倉庫   作:ぞだう

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寝ぼけ眼の貴方と(ジャンヌ・ダルク)

「ん……」

「……あら……お目覚めになられたのですね、マスター」

「……んー……うん。おはよう……」

 

 頬の上を滑る柔らかな感触。左腕から伝わってくる重みと痺れ。それを感じながら目を覚ます。

 ぼんやり映る寝ぼけ眼の視界の中には朧気な輪郭をした人の顔。その真ん中辺りの……きっと唇が静かに動いて、優しい声が降ってくる。

 

「はい、おはようございます。……ああ」

「……?」

「そのままで。そこは私が拭ってさしあげますから」

 

 瞼を拭うために腕を動かそうとして、けれどそれを制された。

 重さや痺れのない右腕。細くて柔らかい、温かな何かを抱くようにして前へ伸ばしていた右腕はそのままに留められて。それからすぐ瞼へ、それまで頬を滑っていた感触が移って触れてくる。

 

「ふふ……」

 

 そっと、そうっと。優しく瞼を拭われる。

 気持ちいい。心地いい。ただ触れられているだけなのに溶かされてしまいそうになる。拭われるごとに晴れていく視界と同じ、ぼやけていた思考も晴れてくる。

 だんだんと見えてきて、そうして頭でも分かるようになってきた。目の前の人のこと。視界をいっぱいに埋め尽くす綺麗に整った彼女の顔。誰より恋しい、何より愛しい相手のことを。

 

「……おはよう。……うん。ジャンヌ」

「? ええ、おはようございます」

 

 今度はちゃんと、ジャンヌへ向けて「おはよう」を。

 二度目の挨拶に一瞬疑問符を浮かべながら、けれど律儀に二度目を返してくれる彼女。思わず見惚れてしまうような微笑みに表情を緩ませた彼女の身体を抱き締める。

 左腕を枕にして横になった、腕の中の彼女。両手をそっと頬へと添えられて、じいっとまっすぐ温かな視線を注いでくる彼女のことを。ぎゅっと。ぎゅうっと。

 

「あっ……」

「ごめん、強かったかな」

「いえ、大丈夫です。……大丈夫。……ええ、ですが」

「うん?」

「大丈夫……なのですが……その、むしろ……もう少し強くしていただけると……」

「……」

「えっと……駄目、でしょうか……?」

「ううん、そんなわけない。……ただ」

「ただ?」

「ジャンヌ、ちょっと可愛すぎ」

 

 もっとずっと深く。それまでよりも更に強く。ジャンヌの身体を抱き締める。

 ほう、と吐かれた熱く濡れた吐息が顔にかかる。満足げに蕩けた瞳に見つめられて、触れ合った身体を押し付けられて擦られて。それを感じて確かめながら、自分も求める力を強くする。

 

「あっ……は、あぁ……」

「これでいい?」

「……はい……いいです。……とっても……」

「そっか、良かった」

 

 それまでの微笑みをもう一段深く。頬をほんのり淡い紅色へと染めて、にこり、と表情を緩める彼女。

 それを見て自分の頬も思わず緩む。愛しい人の愛おしい表情を見て、喜んでもらえていることが嬉しくて、自然と幸せな想いに満たされていく。

 

「ジャンヌ」

「はい……?」

「今は?」

「今……? ……ああ、時間ですね。まだ日の出前、深夜の三時を過ぎたほどです」

「そっか……僕は何時くらいから?」

「そうですね、確か……十時を少し回った頃だったかと」

「としたら大体五時間くらいか……ジャンヌはその間ずっと?」

「ええ、ずっと。こうしてこのまま、貴方と共に」

 

 蕩けてしまってそれまでよりもいくらか柔く緩い口調になったジャンヌと言葉を交わす。

 壊れ物を扱うように優しくそっと、けれど想いを込めて確かにしっかりと。言葉を口にしながら絶えず撫でられ続ける頬に幸せなこそばゆさを感じながら、そうしてぽつぽつ。

 

「退屈じゃなかった? ずっと一人で」

「いえ、そんなことはありませんでしたよ。言葉はなくとも貴方とこうして重なって……貴方の鼓動や息遣い、温もりを感じながらいられるのは……貴方の安らかな寝顔を見つめていられるのは、私にとって退屈などではなく幸せに満ちた時間ですから」

「……そっか」

「ええ。……ふふ、とっても可愛らしい寝顔でしたよ?」

 

