自称「平凡だけど、どこか神秘的で儚げな……ただの百鬼夜行の一生徒」の妹による曇らせツアー 作:藍終
前半は、クユリが内心ニチャアする視点です。
クユリの中身の一人称は既に“私”になっています。
サブタイトルは 〜最悪の選択〜
フヒヒッ、アハハハハハハハハハッッ!
こんな、こんな幸せだったことが前世含めあっただろうか!
いや、ないね!
反語を使ってまで強調したいと思う程には私は今、幸せに満ち溢れていた。
自分が招いた事態のせいとは言え、この悦びを全身を使って表せないのがもどかしい。
いや〜…それにしてもォ…。
あのナグサお姉ちゃんの顔!
痛みに苦しむ私を必死に運んで、『絶対に助けるから、大丈夫だから、お姉ちゃんがついてるからね』って…。
右腕はまだ痛むだろうに、戦闘の疲労で全身が悲鳴をあげているだろうに、私を気遣いながらも諦めずに進み続けるお姉ちゃんを見たらそりゃあもう感動と愉悦で頭がおかしくなりそうだったね。
あ、因みに、私の悲鳴は演技でもなんでもないからね。
黄昏に触れた時なんか、まるでグズグズに溶けかけた鉄板を直に押し当てられるような、地獄なんて言葉が生温く思える程の激痛で意識を繋ぎ止めることに精一杯だった。
なんというか、生きたまま身体を別のナニカに書き換えられるのは生物として激しい拒絶反応が出るらしく、どうにか耐えられたのは、ひとえにナグサお姉ちゃんのご尊顔を拝むという大義があったからだ。
しかもそれが断続的に襲ってくるものだから、神様視点なら、リアルに痛みに苦しみながらも頭では姉の曇った顔を見て興奮してる変態に見えるかもしれない。
おい誰だ今変態だろって言ったやつ、そうだよ!
―コホン。とまぁ、無事?に黄昏の影響に蝕まれながらも何とか大雪原の入口付近にまで戻ってきた私達。
既にキキョウ達がこちらに向かっていることは会話越しに聞こえてきたので、仕掛けるならそろそろだと考える。
ちょうどこれまでの痛みの波よりも一際大きいのが来そうな兆候が感じられたので、今までしがみついていた手の力を抜き、限界が来たようにして肩からずり落ちる。
――いや、実際かなりきつかったのもあるけど…。
今にも死んでしまいそうな妹を半ば自然に演じざるを得ない私に、何とか意識を繋ぎ止めようと必死に呼びかけてくる姉。
迫りくる恐ろしい予想から目を背けるように、涙でぐちゃぐちゃの顔を唇が触れ合うような距離にまで近づけてくるのを見て……。
あぁ、なんて愛らしく、いじらしいのかと思う。
私というたった一人の妹のために、ここまで悲しんでくれる。必死に救おうとしてくれる。
それは私がこの上なく“愛されている”という事の証であり――――――
その事実を認識した瞬間、私の胸の奥のナニカが満たされていくような快感が迸った。
――私は今愛されている……!
しかし、いくらその快感が流れ込んでも何処かに隙間があるのか、完全に満ちることはない。
――もっと……、もっと欲しい。
穴の空いた容器にいくら水を入れても決して満たされることはない。
――もっと、私のために悲しんで欲しい。
だから求める。いくら食べても空腹に苛まれる餓鬼のように。
――もっと、私を愛している証が欲しい!
私の中のナニカが暴れ出す気配がする。底無しの欲望は求めるものを手に入れるために最適な行動を促す。
徐ろに右手を愛する姉の頬にそっと添える。
あたかも最期の力で伝えるべくを伝えるために、力なく微笑む。
その瞬間だけ、儚くも眩しい笑顔のクユリを演じて…
「大好きだよッ………お姉ちゃん」
そう呪いの言葉を言い終え、身体に込めていた力を抜く。
待っていたと言わんばかりに抑えていたモノが全身を暴れまわる。
それが黄昏によるものなのか、若しくは私の中のナニカなのか、はたまたその両方かはわからないが自らを覆う肉体という殻を突き破ろうとし―――
全身の罅という綻びから紅い霧と化して一気に噴き出した。
薄れゆく意識の中、真紅に染まった姉の呆然とした蒼白な顔を拝めた事にゾクリとしたものを感じながら、視界が暗闇に塗りつぶされるに任せた。
――とまぁ、そんな感じで一つの山場を越えたわけだけど……。
身が裂けるような痛みに意識を叩き起こされたと思ったら?
