1/2(ふたつ)に割れない恋ゴコロ   作:c.m.

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※2024/10/19誤字修正。
 タイガージョーさま、ご報告ありがとうございます!


中編:鬼の哭く街

 聳え立つ摩天楼……既に明かりのないオフィス街とは裏腹に、歓楽街は不夜城として、上海に生きる者全ての欲望を啜って輝いている。

 ある者は豪奢に着飾って街を練り歩き、ある者は高級車の後部席で、女を侍らせて悦に至る。昼の上海が人の善の陽気を浴びて咲く大輪の花ならば、さしずめこれは内に秘めた欲望を解き放つ、享楽の星明かりなのだろう。

 だが、その星明かりの中に、余りに場違いな影が落ちる。

 身に纏うは漆黒の長衫(ちょうさん)……らんまと練り歩いた昼の装いと異なり、飾り気を排した愛刀と同じく、遊びのない装いだった。

 

黒幇(ヘイパン)(ズー)香主とお見受けする」

 

 雑多な喧噪。人の目が余りに付き過ぎる世界であったにも拘らず、その声は歓楽街に不思議と響き、道行く者全ての足を止めた。

 警官も、無法者も、観光客も、道行く全てが少年へと振り返った時、(ズー)の護衛は問答無用で発砲したが、それは正しい。

 (ズー)(ズー)と知り、呼び止めた上で殺意を隠しもしなかったのだ。

 警官は堅気を避難こそさせるよう努めても、凶行に及んだ(ズー)の護衛に注意一つ浴びせない。何故ならこの国の警官も、多くが裏で(パン)に属しているか、或いは鼻薬を嗅いだ者であった。

 何処ぞの極東の警官のように賄賂を受け取らない公僕など、中国では希少種どころか絶滅寸前とさえ言っていい。

 だが、銃声の先に立つ少年は仁王に立ったまま──唯一の違いは鞘より抜き払われた白刃が、ネオンより激しく殺意に濡れ光っていることか。

 

(スン)香主の名、上海を荒らす貴様らが知らぬとは言わさぬ」

 

 二射、三射、立て続けに放たれる銃弾も、やはり無意味。

 豆鉄砲如きで、真の達人を黄泉に送ることなど不可能。この時代、この世界において達人に抗し得るのは、同じ領域に立つ達人だけだ。

 

「我ら青雲幇(チンワンパン)にも、貴様らの悪行は轟いていた……それに目を瞑ってきたは、日の浅い貴様らが、上海の民に手を出さなかった為に過ぎぬ」

 

 (パン)同士の縄張り争いならばいざ知らず、無辜の民に手をかけたなら話は別。

 

「──この一夜こそ、貴様ら黒幇(ヘイパン)の最期と知れ」

 

 それは如何な技法による歩法か。優に一〇メートル、否、それ以上の距離にあった筈の護衛の首が立ちどころに宙を舞い、噴き出た鮮血が街路を穢す。

 ……が。それを目の当たりにした(ズー)の距離は、先程と明らかに違っていた。

 先程と同じ位置に(ズー)が立っていたならば、互いの距離は肉薄していなければおかしい筈だ。だというのに距離を取ることが出来ているのは、(ズー)もまた同じく達人の域にある男だということに他ならない。

 

「餓鬼が刺客か……この俺も舐められたものだ」

 

 無様を晒した護衛に唾吐くような視線を投げてから、(ズー)は構える。

 

「その細身の刃、俺の掌を通せるかな?」

 

 タン! という軽やかな、しかし一足跳びで踏み込んだ距離はスグナリのそれより速く、同時に深い位置で掌打を放つ。

 瞬時に間合いを詰める箭疾歩(せんしっぽ)は内家拳が一つ、武壇八極拳の極意であったが、そこから繰り出すは洪家(こうか)拳が誇る殺人拳『鉄砂掌(てっしゃしょう)』──外功によって練り上げられた鋼の掌打は内功のそれと同じく凶器であり、肋を粉微塵に砕いて五臓六腑をも破裂させる……!

 

「それは、肩から先を失っても使える技か?」

「な、ぁ……?」

 

 馬鹿な、何時斬られた? 自分は間違いなく踏み込んでいた。拳を振る感覚は、確かにあった筈なのに……と、──(ズー)は暫し失った片腕だけでなく、膝から下が、ずるりと遅れて()()()のを目で追った。

 余りに鮮やか過ぎた切断面が、(ズー)の感覚を麻痺させたのだろう。斬られたという事実さえ、踏み込んだ(ズー)には遅れたのだ。

 

「ぁ……あ……」

 

 喪った部位から、壊れた蛇口のように鮮血が飛沫く。真の絶望を感じた時、人は苦痛からの叫びより、恐懼で裏返ったか細い声しか漏らせなくなるということを、これまで散々に殺してきた(ズー)自身、幾度となくその目に焼き付けて来たものだ。

 つまりは因果応報……報いを受ける番が回り、それが今日だったというだけのこと。

 

(スン)香主を殺したのは誰だ?」

 

 この程度の手合いに敗れる筈もなし。下手人を問うスグナリに、しかし(ズー)は恐怖で口を割る事をしなかった。

 

「……殺せ……」

 

 如何に外道に堕ちようと、黒社会に生きる矜持は棄てぬ。死を待つ(ズー)を首の皮一枚残して介錯した手管は見事であるが、しかしスグナリの心は晴れない。

 

「……今宵、地獄の席を埋めてくれる」

 

 報仇の誓いが、魔都上海に静かに響く──この時を以って、地獄の釜は静かに開いた。

 

 

     ◇

 

 

「スグナリ……」

「らんま。幾ら君でも、夜分に出歩くものではないよ?」

 

 上海は日本とは違う。どれだけ煌びやかな都市部でも、常に犯罪者の影は潜んでいる。たとえ達人の域にあるとしても、闇に生きる人間の手練手管は、らんまのような日向の人間の上を行きかねないのだ。

 

「道場まで送るよ。今夜はもう──」

「……お前、匂うぞ?」

 

 返り血は一切浴びていない。あれ程凄惨な地獄を作りあげながら、血の一滴さえ服にも白刃にも残さぬ業前は、数多の死線を潜り抜けて身につけた技巧であったが、しかし微かな血の残香ばかりは、洗い落とさぬ限り拭い切れるものではなかった。

