ロスタイム・トゥ・セイ・グッバイ   作:カレー味

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後編

「どうしたの? 続きを読んでよ」

 

 低気圧に閉じこめられる形で真白の家に泊めてもらった時雨。その晩見た奇妙な夢に現れたのは、少し前までの自分にそっくりな時雨改二だった。

 

「君は…… もしかして昔この軍港にいた時雨なのか?」

 

 思わず立ち上がりかけ中腰のまま問いかけると、時雨改二は困ったような苦笑いで答えた。

 

「そんなにまじまじと見つめないでくれないかな、君にだって見慣れた顔でしょう? 僕は時雨、君も時雨、それなら僕たちの間でその名に意味はないよ。だったらジョバンニとカムパネルラでも構わないじゃないか。まあ座りなよ、そんな姿勢でいると転ぶよ」

 

 がたん、と不意に列車が揺れた。驚いて見回すと、簡単なセットにいたはずの二人はいつのまにか実物の車内にいて、書き割りだった窓の外には本物の銀河が広がっていた。

 

「まず君の質問に答えるなら、返事はイエスでありノーでもある。僕は君の言う軍港の時雨であるかもしれないけど、同時に君自身でもある」

 

 わけがわからない、と言いかけた時雨を掌で押しとどめて時雨改二は言葉を継いだ。

 

「まあ深く考えなくてもいいんだ、君はこれが夢だともう知ってるでしょう? この茶番もしょせんは君の頭の中だけでの一人相撲なんだよ、深刻に受け止めるべき真実じゃない」

 

 だから映画みたいに軽く聞き流してくれていいよ。そう言うと、時雨改二は膝上の台本に視線を落として続きを読み始めた。

 

『おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。』

『ぼくはおっかさんが、ほんとうに(さいわい)になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの(さいわい)なんだろう。』

 

 時雨が黙っていると、時雨改二は非難がましい目でじっと時雨を見返してきた。これは朗読劇なんだから早く続きを読んでおくれよ、とでも言いたげに見えた。

 

 もう僕たちは本当の銀河鉄道に乗ってしまったのに、今さらその設定生きてたんだ? と時雨は内心不平に思ったが、逆らうことなく台詞を続けた。

 

『きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。』

『ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん(さいわい)なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。』

 

 

 二人きりで鉄道に乗っているためか、もう演者が入れ替わることはなかった。ジョバンニの台詞を時雨が、カムパネルラとそれ以外全部を時雨改二が読んだ。時折ゴトゴト列車の揺れる音がする他には、二人の声だけが車内に流れていた。

 

 

『カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。』

『うん。僕だってそうだ。』

『けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。』

『僕わからない。』

『僕たちしっかりやろうねえ。』

『あ、あすこ石炭袋だよ。そらの(あな)だよ。』

『僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。』

『ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。』

 

 時雨改二が指さす窓の外に目を向けると、そこに真白がたたずんでいたような気がした。

 

 劇中で銀河鉄道の旅が終わるところ、台本はそこまでで途切れていた。はっと気がついて顔を上げるともう座席から時雨改二の姿は失せていて、時雨は元のうみどり艦内のセットに座っていた。我知らずのうちに頬に温かい涙が伝って、そうか、君はもう行ってしまったんだねと時雨は独り呟いた。

 

 

 

 時雨が目を覚ますと、あたりはまだ真っ暗で、隣で眠る真白の寝息だけが聞こえていた。枕元に置いていた端末を見ると、夜明けまではまだ数時間あった。雨戸の外は静かな様子で、低気圧はもう通り過ぎたのだと思った。

 

「しぐれ」

 

 なんであんな妙な夢を見たんだろう、と考えこんでいたところを不意に名前を呼ばれて、時雨は心臓が飛び出しそうなほど驚いた。息を潜めて様子をうかがったが、真白は確かに眠っているようだった。今名前を呼ばれたのは寝言だったのかな、どんな夢を見ているのかな?

