倉庫   作:ぞだう

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鎮守府の中の一室。
囚われ縛られた女提督と、捕らえて手に入れた榛名。


囚われた提督と捕らえた榛名(榛名)

(私、これから先をいったいどのくらいこうして過ごすことになるんだろう)

 そんな呟きを頭の中で漏らしながら、湿っぽいため息を口の端から零しながら、もうこれで何度目になるのかも分からないような思いと問いを自分自身に投げ掛けながら、ごろんと寝返りを打つ。

 仰向けに寝た体勢。頭の上で囚われてベッドと繋がれた両手。自由の利かない身体になってしまっているから、なんだろう、寝返りを打つというよりも身体を横に捻っただけ、みたいな感じではあるのだけど。

 それでも少し体勢を変えて。ずっと同じ体勢のままいたせいですっかり硬くなってしまった身体を、気休め程度だけどほぐして緩める。筋肉の筋が伸びる感覚と、凝り固まった骨が鳴らすゴキゴキという音。なんとなくだけど身体が解放されたような気になれて、少しだけ気持ちいい。

「ん……」

 はあ、と吐いて、すう、と吸う。

 自分の中に溜まり混んでいた生温い空気を吐き出して、代わりに新しい空気を身体へ取り込む。……入ってくるのも生温くて湿っぽい空気だけだから、循環させることについての心地よさはまるでない。もう慣れてしまったこととはいえ、でも不快なだけの呼吸なのだけど。

 匂いもある。元々この部屋……提督となった者に宛がわれる居室は防犯上の理由などもあって外と繋がる場所が少ない。鎮守府の大廊下と繋がる扉を除けば、あと他には明かりを取り込むためだけの小さな天窓がわずかにしかなくて、換気をするためには入り口の扉を開けるか空調の力を借りるしかない状態だ。そして今私のいるそんな居室では入り口の扉は固く閉ざされていて、空調はかろうじて動いてくれているのだけど、けれど全然足りていない。

 この中で普通に、本来この部屋の設計者に想定されている範囲内での過ごし方をしていたなら、それなら扉を閉めきった密閉状態であっても問題はなかったのだろうけど……残念ながら、今のこの場の状態は想定の範囲外らしい。

 湿っぽい。特に私の身体の周りが。あるところではじっとり、別のところではべっとり、また違うところではぐっしょり、濡れていて、湿っぽい。

 女なのにこんな姿を晒しているのが恥ずかしくて、それなのにほんの半月くらいが経った程度からこれを晒すことにすら慣れてきてしまっている自分を自覚して、悲しくなる。

 だけど、いくら恥ずかしく思って悲しく感じたとしても、この現実は覆らないわけで。この濡れた感覚を伝えてくる存在は確かなわけで。

 要するに私は今、塗れていた。自分の汗やら排泄物やらいろいろなものに塗れていた。

 ここへこうして寝かされるようになった始めの日、身体を自由に動かせないことに気づいてから時計の短針が一周を終える少し前くらいになった頃に初めて汚れて、それから予備のものと入れ替え使い回すようにして何度も着せられている制服。どうやらかなり念を入れて丁寧に洗濯をされているようで、確かに何度もどうしようもないくらいにまで汚れてしまっていたはずなのに再びまた綺麗な状態へ……新品同然とまでは流石にいかないけれど、少なくともこれを身に纏って鎮守府を練り歩いてもなんら問題が起きない程度の状態までにはしっかりと清められたそれを、今朝改めて身に纏ったそれを私はまた汚していた。

 抜かりなくアイロンまでかけられているのだろう、ぴっしりと整えられた制服。普段愛用していたものと比べかなり布の面積が小さく感じられる、私のものではない扇情的な下着。同伴の下で時間も不規則ではあるけどほとんど毎日お風呂には入れているから極端に汚くはないと思う、けどやっぱり綺麗だとは思えない私の身体。それを、例外なく汚している。濡らして、塗らしている。

 当然といえば当然のことなのだけど、特に下半身が酷い。上半身はほとんど汗だけ。他にはストローを咥えて顔の横に置かれた水筒から中の水を飲もうとしたとき、少し吸い損ねて口の端から溢してしまったのが首元をいくらか濡らしている程度。……なのだけど。下半身は汗に加え、漏らしてしまった私自身のものまであるわけで。こう過ごし始めた最初の頃は直視どころか視界の端に掠めるだけでも堪えられなかったような、正直に言って酷い惨状だ。

 拭き取ることができないからもうずっと纏わりついたまま。生温い、なのにひんやりしているようにも感じられるような、心地悪くて気持ち悪いぐっしょりとした水の感触。それがどうしようもなく感じられ続けて、不快感が募る。

 ただ身体が濡らされているだけならまだ良かったのだけど、今の私は服を纏っていて。制服も、下着も、身体の下のシーツも、吸い切れない量の水に浸っている。少し身体を揺すっただけでぐちゃぐちゃと水が跳ねるような、にちゃにちゃと粘っこく糸の絡むような音が鳴り、服がそれを含むことで噎せ返ってしまいそうになるような濃度までひたすらに蒸れて、それが決して離れず纏わりついてくる。べったりと貼り付いてくる感触が、痒みを伴うようなじとじとした感触が、浸った私の身体へ染み込んでくるんじゃないかと思わされるような温い感触が、嫌になる。

 とはいえ、私は知っていた。この状態を自分の力でどうこうするのは無理なんだと。榛名に制限されたこの状態は、榛名の力が無ければどうにもできないんだと。その榛名はきっと、いつも通りならもうすぐ帰ってくるはずなんだと。知っていて、だから私は自力でどうにか解決を図ろうとはしなかった。

