、ご馳走になるよと答えた。
「そういえば時雨、あなたはお料理できる?」
思い返してみれば、時雨は一度たりとも台所に立ったことがない。元々うみどりでは伊豆提督が皆の食事を、それはもうたいそう美味な食事を毎日振る舞ってくれる。最近では、うみどりに保護されて食の追求に目覚めた戦艦棲姫セレスが腕を奮う機会も多い。セレスの素性だけは伏せてそんな事情を打ち明けると、真白にはそれではダメよと叱られてしまった。
「今はお料理上手がいてくれるからいいけど、いずれ海軍を出た後のことも今から考えておきなさい。最低限のことくらいは自分でできるようにしておくものよ」
そう諭されて、夕食は二人で作ることになった。焼き魚は加減が難しいので真白が引き受けたが、たとえば炊いておいたご飯の保存の仕方、簡単な出汁の取り方と味噌汁の作り方、ネギや沢庵を切るくらいの基本的な包丁の扱い方などをみっちり教わった。時雨の手に手を添えて包丁を教わるときは、さっきの風呂でのことを思い出して少し手が震えた。
「うーん、50点かしら」
真白に教わりながらはじめて作った味噌汁は微妙な評価を受けてしまった。どこが悪かったか教えてもらって、今後は日頃から精進なさいと言われた。一方真白の焼いた魚は絶妙の加減で、ありふれたアジの一夜干しがこんなに美味だとは時雨には思いもよらなかった。
「海沿いで暮らすのは危険なご時世だけど、やっぱり魚が美味しいのはやめられないのよねぇ」
内陸に行ってしまえばこの味もお預けなのかしら…… とつぶやいて真白は首を傾げた。
「山には山で美味しいものがあるさ。僕、山って行ったことないからね」
純粋種だから海で生まれてずっと海上暮らしとは言えなかった。
夕食の後は皿洗いも教わった。二人分だけだから大した量でもないので、真白は指図をするだけで全部時雨の受け持ちであった。
「ものを作るときは片づけのこともあらかじめ考えておくものよ。今日だけじゃなくていつでも次に使えるように、掃除と整理整頓を心がけること」
「後始末屋もそれと一緒かな」
そうかもしれないわね、釈迦に説法だったかしらとおどけて真白は笑った。
片づけも済ませて、二人は二階に引っこんだ。真白の私室は寝室も兼ねていて、ベッドが置いてある他にはソファーやテレビなども置かれていた。
「まだ寝るまでには間があるから、一緒に映画でも観ない?」
いいね、どんなの? と時雨が尋ね返すと、なんと私達が出ているのよ、と真白は悪戯っぽく微笑んだ。
ちょっとした飲み物とお菓子を用意して、照明を薄暗くして気分を出し、二人きりの映画鑑賞としゃれこんだ。真白が言うにはこれは今から七十年以上も前、第一次の対深海戦争の時に戦意高揚のために撮られた映画で、当時の純粋種の艦娘たちがそのまま出演したものだったという。
「えっえっ、僕が主役なの? 本当に?」
「私…… っていうか山城、ちょっと大人気なさすぎない!?」
この映画は真白が知人から借りたもので、彼女自身も初めて観るんだと聞いた。
「うわぁ、山城が飛んでるよ! 航空戦艦ってそういうんじゃないでしょう!?」
「えぇ……
物語の筋は、第一次深海戦争よりもさらに昔、二十世紀半ばに日米間で戦われていた太平洋戦争の一局面を、実際の艦船から艦娘と深海棲艦の戦いに置き換えたものだった。戦況自体はほぼその頃の史実をなぞる形で進んだのだが、時雨は史実通りにヒ船団で沈むことはなく、最後の二水戦の一員として坊ノ岬沖海戦まで戦い続け、雪風とともに敵主力の空母に雷撃を敢行してそこで沈んだ。あまりにあっけない最期だった。
映画が終わって明かりをつけたが、室内はまるでお通夜の雰囲気だった。
「ねえ真白さん、これ本当に戦意高揚できたの?」
「そんな昔のことは知らないわよ。知らないけど、当時の戦争は純粋種が戦っていたから、艦娘を応援しようってことならこれでもよかったんじゃないかしら」
時雨は以前見た悪夢を思い出した。それは人間嫌いのカテゴリーMの時雨が、人類とともに歩み世界を平和に導く夢だった。その頃の時雨はまだ今よりずっと人間不信をこじらせていたから、勝った夢でも人類と仲良くしていただけで不愉快だった。だからといって、負ける映画を見せられてもそれはそれで愉快とは言えない複雑な気分だった。