 

「しぐれ、ねえさま、ごめんなさい」

「たすけにいけなくてごめんなさい」

「わたしだけしあわせになろうとしてごめんなさい」

 

 悲痛な嘆きが時雨の胸に刺さった。普段の真白は時雨の話を微笑んで聞いてくれたり、時々時雨をからかってはいたずらっぽく笑ってみせたり、二人で過ごした時間の多くで真白は笑顔を見せてくれていた。

 

 対して床に就く前に見た映画の中の山城は、だいたい辛気臭い仏頂面をしていたようだった。山城という艦娘がそういう性格であるというのなら、今真白が笑っていられるのは辛い過去にも大人らしく整理をつけられているからだと思って、そんな真白を時雨は好ましく思っていたのだった。

 

 でも本当はそうじゃなかったのかもしれない。悲しい思い出を心の奥底に押し込めたまま、時雨には心配かけまいと無理に笑ってくれていたのかもしれなかった。

 

 今田屋真白(いまだや ましろ)…… 未だ、山城。ああ、本当のこの人は今も山城であった過去に囚われたままなんだ、自分が責めを負わされる筋合いでもないことをいつまでも気に病んで、この街から出られないでいるんだ。

 

「まったく、これだから人間は」

 

 口をついたのはいつもの口癖だったが、心の内にあったのは呪いや憎悪ではなかった。弱くとも精一杯誠実に生きようとする人間への愛おしさがそこに生まれていた。

 

「真白さん、寝ているかな?」

 

 返事はなかった、真白は眠っているようだった。時雨は構わず、聞かせるともなく小さく囁いた。

 

「僕は今、夢であなたの時雨に会っていたよ。きっと、僕の中にいる彼女が僕をここへ導いたんだね」

「僕、真白さんに話していなかったことが二つあるんだ。僕は元々人間じゃない、ほんの数ヶ月前に海で生まれたばかりの純粋種の艦娘なんだよ」

今海で生まれる純粋種(カテゴリーM)は呪いに侵されて人類を憎み、沈められるまで暴れ続ける、真白さんなら知ってるよね。僕もそうなったかもしれなかった、でもね、最初に出会ったお節介な奴らが僕を引き戻してくれたんだ」

「もう一つ、僕は真白さんの仇に心当たりがある。詳しいことは言えないけど、人間も艦娘も、妖精や深海棲艦さえも、あらゆる生命をないがしろにして狂った野望を求める奴らだ。うみどりは今、そいつらを追っている」

「真白さん、時雨に成り代わり軍港鎮守府十二人の仇は僕たちがきっと討つ。だから真白さんはもう、過去の重荷から解き放たれていいんだよ」

 

 眠り続ける真白の頬に時雨はそっと口づけた。偶然そこに流れていた涙をすくい取って、潮の味がしたようだった。

 

「真白さんのおかげで僕は少し人間を見直した。あなたに会えてよかった、及ばずながら僕はいつでもあなたの幸せを願っているよ。おやすみ真白さん、どうか安らかに」

 

 それだけ囁いて時雨は布団に潜りこんだ。しばらくは胸がどきどきして眠れない気がしたが、布団の暖かさにいつしか眠りに落ちていった。

 

 

 

 時雨が再び目を覚ましたとき、真白はもうベッドにいなかった。雨戸を開け放つと、低気圧はすっかり抜けて快晴の空が広がっていた。

 

 端末にはメールが届いていた。昨夜は沖で荒波をしのいだうみどりは、今朝から再度入港して取り残された者の帰艦を待ち、昼には出港して任務に戻るとの連絡だった。予定通り実行できなかった船倉の整備は、また次回以降の入港に延期するそうだ。

 

 起きたんなら降りてきなさーい、と階下から時雨を呼ぶ声が聞こえた。まだ眠い目を擦りながら降りていくと、いつも通りの真白が開店準備を始めていた。すっかり乾いた時雨の服と洗顔セットを渡されて、朝ごはんの準備しといてあげるから顔洗ってきなさい、と言われた。

 

 急いで支度をして店に戻った時雨を見るなり真白は眉をしかめた。

 

