「申し訳ありません。謝罪します。マスター」
「この身この心は人よりもむしろ神霊に近しいもの。けれど私はかつて人であり、またこの今も貴方のおかげで人としてその存在を叶えられています」
「それゆえ分かる。理解はしているのです。貴方にとって迷惑であったと」
「好意は時として害意となる。人は時と場所を選ばなければならないもの。その選択を誤れば、幸せを願う相手へ不幸を贈ることにもなりかねない。そのことはしかと」
「ですから謝罪します。申し訳ありませんでした。あの場、あの時、あのようなことをしてしまい……心から謝罪します」
「我慢していられなかった私を。時も場所も何もかもを意識の外へと放り出して、ただあのように己の欲へ囚われてしまった私を……叶うのならば、どうか許してはいただけませんか……?」
明かりの落ちた部屋の中。僕へと割り当てられたカルデア内のマイルーム。そこへ設えられたベッドの上へと身体を横たえながら、僕は耳元へ囁かれる声を聞いていた。
身体を覆う布は薄い毛布が一枚だけ。けれどそれなのに暖かく……むしろ暑いくらいに感じてしまいながら、熱く濡れた息と共に震えた声を口に出す。
「……あの、アルトリア」
「はい」
「許して、っていうのはこう……困りはしたけどそもそも怒ってはないし、全然問題ないんだけど……」
「許していただけるのですか?」
「まあうん」
「そうですか。……ありがとうございます」
「いいよいいよ、全然いい。……うん、いいんだけどさ。その」
「? なんでしょう?」
「ええっと……どうしてこう、僕はアルトリアに抱き締められてるのかな……?」
後ろから回された腕にぎゅうっと深く抱き締められて。胸を背中に押し当てられて。足を絡められながら、耳のすぐ傍へ顔を置かれて。そうして今、僕はアルトリアと触れていた。
吐息が耳に届く。首や頬が濡らされる。込み上げる熱で焼けてしまいそうになる身体を、温かな身体で暖められる。伝わってくる声や鼓動で溶かされてしまいそうになる。そんな、それくらいの距離。
「どうして。……なるほど、申し訳ありません。私はまた言葉が足りなかったようです。……マスター」
「ん、うん?」
「好きです。私は、貴方のことが」
声が更に近付いた。
吐息で濡らされた首元へ柔らかな髪の毛が滑る感触。それまで頭の後ろから注がれていた声が耳元へ寄って、言葉の度に唇が擦れてしまいそうだと感じられるくらいのほんのすぐ傍へと近付いてくる。
「かつて貴方に問われたとき、私は答えることができませんでした。好きなもの。嫌いなもの。それを貴方へ返せなかった」
言葉を注がれて「ああ、そんなこともあったな」と内心思う。彼女をカルデアへ迎えて間もない頃。まだ今ほど打ち解けられていなかった頃のこと。
声と同じように近付いてきたいろいろ。より強く押し付いてくる背中の感触。より深く絡んでくる腕や足。強く深く、より濃くなっていくアルトリアのいろいろを感じて精一杯で。だから内心思うだけ。言葉も何も返せず、ただ頭の中でぼんやりと思い出すだけだけれど。
「けれど今なら答えられます。貴方のおかげで私は答えを手に入れた」
「答え……?」
「ええ。……マスター」
そっと胸を撫でられる。
優しくそっと。激しく早鐘を打つ高鳴りを確かめるように。それを慈しみ、愛おしむように。
「私の好きなものは貴方です。私の嫌いなものは貴方と共に居られない時です。私は……好きも嫌いも、私はすべて貴方なのです」
甘く蕩けるような、けれどその芯に普段の通りの凛とした在り様を残した声。
囁くようにしてそれを響かせて。受け取る耳を始まりに身体すべてから心の中までをどうしようもなく震わせて、そうして固まり動けない僕へ「だから」と続ける。
「だからなのです。今のこのこれは。そして先ほど許していただいた数分前のあれも。すべてはだから、なのですよ」
「だから……?」
「そう。だから。私が貴方のことを好きだから」
胸を撫でていた手が離れ、今度は僕の手へ触れる。
緩く握られていた僕の手を優しく解いて開かせて、そして触れ、握り絡む。ぎゅっと深く……故意か無意識かは分からないけれど、いわゆる恋人繋ぎというやつで。
「好きだから。それゆえにああしてしまったのです。レイシフトを終え帰ってきた貴方を見て、周りの目も憚らず抱き着いて。そしてそのままこんな……部屋の中へと連れ込んで、想いのままに抱き締めている」
ぎゅ、ぎゅ、と。握った手の感触や存在を確かめるように何度か力を込められる。
確かめられる度に返ってくる柔らかく滑らかな肌の感触に胸の高鳴りが増していく。戸惑いや混乱が深まって……けれどそんないろいろがどうでもよく思えてしまうくらい、心地のいい幸せも心の奥から込み上げてくる。
「私は人。貴方のおかげで人として在ることができている。……とはいえ一般的な人とは違います。神霊としての在り方に引き摺られた存在。それゆえ間違うこともあります。感性のずれた部分があるのも自覚しています。けれど」
「……けれど?」
「これは……この想いだけは間違いのないものなのだと……貴方へと抱いたこの想いは、きっと好意なのだと。恋慕であり愛なのだとそう言える。そう信じられる。私は貴方が好きなのです」
ふと緩む。
