そんな彼女が感じるのは、恐怖と興味。
繰り返すそれの奔流が、彼女に与える新常識とは?
「あの...まだ着かないんですか?」
あれから三十分。歩くペースも真っ直ぐな廊下も変わることがない。
外から見た橋田家は、敷地面積がおおよそ4LDK前後。美術品が並べられるほどの広い部屋もあるのだろうが、それと廊下は別物だろう。
双子に凪と呼ばれた女性も、内緒話を続ける双子も、そしてただ凪さんに着いて行く私も。変化なく同じ歩き方だった。
と。突然、曲がり角が現れた。いつの間にか億質とやらに中てられていたらしい。
その事に吃驚するのも、最早疲れてしまったようだ。はいはい、従います。
無意識なまま『新しい道』を提示され、盲信的に見えている道へ折れようとした。
「どこへ行くの?」
瞬間、背後にいたはずの双子が私の両脇で静止させる。
声が聞こえた時には、もう見飽きた長い一本の廊下しか見えていない。
「...いつから」
「最初から」
私の方は見ず、ただ真っ直ぐに廊下の先を向く凪さん。
私の脚は止まっているが、彼女のそれは先程と変わらない。
具体的に言ってしまえば、ルームランナーに乗っているよう。
一見すると、まるで『ブッブッ』という効果音が聴こえて来そうなシュールさがあるが、それに着いて歩いていた感覚は確かにある。
「凪のじゃないけどねー」
「凪はこんな複雑なこと無理だけどねー」
揶揄うような双子の声が響く。
じゃあいったい・・・。
「久遠寺様。ここは御党首様の家にございます。それを忘れていなければ、廊下を歩くくらいは平気でしょう」
いや、わかっている。橋田という家主の自宅と言うのは。
ただ、対処法を理解出来ていない。この体験したことの無い億質がなんなのか。今日はそれを訊くために来たのに、一瞬で済むはずの屋内の移動に、体感時間で既に1時間ほどは過ぎている。
「ここを乗り越えて下さる方で無ければ、御党首様があなたをここに呼び寄せた意味がありません。辿り着けたら、欲しい智識を下賜されますよ」
「下賜・・・」
まるで、王のような存在だな。凪さんの言葉に対する率直な感想ーー。と、
今まで無限に続いて見えた廊下が、急に圧縮された短い物に切り替わった。歩いていた感覚は無かったが、磨り硝子の引き戸に強かに鼻をぶつけた。
思わず蹲ってぶつけたところをさすりつつ、引き戸越しの荒い視界に、未だ午前中を指す時計が目に入った。ここに到着した時間から、然程の経過は無い。
支離滅裂な体感に、忘れかけていた恐怖が背筋を襲う。
寒くもない夏至の民家の廊下には、悪寒とも表現が違うような。よくわからない恐怖が私の意識を覆っていた。
しかし、これでやっと億質について訊ける...なんて、知らない知識を収集出来る好奇が得られる機会だ。気持ちを鎮め、ポーカーフェイスに乗り切ろう。
手札は些細な娘の友人の訪問から、そしてその些細なきっかけを元に、億質と言うキーワードを拾うこと。
質問は漠然とした物より、外れていたとしても舞台が同じであれば良いだろう。
意を決する。先手はもう撃たれた。後は野となれ山となれ。
「失礼しましたー!」
また、出鼻を挫かれる。中から出て来たのは、女子校生だろうか? 何処かの制服を身に纏い、黒いショートカットに青いエクステを付けている。
「あっ、すいません急に出たりして...お怪我はありません?」
先の億質事故に比べたらこの程度なんともない。しかし、
「あなた、青蓮女学院の制服よねそれ。今日も授業あるはずなのに、なんでこの家に?」
青蓮女学院。私のいた女子校だった。成績はまあ過不足無くと言ったところ。
そして現役の女子学院生。目の前にいると言うことは、やはり。
「あ、はい!アオジョ二年、
お辞儀と共に溌剌とした自己紹介を受けた。
「自己紹介をするより先に、アオジョに連絡したらどう? 飯田センセが怒るわよ?」
我ながらこんな声も出せたのかと思うほど、慈愛に満ちた声が出た。
飯田椛。私の在校中と代わりなければ、今でもパワハラ紛いな教育的指導に出席簿が負けていそうだ。
それを聞いた絹枝が貌を青くし、別れの言葉も無しに全力で走り出した。
見送る側になった私達四人と、いつの間にいたのか橋田さんが側に来て一言。
「怪我すんなよー」
うんうん。未成年者への気遣いなどその程度でーーー?