 

「──参ったな」

 

 唯の犯罪者なら、或いは外道の類なら、口封じをするという手もあるだろう。しかし、スグナリはそれをする気はない。

 

「なら、はっきり言うよ。今すぐ上海を発った方が良い。ここはもう戦場だから」

 

 開戦の狼煙はスグナリが上げた。間を置かずして、大規模な抗争が始まるだろう。

 

(ワン)老師には僕から伝えるよ。大丈夫、決して危害は加えさせない」

 

 だから、お別れだと。そう言って去ろうとするスグナリの袖を、らんまは掴んだ。

 

「そんなんじゃ、納得しねぇ」

 

 聞かせろと。時間はある筈だと睨むらんまは、梃子でも動かない。きっと、それこそスグナリが本気で打ち負かす以外に、その手を振り払うことは出来そうになかった。

 

「君みたいな堅気に、聞かせて良い話じゃない……でも、それじゃあやっぱり、納得してくれないよね」

 

 そういう意固地なところは、短い付き合いだがスグナリも理解していたから、人気のない場所まで手を引いた。

 

「何処から聞いてたのかな?」

「多分、最初からだ……中国語、全然分かんねぇのは今もだけど、女の腕が見えて、お前が跳んでったから、後先考えずに追っかけた」

「そっか……じゃあ初めから説明するけど、僕と(ワン)老師は(パン)……極道とか、ヤクザって言えば伝わる思うけど、そういう組織の一員で、僕は陪堂(ばいどう)っていう(パン)の揉め事担当なんだ」

「……仇討ち専門ってことか?」

「いや……。凶手(ころしや)の仕事もしてきた」

 

 それは常に外道に手を染めて来た相手に限ってだが、人殺しであることには変わらないし、そこを理解して欲しいとは思わない。そう前置きした上で、スグナリは続けた。

 

「黒社会を生きる(パン)には幾つか種類があってね。大まかには清王朝時代、異民族を退けて漢民族の支配を取り戻そうとしたっていう起源を持った、秘密結社の紅幇(ホンパン)と、大運河の水運業ギルドを起源とした青幇(チンパン)の二つ。

 僕が属している青雲幇(チンワンパン)は言うまでもなく後者……と言っても、成り立ちがそうってだけで、阿片や賭博、売春を資金源にしてた青幇(チンパン)とは全然違うんだけど」

 

 むしろ青雲幇(チンワンパン)は、そうした商いを行う(パン)を一括りに黒幇(ヘイパン)と蔑称し、唾棄している。

 青雲幇(チンワンパン)は確かに先祖伝来の水運業を営んでこそいるものの、法に触れるような真似は避けて来たし、逆に上海に根を張って麻薬や人身売買を贈賄塗れの官憲に代わって取り締まることで地元民からの信頼を勝ち得て来た、古き良き任侠道の組織なのだ。

 人殺しの為に武器を執り、法に依らぬ裁きを下すこと。それは法治国家の社会にあっては紛れもない私刑で殺人なのだろう。

 しかし、法も、法を司る公僕も民草を無視し続けるのであれば、義侠心から立つ者も出てくるものだ。

 

「あの腕の主である(スン)香主……ああ、香主は幹部って覚えて欲しいんだけど、(スン)香主も義徳に篤い方でね。

 ……僕のような日本人も、杯を交わした義姉弟として分け隔てなく接してくれたし、常に力ない人々の為に動く、高潔な女性(ひと)だった」

 

 だからこそ許せないのだろう。常に優しく、温かく、深く信頼していた相手の腕が送られてきたのだ。今まさに、左手に持つ倭刀の鉄鞘さえ軋むほどに、スグナリは怒りを湛えていた。

 

「……好きだったのか? その、香主のこと……」

 

 何故そんなことを聞いたのかは、らんま自身分からなかった。

 ただ安直に、男が女を奪われたことへの怒りのように捉えていたからなのか。

 或いは何か、よく分からない感情がらんまの口を動かしたのか……。

 それに対してスグナリは、思うように言葉を出せない様子だった。

 

「……僕にとって、(スン)香主は母であり、姉であった女性(ひと)だった……だけど、()()分からないんだ」

 

 人は、失って初めて大切なものの大きさに気付くと多くは言う。

 しかし、失ったことで見えなくなってしまうこともある。

 スグナリの裡から込み上げた怒りは、殺意は肉親に等しい女性を奪われたから来るものなのか。或いは大切な異性を喪失した為に噴出したものなのか。

 

 ──追想の幻視に見る女性からでは、答えを見出すことは出来ない。

 

 それはきっと、生きた(スン)ともう一度再会することでしか、確かめようのない感情(もの)なのだ。

 

「……どの道、僕がすることは変わらない」

 

 私情にせよ(パン)の面子にせよ、いずれにしたところで黒幇(ヘイパン)を見逃すなど有り得ない。日が浅いとはいえ、土足で上海に踏み込んできた黒幇(ヘイパン)(スン)の死を好機と見て港に武器と麻薬を卸し、人身売買まで手を出し始めた人非人の集まりだ。

 

「この上海は、一皮剥けば魔都の顔を覗かせる……闇に紛れて動く外道は数知れない。どれだけ片付けても、蛆やゴキブリのように湧いて出る」

 

 だからと……繰り言だが、スグナリはらんまを説き伏せるのだ。

 

「君はここを去らなくちゃいけない。君が、正しい武を続ける為に」

 

 武を殺しの道具とするのでなく、人を殺めてしまう力だからこそ、武徳の心を手放さず、学んだことを善のままに受け継がねばならない。

 正道を歩む為には、このような汚泥に踏む込むべきではないのだと説諭するスグナリに、らんまは頭を振った。

 

「おれ、頭良くねぇからさ……先のこととか、正しさとか、きっとスグナリが伝えたいことの半分も分かってねぇよ。でも……それでもおれは、見て見ぬ振りなんか出来ねぇ」

 

