自称「平凡だけど、どこか神秘的で儚げな……ただの百鬼夜行の一生徒」の妹による曇らせツアー   作:藍終

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一度業から目を背けたなら、振り返ってはいけない。

――追いつかれるからね。

微狂気描写、注意です。

お久し、黒服視点からです。黒服閃く!(作者の独自解釈もりもりです)


歩みを止めた道化

 

 

「クックッ、大した眠り姫なことですね……。気づけば一カ月、私がいなければ、貴方はとっくに野垂れ死んでいたでしょうね」

 

 

 色彩の襲来……キヴォトスに終焉をもたらさんとする異質な光は、奇しくも、究極の変数をもたらしてきた先生という大人と、その生徒らによって退けられた。

 

 深紅に染まった空は、再び蒼を彼方に広げ……アトラ・ハシースの箱舟の残骸が流星となって、夜空に軌跡を残す。

 

 数々の損害はあれど、一人の犠牲を出すこともなく、世界は日常へと――瑞々しく透き通るような青春を紡いでいく。

 

 

 ――少なくとも、ここ以外は……ですがね。

 

 そう、黒服は微かに嗤った。

 

 凝固反応を起こし、どす黒く染まった血液入りの試験管が、悍ましいほどに整頓されて佇む。

 

 主の身体から切り取られてもなお、組織としての機能は残っている腕が、“何本も”培養液に浮かぶ様は、さながらサイコパニック映画のワンシーンだろう。

 

 これが趣味なのかと問われれば、黒服は否と答える。

 

 しかし、己の興味の過程に要するのであれば、彼は彼の信念に反しない限りで、手段を問いはしない。

 

 しかも気絶中とはいえ、絶対の拘束力をもつ契約書に容認の印があるとなれば、もはや躊躇などという時間の浪費は存在していなかった。

 

 

「……ふむ、このテクスチャでも効果はない、と……」

 

 

 数多ある黒服の研究所の一つ、トリニティ総合学園にやや近い位置の地下に平坦な………しかし、うちに秘める好奇心を滲ませた声が響く。

 

 随分と前、契約相手である御稜クユリが秘めるナニカ――恐らくは神秘――が、想定よりも本人格を侵食していたため、抑制剤を打ち、拠点の移動もかねて現在に至るのだが……。

 

 確度の高い抑制剤だったからか、或いは抑制対象となる神秘が表に出すぎていた事により、拒絶反応が如実にあらわれたか。

 

 いずれにせよ、クユリは昏睡してしまい、かれこれ一カ月ほどは目を覚ましていない。

 

 流石に放置など出来るわけもなく、移設先の設備で最低限の点滴と世話をしていた。

 

 しかしながら完全に意識が消えたわけではなく、時折魘されるような仕草を見せてきていた。

 

 額の汗を拭ったり、気休めに毛布をかけてやったりする様はまさに、娘を看病する父親であった。

 

 ……完全に侵食された左半身の肉を、なんの躊躇いもなく回収すること以外は。

 

 

 ――彼のテクストを付与する技術は確かなものです。……が、この神秘に対する特効となるテクストとは一体……。

 

 

 ゲマトリアとして、同胞とも同志とも断言しがたい関係であった首無し男。彼はこのキヴォトスにおける神秘には、何らかのテクストが付与されているとし、そこから逆説的に神秘を解明しようと志す者だった。

 

 その産物として、彼は物事に相応しいテクストを付与し、神秘を具現化するという特異な技術を持っていた。

 

 黙認不介入。それがゲマトリア内での数少ない沈黙の規律だった。

 

 しかし、技術を奪うことまでは禁じていない。

 

 己が沽券に関わるなどと、くだらないプライドで可能性を狭める方が愚者というもの。

 

 そういったわけで、彼女の……クユリの神秘を決定的に抑えるテクストを見つけ、神秘の本質を探ろうとしていたのだ。

 

 しかし、結果はいまだに芳しくない。

 

 

「――暁のホルス……死の神アヌビス。いずれも、神性を持った神秘であるからして、生徒というテクスチャを貼り付けてもなお、頭抜けた戦闘力を持っていました。生徒というテクスチャを貼らざるをえないほど、元の神秘は暴虐の極み。しかし、全ての生徒が神性を持つとは限りませんし……」