 にちゃ、と足の付け根辺りで音が鳴るのを聞きながら体勢を元の仰向けの形へ戻す。少し前、今打っていたのとは反対側へ寝返りを打ったときに、水を吸ってそれに浸っているからか変な形にずれてしまった下着の位置を戻そうとするのも諦めた。気持ち悪い感じはあるけれど、またずれた位置を直そうとしてもむしろそれが酷くなってしまいそうな予感もあるし、何よりこれがずれたままになっている気持ち悪さよりも、寝返りを打ってびちゃびちゃとした水の感触を味わうほうが嫌だ。身体の凝りやら何やらは今のである程度取れてくれたし、もういいだろう。

「榛名……」

 身体を仰向けの状態で固定したまま、動かしてもさして問題のない首をぐにぐに回し、手錠に繋がれた両手の手首を何度か捻る。

 固定されていることによって凝ったり緊張したりしている場所をそうしていくらかほぐしつつ、私は口から呟きを漏らした。意図せず零れ出ていったときのような淡く掠れた声を、ぽつりと。

 私をこうしてベッドの上へ寝たきりにさせている彼女。私という提督が得た初めての艦娘。これまでの私の半生の中でもっとも深くまで関わりあった大切な人。その人の名を呼び、その人の姿を思い浮かべ、そして思考に溺れる。

 優しい子だった。気遣いのできる子だった。女の子らしい子だった。少し心配になってしまうくらい控えめな、常に一歩引いた場所で周りを支えている子だった。とても健気でとっても可愛くて、何事についても真面目なよく頑張る子だった。海戦で遠征で秘書業務で、果てはまったくのプライベートにおいてまで、まだいろいろと至らない新人提督であった時代からずっとこれまで私のことを助けてくれていた本当にかけがえのない子だった。

 そんな子が、そんな彼女が、そんな榛名がいったいどうしてこんな行為に、自身の提督を拘束し閉じ込めて命の手綱を握るようなこの異常な行為に手を染めてしまったのか。それを頭の中に広げて、思考する。……もう既に、私の中で答えが出ている事柄ではあるのだけど。

 それでも、改めて思考する。自分と彼女とのこれまでを思い返してみて、そして考えを巡らせる。

 そうして過去を回想していると、なんとなくだけど思い当たってくる。いつも通り、前に回想を試みたときと同じように原因やきっかけが……榛名の想いや私の至らなさが、沸々と。

 まずきっと、榛名は私のことを好いてくれていた。具体的にそれがいつからなのかまでは分からないけれど、おそらくかなり早い段階から。先日の榛名の言を信じるのなら、着任して私たちが顔を会わせたその瞬間から。榛名は、私のことを好いてくれていた。もちろん私も榛名のことは好いていたけれど、それは親愛や信頼といった意味での好意であって。榛名は私のそれとは違う、恋慕や愛慕といった意味で、私のことを好いてくれていた。

 改めて今思い返してみれば、その片鱗は確かにあった。優しい彼女が、より優しく微笑むのはどんなときだったか。控えめな彼女が、珍しく声を上げ身体を乗り出したのはどんなときだったか。頑張り屋な彼女が、自分は大丈夫だからと他のどんな何よりも熱心に精を出すのは、誰のためとなるときだったか。そんなことを思い返すと、私の傍にいるときの些細な仕草や言葉を思い返すと、確かにそれは存在していた。

 私と榛名は普通の人間と艦娘。上司と部下。同性、女同士。そんな観念、そんな関係、そんな思いがあったから、私はここに至るまで気づけなかった。これまで恋愛なんてものはただの一度もしてきたことがなかったし、それでなくとも我ながら鈍感だったというのもあって、榛名から向けられた想いに私はそのとき気づくことができなかった。

だから私は返せなかった。榛名の「好き」に私の「好き」を返すことはできたけど、榛名の望むような「好き」を以って榛名に応えることができなかった。

 たぶん原因はそれなんだろう。優しくて気が利いて頑張り屋な、この鎮守府にいる他の誰よりも愛情深い彼女の想いを無下にし続けてしまった。気づいてさえいれば何かの形で解消させてあげられたのかもしれない想いを、好意も不満もいろいろなものを一つに混ぜて一緒にしたような大きく深い想いを、彼女の中へ際限なく降り積もらせてしまった。彼女がこんな今にまで至ってしまった背景はたぶんそれ。私の至らなさの積み重ね、それが原因だったんだろう。

 そしてきっかけも、分かっている。いろいろなものが積み重なって、いろいろなものが溜まりに溜まって、いろいろなものが止めどなく溢れてどうしようもなくなってしまった末、それを決壊させるきっかけになったのは、きっとこの前の作戦だ。

 AL.MI作戦。異なる海域で同時に攻略を行う、二正面作戦。あのときのことが、きっと榛名を踏み切らせたきっかけなんだろう。

 作戦当時、この艦隊における最高戦力である榛名は旗艦として、より高難易度が予想されるMI作戦に参加していた。結果、彼女は私の期待に私の期待の遥か上の戦果を以って応えてくれた。作戦に参加した艦の中からただの一隻も轟沈艦を出さず、私が想定していた作戦終了までの期間を大幅に短縮し余裕を持って完了させてくれた。彼女の尽力と貢献のおかげで、難航が予想されていたMI作戦は特に大きな被害もなく速やかに攻略を終了した。……のだけど。

(あの時は怖かったなぁ)