「なっ・・・?!」
「さて、凪。珈琲をもう二杯頼む。イチとニは久遠寺さんの相手をしてやんな。私は眠くなって来た」
ギャップが凄い。
橋田さんはもっと歳上ー少なくとも六十代ーだとばかり思っていた。
しかし実際に対面して見ると、精々アラサー。いや、二十代後半か?
黒一色の髪に黒い部屋着。瞳の色も真っ黒だ。
違う。昨日億質で垣間見た橋田氏は、もっと妙齢のイケオジだったはず。
「幻想を抱くのは自由だし、それを妄信するのもお前の勝手だが」
橋田さん(若)が仏切棒に言う。
「会ったこともない相手の歳を勝手に決めんな。*俺が作った億質で見た幻想なんざ、九分九厘は嘘だぞ」
・・・いま、凄くどうでも良いモノが壊れた音がした。なんだろう。
「じゃあ、率直に訊きますが」
「珈琲、お待たせ致しました」
よく話の腰を折られる日だ。
億質についての質問をしようと橋田さん宅へ来て、初対面の凪さんにいつの間にか億質を中てられて、なんかいた双子によくわからない煽りを受けて、最後に古巣の女学院生(確か、沼澤と名乗っていたな)。
思い返すと多い様な、これだけかと思ってしまえるような。
一息吐きつつ、凪さんが淹れてくれた珈琲に口をつける。口当たりは透き通った珈琲豆の豊かな香り。一口含むと、気付いた。甘みの奥底に苦みと酸味が私の淹れるモノに似ている。
思わずギョッとし、凪さんを見返る。しかし、
「おまえのレシピ、ミルクを抜いた方が俺は美味い。好みについてはどうでもいいがな」
何かを言う前に橋田さんが茶々を入れる。
しかし、ちらっと見えた彼の珈琲には、透き通るような黒ではなく焦茶色が浮かんでいた。
「御党首様は強烈な味の方が味を感じられるようです。ですので普段から塩っ辛い物を好まれるので、従者として主人の健康管理が難しくて」
傍からは薄っすらと頬に紅を差した凪さんが、持っていたお盆を抱き締めつつうっとりと橋田さんを見つめる。
すらりとした綺麗なラインに、二色の給仕服を纏う彼女には。恋慕が叶うよう願う空気感が見えた。
「気付いたか」
?
なんのことだろう。
「気の所為か。お前、億質が微かに使えてる」
?
全くわからない。
彼の言葉の意味が、ずっと目の前に欲しかった億質のこと。それを、わからないままに使えている?
ああ。いけない、思考が混沌に満ちてきた。
今日と言い昨日と言い、全くもって意味不明だ。
だが、
「*私の億質って、どんなものなんですか?」
億質そのものへの理解は、私には不可能だと結論付ける。なら、それを使えるようになった私が出来ること。それを訊こう。
スマホのメモ機能を起動し、箇条書きのリストを用意する。仕事でのTodoリストとしても使っていた物に、新しく億質の見出しを加える。
そして、橋田信泰さんが教えてくれたこと。
その内容を掻い摘むと、想像の具現化らしい。
原理としては、億質に長時間中てられる。若しくは、特定のオーパーツに見初められること。条件はこの二つだけ。
橋田さんは、過去に億質を使えた人間に育てられたらしい。凪さんは言わずもがな、橋田さん本人が原因だろう。そして娘のゆうかちゃん。ここには居らず聞くことは出来ないが、幼少期から橋田さんの影響下で育ったのだろう。なら、
「さっきの双子。あの子達はどうなんですか?」
「見ててわからないか。アレは俺が作った」
・・・。
絶句。
二の句が続かない。
え、作った、?