「髪ボッサボサじゃない、やってあげるからそこ座んなさい」

 

 有無を言わせぬ強い口調だった。髪を整えて編みこみまでやってもらって、仕上げにいつもの髪飾りをつけようとしたところで真白の手が止まった。

 

 どうしたんだろうと時雨が不思議に思っていると、真白は棚の引き出しからもう一つ同じ髪飾りを出してきた。

 

「これは私が現役の頃に使ってたものよ。あんたの髪飾りと、取り替えっこしない?」

 

 時雨としても真白のものを持っていられるのは嬉しかったから、その提案に否やはなかった。真白の手で髪飾りをつけてもらって、鏡に映る自分は変わり映えしないようでいてなんだか新鮮に見えた。お返しに自分の髪飾りをつけてあげると、真白は得意げな笑顔だった。映画では見られなかった山城の笑顔だと思った。

 

 店でコーヒーと朝食をご馳走になって、時雨は一度うみどりに戻ることにした。帰り際に戸口まで見送られたとき、真白は時雨を抱きしめ頬を寄せて囁いた。

 

「時雨、気をつけて行ってらっしゃい。あまり危ないことするんじゃないのよ」

「ゆうべはありがとう真白さん、きっとまた無事に来るからね」

 

 

 

 うみどりのいる港まで急ぎ足に向かう途中、まだ人もまばらな通りの向こうから、見憶えのある顔がブラブラ歩いてきた。

 

「や、や、やぁやぁドーブラエウートラ(おはよう)、そこを行くのは同志うみどりの時雨じゃないかな?」

 

 それはうみどりとは協力関係にあり、これまで幾度も共闘してきた調査隊所属の響だった。朝っぱらから顔を真っ赤にしていて、しかもひどく酒臭かった。

 

「おはよう響、君たちも入港していたのかい? それにしてもひどい臭いだ、まさか嵐の中を徹夜で飲んでたのかな」

 

 時雨の問いには明らかな非難の色をこめたつもりだったが、響はまるで悪びれない様子で答えた。

 

「本当はねぇ、おおわしも昨日の夕方には入港する予定だったんだよ。昨夜はひさしぶりに司令官の奢りで飲む約束だったのに…… 低気圧で上陸できずに一晩お預けを食ったのさ」

 

 船の中でも結局飲んでたんじゃないか。時雨が突っこむ前に、響は勝手に喋り続けた。

 

「この先には民間向けの港があってね、一仕事終えた漁師が朝から飲める店があるんだよ。昨夜は漁どころじゃなかっただろうけど、きっと今日も店を開けてるはずさ。 ……じゃあ同志時雨、私はもう行くよ。ボン・ボヤッジオ(よい旅を)

 

 言いたいことを言うだけ言って響は去っていった。あれではおおわしの昼目提督も胃が痛かろうと思うと、時雨は少しだけ彼に同情した。

 

 

 時雨が見えなくなったのを確認して、響は端末から昼目提督に電話をかけた。

 

「おはよう司令官、送っていた音声は聞いてくれてたかな?」

『あぁ、()()()()()()()()()()()、ご苦労だったな』

「なぁに、大したことじゃないさ。私みたいな美少女に一晩宿を貸してくれる親切な御仁はこの街に少なくないからね」

 

 響はわざとらしく艶っぽい声を出したが、昼目提督は相手せずに流した。昨日の夕方に響が単独で上陸してからの活動は把握できているからだったが、まさか例の喫茶店のすぐ隣に協力者を確保できていたのには少し驚かされた。なおその隣家が耳の遠い老婆が一人で暮らすしもた屋であることもわかっている、響が匂わせたような問題はなにもない。

 