 その二正面作戦の展開中に敵襲があった。守り手である艦娘たちが作戦のため各海域へと離れた隙を狙った、鎮守府本陣への強襲だった。

 榛名を始め主戦力となる有力な艦娘たちはほとんどが作戦実行のため散ってしまい、念のため残しておいた一部数艦を除けば残っているのは着任してから日の浅い者たちばかりという状態。そのくせ強襲を仕掛けてきた敵艦隊にはこちらの主戦力とも渡り合うような実力を備えた艦が多々。正直、敵襲を認識した瞬間に死を覚悟した。直感で、数字で、目で見て、そのどれもで例外なく膝を折られてしまいそうになるような、そんな状況だった。

 そこで、私は前線に立った。そんな状況で、そんな状況だったからこそ、敵を沈める戦力とはなれずとも、前線で指示を飛ばし前線へ身を晒し前線に立っていた。怖かったし情けなかったし苦しかったけど、提督として艦隊の士気を上げるため、部下である艦娘たちと命を共にするため、この身で前線に立った。

 結果としては、散々というか。やっぱりどう見ても戦力の差は圧倒的で。なんとか奮戦はしたけれどじりじり確実に追い詰められて、燃料や弾薬は切迫しているというほどまでは不足していなかったけれど決定的に修復が間に合わなくなり始めて、交戦位置もだんだんと鎮守府へ掠ってしまいそうなほどにまで近づいてきて、そんな状況にまで追い込まれて、そしてもうそれ以上後に引けなくなってしまったその時、私は意識を失った。

 どうやら指示を飛ばすために一瞬注意を逸らしてしまった隙を突かれて爆撃を受け、被弾してしまったらしい。幸いにして身体のどこかを欠損したり深刻な後遺症が残ってしまうような傷は受けなかったのだけど、爆発の衝撃で吹き飛ばされたときどこかに叩きつけられたのか骨に何ヵ所かひびが入っていたのと内出血を伴う大きな痣がいくつか、それから露出していた顔などの部分に火傷を負った。欠損はなく視力も聴覚も失わず、何より命に別条がなかった辺り、運があったんだろうなぁと思う。

 命に別状が――そう、私はそれでも死ななかった。こうして今も生きている。元々あそこまで追い詰められていて、残って戦ってくれている皆もボロボロで、その上指示を飛ばさなければいけないはずの私も倒れてしまって、そんな絶望的な状況で、だけど私は生き残った。――榛名のおかげで。予定ではまだ終了は遥か先になるはずだった遠い海域での作戦を速やかに抜かりなく終わらせ、ほとんど無傷のまま弾薬も十分に戦闘を行えるだけの量を保持した艦隊を率いて帰ってきた榛名のおかげで。陥落を許してしまうその直前に帰還を間に合わせ、鎮守府へと攻め込む敵を警戒領域外へと撤退させた榛名のおかげで。私はこうして生を得た。

 正直、意識を取り戻したときは自分が生きていることが信じられなかった。意識を失う前、最後に感じたものは耳をつんざく爆音と全身を叩く衝撃で、意識を失うのは一瞬のことだったけれど、でもその一瞬で私は死を覚悟させられていたから。だから信じられなかった。今でも少し、信じられないぐらい。

 だけど、それもすぐに無くなった。信じられないという思いが実感されようとしたその前に、私は榛名に埋められたから。心も身体も、榛名でいっぱいにさせられてしまったから。

 意識を取り戻した私がまず見たのは榛名の顔。赤くなった目の下を酷く濃い隈で染めて、痩せた頬と紅を失った唇を乾かない大量の涙で濡らし、綺麗な長髪をボサボサにしながら私の顔をまっすぐに覗き込んでくる榛名の顔。力なく横たえられた私の手を両の手で握り締めて、意識なく眠りに落ちていた私に寄り添う榛名の姿が、飛び込んできた一番最初だった。

 それから次に、驚いたような呆然としたような顔。私の目が開いたのに気づいて、握り締めた私の手が反応を返したのに気づいて、少しぼんやりと靄がかかったような虚ろな様子で、でも感情を交えた表情を浮かべた榛名の顔。それが私の視界に入ってきて……そしてだんだんと、変化した。溢れる涙の量をさらに多く増やしつつ、嬉しそうな、感激したような、まるで救われたような、そんな表情へと変わっていって、そうしてそれが変わりきったとき、表情が満面のそれへと変わりきった瞬間、私の視界は暗く影に落とされた。

 どこまでも深く深く沈み込んで何もかもを包んでしまえそうな弾力のある濡れた柔らかさが、けれど痛いほど押し当たる。頭の両側を優しく、だけどそれと同時に決してそこが動いてしまわないように強い力でしっかりと抱き止められて、そんな状態で押し当たってきた。榛名の唇が、私の唇に。

 視界のすべてを榛名に覆われて、意識のすべても榛名に埋められて、私の何もかもすべてを榛名に染め上げられて……そんな状態だった。そんな時間だった。そんな口付けだった。

 いったいどのくらいの時間が流れているのか、なんてことを考えられる余裕は当然私の中にあるはずもなくて、実際あの口付けがどれほどの間続けられていたのかは分からないし分からなかったのだけど、でも私の中ではまるで永遠に続いていくかのように感じられた口付け。それは結局、私の寝ている部屋へ榛名以外の艦娘たちが部屋を埋め尽くさん勢いで雪崩れ込んでくるまで続いた。吸われて食まれて愛でられるような口付けが、滔々と。

 けれど離れて――他の艦娘たちが雪崩れ込んできたところで、それまで繋がっていた唇は離れたのだけど、けれど榛名は私の傍から離れなかった。私のもとへと寄ってくる艦娘たちのためにベッドの上まで乗り出していた身体を引きはしつつ、けれど再び私の手を握り締め直して、添うようにして私の傍へあり続けた。