「わからんならもっかい言う。イチと二は俺が億質で」
「あああああ!!!」
わからない。言葉での説明が理解出来ない。億質を使って昨夜のあの草原みたいにやれないのか。
目で訴え、声で抗議し、手で叩いて縋り付いて。
わからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからない。
発狂して憤慨して手で叩いて縋り付いて泣きだして、私の認識の不足さを自責して。
それだけ私が、責めるべき矛先が無い弾丸のようになったとしても、信泰さんは私に億質を使って来れなかった。
数十分間。彼に当たったり近くにあったモノを投げたりして、理路整然と設えられていた室内は大荒れになっていた。
漸く取り戻しかけた理性でその景観を視ると、あっという間に落ち着き。今度は別の意味で慌ててしまった。
まず、信泰さんに謝罪し、直ぐに元通り片付けることを伝え。続いて凪さんに。彼女は既に散らかった雑品や、私が暴れて壊れた珈琲杯を処理してくれていた。それでも何か罪滅ぼしをしなければと周囲を見て、あの双子が意地悪そうに笑っているのが映った。
「慌て過ぎー。まだまだ素人なんだし、もっと暴れても良かったのに」
「落ち着き過ぎー。急に自分の不始末をなんとかしようとして、それでもやれることが無くてまた焦ってる」
今、この状態では寧ろありがたいことだった。
自分の現状を客観的に説明してくれる存在というのは、まるでゲームキャラを動かしているような錯覚が出来る。
でも。待って。さっき彼が言ったことを思い出せ。
『アレは俺が作った』?
いけない。また正気を失いそう。
少し痛む頭を手で抑えつつ、双子を順に見遣る。
一見して普通の人間との差は無い。
綺麗に整えられた赤色の髪。筋に見えない程度の幼い鼻。小さくも息の合った悪口が印象的な口と、どこまでも深く深く、まるで抜けるような空色の眼球・・・?
「・・・あぁ、そう。そうなんだ」
億質と言う物は、酷く重いプレッシャーのような感覚があると思っていた。
それでも今は、先程の焦燥感や罪悪感。億質への興味と使用方法のプロセス。何処に起因するかわかっていない興奮や、夢の中の思い出だけ。
きっと、その夢がまだ続いているんだと思おう。
だから、今日あった全ては、私が寝ている時に見た、真に迫り過ぎた夢想物語だと。
さぁ、そろそろ起きて朝食を摂らないと。
起きろ、起きろ私。いつまでも起きれないんじゃ、彼に申し訳がーーー。
「もう起きてんだろ。正気度に戻れ」
途端に、信泰さんの億質に呑まれる感覚がした。
恐怖と揺らぎ。死生観。先程入れ違いになった女子高生。
他にも列挙出来ないほどの彼氏の記憶の奔流が、一瞬でぶつけられる。
あぁ、彼の本質は。怖いんだ。
朝起きて、凪さんがこの家からいなくなっていないか。
ふとした瞬間に、イチちゃんとニちゃんを作ったと言う億質が消えてるんじゃないか。
ただ一人生き続けてるゆうかちゃん。あの子にも億質を扱う事が出来、その力でなにかをしでかすのではないか。
可能性は想像力とも直結する。つかり、信泰さんが恐れていることには全て、可能性があると言うこと。
この時、私の本能が億質の本質を理解出来た気がした。
ただ、思い描いたことそのものを実現する『可能性』。
じゃあ、私の可能性は、なに?
可能性。
一つの物事や人物。団体などが起因するもので、起こり得る未来の一片。
口惜しいのは、りぜ自身が未だ、億質の「お」の字も理解出来ていないこと。
ここを私が乗り越えられれば、多少は長文を書くことが出来る・・・はず。たぶん。そうかな? うん、まあ・・・*