 だって、そうだろう? こうして自分を説き伏せようとする男が、どんな顔をしているのか。こちらに来るなと言いながら歪んだその顔は、人としての正しさと優しさを示しているのに、同時に怒りと悲しみでぐちゃぐちゃになっているじゃないか。

 

「おれは付いてくぞ。嫌ならここで斬っちまえ」

「……出来ないし、しないよ。そんなこと……」

 

 この刀は、刃は人に向けるものではない。人の生き血を啜る、魑魅魍魎にこそ向けて来た。それこそが武術家として、戴天流一門としての、唯一のスグナリの拠り所だったのだ。

 

「常に僕から離れて……いざという時は、眼を逸らして欲しい」

 

 だから、言えるのはそれだけ。その言葉だけでしか、この豪胆で意地っ張りな子を止められないと分かっていたから。

 

 

     ◇

 

 

「港湾倉庫……?」

(スン)香主が管理していたんだ。今は黒幇(ヘイパン)の……」

 

 言葉が途切れる。赤い染みが倉庫の壁に付き、そこに転がるのは太極刀……。

 

()師兄……」

 

 無残な骸を晒す師兄の顔は、半分が鉛玉を浴びて潰れていた。遠巻きに見つめるらんまも眼を背けたくなったが、しかし慈しみを以って片方の瞼を下ろすスグナリの姿に、嘔吐感や死体への忌避感は消え、静かに手を合わせた。

 

「ありがとう」

 

 どれだけ離れていようとも、隠そうとしなければ視線や気配で行動は伝わる。凄惨な現場にも拘らず、黙祷を捧げてくれたらんまに感謝を示すと共に、師兄の遺体にスグナリは首を傾げた。

 

“殺められてから銃弾を浴びた訳ではない……だが、()師兄が銃器如きに後れを取るか?”

 

 さしもの内家拳士とて、当たり前だが火器の釣瓶撃ちに遭えばひとたまりもないのは事実。しかし、それをさせぬ立ち回りというものを心得ていたこそ、()も戴天流の道場を出て(パン)に奉公するだけの地位を得た筈だ。

 だが、それに対する答えは遅れてやってきた。

 

“チィ……!”

 

 軽功を駆使して飛び退くと同時、らんまを抱き上げて駆け抜ければ、弾雨が横一文字に薙ぎ払われた。アサルトライフルやサブマシンガンなどではない。船からの機銃掃射によるものである。

 

「下ろせっ! 下ろせってば! あれぐらい躱せるっての……!」

「火器の種類や有効射程は知らないだろう!? 何よりあれは、僕らみたいな内家拳士を殺す為の代物だ!」

 

 人の放つ殺意や悪意をといった『意』を察知し、それに反応して先んずる内家への対策として、黒社会の人間が重用する殺戮機械(キリング・マシン)

 スグナリやらんまならばまだ対応も出来ようが、()にはいささか分が悪かった代物だ。

 

「うっせ! 弾丸なんかスゲー速くて長い槍と一緒だっつの! 要は見切れりゃ良いんだろうが!」

「その通りだよ! 加えて方向転換や角度にも限界がある!」

 

 突くならそこで、躱すのもそこだ。そして何より、人を殺さず済むのであればらんまにも手はある。

 

「──だったら、おれにだってやれるっ! 空中戦は早乙女流の十八番だぜ!」

 

 抱えられた懐から飛び出し、軽功によって月夜に跳ねる。宙を駆けるかのような飛翔によって甲板に着地すると同時に船の機銃を破壊し、同時に現れた黒幇(ヘイパン)構成員を悉く無力化しにかかるが……。

 

「離れて!」

「わっ!?」

 

 飛び乗ったスグナリがまたしてもらんまの手を引き、船から勢いよく飛び出せば、意識を失った構成員の五体が吹き飛び、ばかりか鉄片の数々がらんまに向かった。

 らんまが掠り傷一つ負わずに済んだのは、何処から手に入れたのか、鉄板を掴んで盾にしながら退避したスグナリのおかげだった。

 

「プラスチック爆弾と破片手榴弾だよ。黒幇(ヘイパン)の捨て駒は、よくああして達人を巻き込みにかかるんだ」

「糞っ、どいつもこいつも人の命を何だと思ってやがる!?」

 

 その怒りは何処までも正しく、その主張は至極尤もだ。

 だが、黒社会の世界ではそうした人間こそ真っ先に毒牙にかかる。

 先の捨て駒たちがそうであるように、常に命を安物として扱う外道の手によって。

 

“だから僕が、お前達を殺しに来た”

 

 自分が殺される訳にも、らんまを殺させてやる気もない。

 内家の達人が氣を込めれば布帯は剃刀に、木片は鉄槌へと変ずるのだ。

 陰に隠れ機を窺う者共に対し、懐から取り出し投擲された飛刀もまた、人が膂力で投げる域を、いや携行火器によって駆使されるそれと同等以上の威力を有する物だった。

 向けられた殺意に導かれるように銀光が煌めき、音の壁を引き裂いて直進する。

 分厚いコンクリの壁越しに殺意を滲ませた構成員達は、さながら対物ライフルの至近弾を受けたかの如く壁を貫通した鋼の刃によって、残らず頭蓋を爆散させた。

 飛び道具など用いずとも、一息で接近して殺し回ることは容易かったが、腕に抱いたらんまが血を見ることの無いよう、敢えてそれをしなかった。

 

「下ろすね」

「……その、悪かったな。素人がしゃしゃり出て」

 

 認めるべき非を認め、頭を下げる。道徳として当然だが、いざという時にそれが出来るかと問われれば、出来ない者の方が多いのが世の常だ。

 普段ならばつい意地を張ってしまうところだが、命を救われてまで突っぱねる程恩知らずではなかったし、スグナリとて、そんならんまを受け入れねば男が廃る。

 

「僕の為に動いてくれたのもあるんだ。それを無為にして責めたりしないよ」

 

 

     ◇

 

 

 湾港倉庫は粗方片付けた……が、同時に青雲幇(チンワンパン)の義兄弟たちの亡骸も多かった。いや、流石にこれは多過ぎる。

 有象無象や()のように、武侠としてはやや格の落ちる手合いならばいざ知らず、鶏爪鉞(えんおうえつ)の達人たる(リョ)さえ屠られたという事実には、さしものスグナリも瞠目せざるを得なかった。

 

(パン)が誇る身器一体の戦鬼の中でも、特に乱戦に特化した(リョ)師兄を打ち破るとは……”

 

 それほどまでの組織であれば武名は音に届いた筈だろうに、何故黒い商いばかりが響いたのか? いや、そもそもにして()()(スン)香主を討ち取ったという時点で、大陸全土を震撼させても良かった筈だ。

 

“……?”