 意識を失う刹那に死をすら覚悟した自分が生きているらしいこと。陥落は免れないものだと思っていた鎮守府が無事で、その内に自分が今いるらしいこと。大切な艦娘たちがそれぞれ目を腫らし、涙を流して駆け寄ってくる。そして駆け寄ってきた彼女たちが口々に私へ向けて声を贈ってきてくれること。そんないろいろが一斉に私の中へと流れ込んできて、あまりの情報の多さに混乱してしまった私が――そんな状態の私でも鮮烈に認識できたような、他のすべてを霞ませてしまうくらいに際立った今でも頭の中へ焼き付いて離れない瞳を、これ以上など見たことがないくらい熱っぽくこれ以上などありえないくらい想いに溢れた瞳を私へ向けて。私以外の誰もが見えていないかのような……実際、私ただ一人だけを映して他の何もかもは見ようともしていなかったのだろう瞳をまっすぐに向けて、そうして榛名はそこへあり続けていた。

 それからだ。榛名が今のようになり始めてしまったのは。こうして私を閉じ込めて、私を外から断って、私を管理しようとし始めてしまったのは。

 最初は、少し過保護で私の傍を離れたがらない程度だった。不自由な身とはいえ出来ることはそれなりにあったのだけど、榛名はそのことごとくをさせてくれなかった。衣食住に関わることはもちろん、どんなに些細なことでも私にさせようとはせず榛名の手でやりたがった。そして私の傍にいたがり、私のいる部屋の外へは出たがらなかった。床に伏せる私に代わり、私から頼まれた用件をこなすためにはなんとか大いに渋りながらも出てくれたのだけど、そういった必要最低限以外の事柄では決して外へ出ようとしなかった。

 だから当時の私は……馬鹿で、この期に及んで何にも気づけていなかった私は、榛名のことをそこまで深刻には考えていなかった。それは当然何も考えていなかったわけではなかったのだけど、それも「不安定な今は仕方ない。いずれは元の榛名に戻ってもらわないといけないけれど、今はまだ」みたいに具体案のない曖昧なもので。今から思うと本当に、我ながら至らなさが過ぎて頭を抱えたくなる。

 そして、そんな風でいるから、やがて榛名はそれだけでは済まなくなってしまって。私の多分な自業自得もあって、それから数日――確か目覚めて一週間は経っていなかったはずだから、曜日が一周するまでの数日間が過ぎ去ったいつかに、私はここへ身を移されることになった。榛名は、私を閉じ込めるまでに至ってしまった。

 だからやっぱり、きっかけはそれ。私がどうしようもなくこうなって、榛名が決定的にこうなってしまったきっかけはそれなんだろう。そう思う。

「みんな……」

 戦艦。空母。巡洋艦。駆逐艦。潜水艦。揚陸艦。工作艦。給糧艦。それぞれ合わせると全員で百人近くになる艦娘たちのことを頭に浮かべて、一人ひとりの姿を頭の中へ描いて思いを馳せる。

 密室に近いとはいえここは鎮守府の中へ確かに存在する一室。……先の作戦時に被った損害や損失を取り戻すために多くの子が――それこそ本来はこういったことに向いていないはずの戦艦や空母に至るまでの子たちが揃って遠征に出てくれている。同じく先の作戦時に戦力や資源を多く失ってしまったらしい提督着任以前から交流のある知り合いの鎮守府へ、臨時の即戦力として、遠征要員として、戦闘や開発の技術を提供する指導員として、そうしてこの鎮守府の外へ出て頑張ってくれている子もいる。少なくとも私がまだここへ閉じ込められる前、寝ながらではあったものの鎮守府内の動向をきちんと把握できていた頃にはそうだった。そうして多くの子がこの鎮守府の為に尽力してくれていた。だから、少ないのは理解できる。この鎮守府の中に留まっている子が、もうほとんど存在しないぐらいの水準で少ないのは理解できる。……けれどそうはいっても同じ鎮守府の中、あまり無い短かな時間ではあるかもしれないとはいえ同じこの場所の中に他の誰もがいないなんてことはないはず、なのだけど。

(もう、しばらく誰とも顔を合わせてないなぁ)

 ここへ寝かされ始めてから短くても半月から一か月は経っているわけだけど、その間みんなを――榛名以外の艦娘たちを見ていない。顔を合わせて言葉を交わすことができていない。

 どうしても私でなければ分からないような上とのやり取りを交わす際には助言を仰いでくるものの、それ以外のことに関しては基本的にすべて榛名が今は取り仕切っている状況。流石に私の姿がない状態で何の問題もなく取り仕切りきれているのかな、とは思うのだけど……聞いても榛名は「大丈夫です」としか答えてくれないし詳しいことを問おうしてもやんわりはぐらかされて何も教えてくれないから、私自身は今の鎮守府の状況が結局何も把握できていない。まあ、私が探されたりしていない現状を考える限り、実際そこまで大変な問題は起きていないんだろうはず、なんだけど――やっぱり気掛かりだ。

 せめて艦娘たちが今どうしているのか、誰がどんな任務に就いて各々がどう過ごしているのか、そのくらいは知りたいし教えてほしいのだけど……鎮守府の運営に関することであれば特に何もないものの、他の艦娘たちに関しての話をしようとすると、榛名は口を閉ざしてしまう。あるときは窘めるような口調で私の言葉を抑え、あるときは辛く苦しそうな表情を以って私の口を縛り、あるときは熱に溢れ想いに満ちた口付けで私の唇を塞いで、そうして決して話そうとはしてくれない。

 大切な子たち。私と共に歩いてくれた、私の命に尽くしてくれた、私の生を鮮やかに彩ってくれたあの大切な子たちのことを、だから私は知ることができないでいる。毎朝毎昼毎夜、毎日頭の中へ浮かべ描いているあの子たちを――知りたくても、榛名以外の子のことは、何も今。