ナグサお姉ちゃんが私を心配そうに覗き込んでいて、やっぱりふつくしいよなぁ〜と考えるのも束の間………、
視界の左側が真っ赤に染まって?
あまりの痛みに叫ぶことしかできないこの状況…。
――神は言っている、曇らせの手を緩めるべきではないと…。
そうと決まれば早速脳内作戦会議の始まりだぜぇ!
現在どうやら私こと、御稜クユリは百鬼夜行の診療所―とは言っているがちゃんとした医療施設―に運び込まれているらしく、左眼から盛大に出血している私を数人の生徒と、一人の医師らしい獣人が慌ただしく処置している。
百鬼夜行バージョンの救護騎士団みたいな感じを想像すればわかりやすいかな。
流石に団長が壊して部下がそれを治すみたいな傍若無人な一面はないけど…。
ともかく、少しではあるけど考える時間はある。
こんないかにも好きに曇らせてくださいと言わんばかりのシチュエーション、活かさない手はない!
かの美食研の御方もこれにはニッコリ間違いなし。
考えろクユリ……、今の状況と手札から何ができる?
今私は絶賛黄昏の影響で苦しんでおり、それを数人がかりで対処してもらっている。
そのためナグサお姉ちゃんは部屋の入口付近まで下がらざるを得ず……、あれ?見間違えじゃなければキキョウもいない?
気づかなかった……。
……ん?待てよ…。私ってこの後は時期を見計らって失踪する予定だったよね……。
で、その時にお姉ちゃんを振り切って行くのが重要なポイントなわけだ。
予定ではその時までにお姉ちゃん大嫌いムーブをする種を蒔くつもりだったのだが、今このシチュエーションはそれに絶好の場なんじゃないか?
今まで多少のガバは有れど、なんだかんだ思い通りに進んでいるんだ。
転生したとはいえ一度限りのクユリとしての人生、やりたいことは全部やってみようじゃないか。
肝心な点は姉の行動次第という運ゲーにはなるが、やってみる価値はある。
キキョウもいることだし、上手くいけば――――――
よし!御稜クユリ、もう一芝居うっちゃいます!
優しくて、弱くて、惨めなお姉ちゃん。
手を伸ばしたものは全部壊れていくんだってね。じゃあ、手を伸ばさなくても壊れちゃうんだって教えてあげなきゃ。
私はお姉ちゃんを信じてるからね……。
お姉ちゃんなら最高で最悪な選択をしてくれるって。
✵✵✵✵✵ ✵✵✵✵✵
――どうして、クユリがこんな目に遭わなければならないのか。
参謀として常に冷静でいることを心がけていた私でさえ、煮え滾るような怒りで目の前が真っ赤になった。
処置室に覚悟を決めたナグサ先輩を連れてきて、眠っているクユリと対面させてあげることが出来たまではよかった。
正直に言えば私だってクユリの側に行きたいし、同じように手を握ってあげたい。
でも今一番辛く悲しい思いをしているのは、クユリと血を分けた姉妹であるナグサ先輩であって、そこに割り込もうとは思えなかった。
聞きたいことも、言いたいことだって山ほどあるけど…、それは全ての懸念点が消えて落ち着いてからでも遅くない。
ただこれで少しでもクユリが安らいでくれるのならと、そんな気持ちで二人の様子を後ろから眺めていると――
突如クユリの罅が進行し、肉が裂ける悍ましい音と共にクユリの左眼を引き裂いた。
「…………は?」
鼓膜を震わせるクユリの絶叫、噴き上がる鮮血、異常事態に対処すべく駆けつけてきた担当医達の飛び交う指示。
この光景を見るのは二度目だった。
最初はここ、診療所に到着して少し経った時のことだ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
見るからに瀕死の状態のクユリを最優先で治療するという担当医の判断に従って処置室に運び込まれるクユリ。
それを祈るように見届け、備え付けの長椅子に腰を下ろす。
張り詰めていた空気が一時的にせよ和らいだことによって、肺に溜まっていた澱んだ空気を吐き出す。
搬送中に目に入ったあの惨たらしい罅のような傷。生き物のように蠢くソレは否応なく生理的嫌悪感を引き立て、何度吐きそうになったことか…。
大丈夫だ、あの子はこんなところで私達を置いていくようなヤワじゃない。そう言い聞かせるも、頭の何処かでは、もうとっくに手遅れなのではと考えてしまうのをやめられない。
駄目だ、ただでさえ私の知らないところで起きていることが多過ぎてまともな思考能力が失われてしまっている。
こういう時は何か他の事をするべきだ。
幸いと言っていいのか、アヤメ先輩は居らずナグサ先輩も動けない現状では参謀の私が最高司令官だ。
それに伴ってやらなければならない事は幾らでもある。
まずは――
「紅蓮隊?百花繚乱の参謀、桐生キキョウよ。人質の子とアヤメ先輩は見つかった?」
私達が大雪原を離れている間、レンゲの直属部隊である『紅蓮隊』は残ってあの場にいなかった二人の捜索を行っていた。
通信を繋げると、その場で指揮を執っているリーダー格の子が安堵と不安が入り混じった声音で報告をしてきた。
「それは……はいともいいえとも言えます。まず、人質に取られていた生徒は無事発見しております。特に負傷もしておらず意識もしっかりしていて心配は無さそうです。ただ………」
「ただ?」
「その……アヤメ委員長の姿が…、僅かな痕跡さえも見つからないのです。まるでそこに最初からいなかったように…」
「……………は?」
待て、こんな事が以前にも起こらなかったか?