 

 ひら、と。(リョ)の懐から何かが落ちた。淡い薄紅の花弁だが、桃花ではなく……。

 

「……桜」

 

 上海でも桜は幾つか植えられている。しかし、それが(リョ)に付いていたのは何故か?

 

「まさか……生きて……」

 

 その瞬間、スグナリは駆けた。

 

「お、おい!? どうしたんだよ!?」

(スン)香主が、ご存命の可能性があるんだ!」

 

 人質か。或いは他の意図があるのかは知れぬ。しかし、この上海でスグナリの知る桜の木の場所は多くなく、そのうち一つは、(スン)がスグナリの為に与えてくれた場所だった。

 

 

     ◇

 

 

 桜の木の下には、死体が埋まっているとは日本の怪談だったか?

 辿り着いた場所はさながら怪綺談以上の、猟奇的な光景だった。

 

「ひでぇ……」

 

 晒された首は二〇を超す。その全てが戴天流の師兄と、青雲幇(チンワンパン)でもスグナリの見知った顔ぶれだ。

 

“つまり……僕への当てつけか、怨恨の類か”

 

 それもまた一つの道理だろう。外道のみを斬ってきたとはいえ、手にかけ落とした首が、三桁を下回ることは無い。

 殺した相手がどれほどの罪科を重ねていたのだとしても、相手にも親しまれるだけの人間は、必ず存在したであろうから。

 

“──だが、それがどうした”

 

 スグナリが斬らねば、多くの無辜の民が悲劇に見舞われた以上、過去をやり直したいとは露とも思わない。所詮殺し殺されの黒社会に生き、切った張ったを繰り返す因果な商売の中でのことだ。

 恨みを持ち出されようが、悪鬼の誹りを浴びようが、お互い様だと返すことが出来ただろう。

 

 だが、これは──、この光景は──

 

(スン)……香主?」

「最後に会ってから、一年ほどか……息災そうで何よりだ」

 

 微笑む(スン)は、何処までも慈愛に満ちていた。年の頃は二〇半ば辺りだろうか? すらりと伸びた長躯は均整が取れ、細い目元と薄い唇が大人の色香を際立たせている。

 失われた筈の利き腕が付いていたが、おそらくは義腕であろう。機械の指を隠すように嵌められた革手袋からは、微かにぎちりという人の指ならざる音がした。

 

「敵は、下手人は何処に──」

「──ここだ、スグナリ。お前の目の前に立っている。私が殺し、私が仕組んだ。私が出し抜き、私が首を並べてやった」

「な……」

 

 感動の再会も、目尻に浮かんだ雫さえ止まった。スグナリの世界が凍ったとさえ言っていい。敢えて間違えぬよう日本語で口にした(スン)の自白に、身を固めることしかできなかった。

 

「何故……このような……」

 

 これまでのスグナリであれば、問う前に刃を抜いただろう。青雲幇(チンワンパン)の陪堂として与えられた役の為、一振りの刃として、有無を言わさず幇会の裏切り者と矛を交えることを厭わなかった筈だ。

 だが、それをするには……してしまうには、余りに(スン)の存在はスグナリに大きかった。

 

「てめぇ……どういうこった!? なんで自分の仲間を殺しやがった! てめぇが死んだと思ってたスグナリが、どんな顔してたか分かってのか!?」

 

 だからこそ、外野だろうとらんまは吼えた。吼え叫び、何故こんな真似をしたのかと問い質さずには居られなかった。

 

「──……やっとか。やっとお前は、同郷の人間に出会えたんだな。スグナリ」

 

 その言葉は、その顔は、凶行に及んだ裏切り者がするには余りに穏やかだった。何処までも慈愛に満ち満ちた、スグナリの知るかつての(スン)そのままだった。

 だからこそ、スグナリはうわ言のように繰り返す事しかできなかった。

 

「何故、何故そのような……」

「それはね、スグナリ。お前が哀れでならなかったのと、(パン)の行く末を私なりに案じてのことさ」

 

 意味が分からない。一体何故、どうして杯を交わした義兄弟達を殺すことが、青雲幇(チンワンパン)を案じての行動になるというのか?

 

「スグナリ……時代は変わりつつある。青雲幇(わたしたち)はもう、時代に取り残されつつあるんだ……私は香主として、交易で稼ぐ同業や市井の連中を見て、それを痛感せざるを得なかった」

 

 文化大革命以降、多くの民衆は社会主義と革命を叫びつつ、古き良き文化を砕こうとした。しかし同時に、民衆も指導者たちも、平等を口で叫びつつも豊かな生活に飛びついていた。

 

「上海の民だけじゃあない。青雲幇(わたしたち)の末端も、そういう豊かさから来る『儲け』って奴に目を向けてた。時流に乗れない同業者たちが趣旨変えして、同じように儲けを出そうと躍起になるとこも見て来たよ」

 

 やがて、いつか……自分達が誇りとした、古き良き時代は捨て去られる。時代遅れの黴の生えた価値観として、義侠の精神は必ず何処かで根絶やしにされる。

 

「そのようなことは……」

「あるさ。現にお前はずっと除け者だった。好漢侠客の風を吹かせて、『義』や『仁』を貫くと嘯きながら、杯を交わしたお前をずっと腫れ物扱いにしてきたじゃないか」

「そのようなことは有りません! 老師も寨主(さいしゅ)も、常に僕を案じて下さいました……!」

「ああ、その二人は例外だよ。その二人だけは、ね……」

 

 日本のヤクザが孕ませた地元女の捨て子を我が子も同然に育て、秘技秘伝さえ授けた(ワン)

 スグナリの武徳に感銘を抱き、異人でありながら(パン)の一員として厚遇した寨主。

 どちらも(スン)が認め、今も尊敬し続ける人生の師だ。

 だが、他は違う。

 