 

 

 何の反応も示さない“10本目”の腕を前に、黒服は顎を抑える。

 

 あの二人が特別強い神秘であったとしても、何らかの共通点はあるはずである。

 

 たとえ、それがどんなに拡大され、抽象化された概念であろうと。

 

 

「………そういえば、最初、彼女は興味深い事を仰っていましたね。黄昏は、あらゆる物語を司る概念なのだと……」

 

 

 彼女に言わせれば、百物語化だったか。

 

 しかし現実は、色彩による反転の現象とそう大差はない。

 

 色彩は神秘を歪め、封じ込まれていた本質を顕現させる。

 

 色彩と黄昏が本質的な性質は同じであるならば、そこから生徒の神秘も逆説的に紐解けるはず。

 

 何か……何かを見落としているか、或いは目に入りすぎている?

 

 百物語、神性、黄昏、色彩……そして、黒百合。

 

 

「……観察者であった貴方なら、容易くこの箱庭の神秘についても知ることができたのやもしれませんね……」

 

 

 あまりにもこの世界に馴染んでいたため、ふと忘れそうになるが、この少女は元々、このキヴォトスという舞台を俯瞰する立場であったのだ。  

 

 どうやら、その行く末までは見届けられていないらしいが……。

 

 まるで……そう、随時更新され、頁を繰られていく“物語”のようで――

 

 

 電流が走る、そう形容するに相応しい衝撃が……さらに例えるならば、難解な数学問題において、基礎的な見落としに気がついた時のような、そんな閃きが黒服を貫いた。

 

 

「―――ククッ……?クックックックックックックックックッ!!……そう、そうだったのですね!嗚呼、なんと単純明快な根幹であったというのですか……!」

 

 

 それは理性ある人間を、自己のアイデンティティを持つ人間の唯一性を破壊しかねないパンドラの箱。

 

 己が己であるとする唯一の証明は、己の意識のみである。

 

 我考える、故に我在り。

 

 己が考えているという事象は疑うべくもなく、れっきとした己の意思であり、己の存在を確たるものとする。

 

 ……しかし、そんな己の意識さえも、思考さえも……超常的な存在による操作によるものでしか無かったと知れば、一体自我はどうなるか。

 

 至極明快、己のアイデンティティが根本から崩壊し、“狂気”にのまれてしまう。

 

 鏡合わせに、己を省察しただけで自己を見失うほど脆い人の精神が、得も知れぬ存在の傀儡であるという事実にどうして耐えられようか。

 

 ……しかし、それをあらかじめ知覚し、己が内に“狂気”を取り込んだ者以外は、という話だが――

 

 

「クックック……!であれば、この神秘……いえ、キヴォトスに溢れるあらゆる神秘に干渉し得るテクストとは……!」

 

 

 身の内の興奮を抑えきれないといった様子で、立ち並ぶ腕の前にかじりつく黒服。

 

 アヌビスの攻撃によって、いまだに崩れていた顔面がさらに吹き荒れる黒炎となって巻き上がる。

 

 そんな内面とは真逆に、“テクスト”を付与した薬液を慎重な手つきで、脈打つ腕に注入していく。

 

 これまでの抑制剤は、所謂剛を剛によって制すものだった。

 

 全てを押し流す大瀑布とかした水を、馬鹿正直に真反対から押し戻そうとする試み。

 

 風によって捲られる書の頁を、呼気のみで捲り返そうとする徒労ないたちごっこ。

 

 

 ……ならば、その暴虐な流れを、根本から塞いでしまえばいい。

 

 大瀑布の源流には関所を、捲られる頁には栞を―――

 

 

 

 1秒……2秒………孤独な研究者を嘲笑うような、果てしなく長い静寂。

 

 

 果たして、主から切り離されてもなお、絶えず続いていた神秘の鳴動が……いや、“物語”の進行が止まった。

 

 

「ククッ…!思ったとおりですね。このキヴォトスに溢れる神秘は、須らく“物語”という性質を共通して持っている……。それも、それぞれが自らの意思で新しく紡ぎ出していくと……」

 

 

 黒服が付与したテクスト、それは至って単純。

 

 物語の進行を停止し、次なる展開に楔を打ち込む――栞。

 