いくら捜してもまるで存在そのものがぽっかりと消えてしまったかの如く、手掛かりすら掴めずにクユリが失踪してしまう事件が…。
あの時は偶然発見できたから良かったものの、そんな奇跡がそう何度も起こるはずがない。
いや……それに、あの後クユリの身体には黒髪が増えるという僅かな変化が起こっていた。
本人は覚えていないと言い張っていたがそれは嘘で、当時の動向から犯人は花鳥風月部だと当たりをつけたが、今回はどうだ?
事の始まりの脅迫状を送りつけてきたのはその花鳥風月部である事が確定している。
そして恐らく、花鳥風月部と対面したであろうアヤメ先輩にナグサ先輩、そしてクユリの三人の内二人が失踪と瀕死の重傷………。
思えば搬送中のクユリの髪は既に大半がどす黒く変色し、美しい銀髪は僅かにその領土を保っているに過ぎない状態だった。
それに加えアヤメ先輩のあまりにも不可解な失踪。
点と点が線になった瞬間だった。
本当にあいつらは、どれだけ私達から奪っていけば気が済むのだろう。
無意識に食いしばった奥歯が欠ける音がするが気にもならない。
今や唯一の手掛かりはナグサ先輩だけだ。
ナグサ先輩は確かに『百蓮』を抱えていた。つまりそれは大雪原にアヤメ先輩が間違いなくいたという証拠であり、またナグサ先輩と対面したという証でもある。
クユリの無事を祈りつつ、ナグサ先輩の目覚めを待つしかないというもどかしさに苛立っていると、そこに燃料を投下するような発言が端末越しに聞こえてきてしまった。
「あの……本当にアヤメ委員長はここに来ていたんでしょうか……。いえ、よしんば来ていたとしても、最近はナグサ先輩の方が委員長よりも強いという噂もありますし、その…」
「……何が言いたいの?」
「ナ、ナグサ先輩がアヤメ先輩に…その、継承戦を挑んで……こ…ころ――」
「ふざけた事を抜かすのも大概にしなよ、あんた」
「ヒッ……!」
腹の底からの冷たい声が口から出る。
それは一瞬の気の弱りが生んだ一言だったのかもしれない。ただでさえ身の凍るような大雪原での捜索で手掛かりすら見つからないとくれば、心が折れそうになるのも理解できる。
でも、それは……、その言葉は到底看過できるものではなかった。
じゃあなんだ、ナグサ先輩が『百蓮』を持っていたのはアヤメ先輩から奪い取ったからとでも言いたいのか。
頭の血管がブチリと切れる音が聞こえる。
「あんたはナグサ先輩がそんな事をする奴だって思ってたんだ。委員長の座に目が眩んで、騒動に乗じてアヤメ先輩を手にかけるような外道だと。そして、クユリはそれをみて見ぬふりをする奴だと、そう考えているってことでしょ?」
「あ、あの……さっきのはッ……」
「何?頭がおかしくなってたって?人って追い詰められた時にこそ本心が出るもんなんだよ。つまりあんたは心の何処かではそんな風に考えてたってこと。こんな奴が紅蓮隊なんだなんて…、あんた恥ずかしくないの?そんな様子じゃあ、アヤメ先輩がトップの今の百花繚乱にも嫌嫌従ってたんじゃない?というか、仮にも治安を維持する百花繚乱に属しているんだから、たかだか噂程度に振り回される事自体がオカシイんだけどね。ホント……反吐が出る。いっそのことナグサ先輩やクユリじゃなくて、あんたが――――――」
―――犠牲になればよかったのに。
そう怒りのあまり口走りそうになった私の端末を横から奪ったのは、ナグサ先輩を背負ってついてきたレンゲだった。
「そこまでにしとけ、キキョウ」
「レンゲ……。あんた、ナグサ先輩は?」
「とりあえずベッドに寝かせて安静にってことらしい。一段落したんで戻ってきたんだけど……どうやらアタシんとこの後輩がやらかしちまったみたいだな…」
「……あ、あの、レンゲ先輩!わ、私は……」