『ところで響よぉ、わざわざ待ち伏せてまで時雨に接触する必要あったか? 酔っ払いの振りまでしてな』

「盗聴だけではわからないこともあるものさ。朝帰りする顔を間近で見て、匂って、それで確信できたよ。例の喫茶店主と時雨との交友関係に不適切な点はなさそうだね」

『まだ追跡調査は必要だろうが、今日のところは任務完了だ。戻ってこい』

「司令官、約束を忘れちゃいないかい? 今回は奢ってくれる約束だったろう」

『……わかったわかった、いつもの店でいいんだな? 後から行くから先に()っててくれや』

「うん、『りゅうちゃん』で待ってるよ」

 

 通話を切って、響は足取りも軽く歩き出した。馴染みの店のホルモン焼と焼酎を想いながら、今日の自分はなんてプロレタリアなんだろう、と満足していた。

 

 

 うみどりに戻ったのは時雨が最後だった。朝帰りを茶化す同僚や詮索したがる野次馬をあしらいながら、次に訪れた時には真白は結論を出せているだろうか、時雨はそんなことを考えていた。

 

 いよいようみどりが出航するとき、何人もの乗組員がデッキに上がり、名残りを惜しんで離れていく軍港を眺めていた。見ろよ、みんなが手を振ってくれてるぜぇ、と報せる深雪の声につられて、その指さす方を時雨も眺めた。遠ざかる埠頭の群衆のなかに、時雨はたしかに手を振る真白の姿を見つけた。僕はここにいるよ、と真白に伝えたくて、時雨は柄にもなく大きく手を振り返した。

 

 

 

 それからしばらくうみどりは忙しい日々が続いて、軍港に戻ることができたのはまた一ヶ月以上も過ぎてからだった。真白さんはどうしているだろう、時雨は前回の寄港のように午前中は同僚と遊び回ることもせず、下船するなり真っ先にプリムローズへ駆け出していった。

 

 

 賑わい始めた通りを時折道行く人にぶつかりかけながら駆け抜ける時雨に、街の人々は奇異の目を向けていた。だが、今の時雨にはそんなことを気にしている余裕すらなかった。走り続けていよいよめざす商店街にさしかかった、プリムローズの表には看板が出ていた。あの日の後真白はどうなったのか、今日も店を開けているのか? 提督との縁談はどうしたのか?

 

「いらっしゃいませぇ♪」

「なんで君がここにいるんだよぉ……」

 

 息急ききって店に駆けこんだ時雨を迎えた声は、いつもの真白のものではなかった。

 

「和メイド喫茶プリムローズ、本日開店でぇす♡」

「ご、ご注文をどうじょなのよ!」

 

 時雨は床にへたりこんでガックリうな垂れた。店内はいつもの様子のままだったがそこに真白の姿はなく、時雨を迎えたのは和装メイド姿の綾波と暁だった。

 

 真白さんをどこにやったまさか君たちがなにかしたのかなどとわめき立てる時雨をまぁまぁまずは座ってくださいなと綾波がなだめて席に座らせ、暁がメニューを差し出した。しぶしぶメニューを開いてみると、メニューの内容は以下の三つしかなかった。

 

・お抹茶と日替わりのお菓子(おすすめ!)

・抹茶ラテ

・オムライス(お好きな言葉を書きます)

 

 以前の軍港騒動の際にまんまと敵の洗脳を受けて一時うみどりに敵対した結果、綾波相手に殺される寸前まで追いこまれた時雨は率直に言って彼女のことが苦手だった。それからもたびたび共闘する機会はあったが、正直に言えば今でもなおあまり顔を合わせたくない相手ではあった。

 

 しかし、カウンター内にたたずんだまま笑顔を崩さない綾波の表情からは、注文するまではなにも話さないという気迫めいた意志を感じられるような気がした。時雨にしてみればお気に入りの店を苦手な相手に荒らされたようで不愉快だったが、仕方なく遊びに付き合ってやるくらいの気持ちで注文を出した。

 

「じゃあ、抹茶ラテを一つ」

「……」

 

 綾波は返事をしなかった。心なしか笑顔のままで無言の圧が上がった気がした。

 

「聞こえなかったかな、抹茶ラテを」

 