「どう、してるのかな」

 提督が閉じ込められ身動きを取れずにいるこの現実。確かに今はほとんどすべての艦娘たちが鎮守府の内に必要最低限以上の時間留まっているようなことのない普通ではない状況で、私も数日は自分の力だけでは立つことが敵わなかったような大きい負傷をしてしまったがゆえ面会のできない隔離にも近い安静が必要であると、完全に納得させられるまでには至らなくともそのようになんとか説明ができないわけではない状態だから、まあ、榛名ほど頭の回る子の手であれば、こんな現実を実現させられているのは信じられないということでもない。元々この鎮守府の中での最古参で、秘書艦でもあり最高の練度を誇る子でもある。他のどの子からも「この鎮守府でもっとも上に立っている艦娘は榛名であり、またそこへ立つのにふさわしい艦娘も榛名である」と思われている現状、榛名が表立って指揮を執ることに違和感はそう無いだろうし、また不満もないはずだ。今のこの状況も、現状や現実も、実現してしまっていることに不思議はない。

 ――けれど。とはいえ、だけど。今はこうしてこの状態が成立しているかもしれないけれど、これはいずれ崩壊を免れないはずだ。遠征の合間に少しでも鎮守府に留まっていられるような余裕が生まれてきたら、上から私本人の対応を要請されたり本営へ出向くよう命を下されたら、そうでなくとも面会の敵わない状態なのだという説明が通らなくなる程度の時間が経ったなら、この監禁は終わる。露見して、発覚して、どうしようもなく終わるはず。最高の練度を誇る榛名といえど流石に十を超える艦娘たちを同時に相手に回してしまえば敵わないだろうし、一旦疑念や違和感が広がってしまえばそれを収めることはできないはずだ。

 いずれ終わる。そのことが分からないはずがない。いくら動転し混乱があったのだとしても、それでもあの利発な榛名がその程度のことに思い至らないはずがない。そのはずなのだけど――

 

「ていとく?」

 

 思考が止まった。

 聞き慣れた声、耳に馴染む声、この場所へ移ってきてから私に許された唯一の声、榛名の声が不意に送られ届いたことで、思考がぶつりと。

 首を傾けて視線を横へ。出入り口の扉がある方向へ向くと、お盆を持った榛名の姿。部屋の中の明るさはそのまま空気もさして変わっていない。後ろの扉は閉じられていて、既に密室になっていた。

 にこっと笑み。私が反応を返したのを見て、榛名が表情を柔く緩める。そしてその表情のままゆったりと、淀みのないまっすぐな足取りで歩を進め、私の寝るベッドの方へと近づいてくる。

「ふふ、お待たせしました提督。榛名、ただいま戻りました」

 ことん、と手に持っていたお盆をベッドから少し離れた場所へ据えられているテーブルの上へと置いて、それからお盆の上に乗せていたタオルを手に取り言葉。笑ませていた表情を改めてさらにまた微笑ませ、それを私へと一途に注ぎながら身体を寄せてくる。

 やがて、着いて。私が身体を預けているベッドのもとまで辿り着いて、そして腰かけた私のお腹が横たえられている隣ほどの場所へゆるりと淑やかな所作を以って腰を下ろし、上半身を折って顔を私の傍へ――私の顔のすぐ傍へ近づけて、添わせた。

「ごめんなさい。榛名、今日もまた遅くなってしまって……」

 息がかかる。匂いが香る。視界が埋まる。それほどの近くまで私に顔を添わせた榛名が、言葉を紡ぐ。

 そしてふきふき、と。手にしていたタオルで私の顔を拭う。零れて残っていた飲み水や滲んで浮かんでいた汗が拭き取られていく。優しく、温かく、柔らかく、途方もないほどの心を注がれているのが嫌でも分かってしまうような、そんな触れられ方で丹念に撫でられて、悪くなく、感じてしまう。

 薄く開いた目には榛名の顔。申し訳なさそうな、心を痛めているかのような表情。愛おしむような、湧き上がる想いに満たされているかのような表情。多様な、様々な、いろいろな――けれど私という存在のみにだけ向いた感情を混ぜて共にしたような表情が、榛名の顔が目に映る。

 ふきふき。なでなで。すりすり。丁寧に丹念に何度も何度も、惜しみなく時間を使い溢れんばかりの心を込めて、汚れた私の顔を榛名が愛でるように拭き清めていく。

「――でも、もう大丈夫。明日からは、こんなに遅くはなりませんからね」

 顔を拭き終えて――終わるまでに数分は費やしただろう十分すぎるくらい念入りな顔拭きを終えて、榛名が手を後ろへ。

 それから先の言葉の続きを口にした。先よりも少し柔らかな、少し喜色を混じらせたようなそんな声で、再びまた囁くように私の耳元へ紡いで落とす。

 そして一つ。言葉を紡ぎ終える際に一つ、私の目元へと口付けを降らせて――そっと優しい軽く淑やかな口付けを、高く音の鳴る重たい艶を含んだ口付けを榛名が私へ降らせ落として。それを私が抵抗なく、迎え入れるかのように受け入れたのを見てから身体を引いた。ゆっくりとした動きで、まっすぐに私の瞳を見つめ続けながら。

 やがて上半身をベッドと垂直になるところまで戻してから手にしていたタオルを横へ。私の胸の隣ほどに当たるベッドの上へ、先までよりもわずかにだけ乾きを失い水気を得たそのタオルを置いて、

「脱がしますね」

 言いながら、私の下半身を覆っている服を脱がしていく。

 いつも通り。鼻を刺激する匂いの立ち上るそれを、いくらか色の付いた透明でない水に濡れたそれを、私の不浄に汚されたそれを、榛名が手にする。嫌悪する様子も忌避する様子も、ほんのわずかにでも躊躇する様子さえ見られない。欠片ほどの負も持たず、それどころかむしろ、どこか恍惚とした満足感のようなものすら感じてしまっているような様子で、いつもの通り榛名が私のそれを手に。