 誰もが一度を使った事があるであろう、長方形の紙切れ。

 

 しかし、その紙切れが持つ意味と性質は、今たしかに、この少女――生徒の神秘を止めた。

 

 これが導く果実は、決して彼女との契約の履行にとどまらない。

 

 アヌビスやホルスといった神秘は、元は神話……つまり物語から生まれ出る存在。

 クユリの持つ神秘……恐らくは黒百合も、花言葉のもととなったバックストーリーが存在する。

 

 他のあらゆる生徒にも、元となった“物語”が存在しているのだろう。

 

 そして、それらの様々な“物語”の性質を、生徒という新たな題で覆い隠すことによって、生徒としての“物語”を紡ぐようにしているのだ。

 

 であるから、生徒ごとに神秘の強弱や性質が異なるという現象が起こる。

 

 さらに言うなれば、色彩や黄昏は、本編の物語を開こうとする書司のような役割を持ち――黄昏は書庫の役割も兼ねている可能性がある――それらを全てひっくるめた、このキヴォトスという箱庭は……

 

 

「全ての物語を――紡がれる青春の物語を……『ブルーアーカイブ』を保存する、大図書館なのですね」

 

 

 現に目の前には、かつて『ブルーアーカイブ』を読んでいた存在がいるのだから。

 

 御稜クユリという少女がいなければ、この真理に辿り着くことはなかっただろう。

 

 

 ――感謝しますよ、クユリさん。やはり、貴方は面白い。

 

 

 すやすやと穏やかな寝息をたてている眠り姫に、黒服はどこか慈しむような視線を送る。

 

 暁のホルス――小鳥遊ホシノの例を除けば、生徒とここまで長期の契約関係を築いた事はこれが初めてだったこともあってか、情……とはまた違う奇妙な感情を抱きつつあることを無視はできなかった。

 

 

「……クユリさん。私は貴方の紡ぐ“物語”に、惹き込まれてしまったのかもしれませんね……」

 

 

 狡猾で、人の心を自在に操作する緻密さも持ち合わせる一方で、その実、幼稚で……稚拙な感情に無意識に振り回され、己の本心には全くの無力。

 

 矛盾は矛盾を引き寄せ、彼女が恐らく、真に求めているであろう世界を自ら遠ざけているとも知らずに……。

 

 しかし、これこそが人間の美しさの一つなのだ。

 

 矛盾を矛盾と理解できず、盲目となってひたすらに堕ちてゆく。

 

 その末に待ち構える現実など考えもしない。

 

 

「――そんな生徒を正しく導くのも、私の仕事だから。先生、貴方ならばきっとそう言うのでしょうね」

 

 

 ゲマトリアとしては因縁の相手、黒服個人としては興味関心の枠を越えた、特別な存在。

 

 そんな彼に思い馳せながら、黒服はそう独りごちた。

 

 それも確かに良いかもしれない。迷える子どもに救いの手を差し伸べることは、大人として当然のことだと、彼は言うだろう。

 

 これまでの黒服であれば、己の研究が進むのであれば生徒の行く末など、余程の興味がない限りはどうなろうが知ったことではなかった。

 

 しかし、今ならば、彼の責任が……狂気とまで言えるような、あの献身ぶりの根幹となる信念の一端が理解できる気がしたのだ。

 

 

 ――クユリという少女のこの先を、もっと見たい。見守りたいと……この私が思うときが来るとは……。

 

 

 クックッと自嘲気味な笑いが漏れ出す。

 

 どうやら、知らぬ間に随分と絆されてしまっていたらしい。

 

 彼女との契約は、実験の自由の代わりに、あくまでも死なない程度に百物語化の進行を遅らせる手段を彼女に提供すること。

 

 極論、“御稜クユリ”でなくなっても、生きてさえいればいいという解釈だが……事はそう単純なものではなくなってきている。

 

 彼女が想定していたのか、或いは理解しているのか定かではないものの、現実として神秘――いや、黒百合という物語が、御稜クユリという物語を食い潰そうとしているのだ。

 

 心と身体、精神と物体。どちらをもってして人の本質とするかなどと、哲学の領域に立つならば……この場合は心や精神を本質として考えるのが、黒服の立場だった。

 