「なぁ、スグナリ。いい加減目を醒ませよ。幾ら剣の腕を磨いて、完璧な広東(カントン)語を喋って、同じように飯を食っても、お前は日本人なんだ」

 

 初めからお前は余所者で、決して中国人になどなれはしない。赤子の頃から育てられようが、親兄弟も同然の立場に置かれようが、決して真の意味での同胞になれないと……それを弁えていたからこそ、(ワン)は最初から中国人の名を与えなかったのだと。

 

「どれだけ努力しても、肝心の所には入り込めない。それが中国人の黒社会って奴さ」

 

 幇会を初めとしたアジアの伝統ある犯罪組織は、永らく鉄の結束を誇ってきただけに独特の嗅覚を有している。彼らは巧みに異分子を嗅ぎ分け、決して牙城を切り崩せぬよう余所者を排斥する、ある種の防衛本能を備えているのだ。

 

「お前が青雲幇(チンワンパン)への叛意など欠片も持ち合わせていないことは、当然皆承知している。お前が天賦の才を有した達人で、どれだけ(パン)に尽くしてくれてるかも弁えている。

 だがな、スグナリ。それでもお前は『違った』んだ。武徳に篤く、礼、仁、信、義、勇、知の六徳を備えて尚、お前は『食客』であって血を分けた『家族』になり得なかった。

 私はな、スグナリ……(パン)の連中のそういうとこに、心底幻滅したんだよ。

 侠者の魂たる義と忠孝──それを心から捧げ尽くしたお前を受け入れようともしない、狭隘な小人達にな」

 

 (パン)の皆がスグナリと語らう時、礼をする時に見えたあの姿に。杯を交わした(ともがら)相手にああも距離を置くその『卑しさ』が、堪らなく嫌だったのだ。

 

「そんなことは……皆、義兄弟です。僕はそこに不満を抱いてなどいません」

「ならば何故お前は日本語を覚え、一人黙々と剣を振るった?」

 

 そんなことをする必要は何処にもなかった。

 この上海で活動する中で、どうして日本語など覚える必要があった?

 戴天流を殺人に用いてきたとはいえ、青雲幇(チンワンパン)の侠客達にも同門は多いのだから、彼らと相手をすることだって出来た筈ではないのか?

 

「心の奥底で、気付いてたんだろう……? 他の奴らがお前をどう見てたか」

 

 報われない心の隙間を暴かれたくなくて。だけどいつか、本当の意味で受け入れてくれる奴の出会いを求めて。

 

「そんな心根だったからこそ、お前はあの、余所者が真っ先に見つけてくれる桃園で舞ってたんだ」

 

 門扉を開け放ったその先に、これ以上ない舞を披露する自分を見て欲しいと願っていた。新しい風と、出会いを運ぶ誰かを心底から求めていた──……舞って、待っていたのだ

 

“だからか──……”

 

 だから、らんまは知らず涙を流したのだ。あの舞が、ただ美しかったから。無駄のない武の極致だったからだけではない。

 何時か自分と同じルーツの者に出会いたいと、切に望み続けた孤独の剣だからこそ、同郷人の声ならぬ声に胸が軋んだからこそ、らんまの頬に雫が伝ったのだ。

 

「ですが、僕は……僕は皆の死など望んでいませんでした! (スン)香主! 貴女ほどの方ならば皆を説き伏せ、(パン)そのものを変えることだってできた筈です! どうして、何故こんなことをしてしまったのですか!? 勝手に失望して、勝手に殺して……それが、そんなことが、どうして(パン)の未来に繋がると……っ」

「? 嗚呼、そこを勘違いしているのか。スグナリ、根本的に食い違ってるぞ。

 私は(パン)の小人共に幻滅こそしたが、それでもまだ(ワン)老師然り寨主然り、認めるべき者は認めているし、青雲幇(チンワンパン)の理念も曲がってない以上、(パン)そのものまで唾棄してないよ」

「では、どうして……!?」

 

 何故、こんなことをしでかしたのかと問わずに居られなかったスグナリに、(スン)は静かに桜を見上げた。

 

「美しいだろう? だけど、この桜木も、工業化の進んだ中国の酸性雨にやられつつあるんだ……今はまだかぐわしい香りだが、いつかは腐り果てて朽ち木になる」

 

 青雲幇(チンワンパン)もまた同じだ。どれだけ今が美しかろうと、いずれは義侠の精神を根絶やしにされ、先人が尊び培ってきた全てが貶められる日が来てしまう。

 いや、既にその兆しは見えていた。他ならぬスグナリに対する扱いが、義侠の魂を曇らせていると伝えてきた。

 この桜がそうであるように、美しい花に隠れはしても、芯の部分は衰えて行く。

 さしずめ今は、花の散り時──……満開からひらひらと花弁が落ちて、徐々に枝葉を見せる頃合いか。来年は、今年ほどの花は咲くまい。再来年もその先も、決して今年のようには行かず、根と枝先から徐々に朽ちて行くだろう……。

 

「ならせめて、美しいものは美しいまま終わらせてやろうじゃないか。遥か彼方の未来で、何処かの馬鹿か狂人の玩具にされるぐらいなら、いっそ()()見れた時代に引導を渡してやるのが、私なりの孝行というものさ」

 

 何もかもが脆く崩された未来で、過ぎた時代の郷愁に浸りながら、『あの頃は美しかったに違いない』と誰かが偲ぶ無惨な最期を迎えるぐらいなら、誰もが見目麗しい花と愛で、見上げる時代に一思いに切り倒してやるのが慈悲だろう。

 

「たとえ侠客風を吹かす小人の集まりになりつつあるとはいえ、それでもまだ青雲幇(チンワンパン)の看板は伝統と誇りが清めている……だが、現状を見る限り、その時代が長くないのは嫌でも分かる。私はね、私自身も含めて青雲幇(チンワンパン)を今この時代に終わらせてやりたいのさ。

 ──この世で最も惨いのは、誰からも悼まれずに死ぬことだからね」

 