 タオルでも何でも使うものはどうでもいい、すべてを拭ききることは無理でも直に素手で触れる前にその何かでまず染みてしまった汚れをある程度にでも拭いたりはしないのか。このいつも通りがいつも通りになり始めた初めの頃、聞いたことがある。私としてもあれを直接触れられてしまうのはいろいろな意味で嫌だったし、そうしてほしいという懇願の念も込めて何度か。……けれど榛名はただ「大丈夫です」と、綺麗で可愛らしい思わず見惚れてしまうような――濁り歪んで思わずすくんでしまうような笑みを浮かべて「榛名にとって、提督のものはたとえそれが何であっても愛おしいんです。余すことなくすべて、それこそそれが、提督自身は棄ててしまおうとしているこんな不浄であっても」と淀みなく答えて、そして手に触れたそれらを「だから、榛名は大丈夫です」と本当に心から愛おしそうに受け入れるだけだった。

 今も、そうしていつも通り。濡れて塗れて汚れるのを気にすることなくむしろさらに濡れようと、さらに塗れてさらに汚れようとする動きで以って私の服を脱がし……私の身体へ触れてくる。

 臀部を通す際には片手を私の身体の下へ差し込み軽く持ち上げて、足の先を通す際にも同じく片手を私の足へ添えふわりと浮かせるように持ち上げて、そうして私には一切の力を使わせないまま、榛名が私の下半身の一枚目を 脱がし終えた。脱がされたことで、水の染みたシーツへ素肌が触れる。一旦のことではあるものの纏わりつく汚れの抱擁から解放されていた脚が、先まで触れていた衣服に染みるそれとは温度も吸水性の差からくる水気の感触も違う新鮮な、まったく好意的な意味を持たないその新しい抱擁を受けて小さく震えた。ぴちゃ、と鳴った水音が耳へ入ってきたのも相俟って、少し表情が苦くなる。

「ん……ふふ、提督、今日はすぐ――今日からはすぐにいつでも、お風呂へ入れてさしあげられますからね……」

 私から脱がしたそれを、濡れきって汚れきったそれを、けれどやっぱり愛おしげな表情と様子とを浮かべながら榛名がぎゅっと胸へ抱きしめた。自分の身体や服が汚れてしまうのも構わず、むしろ先までのように深く濃く大きく自身へその汚れを染み込ませようとするようにして、あまり長い時間ではなかったけれど、その分ぎゅうっと。

 そしてそれから、抱いたそれは手にしたまま恍惚と蕩けた表情を晒しながら私へ呟くような声で言葉。ほう、と吐いた息も熱っぽく潤んでいるように感じられる。言葉を言いきってから鼻で深く空気を吸い満足そうな、けれど満足しきれていなさそうな――熱く、焦がれるような、艶かしい、発情した顔。これまで何度となく見てきた、それなのに見慣れることができない、淫靡に揺らめく榛名の顔。

 その言葉とその言葉に、私の心中が揺れた。

 お風呂に入れるというのは嬉しい。汚れを洗える。身体を流せる。この心地悪い汚れや空気を落とし吐き出して、身も心も清めることができる。それは嬉しい。望んでいたこと、願っていたことだ、嬉しくてありがたい。

 けれど同時に、なんともいえないような思いも広がってくる。榛名の顔、声の震え、熱に湧き立つ様子、それらからこれまでの過去の経験が連想されて、おそらく今回もそのように――浴場で、更衣室で、あるいはこの部屋へ戻ってきてから、きっとまたいつものように行為が始められるのだろうと、そう分かってしまって。過去の行為の数々が思い出され、未来起こるのだろう行為が想像されて、それらが頭の中へ浮かび現れて……そして、そこに嫌悪や困惑以外の感情も持ってしまっている自分を自覚して、なんとも、いえない気持ちになる。

「こちらも……」

 慣れた手付きで抱いていたものをパタパタと折り畳み、それを自身の太ももの上へ置いてから再び榛名が手を移動。外を覆っていた一枚が剥がされたことで露出した下着へ指をかけ、それをまた優しく――熱っぽい吐息をかすかに荒くしながらも優しくそっと、赤子を抱くときのような柔らかさを以って脱がし始める。

 湿り、貼り付いていた布が剥がれていく感覚。ちゅぷ、と水が揺れたような音、にちゃ、と糸が引いたような音、それらが混ざりあったはしたない水音が響く。声は出さない、けれど堪えられたのはその程度で顔は紅潮し胸も詰まる。何度となく繰り返されてきたこととはいえ、慣れることができるわけもない。言葉をかけてくることはないけれど、だけど音が鳴る度に表情を楽しげに緩め愛おしげに柔める榛名の顔を見て――私の状態に気付き、それを汚らわしい負ではなく喜ばしい正の意味で受け入れて、そして頬を鮮やかな紅へ塗っていく榛名の姿を見て、恥じらいや情けなさ、自己嫌悪のような思いの広がりが加速する。

 やがて榛名に連れられたその布は臀部から太ももを通って、膝を越えてふくらはぎをなぞりながらつま先へと至り、そして私の身体から取り払われた。湿って――軽く捻ればそれだけでポタポタと液を垂らしてしまいそうなほどにまで湿りきったそれが榛名のもとへ持ち去られる。

 普段直接空気に触れる機会のない、普段触れる機会があってはならない場所を空気に触れられ、撫でられ、好きにされる。漏れて溢れたものに濡れているのもあり、ほんのわずかな空気の揺れや流れまでもが敏感に感じられてしまって変な気持ちになる。くすぐったいような、気持ち悪いような、気持ち良いような。