「あ〜、言わなくてもわかってる。普段一生懸命にアタシの訓練に食いついてくる真面目なお前のことだ、ちょっと弱気になって思ってもないことを言っちゃったんだろ?」
「レ、レンゲ先輩ッ……!」
「だけどな、一応仮とはいえ百花繚乱の紅蓮隊のリーダーなんだ。発言には相応の責任が伴う事はわかるだろ?今回はいきなり任しちまったアタシにも責任があるし、今日のところは引き上げよう。…だから、歯を食いしばる準備して訓練場で待っとけ、いいな」
「…はい。レンゲ先輩、キキョウ先輩、申し訳ありませんでした…」
そう聞こえたのを最後にレンゲが連絡を切り、こちらを向く。
「…とまぁ、そういうわけだ。今回の失言についてはアタシの責任でもある。だから…、あれくらいで勘弁してやってくれねぇか?アタシなら幾らでも罰してもらって構わないしさ」
そう言うレンゲはまさしく一組織の長で、普段の脳筋ぶりな雰囲気は欠片も感じられなかった。
毒気を抜かれた私はどう答えていいか咄嗟には判断できず、ふん…と顔をそらすことしか出来なかった。
それを肯定と受け取ったのか、レンゲは肩をすくめ訓練場に向かうべく歩きだしていく。
「……あんたにもそんな一面があったんだ…」
思わずそう呟いた言葉が耳に入ったのか、紅い切り込み隊長はいつもの爽やかな笑顔を見せ、さも当然のように言い切った。
「ん?まぁアタシは後輩の尻拭いをするのは先輩のやるべき事だし、部下の不始末の責任を取るのは上司の義務だと思ってるからな!」
医療施設にも関わらずドタドタと足音を立てて走り去っていくその姿を見送りながら、私はため息をついた。
何か先程のやり取りで私の中に溜まっていた苛立ちや不安といった悪いものが多少は流れていったような気がした。
――一応、感謝はしといてあげる。
なんだかんだいって、今回レンゲにはかなり助けられたのは事実。私は借りは必ず返す主義、気に障らないこともなくもないがたまにはレンゲに付き合ってやってもいいかもしれない。
そう自分の中で落ち着きが取り戻されてきたと実感できた頃―――
「ヒギィァ゙ッ…、アアアッ!」
重く閉じられた処置室の扉を突き抜けて鼓膜を震わせたのは………、聞いたこともないようなクユリの絶叫だった。
考えるよりも先に身体が動き、一切手加減をせずに扉を押し開ける。
「クユリッ!?一体何が……………」
弾け飛ぶように開いた視界の先に広がっていたのは、清潔で純白な空間の至る所に、人の命を吸って育つ鮮やかな紅蓮華が咲き誇っているという凄惨な光景だった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
一度目の時はあまりの酷さにその場で嘔吐してしまい、何も考えられなかったが、二度目ともなると耐性がついたおかげか、せり上がってくるものを押し留める事に成功していた。
その代わりにこの世界の――花鳥風月部の残酷さに目がいってしまうようになった。
――どうしてなの……?クユリは何も悪いことはしてないじゃないか。
ただお姉ちゃんの事が大好きで、こんな無愛想な私にさえ分け隔てなく優しい笑顔を振りまいてくれる、そんな悪いところなんて一つもない無垢な少女を痛めつけて、左側の光すら奪って………。
真面目に百花繚乱として活動しながらも、時折年相応の微笑ましい仕草をする。
余さず青春を謳歌していたクユリが苦しみ、ナグサ先輩が傷つき、さらにはアヤメ先輩すら失った百花繚乱を見るのが―――――――――
「そんなに楽しいかッ………花鳥風月部…!」
目からマグマのように熱い液体がドロリと溢れる。
手で拭ってみれば、なぜかその手は真っ赤に濡れていた。
それももう気にならない程に私が怒りに支配されていると、ふとクユリがこちらに頭を向け、震える罅割れた右手をこちらに伸ばしてきた。
「お……ねぇ…ちゃん………、た……すけ……」