 全ての終わりに一粒の涙も流されず、醜く朽ちる様を唾棄されて終わること。誰からも愛されず、想われず世を去ることは、どんな責苦より残酷な結末だ。 

 誰もが愛し、涙される今だからこそ、皆が滅びを悼んでくれる。

 最も美しい散り時にこそ、惜別の痛みが胸を打ち震わせてくれるだろう。

 

「だとしても……それが最も美しい死なのだとしても、上海に生きる人たちはどうなるのです!?」

 

 (スン)の言い分も分かる。

 自分の心の奥底で自覚していた感情を、否定することもスグナリには出来ない。

 だけど、けれど……そうした個々人の美学や不幸を理由に、上海に生きる人々が悲劇に見舞われていい理由にはならない。

 

「ここで青雲幇(チンワンパン)が歴史の闇に消えてしまえば、どれだけの涙が流れるとお思いなのですか!? その先の未来で僕のような孤児がどれほど溢れ、無惨な道を辿るのですか!?」

 

 惜別の涙の果てに、明日への希望など有りはしない。どこまでも冷たく、凄惨な現実しか残らないではないか!?

 

「それこそを阻むために! 理不尽に見舞われる誰かを守るためにこそ、我らは仁義を貫く武侠となった筈でしょう!?」

 

 その慟哭、その正論に(スン)は一瞬目を見開き、そしてゆっくりと細めた。

 

「ああ、そうだね──そんなお前だからこそ、私はお前を慕った。お前を誰より息子として、弟として、男として愛してやれた。

 お前は私が知る誰よりも純粋で、美しい在り方をした好漢だった」

 

 だからこそ──

 

「──お前は去れ。さもなくば死ね」

 

 そこの女と、日本に旅立つなら見逃してやろう。

 手向かい阻むというのなら、最も美しい今のお前を愛し、殺してやろう。

 

「答えは──聞くまでもないか……」

 

 嗚呼、それでこそだ。それでこそお前を愛してやれたのだと(スン)は頬を桜色に染める。

 ここで尻尾を巻いてしまう程度の小物なら、端から凶行に及びはしなかった。スグナリを腫れ物扱いした義兄弟から先んじて殺し回り、首を並べて見世物にしようなどとはしなかった。

 どれだけ歪んで見えようと、今宵の凶行と赤裸々に語った真実こそ、(スン)にとって紛れもない愛の形であったのだ。

 

「今の青雲幇(チンワンパン)で、私を殺せるのはお前だけ。止められるのはお前だけ。

 だけど、そんな取捨選択で刀を抜いた訳じゃないことも、ちゃんと分かるよ」

 

 嗚呼、なんと美しいのだろう。なんと悲しいのだろう。

 顔を歪ませながら、澄んだ瞳が悲しみで潤みながらも膝をつかず、仁義の為に一振りの刃として、剣鬼として立つ男の姿は、普遍の宝石のような在り方だ。

 民を蔑ろにし、義兄弟の首を晒す外道と(スン)を誹れば容易かろうに。理屈を一つでもこじつけて、正当化してから無心で斬ってしまう方がやり易かろうに。

 愛と正義の板挟みに苦しみながら、憎むことだけは出来ないでいる。

 鳴り響く抜刀の鞘鳴りすら、傷つく心の叫びのようだ。

 

「やはりお前は益荒男だ──だから、ごめんよ。お前は今ここで死んでくれ」

 

 老いさらばえて朽ちるのでなく、最も清い姿で死んでくれ。その亡骸に口づけて、その死体を貪って、骨の髄まで愛した後、──(スン)は悪鬼と成り果てて青雲幇(チンワンパン)の命脈を断とう。

 

「手加減無用! いざ来ませいっ──────………………!!」

 

 義腕の女が左手で手招き、ひと声も上げぬまま、剣鬼が哭いて跳びかかる。

 最も歪で残酷な、愛の舞台が幕開けた。

 

 

     ◇

 

 

 だが、スグナリからしてしまえば、結末は呆気ないものと信じ疑わなかった。

 如何に(スン)青雲幇(チンワンパン)において並ぶ者なき最強の達人だったとて、それは五体満足であった昔日の話。

 内家の駆使する気功を十全に発揮させるには、経絡を完全な形で巡らせねばならない。手足に走る三陰三陽一二経……全身六五七箇所全ての経穴が完全な形で備わってこそ、内家拳士は深奥無辺の域に達する。

 腕一本を丸々失った以上、氣の巡りは著しく衰える。おそらくは全盛期の五分の一さえ、(スン)はその力を発揮できまいと……そのように()()()振るった刃が義腕に弾かれたのを、信じ難い思いでスグナリは見、距離を取った。

 

“今のは……!?”

 

 紛れもなく内家によって強化された腕の……否、それ以上の感触。斬鉄を容易く達成する倭刀の刃は、欠けこそしないが弾かれた。

 

「くくっ……他もそうだったが、お前も驚くよな。当然だ」

 

 ぎちぎちと鳴る右の義腕。そこに経穴など存在せず、欠けた片腕のまま如何にして内勁を練り上げたか?

 

「お前と、そこで見ている子には特別に教えてやろう。私がしているのは気脈のコントロールさ。元々存在している経穴とは別に、自分の意思で気穴を調整したんだよ。

 先古の時代には、これが出来た達人はゴロゴロと居たもんさ」

 

 文化大革命以降、多くの古の文献が焼失したが、それを免れた書物には幾度となく四肢を欠損した達人の姿と気功術が取り上げられた。

 現代を生きる武術家達は、それを古の仙人の如き空想と決めつけ、空理空論と取り合わなかったが、(スン)はそれを確たる武術大系であると信じ、現実のものとして復活させたのだ。

 

「お前も、いや、武器を執る内家の達人は、やろうと思えばこの域には達せる筈だ。氣を巡らせる丹田と呼吸器系さえ損なわなけりゃ、他はどうとでもなるものさ」

 

 足りぬものを埋め、多過ぎる部分を省く。そうすることで内家剣士や槍術士は、血の通わぬ己が利器をも強化している。それをするには当然相応の修練を必要とするものの、決して無理難題という程ではない。

 そして、氣によってコントロールされた義腕は現代科学では不可能な、外科手術さえ可能な繊細な動きすら行使できる。神経が通り、血の通った腕と同じ……否、関節という人体における制限すら取り払われた、生身以上の武器として。

