なんとなくセックスして私が産まれて、自治体とか国の援助で大学までを卒業して、適当な会社に入社して・・・。
そして日々の生活の中から好きだと思う人とくっついて、そこそこの生活を維持しつつ家庭と呼べる物を持った。
10年前、ようやく宝物とも呼べる娘も産まれてくれた。夫や学校の保護者会のママ友には、私に瓜二つらしい。
自分でコレを評価したら、中の中と言ったところ。
他人にはいい主人と可愛らしい私なのだと言う。
聞こえもしない心の底に、いらない詮索をするのも徒労と言う物だろう。
しかし。主人が言うには“対外的な評価は自分の将来すら暗示する”とのこと。
ありきたりな人生と、最低限度の幸福で充分だと思う私は。そんな“他所も内”なんて見方は出来ないが・・・。
そんなことを思いつつ、娘が小学校から帰って来たとき。私の人生の歯車が、ようやく噛み合うような出会いがあった。
午後2時15分。橋田 ゆうか と名乗る娘の同級生が訪問した。
9才。4年生。日本人が垢抜けるには早過ぎる年齢の少女の第一声は、私の脳を支配し、あっという間に虜にする魔力のような物が。後になって思い返せば込められていたように感じる。
「久遠寺 りぜ さん。ごきげんよう。本日はお友達の みか ちゃんにご招待されて来ました。どうぞよろしくお願いします」
優しく微笑みかける少女に、うっかりと頭を下げる私。それが何秒、何分・・・ひょっとすればもっとかもしれない。ようやく元の椅子に腰掛け直した頃には、みかと愉しそうに飯事を嗜むゆうかさんが目に映った。
「あ...あの、ゆうか...ちゃん?」
恐る恐る。まるで、数年前まで勤務していた会社の上司に胡麻をするような声音で、そっと声をかけた。
しかしそこにいたのは、年相応。お上品だがお転婆な年頃の9才児だった。
さっきの・・・まるで、(この表現はあまり好まないが。)上位者に睨まれたような雰囲気。あれはなんだったのか。
突然の訪問者に、抜けていた気を突かれたのだろう・・・そう思うことにして、夕方を迎えた。
その頃には主人も仕事から帰っていて、借りている社用車でゆうかちゃんを送ると言ってくれた。
彼女との遊戯ではしゃいだのか、みかは居間のソファでぐっすりとしている。
幸いと言うべきか、ゆうかちゃんのランドセルに住所が書かれた名札が入れられていたので、送り出しは順調に済みそうだった。
念のため、連絡網を引っ張り出し。“橋田ゆうか”の御両親の番号を見つけておいた。
その頃にはもう、“あの感覚”は鳴りを潜めていた。
気軽な雰囲気を意識しつつ、その番号にかける。
無機質な発信音が数回。電話に出たのは、張りのある男性の声だった。
「もしもし?」
瞬間、“あの感覚”が一瞬で全身を覆った。
ゾッとするような、或いは身体全ての力が抜けていくような・・・いや、はっきりと感じた。
”コレ“は恐怖だ。
たったの一言。それも、対面には居ない電話の向こうにいるはずの相手。
テレビのホラーとか、小説で見るサイコホラーとか。いや、何にも喩えることの出来ない、本物の、恐怖・・・。
「も、もしもし。久遠寺みかの母のりぜです。突然のお電話失礼します・・・」
一言を発することすら。呼吸をするのも重いプレッシャーがある。なんなんだこれは。
電話の相手、橋田氏は。やや柔和な声音をしつつゆうかちゃんの訪問と送迎について感謝してくれた。
やっと圧壊しそうな気持ちから重さが抜け出した後。おもむろに橋田氏の口が開いた。
「何の事前挨拶も無く、久遠寺さまのお宅へお邪魔してしまい申し訳ない。突然の*億質 に困惑したでしょう。精神状態にご負担はありませんでしたか?」
億質。はて?