 黒服はあくまでも、御稜クユリという少女の紡ぐ物語が見たいのであって、どこの馬の骨とも知らぬ害虫にそれを奪われるのは、些か看過できるものではなかった。

 

 たとえそれが、今の彼女の望みに反する行為であったとしても、黒服は彼女の破滅を防ぐ方向に舵を取っていた。

 

 

「全ての神秘を物語――一冊の書と見立て、栞という楔を挟んでなお、強引に頁を繰ろうとするならば――」

 

 

 コツ、コツと革靴が硬質の音色を響かせる。

 

 気に入らないのなら、書を閉じてしまえばいい。

 

 栞を挟んで、適当な本棚にでも押し込んでしまえばいい。

 

 それでも、目に映ることすら……存在すら許せないのなら――

 

 

 ――全て、燃やし尽くしてしまえばよいのです。

 

 

「“死なない程度”という契約は守りますとも。えぇ、死なせはしませんよ。貴方の思う通りのものとは、少し違うかもしれませんが……なにせ、私は“悪い大人”ですからね。クックックッ!」

 

 

 質素な布地に広がる姉譲りらしい銀髪をひと撫でし、新たなテクストを作り出すべく、実験台へと歩を進める。

 

 “悪い大人”の不敵な笑みが何かを触発したか、眠り姫がその身を起こしたのは、それから間もないことだった。

 

 

 

 

✵✵✵✵✵ ✵✵✵✵✵

 

 

 

 ゴポリ……ゴポリと、粘性の気泡が肺から漏れ出ていく。

 

 どうにか息をしようとして藻掻けば藻掻くほど、残っていた酸素すら虚しく溶けていく。

 

 次第に意識が朦朧としてきて、今際の際を察知した脳が必死に過去から打開策を探そうと……所謂走馬灯をみせてくる。

 

 その殆どがまともに認識できるものではなく、何かである事しかわからない。

 

 それでも、浮かんでは消える無数の記憶の温度はやけに感じられて。

 

 可笑しい事に、温かな記憶は冷たく、冷たい記憶こそ温かく心に染み入っていく。

 

 一つを手に取れば、そこにはお姉ちゃんの……キキョウやレンゲ、ユカリたちの絶望、悲哀に彩られた表情。

 

 私が傷つけば傷つくほど、普段は決して見せない視線を見せてくれる。

 

 それが何よりも私を満たしていって、麻薬のように“次”への渇望を掻き立てる。

 

 

 ――だって、そうしなければ……私を真に愛してくれる証明にはならないから。

 

 

 日常の笑顔など、所詮は作り物、紛い物。貼り付けた仮面から出力される偽物にすぎない。

 

 そうでなくとも、そうであるかもしれないことが私には耐えられない。

 

 ――前の世界が、そうだったように。

 

 

『……ねぇ、あの――ってやつ……またリスカの跡増えてね?』

 

『マジじゃん…。最初はアレだったけど……最近調子乗ってない?』

 

『キッショ。アタシらになんか恨みでもあるわけ…?目障りだからそのまま死ねばいいのに』

 

 

 ――あれ、これじゃあ足りなかったかな?じゃあコレならどう?ねぇ父さん、母さんは?また病院送りになったよ?

 

 ――白衣の先生?って人がね、両親も心配してるよって!

やっぱりこの方法で間違ってなかったんだ……!

 

 

『こんのクソ………ゴホン!だ、大丈夫か!?父さんが来たからな……。すみません、ご迷惑をおかけして……』

 

『お母さんもいるからね……。ホント、メンドクサイ……』

 

 

『クユリッ……、あんた………左腕はどうしたの……?』

 

『嘘、だよね……?お願い、嘘だって言って……』

 

 

 あぁ……もっと、もっと……!もっと欲しい!これが愛されているということの何よりの“証”。

 

 

『……ソウ。アナタガモトメルモノハ、ナンニモマチガッテナイ。ダッテ、アイサレタイダケダモノネ……』

 

 

 顔面だけが虚無に塗りつぶされた、ワタシが頬を包みこんで囁く。

 

 

『イッタデショウ?ワタシハアナタ。アナタノホシイモノヲ、ゼンブカナエテアゲル……。ダカラ、コッチニオイデ…?』

 

 

 無数の茎が身体を絡め取って、ゆっくりと底へと引きずり込んでいく。

 

 世界の暗転とは反比例して、もう一人のワタシの顔が次第に明瞭さを増していく。

 

 そこには、紛れもない自分の顔が――姉譲りの儚げな色白の顔面が、中央からぱっくりと裂けて……黒ずんだ鐘のような花へと――

 

 

 ………本当に?