 やはり返事はなかった。もしかして抹茶ラテは出せないのか? 出せないならメニューに書かなきゃいいのにとこれも不満だったが、じゃあお抹茶の日替わりセットでと注文を出し直すやいなや綾波の笑顔から威圧感だけが消えた。あとケチャップを持った暁がワクワクした顔で待っていたのだが、出かけてくる前に朝食を取ったばかりなのでオムライスは頼まないことにした。

 

「ご注文承りましたぁ、少々お待ちくださいねっ」

 

 上機嫌そうに綾波は奥へ引っこんで行った、店のキッチンを使わないのはそこに茶道具の準備ができないからかもしれないが、まさか密かに一服盛るつもりではないだろうなと時雨は疑わしく思えた。

 

「ちょっと時雨ちゃん、あなた足速いのねぇ。どこ行ったか探しちゃったわぁ」

 

 ドアベルがカランと鳴って、入ってきたのはハルカだった。いつもの寄港では艦娘を遊ばせてやることを優先して、暇があるときだけ着飾って夜の街に繰り出すのが彼の常だった。しかし、今日は珍しく朝から時雨を追ってきたらしかった。服装も時雨にとっては見慣れた軍装であった、見るからに遊びに出てきたという風体ではなかった。

 

「ハルカちゃん、どうしてここに?」

「どうしてって、先日あなたがお世話になったお礼を申し上げにうかがったのよ」

 

 時雨は別になにも悪いことはしていなかったはずだが、うみどりの者に自分がここにいるのを見られるのはなんとなくバツが悪い気がした。時雨の隣に座ったハルカに暁がメニューを差し出した、今度もやっぱりセリフを噛んでいた。

 

 とりあえずハルカは抹茶ラテを注文した、もちろんオムライスはスルーした。暁は残念そうな顔をしていたが普通に奥の綾波に注文を伝えに行った。なんで僕には抹茶ラテを出せないんだと時雨が腹を立てていたところに綾波がお盆を持って戻ってきた。

 

「お抹茶とお菓子のセット、お待たせしましたぁ。ごゆっくりどうぞ♪」

 

 綾波は時雨の前にお盆を置いて、ハルカに軽く挨拶するとまた奥に戻った。軍港鎮守府のエースコンビが和メイド姿で立ち働く姿を目の当たりにしたハルカは、時雨の知らない微妙に困惑した表情を見せていた。

 

「……どういうことなの、今田屋さんはどちらに?」

「僕が知りたいよ?」

 

 二人して顔を見合わせヒソヒソ相談していると、ふとハルカが時雨の茶菓子に目をつけた。どちらも花をモチーフにした干菓子と練り切りだった。

 

「ダイヤモンドリリーとゼラニュームかしら? 時雨ちゃん、お茶冷めないうちにいただきなさい」

「僕、茶道の作法なんて知らないよ」

「堅苦しい茶席じゃないんだから、気にしなくてもいいじゃない」

 

 初めて飲む抹茶は不思議な味がした。きめ細かく泡立てた茶は予想していたほど渋くも苦くもなく、ほのかな苦みの向こうには砂糖も入っていないのに甘さと旨みすら感じられた。添えられた菓子を摘んでからまた茶を飲むと、かえって茶の甘みをより強く味わえる気がしたのがなお不思議だった。

 

「はぁい、ハルカさんは抹茶ラテですね、お待たせしましたぁ」

 

 ハルカの分の抹茶ラテを持った綾波が出てきた。いかにも甘そうなラテを飲むハルカは満足げに目を細めていた。時雨は僕もそっちがよかったのにと思いはしたが、抹茶が存外に美味かったので今度はそれほど不満を感じなかった。

 

「じゃあそろそろ教えてもらうよ、真白さんはどうした」

 

 抹茶を飲み干したあとで、時雨は綾波を問い詰めた。

 

「真白さんでしたら半月ほど前にこの街から出ていかれました。昔の提督さんと所帯を持たれるそうです」

 

 綾波は嬉しさ七分、残念さ三分といった神妙な表情だったが、ハルカはんまぁ、と感嘆の声を挙げた、なんだか目を輝かせていた。

 