 そんな感覚に振り回されている私の横で、榛名は恍惚と。滴の垂れてしまいそうな濡れた下着を手に持ちそれを顔の傍まで運んでいって、感じ入るように幸福そうな表情。曲がりなりにも私と共にある空間だからか顔へ近づける以上のことはしないようだけれど、そんな自制も相俟って堪らなくなってしまっているらしく、私から脱がした服を置いている太ももをたぶん無意識の内にもぞもぞと擦り合わせるようにして動かしている。先までも私から見て読み取れる程度には荒くしていた息をさらに一つ段階を上げ荒げて、瞳の潤みや頬の紅をさらに深くなお濃く塗り重ねて、まるで沈み溺れているかのような様子で浸っていた。

「――ああ、提督」

 いくらかの時が経ち過ぎて。この状態、この状況での沈黙に私が少し堪えがたく感じ始めたほどの頃合いになって、榛名がくるりと首を捻り視線を私の顔へ。顔元まで持ってきていた下着をゆっくりと下ろし重ねるように太ももの上へと置き、潤んで揺れる瞳でまっすぐ一途に私の瞳を見つめながら私を呼んだ。

 動かすことはできないから体勢はそのままに視線だけを返した私を確認して、それから身体を倒す。私の顔を拭くときしていたように上半身を折って私の顔へ自分の顔を近づけるような形で身体を倒し、そして手を伸ばした。私と視線を交わしている間かその前後にでも取り出しておいてあったのだろう小さな鍵を持った手を私の頭上へと伸ばし、そして私の両手をベッドの一部と結び縛り付けていた錠を解かんと動かし始める。

「……榛名?」

「大丈夫です。――ええ、もう提督にあんなものは必要ありませんから」

 名を呟いた私にそうとだけ答え、やがて榛名は錠を解いた。長い間手錠に触れていた部分が久しぶりの空気に触れて、ここは純粋に気持ちいい。

 ずっと頭上へ向けていた腕を下ろして軽く回すようにする。骨が鳴り凝りがほぐれて固まっていた肩から先がいくらか元の状態を取り戻すのを感じながら、同時に視線を横へ。するとかちゃかちゃという金属音を手元で響かせながら身を引いて、ベッドから腰を上げる榛名の姿。

 拘束の解けた私を放って、錠を解いた去り際に一瞬の口付けを落とした以外は何もせず放ったままで立ち上がり、鍵と手錠はテーブルの上へ、私から脱がした服や私の顔を拭いたタオルはお盆の上へ乗せてあった袋の中へと仕舞ってからテーブルの向こう側へ。迷いのない歩みで数歩進み箪笥の前まで移動して、そこから部屋を出る前に身体を拭く新しいタオルと私の履く下着やパンツを取り出す。

 そして綺麗に畳んだ状態を維持しながら取り出した衣服をテーブル上のお盆の横へと置いて、タオルを片手に持ちながら私のほうへ。身体を起こし、ベッド傍の床へ事前に敷かれていた大きめのタオルの上へ足を触れさせて立った私の傍まで歩み寄って、一言「お拭きしますね」と口にしてから跪くような体勢を取って私の足を手にしたタオルで拭き始めた。

 心地よく、こそばゆく、痺れが奔る。太物やふくらはぎ、爪の先や指の間、腰やその下の前後まで、ただの一ヵ所ほんのわずかな部分も残さずに拭かれていく。先に素手で触れていたときと同じように優しく丹念に柔らかく丁寧に、心の込もった触れ合いを以ってゆっくりと。

 感覚の鋭敏な濡れそぼった部分を撫でられて、意識はないのだろうけど常に熱く濡れた吐息で触れられ弄られ続けて――唇を少し引き結び、なんとか反応を漏らしてしまわないようにそんな状況を堪え過ごして数分、拭かれる前から私の身体へ纏わりついていたものをすべて拭き終わり榛名が離れる。最後に一度名残惜しそうに太ももの内側を小さく撫でてから手を引いて、跪くようにしていた体勢を元に戻し立ち上がる。

「少しお待ちくださいね」

 言ってから反転。再びテーブルの傍まで移動して手にしたタオルを袋の中へ。それから隣へ置いてあった私の衣服を手に取って、もう一度私の前まで戻ってくる。

 汚れを通さずに伝わってくる空気の感触と直前までタオル越しにでも榛名に触れられていた余韻を感じて小さく数度震えつつ、同時にかすかにだけ火照ってしまいながら立って待っていた私の前まで来ると榛名がまた跪くような体勢に。

「足を上げていただけますか?」

 言って、そしてそれに私が応えたのを確認してから下着を手にし、軽く上へ持ち上げた私の足の下へ榛名がそれを。両手を使い私が足を通しやすいように穴を広げ、それをつま先の傍まで寄せてから柔らかな語調で「どうぞ」と、榛名が私へ足を下ろすように促す。

 促す榛名の声に従って足を下ろし穴に通す。そして下ろした足が床上のタオルへ触れたのを感じてから、今度はもう片方の足を上へ。こちらの足も同じようにして榛名の声を受けながら下着へ通す。それから榛名が跪いた状態から少し中腰になるような体勢へ移行しつつ足を内へ収めた下着を上へ持ち上げるのを受け入れて、途中むにっと布地が肉に引っ掛かるのを感じたりもしながら、まずは下着の着用を終える。

 身に着けるものの着脱。着るのも脱ぐのも、榛名は私にやらせたがらない。いつものこと。もう抗議することもなくなってしまった、もうすっかり受け入れてしまった、疑問を持つこともやめてしまった、そんないつものこと。