 

「私も今は片腕が精々だが、研鑽さえ積めば四肢の全てを鋼のそれに変えられる……遥か先の未来じゃぁ、きっと脳味噌まで弄る奴も出てくるだろうね……嗚呼、そんな目で見るなよ。私だって、失くしたくて失くしたんじゃない」

 

 騙す為、欺く為だったとはいえ、女が自分の一部を切り捨てたのだ。そこには相応の覚悟もあったし、泣くほど辛い気持ちもあった。

 

「それでも、お前に腕が届くと信じてたから、そこに悔いはなかったけどね」

 

 悲しんでくれた筈だ。居もしない仇を恨み、報仇を誓ってくれた筈だ。

 ここで最初に顔を合わせた時の、あの表情を見れば全てが分かる。愛する男の想いを知れたなら、痛みの元手は十二分に取れている。

 

「じゃあ、講義はここでお終いだ。光栄に思えよ。未完成とはいえ、人類最初のサイボーグもどきだ」

 

 (スン)と相対した師兄達がそうであったように、侮れば死ぬ。いや、たとえ侮らずとも全盛のままである(スン)を相手取るならば、スグナリであっても相打つ覚悟で臨まねばなるまい。

 

 ──ゆらり、と。

 

 これまでのような猛々しい戦いとは打って変わり、湖面に広がる波紋のように、緩やかな動作でスグナリが動く。

 速さ重さで雌雄を決するのは、力任せの外家の技。遅き軽きの中、意を先んじて相手を下す達人の業こそ、内家の神髄なればこその緩さであった。

 対する(スン)はそれに乗らず、逆に攻守入れ替わるようにスグナリに跳躍した。

 

「キエッィ!」

 

 鷹の(いなな)きが如き奇声と共に繰り出したは、目眩ましの虚手を交えた戴天流拳士の連環套路(れんかんとうろ)。らんまが悉く打ち破った門弟達とは別次元の、一手でも受ければ絶命必死の殺人拳だが、スグナリもまたそれをいなす。

 殺意の後に技を繰り出す凡百の武術家とは違い、真の達人は意より速く技を繰り出す。

 それを阻むも貫くも、全ては内家としての読みの深さ次第である。

 より深く、より遠くに。天地と一つとなることで未来をも見通す奧境に達した側が雌雄を決する。

 スグナリと(スン)は、らんまの目からして実力伯仲。白刃と義腕が闇夜に煌めくも、互いの身体は傷つかない。あわや千日手となるかと思われたが、均衡を崩したのはスグナリからだ。

 勇み踏み込んだ(スン)の左足を『掃脚刀(そうきゃくとう)』で切り払わんと下に下げたが、(スン)は左足を上げることで回避。

 そのまま跳ね上げた左足が、スグナリの下顎を強かに蹴り上げて脛骨と頭蓋を纏めて破壊しにかかる。

 

「ふっ!」

 

 しかし、それを躱してこそ内家の読み合い。身体全体を仰け反るように逸らし、そのままバク転で回避しにかかるが、着地にかかった瞬間、スグナリは袖口に仕込んだワイヤー・ハーケンで強引に軌道を変えた。

 これを為し得ていなければ、スグナリは真っ二つにされていた筈だ。

 

「御見事」

 

 芝刈り機でも使ったかのように、本来スグナリが着地する筈だった位置の草が刈られている。

 飛鐃(ひにょう)と称される半月型の刃によるもので、義腕のリールから繰り出されるナノ・ワイヤーで連結されたそれが、真一文字に草原を刈り払ったのだ。

 

「ふふっ。躱してくれよ?」

 

 義腕から展開された飛鐃(ひにょう)はいずれも小型であったが、その数は八つ。生身の腕では成し得ず、ともすればワイヤー同士が干渉して動きを遮りそうなものだというのに、まるでそれぞれが生あるもののように唸りを上げて縦横無尽に飛び交っている。

 在りし日にスグナリが見た(スン)飛鐃(ひにょう)は一つきりで、殺し合いでさえ二つが限度。それでなお彼女は戴天流の老師をも下し、青雲幇(チンワンパン)にも並ぶ者なしと、上海最強の名を戴いていた。

 誰もかも、スグナリさえ一度として見る事のなかった女の本気。全霊を尽くさずとも相対する全てを下して見せた阿修羅の業が、愛する男に牙を剝く。

 だが、それを捌いてこそ天賦の才! 弱冠一六にして免許皆伝を賜った、孤高の剣士が舞い踊る!

 

「そうだそうだそうだそうだ……!! 速い速いぞ天才剣士────!!」

 

 危険なのは飛鐃(ひにょう)の刃そのものだけではない。それを連結するワイヤーさえ不可視の刃であり、触れればたちどころに五体をサイコロステーキのように刻み尽くすにも拘わらず、死角を見出し搔い潜って見せてくる。

 如何な軽業師も、これほどまでの動きはできまい。どのような武芸者とて、この死のミキサーからは逃れ得まい。

 ただ一人。たった一人の例外が、この少年だけがそれを実現して見せる。

 ワイヤー同士が干渉せぬよう、必ず設けざるを得ない間隙を見抜き、安全地帯を見出し躱す。いいや、安全地帯などという場所は端から用意などされていないし、そんな甘い相手では決してない。

 五体を細切れにするナノ・ワイヤーの網を飛刀や鉄鞘を用いてこじ開け、強引に掻い潜ってようやく為し得た回避運動だが、それさえ上海最強の女は見切っていた。武術家にあるまじき義腕の動き。まっすぐに伸ばす右腕から、無数の火線が迸る────!