「綾波はこの街のまっとうな商店主さんとは皆さんお友達ですから、真白さんともおつきあいがあったんです。先日真白さんから連絡をいただいて、結婚して街を出るから店の後始末を頼めないかというお話でした、それと」

 

 綾波は途中で話を区切って、背後の棚から取り出した大ぶりの紙袋を時雨に手渡した。ごく軽いもので、たとえば色紙より一回り小さな四角くて薄いなにかが入っているようだった。

 

「これを時雨さんにお渡しするよう言付かりました。どうぞお持ちくださぁい」

 

 開けてみるとそれはシングル盤のレコードだった、タイトルは『Time to say goodbye』、この店で真白が聴かせてくれたあの曲だった。

 

 店を出るときハルカが奢ると言ってくれたが、綾波は茶代を受け取らなかった。無許可営業は司令官に叱られてしまいますからぁ、という言い分だった。帰りの道すがら、紙袋を抱いてうつむいて歩く時雨にハルカがぽつりとつぶやいた。

 

「あのお茶菓子あったでしょう、ダイヤモンドリリーとゼラニューム」

「共通する花言葉は『再会』なのよね、綾波ちゃんなりきにあなたを元気づけたかったのかもしれないわ。だからあまり悪く受け取らないであげてちょうだい」

「うん」

 

 時雨は素直に答えた。真白の幸せのためにはこれでよかったんだ、そう納得しようとは思ったが少々意気消沈していた。

 

 

 うみどりに帰って、ハルカにこのレコードを聞く手段がないか相談してみた。あまりに古いものなのでハルカも首を捻ったが、たまたま居合わせた平瀬が心当たりを教えてくれた。

 

 平瀬陽菜、姿こそ出洲一派の手で深海棲艦である港湾棲姫に変えられているが、元々はこの軍港都市の建設に大きく関わった人物でもある。彼女がかつてこの都市の地下にあった出洲の拠点を脱走したとき、持ち出した仲間の遺品のなかにレコードプレーヤーがあったはずだと教えてくれた。

 

 それらの品々は平瀬を護送する際に一緒にうみどりに持ちこまれた。本来なら証拠品として軍港鎮守府なり大本営なりに提出されるはずだったのだろうが、護送中に出来損ないによる襲撃を受けハルカたちが負傷したゴタゴタの影響ですっかり忘れ去られ、まだうみどりの船倉に残されたままだったのだ。

 

 プレーヤーはすぐに見つかり、工廠の主任さんがこころよく修理してくれた。食堂に置かれたプレーヤーでひたすら同じ曲を繰り返し続ける時雨を残っていた者が遠巻きに見ていたが、とてもうかつに声を掛けられる雰囲気ではなかった。

 

 

「珍しいもの聴いてんじゃん、これどしたの?」

 

 夕方になる頃には、遊びに出ていた者たちも戻ってきた。テーブルに突っ伏して虚脱している時雨に臆面なく絡んできたのは、元潜水艦の問題児、イタリア駆逐艦グレカーレだった。

 

「あたしもこの曲好きなんだ、歌ってもいい?」

 

 正直気分が落ちこんでるところで彼女とやり取りをするのが面倒だったので、時雨は顔を背けたまま、勝手にするといいよ、とだけ答えた。

 

「よぉし、そんじゃカンツォーネで鍛えた喉をちょっとだけ披露しちゃおっかなぁ」

 

 レコードに合わせて歌い始めたグレカーレの声は、いつもの生意気でがらっぱちめいた人柄からは想像もつかないほど澄んで美しかった。囁きかけるように繊細な歌い出しに始まり、ゆったりと伸びる歌声、ことに末尾のフォルテシモを力強く歌い上げるところなどは、食堂の窓ガラスを震わせるほどの声量をこの小さな身体からどうやって出しているのかと見惚れてしまうほどの迫力だった。

 