私と同じように血の涙を流しながら掠れた声で隣の姉に助けを求める姿に私の胸はもう限界だった。
できることなら今すぐに駆け寄ってその手を取ってやりたい。
だけど、クユリが求めているのは最愛の姉のナグサ先輩。
私なんかが出る幕じゃない。
だから―――
――――――ナグサ先輩、行ってやりな…。
己を御してそう促そうとして隣を見て初めて……、ナグサ先輩の様子がおかしい事に気づいた。
✵✵✵✵✵ ✵✵✵✵✵
「お……ねぇ…ちゃん………、た……すけ……」
激しい痛みに耐えかねてか、縋るように助けを求めてくる最愛の妹。
私の胸中に渦巻く感情はもうぐちゃぐちゃだった。
どうしてクユリがこんな惨い仕打ちを受けなければならないのかと、激烈な怒りが湧き上がるがそれは後回しだ。
すぐにでもその手を掴むべく駆け出そうとして―――
――――――――――――足が動かない。
「………………えっ……」
誰にも聞こえないような掠れた声が口から漏れる。
――なんで……どうして!?動いてよ!
何度も力を込めるが足の裏から膝辺りまでコンクリートで固められたようにピクリとも前に進まない。
アレに呑み込まれて動かないのは右腕だけで、今更影響が出てきた線もない。
――早く!クユリが……助けてって言ってるのに!
どれだけ念じても、自分の身体だというのに全くその意思を受けつけない。
まるで本心は違うだろうと言わんばかりに………。
『怖い』
――は?
今、私はなんて思った?
クユリを助ける事が怖い?何を馬鹿なことを!助けを求める妹を助けたくない姉が何処にいようか。
『私が手を伸ばしたものは、全部壊れていく…』
――あっ………。
突如あの時の情景がフラッシュバックする。
弱虫で未熟な、アヤメの引っ付き虫だった私が伸ばした手は、アヤメに拒絶され……。
それでも諦めきれなかった、いや諦めるという事が出来ない程短慮な私を救おうとして、こうしてクユリは苦しんでいる。
思えばクユリの不満が爆発したあの時だって、私がクユリの愛に手を伸ばしたから、一時的にせよクユリはいなくなった。
さっきクユリの怪我が進行したのも、私がクユリの手を握ったことが原因なんじゃないか?
私が何かを望んだ分だけ、何かが壊れていく。
『この手を取って、これ以上壊れてしまったら……』
――怖い。
――全部私のせいで壊れたんだって責められるのが、後ろ指指されるのが怖い。
そう思った瞬間、さっきまで梃子でも動かなかった両足が動くようになった。
本心と同調した事を身体が感じ取り制御権が返還される。
しかし、ようやく踏み出した一歩は、全くの見当違いの方向の――更にいえば、助けを求める妹とは正反対の―今も開け放たれている扉の方に向いていた。
一度踏み出した逃げの一歩は最早止まらない。
何も見たくない、何も聞きたくない……。
自分に関わること全てから目を背けるように、ひたすらに逃げる。
何をしているんだ今からでも戻れ、でないと取り返しがつかなくなる。
そう心の片隅で叫ぶ声に蓋をして。
後ろからキキョウの声が聞こえてくる。きっと私を責めている。
でも、もう止まれない。
私がもたらした現実から、弱い私自身からさえも逃げ出して、あてもなく診療所を飛び出した。
去り際に見えた、クユリの絶望を象った表情が忘れられない。
この選択がこの先私を一生苦しめ、さらなる崩壊を齎す事になるとは……、この時の私は想像もしていなかった。
補足:クユリの言うガバ
①作戦会議の時、待ちに待った日が来て思わずニヤけて
しまい、咄嗟に吐きそうなフリで隠さざるを得なくな
ったこと。
②本来はアヤメも含めた三人で大雪原に向かうはずだっ
たのに、アヤメだけ先に行く事態になって半ば強引に
お姉ちゃんを説得しないといけなくなって焦りまくっ
たこと。
③②のせいで到着がギリギリになって、あわや原作崩壊
を起こしそうになったこと。