もう一つ、時雨の個人的な事情として拭い去れない不安感があった。物語の後半は史実とはいくらか事実関係がズラされており、雪風が時雨の相棒的な立ち位置で登場していた。ところで、現在もうみどりには長年カテゴリーBの生き残りを率いてきた丹陽が乗り組んでいる。彼女はこの映画が撮られた当時、すでに艦娘として活躍していたはずだ。まさか、この映画に出演した雪風は彼女その人だったりはしないだろうか? 知りたいような怖いような、本人に尋ねてみたいが訊けば面倒臭いことになりそうな、時雨の不安感とはそのようなものであった。時雨はしばらく悩み、結局触らぬ神に祟りなしとして、この映画を見たことはうみどりでは口外しないでおこうと決めた。
「さあて、そろそろ寝ましょうか。きっと明日の朝には低気圧も過ぎてるわ」
とはいえ来客用の布団などこの家には置いてなくて、ベッドは一つしかない。時雨は床で寝ようとしたが、低気圧のために常よりも肌寒い今夜に、もちろんそんなことを真白が許すわけもなかった。
ベッドに引っ張りこまれる土壇場では、さっきの風呂でのことを思い出して時雨も身がすくんだ。僕に変なことしないよね? とおそるおそる念を押してみたが、真白はクスクス鼻で笑ってこう答えた。
「うちは普通の喫茶店よ、そういうサービスをお望みなら歓楽街にでも行きなさいね?」
それよりもおねしょするんじゃないわよ、とダメ押しのようにからかわれたので、時雨は真白さんのいじわる、とだけ言い返して眼をつぶった。
こんな状況で寝られるものかと思っていたが、時雨も普段から疲れる労働に勤しんでいるせいかあっさりと眠りに入った。そうして今、時雨は夢を見ていた。後から思い返しても変な状況の夢だった。後始末屋部隊の仕事を広報するために、うみどりの乗組員で朗読劇を撮ることになり、時雨が主役に抜擢されたのだった。
あまり不自然で唐突な状況だったせいか、夢の中でも時雨自身それが夢だと気づいていた。気づいてはいたのだが、夢の中の自分はどうせなら楽しんでやろうとらしくないことを考えていたのだった。
劇の演目は『銀河鉄道の夜』で、うみどり船内で撮影を行うためにセットは最小限にまとめられていた。軽便鉄道のボックス席の一方にナレーター兼ジョバンニ役の時雨が座り、状況に応じて向かいの席の演者と背景の書き割りが入れ替わるようになっているらしい。
『ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ。』
意地悪な級友のザネリ役は深雪だった。時雨はジョバンニ役とともにナレーションも読むのでずっとスポットライトに照らされているが、会話の相手は向かいの席の照明が消えている間に次々と入れ替わる。読み進めるうちに物語は銀河ステーションの場面まで進んで、ここからようやくカムパネルラの台詞が入ってくるところだ。
(カムパネルラ役は誰かな、レーベかな?)
『みんなはねずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった。』
対面のスポットライトが点り、席に座っていたのは今の自分よりもいくらか小柄な、改二制服を着た時雨だった。
本作の第二話、中編をお届けします。
実は当初の予定だと前後編で短くまとめるつもりだったのですが、書いているうちにどんどん伸びて結局二話だけでは収まらなくなってしまいました。(筆者いつもの現象)
あと今回分のレコードをかける場面、当該曲をご存じない方のために一部だけでも歌詞を引用するつもりだったのですが、本作の執筆開始前に調べた時には引用OKだったはずの当該曲の歌詞の引用が、本日調べ直したところ引用不可に変わってました。よって一部本文を書き直して歌詞を削除しておりまして、わかりづらくなってしまっていることをこの場でお詫びいたします。著作権管理団体のデータベースの注意書きに権利関係の扱いが変わることがあるとは但し書きがありましたが、よりにもよってこのタイミングで。不幸だわ……
なお、本文中に引用されている『銀河鉄道の夜』のセリフは
青空文庫・宮沢賢治『銀河鉄道の夜』(https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html)
底本:「新編 銀河鉄道の夜」新潮文庫、新潮社
1989(平成元)年6月15日発行
1994(平成6)年6月5日13刷
底本の親本:「新修宮沢賢治全集 第十二巻」筑摩書房
1980(昭和55)年1月
入力:中村隆生、野口英司
校正:野口英司
1997年10月28日公開
2010年11月1日修正
以上のファイルより引用させていただいております。