 五時間ずっと、その間を延々と眺められていたのか。と内心気恥ずかしく照れてしまったのを察されて微笑まれる。

 そのことにまた込み上げてくる恥ずかしさを増してしまいながら、なんとか表情には出さないよう意地を張りつつ見つめあう。

 

「……ああ、それと」

「うん?」

「マスター。その……今の私を見て、何か思うことはないでしょうか……?」

 

 するとふと。そんな姿を視界へ収めながら僕へ触れるジャンヌが……右の手は頬へ添えたまま左の手を上へ動かして、そうして髪を弄るジャンヌが呟き。

 髪や頬を撫でながら。密着した身体をすりすり、と控えめに擦らせながら。そうしながらぽつり、と。

 

「何か……?」

「ええ、何か」

「んー……そうだなぁ……」

「……」

「ええっと……」

「……」

「ううん……」

「……」

「……」

「…………やはり、聞いていたお話のようにはいかないのでしょうか」

 

 しゅん、と。浮かべた表情が薄く曇る。

 そんな顔をさせてしまったことに慌ててしまって、申し訳のない想いに溢れてしまって。そうして一瞬体勢を崩してしまいそうになったのを、けれど抑えられて保たされて。深く密着したのはそのまま、彼女に言葉を続けられる。

 

「その、聞いたんです。そうすれば叶うのだと」

「叶う?」

「はい。……眠りの中の想い人へ囁きを注げば、それは心へ根付き、叶うのだと。そのように」

「囁き……」

「ええ。……マスター」

「?」

「私は綺麗ではありませんか?」

「えっ?」

「可愛くは見えませんか? 美しくは映りませんか? 私のことを、普段より愛おしくは感じませんか……?」

 

 上目遣いで窺うように。どこか不安そうに。どこか期待を込めた瞳で。見つめながら言ってくる。

 優しくそっと。僕へ触れる力のそれは変わらず。けれどかすかに動きをぎこちなく硬くしながら。言って、返事を待って見つめてくる。

 

「……綺麗だよ」

 

 それに僕はそう答えた。

 表情。言葉。仕草。感じられるジャンヌのすべてを受けて、そうして抱いた本心からの言葉。嘘偽りのない本当の気持ち。

 

「綺麗だ。誰よりも可愛く見える。何よりも美しく感じられる。恋しくて、愛おしい」

「……」

「……」

「……それは本当の言葉なのでしょうか」

「え?」

「私に促されて……無理に言わされてしまった言葉ではないのでしょうか……?」

「そんなことない! それはその……すぐにそう答えてあげられなかった僕が悪いんだけど……これは、本当に嘘じゃない心からの言葉だよ」

 

 暗い声。目を伏せたジャンヌがぽつりと漏らす。

 僕はそれに反論。抱き締める力を強めて、伏せられた瞳へまっすぐに視線を向けて。そうして言う。心を込めて。

 

「……私のこと、好きですか?」

「うん」

「大好きだ、って思ってくれていますか……?」

「思ってる。ジャンヌのこと大好きだよ」

「本当ですか?」

「本当だって」

「それなら……」

「なら?」

「愛していますか?」

「愛?」

「はい。……他のどんな誰よりも。他のどんな何よりも」

「もちろん。愛してる。他の誰でも何でもない、ジャンヌのことを僕は」

「……」

「……」

「……ふふ」

「?」

「ふふ……えへへ……ごめんなさい」

 

 ふにゃ、と緩んだ。

 それまで目を伏せ暗くなっていた表情が柔く緩んで、そして『ごめん』と謝罪の声。

 

「えっと……?」

「ごめんなさい。私、嘘を吐いてしまいました。……貴方へ囁きを注いだ、なんて嘘を」

「……嘘?」

 

 緩んだ中へ申し訳なさそうな色を一筋差し込んで、先のとは少し違う上目遣い。

 

「はい。……聞いたのは本当です。そういったお話があるのだということは。けれど、実際に行動へ起こしたわけではないのです」

「っていうと……?」

「つまり」

「つまり?」

「聞かせてもらえると思ったのです。聞かせてほしいと思っていた言葉を、貴方から」

 

 恥じらうように。

 伏せはせず、けれどふらふらと泳ぐ瞳。揺らぎながらも触れ続け、重なり続けて、強く深く密着している体勢は解かずに言う。

 

「僕から?」

「はい」

「好きだ、って言ってほしくて?」

「……はい」

「愛してる、って言ってほしくて?」

「……はい」

「……」

「……」

「……ジャンヌは可愛いなぁ」

 