抱き締める力が弱くなって、絡んだ身体が解けていく。耳を震わせる声以外、アルトリアが離れていく。
「貴方と居る時は心が休まります。貴方が居ない時は不安に溺れてしまいます」
「貴方と触れている瞬間。貴方と目を合わせている瞬間。貴方と想いを交わしている瞬間。愛おしいその瞬間ごと、私は永遠を願ってしまう」
「私の幸せには貴方がいる。私の不幸にも貴方がいる。私のすべてには貴方がいるのです」
「私は貴方が好きなのです」
言って、それから離れる。
声を送り吐息を注いできていた唇も耳元から離れていって、そして数秒。少しの間を置いてから、今度はそれまでよりもいくらか遠くなった声が届く。
「マスター。こちらを向いていただけませんか?」
その言葉を受けて身体を回転。
ずりずり、と。上へ掛かっていた毛布を少し巻き込むようにしながら体勢を入れ換えて、それまで背中を向けていたアルトリアへと正面からまっすぐ向き合う。
「……マスター」
向き合うとすぐに傍へと抱き寄せられた。
美しく整った彼女の顔が目の前へ。透き通るように澄んだ瞳をうっすらと潤ませて、頬をほんのり紅色に塗ったそれ。一途にまっすぐこちらを見つめてくる彼女の顔が、間に拳一つ分も無いようなほんのすぐ目の前に現れる。
「ふふ、可愛らしいお顔ですね。とても素敵で愛おしい……」
「っ!」
「もっと格好のよい人はいるのでしょう。もっと可愛らしく、もっと整った人はいるのでしょう。……けれど、私には貴方こそがどんな誰よりも愛おしい」
唇を吐息で濡らされて、頬を優しく撫でられて。正面から密着した状態で見つめられながら言葉を贈られて、思わずびくんと震えてしまう。
そんな姿を目で見ながら肌でも感じた彼女はぎゅう、と。胸は胸へ、腹は腹へ、足は足へ。抱き寄せた身体をもう一度抱き締めてむぎゅ、むぎゅう、と密着を深くする。
「きっとこれが恋というものなのでしょうね。……恋。……ええ、とても良い心地です。温かで、幸せで、貴方に満たされて……」
うっとりとした表情。凛と美しく整ったのはそのまま、そこへ甘く蕩けたような色を差し込ませた恍惚とした表情。それを惜しげもなく晒しながら、彼女がぽつりぽつりと呟きを漏らす。
呟く言葉を漏らすため唇が上下に開閉する度たまらなくなるのを……吐息で撫でられる度、触れてしまいそうなほんのすぐ傍を唇が何度も通る度、たまらなく気持ちが込み上げてしまいそうになるのを抑えながらそれを聞く。
すると少しの間を置いて。そうして口も開けず固まってしまった僕のことを撫でて見つめながらゆっくりと少しの間を空けて、それからそっと。
「ん……」
頬に柔らかい感触。
ほんのりと濡れた唇が頬に一瞬触れて、音を立てながら離れていく。
「……ふふ、少しはしたなかったでしょうか」
触れたのは一瞬だけ。けれど柔く吸い付いて、離れるときには名残を惜しむような音を響かせる口付け。それを不意に落とされて、もうとっくに戸惑いながら高鳴っていた身体や心が更に激しく沸いてしまう。
熱に浮かされぼんやりと滲む視界の中にはかすかな照れを混じらせながら微笑むアルトリアの姿。綺麗な赤色に濡れた唇が見えてしまって、そこでまたドキドキと鼓動が跳ねる。
「申し訳ありません。駄目なのだと分かっていながら自身の欲に突き動かされて……きっと貴方はそんな私のことも許してくれるのだと知っていて、その優しい貴方の在り方に甘えて……また、こんなことをして」
唇が触れた場所を指が撫でる。
触れていたその現実を確かめるように。触れていたその事実を塗り込んで刻むように。想いを込めて愛おしむようにして、細く長い指がそっと優しく何度も頬を。
「けれど、貴方のせいでもあるのですよ? 今のこの私があるのは貴方のおかげで、同時に貴方のせいなのです」
「僕、の?」
「ええ、貴方の。……貴方は私に好意や恋、愛を教えてくれました。けれどそれと同じく貴方は私を好意や恋、愛に狂わせてしまったのですから」
頬を撫でる指が横へ。ゆっくりと滑って動いて、それが今度は唇へと触れる。
指の腹でふに、と押され。二本の指で挟まれながらくに、くに、と弄られて。それまで頬をそうされていたように唇を優しく愛でられる。
「だから貴方のせい。貴方のおかげで貴方のせい、なのです。……だから、ええと」
一瞬の間。何か思考を巡らせる間を置いて。
「そう。今の時代で言うのなら……『責任、取っていただけますか?』……です」
言って、言い終えてすぐに感触。
目の前に映っていた彼女の顔がふと消えて、それから耳に何かの触れる感触。ちゅう、と音の鳴る耳への口付け。
「耳への口付けは誘惑の意。……マスター、私の誘惑は受け取っていただけるのでしょうか……?」
「え、あっと……」
「……ふふ」
問われた言葉に答えられず上手く声も発せない僕を見て彼女からそっと笑む声。耳元へと唇を寄せたまま柔らかな笑みを漏らして、そしてそれからまた再び。耳へ触れる誘惑の口付け。
ちゅ、と。ちゅ、ちゅう、と。細かく触れる口付けが何度も何度も降ってくる。
「構いません。今はまだ答えてもらえなくても。これから先も私はずっと、貴方に刻んでもらったこの想いを大切に抱き続けて待ちますから。いつか貴方と結ばれることを願いながら。……マスター……私の愛おしいマスター……私はずっと、貴方のことを愛していますよ……」