 続くパンツも下着を履くのと同じように履いていく。本当はベルトを締めなければいけないところなのだけど、それは簡略。どうせこれは浴場へ向かうまでのもの、お風呂を終えたその後に着るものはいつも通り既に別で用意されているらしい。だから、少しだぼついて格好が悪いけれどとりあえず今はこれで良しとするつもりのようで、そこまで済んだ時点で着替えが終わる。

「……榛名?」

 ここでもう一度、錠を解かれるときと同じように私は榛名の名前を呼んだ。

 私に服を着させ終わり、すぐに後ろへ。そしてお盆の上の洗濯が必要な諸々の入った袋だけを手に取り、私のほうを振り返って「それでは参りましょう」と出入り口の扉を示す榛名へ向け、疑問と困惑を込めた声を。

(私、何もされてない)

 これから私たちは浴場へと向かう予定のはず。これまではこうして移動するときにこんなことはなかったのに。閉じられたこの部屋の外、外界に繋がる鎮守府内の通路を移動するようなときには、これまで猿轡や目隠しを身に付けなければならなかったのに。それなのに今回は――錠を解く前に噛ませたり結んだりするわけではなく、その上こうして解いた後もそれを強いたりされていない。ほとんど完全な自由だ。それはもちろん艦娘である榛名にただの人間である私がどうこうなどできるはずもないのだけど、それでも――大声を発することはできる。榛名以外の誰かを探すことができる。機械を操作して何らかの行動を起こすことができる。たとえそれ単体ではどうにもならずとも、この鎮守府の中の誰かたった一人だけにでも直接間接問わず接触さえできてしまえば、それでこの現状は打破できる。できてしまう。

 こんなもの私には僥倖でも榛名には何一つの利益をもたらさないもののはずだ。あの榛名がよりにもよって私に関する事柄で失態を侵すはずはない。……なら、なんだ。試されているのか。それとも、今この鎮守府にはちょうど誰も――艦娘も、妖精も、真実本当に誰一人として私たち以外が存在していないのか。

 いろいろな考えが頭を巡る。ここ最近何もかもから離れた寝てばかりの生活を送っていたせいか上手く回ってくれない頭の中で、ぐるぐると。

「必要ないから、ですよ」

 そうして考えを巡らせて直立したまま少しの間止まってしまっていた私に、榛名が声を返した。

 綺麗で、淫らで、可憐で、濁って、美しくもあり醜くもあるような、そんないろいろが混ざって一緒になった微笑みを浮かべて、柔らかい優しげな声を。

 そして前へ。私の立つ場所へ歩を進め近づいて、それから手を握った。両手で持っていた袋を片手に持ち直し、それによって空いたもう片方の手で私の手をぎゅっと。温かく添えるように、ふんわりと包むように、抱きしめて愛するように握り繋いで、結んだ。

 くい、と柔く私の手を引くようにしながら、榛名がゆったりとした歩調で身体を扉のある方向へと移していく。それに連れられて私も前へ。私の斜め前を歩いて手を引く榛名と同じ歩調で私も扉のほうへと進み、そうしてまもなくそのすぐ目の前まで辿り着いた。

「提督」

「うん……?」

「出る前に――失礼、しますね……」

 辿り着き、そこで横から名前を呼ばれてそれに反応すると、途端唇に柔らかな感触。視界には目を閉じた榛名の顔がいっぱいに広がり、鼻元に熱い息のかかる感覚。軽く重なる浅い口づけ。

 昨夜に交わしたような――舌を絡め歯列をなぞり、頬の裏をつついて喉奥までねぶるような深いそれじゃない。ちゅ、と小さなリップ音を響かせて一瞬交差するだけの浅い――けれどそうありながら、そうして浅く軽くありながらも深いそれに劣らず私の胸を高鳴らせ、身体を熱くし心を蕩けさせてしまうような、そんな口づけを落とされた。

 榛名以外の何もが見えない。榛名の匂いが漂ってきて浸み込んでくる。榛名の温かく弾力のある柔らかさが感じられる。ほんの一瞬のたった一秒にも満たない口づけで視覚も嗅覚も触覚も、何もかもを榛名の存在で満たされる。埋められて染められて、どうしようもなく溢れんばかりに満たされる。

「ふふ――お出かけ前の口づけ、です」

 私から離れて元の位置へと戻った榛名が笑み。これまでの行動や言動、今のこの現実をしかしすべて忘却して「かわいい」と純粋に思わされてしまうような笑みを浮かべながら小さく横へ首を傾け、少し悪戯っぽい口調で私に言葉を紡いだ。

 一瞬ぼうっと呆けてしまった私の手を榛名が改めて力を強めて握り繋げる。それに反応し私が呆けた状態から脱したのを確認して、もう一度今度はさらに深い笑み。

「それでは提督、一緒に参りましょう」

 言って、扉の引手に手をかけた。

 繋いだ私の手を軽く持ち上げて扉を、扉の外を示す。

 それを見て感じ私が榛名の顔へ視線を向けたのを榛名は正面から受け止めて、そして笑顔で、蕩けきった満面の笑顔で、言う。

「大丈夫、榛名たちはもうずっと二人きりです。榛名には提督だけ、提督には榛名だけ。他には何も、もう何もありません。ですから、大丈夫です」

「――それは、榛名」

「愛しています、提督。貴女のことは私がすべて、満たして染めて溢れさせてさしあげます。他のものは要りません、榛名がすべて――ええ、必ず幸せにしてみせます。ですからどうか榛名だけを見て、榛名だけを想ってください。愛して――ああ、大好きです。誰よりも何よりも、榛名は貴女のことを愛しています。愛おしい、榛名の提督――」


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