 ぎゅう。

 抱き締める。恋しくて愛おしくて、温かな想いが込み上げてきて。思わずつい、気付いたら抱き締める力を強めていた。

 

「んぅ……」

「ふふ」

「……マスター」

「?」

「許していただけるのですか?」

「許すも何も……ジャンヌのこと、悪く思ったりなんてしてないから」

「……ありがとうございます」

「いいえ。……ああ、だけど」

「……なんでしょう?」

「本当に何もしなかった?」

 

 安心したように息を吐くジャンヌ。

 抱き締めた背中をあやすようにして撫でながら、その彼女へ言葉を。

 

「囁く、っていうそれをしてないのは分かった。……分かったんだけど」

「だけど……?」

「それ以外はどうなのかなって」

「……それ以外?」

「それ以外」

「……」

「……」

「……その、マスター」

「うん?」

「もしかして……えっと、起きていたのですか?」

「いや、寝てたよ。それは絶対」

「……」

「隠したいのならいいんだけど。僕はそれでも……」

「い、いえっ!」

「?」

「いえ、言います。貴方に隠し事などしたくありませんから……」

 

 もじもじ、と。数度口を動かして、けれど言葉は紡げず。そうして数秒間を置いて。

 髪を弄っていた手を更に先へ。頭の後ろまで回して抱き抱えるような形へ変えてから、ゆっくりと小さな声で呟きを。

 

「頬を撫でました。髪を弄りました。……それで、それと、その……」

「それで、それと?」

「…………キスを……」

「ん?」

「……キスを! 貴方と! ……その、勝手に……キスを……」

 

 頬を濡らす紅色を深く塗り重ねながら、ぱたぱた、と取り乱すジャンヌ。

 落ち着きのない彼女を抱き締めながら聞く。背中を撫でて、ぽんぽんと叩いて、言葉の続きをそっと促す。

 

「キス」

「あっ、でも唇にはしていませんっ。それは駄目。それは貴方の承諾なしに触れてしまってはいけないもの、ですから」

「そっか。……それじゃあ」

「?」

「どこにしたの? キス。僕に」

「え、あえっと……」

「ん」

「……その、頬に何度か…………」

「頬に?」

「はい……」

「そっか」

「……あと」

「うん?」

「あと、それから……額にも……」

「額」

「瞼と……鼻と……耳と……」

「……ん?」

「……」

「……」

「……え、へへ……ごめんなさい……」

 

 笑み。悪戯が見付かった子供のような、出会ったばかりの頃の彼女からは想像のできなかったような、そんな笑み。

 赤い顔をそんな笑みに塗って、小さく「唇以外の場所へは、すべて……」と声。小さく細い謝る声を、彼女が僕へと送り注ぐ。

 

「…………あの」

「ん?」

「怒って、いますか? 寝ている間、勝手にそんなことをされて」

「そんなこと……いや、うん……そうだね」

「っ」

 

 腕の中の身体がびくり、と震えた。

 それと同時に一筋不安げな色を表情へ差し込ませたジャンヌのことを、改めて強く抱き直して。

 

「怒ってるかも。……だから、お仕置きかな」

「お仕置き、ですか……?」

「そう、お仕置き」

「それは……その、どんな……」

「えっとね」

 

 一旦合間。

 まっすぐ一途に見つめてくるジャンヌ。その瞳を見つめ返しながら、もう既に近かった距離を更に詰めて。今にも触れてしまいそうな、吐息の混じりあうほんのすぐ傍まで顔を寄せて。

 そして、それから。

 

「キス」

「……え?」

「キス、してほしいな。僕と」

「キス……ですか……?」

「そう。キス。……今度は、寝ている間に触れられなかったところへ」

「それって……!」

 

 不安げな色が掻き消えて、代わりに眩しい色へ塗り変わる。

 口調が明るく、表情が眩しく、ジャンヌの様子がぐるりと変わった。

 

「……あの、マスター」

「?」

「よいのですか? 本当に、そんなお仕置きをいただいてしまっても……」

「もちろん。むしろ受けてほしい」

「……ああ」

「駄目かな?」

「そんなわけありません。拒むはずがありません。当然、お受け致します……」

「そっか」

「ええ。……ああ、マスター」

「何かなジャンヌ」

「好きです。やはり私は貴方のことが……好きで好きで大好きで……ええ、誰よりも愛しています……」


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