 

「──!!」

 

 スグナリの位置は空中。飛び、跳ねたその瞬間。袖に仕込んだハーケンで脱出しようにも、既に周囲は不可視のナノ・ワイヤーが檻の如く包んでいる。

 すなわち詰みに他ならず、無慈悲な弾雨がスグナリを挽肉へと変えんとしたその刹那、(スン)は極限まで高まるスグナリの氣を確かに感じた。

 それは刹那よりも僅かな六徳の間、それよりなお細い虚の瞬間、虚よりなお空……空よりなお清……清よりその果ての浄の境地──。

 この世全ての内家が、天地一体を目指す悟りの境地を得んとして至ろうとする世界を、少年の氣から感じ取る。

 連続する殺気の礫──その悉くを、らんまはきっとスグナリが横に切り払ったように見たかもしれないが事実は異なる。

 

 ──これこそ戴天剣法が秘奥技、『六塵散魂無縫剣』。

 

 神速にして細緻の剣刺は残影となり、見る者には薙ぎ払ったとしか思えぬ刃影を生む超絶の秘技が、全ての銃弾を叩き落として見せたのだ。

 それを地に足もつけず、碌な構えも取れぬままに振るって見せた剣士は如何な存在か?

 天賦の才では片付けられず、阿修羅さえも膝をつくだろう剣の冴え。

 文字通りの神技を前にして、陶然と吐息を漏らした(スン)は、しかし武術家としての己を忘れなかった。

 邪魔な義腕を盾として、深く迸る左の一本貫手。内家殺しに特化した、勁絡封じの秘孔を突く絶死の点穴。極め抜いた殺人拳は、生身の指でこそ冴える。

 届くか、敗れるか。それは(スン)にもスグナリにも分からなかった。きっと、間違いなく。このままぶつかったなら相打つ結果に終わっただろう。

 そう──、スグナリがたった一人でここに来ていたのならば。孤独のままに剣を執っていたのなら、彼に明日はなかった筈だ。

 

「負けんじゃねぇっ……!」

 

 けれど──有り得ざる縁は結ばれている。奇跡を起こすに足るだけの、想いが力となって夜に響く。

 

「負けんなスグナリぃ────────────…………………………!!」

 

 その声援が少年の背中を押したのか。或いはそれこそが運命の分かれ目であったのか。

 叫びに応えるかのように研ぎ澄まされた白刃が、(スン)を袈裟に斬り裂いた。

 

 

     ◇

 

 

「……本当、良い男になったねぇ……スグナリ」

 

 もはや殺意も闘志もない。かつてのままの、温かい声がスグナリの耳に届いた。

 

(スン)、姉さん……」

 

 武人としての、内家剣士としての呼吸を忘れ、嗚咽しながらスグナリは(スン)を見つめる。徐々に青くなる唇。頬に触れられた手から奪われていく温もり。

 心から自分を慕ってくれていた女性から、命の灯が燃え尽きようとしている。

 

「言いたいこと、有るなら言いな。心残りはしちゃいけない」

「僕、姉さんに、伝えたかった、こと……いっぱいあるんだ」

 

 いつも、守ってくれてありがとう。

 優しくしてくれて、ありがとう。

 叱って、励まして、一緒に居てくれて、本当に嬉しかった。

 そして──

 

「姉さん……僕、好きな子が出来たんだ」

「ありゃ。振られちまったねぇ」

 

 まぁ、そういうこともあるだろう。母として、姉として見られていたが、女になれなかったのは、どうやら距離が近過ぎたらしい。

 

「ふふっ、あのおさげの子だろ? あの子なら、まぁ……諦めの一つも付くもんさ」

 

 こんな場所まで一緒に来て、見守って、あんな声を出してくれたんだ。良い子だっていうことは、嫌というほど伝わった。

 

「良い女は、手放すんじゃないよ」

 

 幸せになりなさい。幸せにしなさい。これからはずっと、そうなさい。

 

「可愛い、可愛い……私の坊や……」

 

 頬に触れた手が落ちて、人形のように女は草むらに身を投げた。

 もう動かない。優しい声も響かない。

 

 ──それが、これこそが人の死だ。

 

 命を奪う、ことの意味だ。

 

「あ、ああっ……」

 

 今日、スグナリは本当の意味で人を殺した。人を喰い漁る悪鬼外道の類でなく、自分を愛してくれた家族を斬った。

 その罪が、その結果がスグナリの心を抉る。何より深く傷つけて、決してスグナリを許しはしない。

 今日という日、スグナリは地獄の意味を知った。人を殺める罪深さを、生まれて初めて知ったのだ。

 だというのにスグナリは剣を手放すことも、鞘に納めることも出来なかった。

 剣を体の一部にし続けた少年は、決して剣を手放せない。

 もう沢山だと叫びたくても、剣が彼を放さない。

 何故なら彼は剣鬼なのだ。どれだけ惨く苦しかろうと、剣を執ることを天命とされたからこそ天賦の才を与えられ、今日という日まで生かされた。

 

 幸せになれと言われた。幸せにしろと言われた。

 

 けれど。だけど。どうすればそんなことができるのか?

 剣鬼の天命を与えられ、愛した家族をも手にかけて……そんな自分が、どうやって……。

 

「──スグナリ」

 

 そんな苦悩を、闇を払い守るように、らんまはスグナリを抱きしめた。

 

「泣けよ……こういう時は、目一杯泣くんだ」

 

 その温もりが、優しさが、強張った体と心を解す。死ぬまで握り続けるのだろうと、固く握った刀が落ちる。

 

「ぼく……僕が……」

「言うな。口にせずに、泣きゃ良いんだ」

 

 罪を背負おうとするな。人殺しだなんて自分を責めるな。

 そんな自責を、お前の姉が望むものか。

 ただ泣いて、悲しんで、悼んでやればいい……そして、そして、そこから先は──

 

「──おれが、側にいてやるよ」

 

 幸せになれるように。幸せになるために。これまで孤独であった分、ちゃんと見守ってあげるから。

 

「まずは泣きな──お前の、姉ちゃんの為に」

「う、ぁ──」

 

 涙腺が決壊する。滂沱の涙が伝い、抱きしめたらんまにも雨のように落ち続けたが、構わない。

 その優しさを、悲しみを受け止めよう。あの姉程出来た女になれるとは思えないけれど、それでも託すような(スン)の瞳に、らんまは頷き返したのだから。

 

「嗚呼、ぁぁっぁぁぁあああああぁぁぁぁぁあっぁぁっぁぁぁぁぁ────…………!!」

 

 耳を弄する、絶叫のような別れの叫び。

 

 ──鬼の哭き声が、夜の街に木霊した。

 

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