 一曲歌い終えて優雅にお辞儀をしてみせたグレカーレに、いつのまにか食堂に集まっていた皆の拍手喝采が浴びせられ、時雨の憂鬱も不思議と吹き飛んでしまった気がした。

 

「驚いたな、君歌上手いんだね」

「ま、まぁね! ほらあたしイタリア艦だし? 声楽とオペラの国の生まれぞ? あたしだってこれくらいはねぇ」

 

 珍しく照れながらグレカーレが取り繕うように答えた、たぶん手放しで褒められるのに慣れてないんだろうなと時雨には見えた。

 

「そうだ、一つ教えてくれないかな。こんてー、ぱるていろー、ってどういう意味なんだい?」

 

 グレカーレの歌を聞いて時雨には気づいた疑問があった。真白の店で聴いていた時に時雨が唯一聴き取れた英語詞、レコードに従うならTime to say goodbye と歌うべき所をグレカーレは全部そのように歌っているように聞こえたのだ。おそらくその歌詞も、この歌の時雨が聴き取れなかったほとんどもイタリア語だったのだろうと予想していた。

 

 グレカーレは腕組みして少し考えこんだ。時雨が急かすと、ちょっと意訳入るんだけどー、と迷いながら答えた。

 

「そうねぇ、『君と旅立とう』ってところかなぁ?」

 

 聴き取れた英語詞だけを自分で訳した時雨は、この曲を別れの歌なんだと思っていた。だから、このレコードを贈られたのは真白からの決別の意志だと思いこんで落ちこんでいた。しかし、グレカーレの話ではそういう解釈は適当ではないらしかった。

 

「これもう百年くらい昔の曲なんだけどね、元はイタリアの男声オペラ歌手が歌ってたのよ。それを翌年イギリスの女声歌手が一部英語詞でカバーしたのが世界的に大ヒットしたのよね。このレコードはそのバージョンよ」

 

 これは歌い手が聴き手に別れを告げて去っていく歌ではなく、歌い手と聴き手が共に旅立つ歌。イタリア語歌詞まで全部訳せばそういう解釈が正しいんだとグレカーレは断言した。きっとそっちこそが真白の真意だったのだろうと時雨は素直に信じられて、なんだか胸のつかえが下りた気がした。もうこの軍港で真白に会うことはできなくなったけど、彼女が未来に踏み出したように僕も未来を目指さなくては、時雨は密かにそう決意した。

 

 

 

 

 それから何年か過ぎた後のこと。出洲一派との戦いは終わっていたが、時雨はまだ後始末屋に籍を置き続けていた。元来の人類と深海棲艦との第三次戦争は終わってはおらず、本来の後始末屋の任務はまだ続いていたからだ。ただ、海を引っ掻き回す元凶がいなくなったことで確実に仕事の総量が減ってきていることは時雨にも実感できていた。

 

 そんなある日、軍港に戻った後始末屋に綾波が時雨宛ての手紙を届けに来た。差出人の名は元谷鐘太郎とあった。時雨には心当たりのない名だったが、さっそく開けてみるとそれが真白からの手紙だとわかった。

 

 その文面は永の無沙汰を詫びる挨拶に始まり、街を去ってからの暮らしぶりと、念願の第一子の誕生報告だった。手紙には赤ん坊を抱いた真白の写真が添えられていて、その子の名で手紙を送ってきたようだった。真白の髪には、あの朝時雨と交換した髪飾りが輝いていた。

 

 手紙の文末には夫との連名で元谷真白(もとや ましろ)貞徳(さだのり)と署名があった。元山城と元提督、今度もダジャレみたいだねと気づいて時雨はクスクス笑った。真白は幸せを掴めたと知ることができて、この上なく愉快な気分だった。

 

「ねぇ時雨さん、もうあのお店には行かないんですかぁ?」

 

 時雨がひとしきり笑い終えるのを黙って待っていた綾波が急に話を振ってきた。あの後真白の店は別の借り手がついて、今では看板も掛け変わってしまっていることを時雨も知っていた。どこかの鎮守府を退官したという元伊良湖の始めた新しい喫茶店はそれなりに好評らしかったが、時雨にとっては真白のいない店にわざわざ足を向ける気がしなかった。