「ああ、すみませんでした。娘からの説明がなかったのですね。後で叱っておかないと・・・」
ふふ。という音が電話越しに聞こえた。きっと笑ったのだろう。そのせいで、さっきまであった不安や恐怖が針を刺すように感じられた。
「おっと、失礼。私は億質の制御がまだ不得手でして・・・すみません。飲み物をご用意いただけますか?」
その言を聞いた瞬間。私の意識は遠退き、気が付いた時にはテーブルに飲み慣れたインスタントコーヒーが淹れてあった。
スマホの日付を確認する。日は進んでいない今日のままだ。そして、
「大丈夫ですか?」
右手に持ったままだった受話器から、橋田氏の声が聞こえた。何がどうなってる・・・。
「良かった。一息ついて聞く用意が出来たようですね」
慣れ親しんだ自室のリビングが、全く来たことのない異空間のように感じる。
季節はまだ夏なのに、首筋に冷や汗が流れて鳥肌が立っているのがわかった。
「・・・億質、とおっしゃいましたか。それは具体的にどういう...」
精一杯頑張った。もう一言のやり取りも出来ない。
そして、橋田氏が語ってくれた。とてもこの世にあるとは思えない億質という異能力。
まず。想像力という物をイメージして貰いたい。そこは根源的な捉え方をすれば、透明なキャンパスに近いだろう。
色のあるインクを垂らせば、それは一瞬でその色になる。
そして、想像力とは経験や記憶。知識や噂話。人とのコミュニケーションによって鍛えられるもの。
林檎。というものは、人によっては赤い物。だがその他にも、日光をあてないで成熟した物は皮が緑色のままだ。
或いは林檎の木を想像する人も中にはいる。
世の中の知識は統一されていない。そもそも論として不可能なことだ。
日本人がある日突然、地球儀をグルグル回して適当に選んだ地に放り出されて。そこから日本に帰って来られるだろうか?
正解は『人によって様々』だ。
経験のない人はまず、自力での帰国は出来ない。
そして経験がある、若しくは飛ばされた国の言語を話せるという人も、独力での帰国は難しい。
それを無理矢理に人に教え、伝え、吸収もすると言うのが億質らしい。
掻い摘んで話したが、実際にはもっと複雑だったり。逆に単純なのかもしれない。
知識を押し付けられ、それが理解出来ない内容であれば、私のような状態になるのだろう。
「少しばかりの餞別に。こんなお遊びも出来ますよ」
そう言うと、電話の向こうにいるはずの橋田氏がいつの間にか、私だけがいるはずの部屋に立っていた。
そして彼は私に歩み寄り、優雅に立たせてくれた。
先程までのプレッシャーは、彼が現れた瞬間には彼方へと消えていた。それどころか、最近気になっていた疼痛もなく。少しだけ背が縮んだような気もする。
いま、私は夢の中にいるんだ・・・そうに違いない・・・。
あぁ。なんて心地の良い夢だろう。ゆったりとした部屋の中にいたはずなのに、まるで花畑の中心にいるよう。
懐かしい匂いと、未だに世界の一部も知れていなくても許されていた幼い頃の自分。ゆっくりと、噛み締めるようでいて、ひと呼吸で霧散しそうな意識のまま、その匂いに負けても良いと言うような・・・。
ハッと。(取るに足らないと思えてしまった)今の時間を探す。
壁掛けのデジタル時計には、21:01と表示してある。
“ついうっかり”昼寝をしてしまい、こんな時間まで眠ってしまっていたらしい。
正直、さっきまでの全て。ゆうかちゃんの来訪から橋田氏へのコールまでの全てが、私の見た意味不明な夢だと感じている。
身体の節々が痛む。テーブルに飲みかけの冷め切ったコーヒーがあり、口に流し込む。
少しだけ、普段より苦く感じた。
翌朝、いつも通りの起床。
娘をおこしつつ主人の見送りをしてから、私も朝食を摂る。
ゆっくりと咀嚼を繰り返し、コーヒーでそれを流し込む。
ふと。昨夜の奇跡体験が脳を過ぎった。
昨夜と言っても過去である、という認識で生きている私には、既に遠い景色にすら思えて...。
娘の元気な「行ってきます」という発声に、行ってらっしゃいと独り言のように返すと、コーヒーの最後の一口も飲んでしまった。
月の中頃の、なんでもない一日。私も仕事が立て込んで気疲れしたのかもしれない。
もう一杯のインスタントコーヒーを淹れようと、ダラけた姿勢でキッチンに向かう。
ポットのスイッチを入れ、コーヒー粉を1~2杯。砂糖たっぷりと、冷蔵庫のミルクを取り出す。