 

「あのお店、店主さんも自信がついてそろそろ表通りに移転したいらしいんですよぉ。あそこが空いたら時雨さん、お店やってみませんかぁ?」

「君は不動産の斡旋か経営アドバイザーでもやってるのかい? 艦娘の副業なんて感心しないね」

「だって、この街を楽しくにぎやかにすることが綾波のお仕事だと思ってますからぁ」

 

 綾波をからかったつもりが笑顔で返されてしまった。まるで動じていないのがなんとなく悔しくて、ちょっとおどかしてやろうかと時雨は悪戯心を起こした。

 

「そんなことを言っていいのかい、僕のような呪われた純粋種(カテゴリーM)を街に引っ張りこむなんてさぁ。もしかしたらこの街の災いになるのかもしれないよ」

 

 綾波は最初だけ不思議そうな顔をしたが、次の瞬間破裂するように笑い転げだした。周りにいた仲間たちも爆笑していた、いまだにそんなこと言ってるのは時雨だけっぽい、と夕立がツッコむと笑い声が一際高まった。

 

「なにが可笑しいんだい、君たち」

「あはっ、あはははっ…… そんな馬鹿げたことありえないじゃないですかぁ。だって、時雨さんももうこの街が大好きでしょう? 綾波にはちゃんとわかってるんですからねっ♡」

 

 もうっ、ほんとに素直じゃないんですからぁ、と綾波は軽く肩をぶつけてきた。まるで猛獣に懐かれたようで、時雨はどう反応したものか困った。

 

 

 結局綾波はさんざん時雨をからかって帰っていった。それからはいつもの通り皆で休暇を楽しんだのだが、街を歩けば至る所でさっきの誘い文句が思い返された。いずれは戦争も終わる日が来る、その先第四次戦争がもう起こらないとは限らないとしても、きっと時雨にも退役する日が来る。

 

 そうなったら喫茶店でも開いてこの街で暮らす、それは意外と悪くないかもしれないと時雨にもそう思えた。そしていつかは、鐘太郎を連れた真白が店を訪ねてくれるかもしれない。時雨はそんな未来を夢想しながら、まずはコーヒーの淹れかたを憶えてみようかな? なんてぼんやりとした計画を思い描いていた。

 

 それにしても、僕なんかに商売をさせようだなんて、いくら海軍あってのこの街とはいえちょっと艦娘に甘過ぎやしないかな? こうしている間にも、近海では不埒で危険な艦娘(カテゴリーM)が生まれているかもしれないじゃないか。そんな思いからついいつもの台詞が口をついて出た。

 

「まったく、これだから人間は――」

 

 続きは胸の裡に飲みこんだ。




 これにて『ロスタイム・トゥ・セイ・グッバイ』完結とさせていただきます。短い間でしたが、お付き合いいただきありがとうございました。
 一つだけネタばらしなのですが、作中に登場した『Time to say goodbye』のアナログ盤は現実には存在いたしません。2098年の未来が舞台だったら現実に存在しているCDでも充分レトロ趣味の範疇に入るでしょうし、近未来SFならむしろその方がいかにもそれらしくてよいという思いが筆者にはありました。ですが、さすがにCDでは百年後まで保存できなさそうなので…… ツッコミが入る前にあらかじめこの場で自白させていただきました。

 なお、今回も本文中に引用されている『銀河鉄道の夜』のセリフは

青空文庫・宮沢賢治『銀河鉄道の夜』(https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html
底本:「新編 銀河鉄道の夜」新潮文庫、新潮社
   1989(平成元)年6月15日発行
   1994(平成6)年6月5日13刷
底本の親本:「新修宮沢賢治全集 第十二巻」筑摩書房
   1980(昭和55)年1月
入力:中村隆生、野口英司
校正:野口英司
1997年10月28日公開
2010年11月1日修正

 以上のファイルより引用させていただいております。
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