それらを混ぜつつ、ふとコーヒーについての記憶を思い返してみる。
「・・・昨夜のコーヒー、この味だった...」
瞬間、飛んでいた記憶がフラッシュバックする。
橋田氏への電話、その後、動転して何かを壊した。
“億質”とやらに中てられて、一瞬自我を失っていた。
頭痛がし、その苦痛に喉を鳴らしながらも思い出す。
こわい。たすけて。いやだ。しにたくない。どこかへきえて。ききたくない。さわらないで―――
明確な恐怖。
ただ、ソレがあっただけで、私の何もかもが頽れてしまうような。それでも説明の付かない、怪談のような実体験。
淹れたコーヒーが冷め出した頃には、頸の辺りにあったのしかかるような感覚も薄れてくれた。
だが、冷や汗と噛み締めた奥歯の痛みは消えないままに、ふらふらと立ち上がってコーヒーに口をつける。
昨夜、橋田さんが言っていた。恐怖心は神ですら殺せると。
神どころか、一介のヒトに過ぎない私に言わせれば、荒唐無稽過ぎて失笑できる内容だと。今までの私なら一蹴しただろう。
だが、昨日のあの夢の中で、一つだけ気になったことがある。
今日、それを確かめる為にも、直に橋田さんに会いに行こう。
アイロンをかけて、皺のないホワイトシャツに袖を通す。仕事というわけでもないが、そこからフォーマルを崩さない程度に身支度を済ませ、香りの弱い香水を数プッシュ。
それから出かける時に薬局で鼻詰まり改善薬を買って塗っておいた。気休めかもしれないが、スポーツ選手がよくやっていて急激な運動の際にも呼吸がしやすくなるのだそう。
試しに胸元に少量を塗り込む。フラッシュバックからこっち、ずっと詰まっていた息が楽になる。
新鮮な空気を肺に詰め込み、嫌な記憶と一緒に吐き出す。よし。
「行きますか。橋田さん、家にいてくれると良いけど」
連絡網などなど、子供のもしもの為にあるツールから橋田家の住所を探すのは簡単だった。
それと携帯の地図アプリを頼りに、やや速歩きに向かう。
途中、交通機関を利用しての遠出にはなったが。然程時間もかからずに着くことは出来た。
あの風体から大きな屋敷に住んでいると勝手に思っていたが。来てみてがっかりした。
勝手な思い込みには、相応の失望が付くもの。そう切り替えつつ、一軒家に掲げられている呼び鈴を鳴らす。
程なくして応答したのは、家政婦を名乗る女性だった。歳は私とそう変わらないだろうか?
アポイントも無く突然の来訪だった私を、それでも歓迎してくれる家政婦。
「いきなり連絡もなく来てしまってすみません。この家って」
橋田さんの家で良いですか。と、続きの言葉を吐き出せなくなった。
おかしい、たった数文字の言葉。それも、あの億質に中てられてもいない。
気分も悪くない。あの前後不覚になる感覚も。なぜ?
「......ぁぁ、貴女が旦那様の仰っていた...畏まりました。ようこそ、久遠寺さま。橋田家一同、久遠寺様の御来訪を歓迎致します」
なぜか、恭しくお辞儀をされてしまった。
その、仕える者たる所作についついこちらも礼を返そうとしたが、身体が動かないことに気付いた。あれ? 私、息出来てる?
「こら、凪。久遠寺さんが呑まれてるぞ!」
「こら、凪。またジジイに怒られるぞ!」
ふっと、よく判らない禁錮から解かれたのを感じた。理解が追い付くのを拒否していることは感じている。まるで昨日の夢の続きのようだ。
「ようこそおいでくださいました。久遠寺りぜ様、御党首様がお待ちです」
ああ、理解を彼方に放り投げる覚悟がいる。
心境としては、クレーマーの対応とそれの報告書。同時に進行しなければならないのが今回の頭が痛むところか?
などと悠長な気持ちで流されるままに、凪と双子に呼ばれていた女性に付いて、短い廊下を歩く。
しかし、いつまで経っても廊下の終わりが見えない。
10分が経った頃だろうか。さっきの双子もついてきたようで、私に聞こえるように話を始めた。
「ご主人も物好きだよね。一般向けじゃない億質を一般人に中てるなんて」
「そうだね。いくらお嬢様の御触れがあったとしても、その中和までだったはずなのに」
御触れ...多分だが、あのゆうかちゃんが私に感じさせた圧力だろう。
言い方を推察すると、祟り神のような扱いなのかもしれない。
それに、中和とも聞こえた。いったい何がどうすれば良いの。
想像力の具体化って難しいね。