 

 

 バチリと、どこかで火花が弾けた……そんな気がして、閉じかけられていた瞼を開く。

 

 限界まで開いたその顔面が、私を喰らう一寸先で動きを止め……そう考える内に、何やら苦しみだす始末だった。

 

 

『ウ……グッ!ナニガ……ソウカ、コイツガ……!』

 

 

 忌々しげにソレが吐き捨てる視線の先には、いつの間にか私たちの間の空間に割り込むようにして突き立った――そう、まさに“栞”があった。

 

 見た目はたった一切れの紙屑なのに、一際大きく輝いたかと思えば、その瞬間から私の身体は明るい水面へと上昇を始めた。

 

 ワタシから引き剥がされると同時に、私の身体からどす黒い靄のような穢れが、次々に膿のようにワタシの方へと滲み出ては吸い込まれていく。

 

 “悪いもの”が、身体から抜けきって、揺らめく水面の光がいよいよ私を包もうとするにつれて、視界が滲み、ぼやけていく。

 

 わけもわからない涙が、せきを切ったようにボロボロと溜まっては流れ、染み出していく。

 

 自らの所業が、妙に客観視されたものとなって濁流のように流れ込むのは、まさに罪状を並べ立てられる被告人のようで。

 

 無意識というフィルターが取り外された私は初めて、私がもたらそうとしていた結末について悟ってしまった――そんな、気がした。

 

 胸中にあれだけ根付き、当たり前の真理だと思っていた絶望への渇望は消え去り、代わりにある一つの身勝手な願いが木霊していた。

 

 

 ――■■■■■■……!キキョウ……レンゲ……ユカリ……、お姉ちゃん……!みんなに、私は―――

 

 

 

 

 

 

「――――――っ……んぅ……」

 

「……おや、お目覚めですか。随分と長い睡眠でしたね」

 

 

 ……眩しい。

 

 久しく光を取り入れていなかった瞳孔は激しく収縮し、光の量の調整を試みる。

 

 次第にクリアになった視界には、知らない天井だとでも言いたくなるような、真っ白な天井。

 

 五感のスイッチがパチリパチリと入るにつれて、様々な情報が押し寄せてくる。

 

 薬品と……妙に鉄臭いこの匂いは、強いて言えば病院を思い出させる。

 

 皮膚の感触は、何やら色々な管が身体に刺さっているようで、その上から毛布が掛けられていることを理解する。

 

 身体の動かし方は分かっているはずなのに、ピクリとも動かない自分の身体に困惑するのも束の間、聴覚は聞き覚えしかない、大人の声を拾っていた。

 

 

「く……ろ……ふくさん……」

 

「おはようございます、クユリさん。一カ月ぶりの起床のご気分はどうです?」

 

 

 クックックッ……と肩を上下させるヒビ割れた漆黒のスーツ男。

 

 私の身勝手な欲望にノリノリで付き合ってくれる――あちらも私を通して得られるものがあるからか――このキヴォトスにおける、悪い大人。

 

 今は解散しているものの、生徒を食い物にするゲマトリアに属しているその大人は、気障な仕草でハンカチを取り出した。

 

 

「クックッ……貴方という人でさえ、涙は流すのですね」

 

「――え……あ、ありがとうございます……?」

 

 

 ぼんやりとした思考が徐々に固まっていく。

 

 ……今、黒服はなんて言った……?一カ月……?

 

 確か、私が黒服に抑制剤を打たれて……あまりの痛みに気絶したのは最終編の真っ只中。

 

 そこからおおよそ一カ月となれば、当然色彩の件は終息し、次なるメインストーリーが始まっていてもおかしくはない時期だ。

 

 そして、時系列的に次はいよいよ―――

 

 

「……あっ……ああ!どうしようどうしよう……今からでも間に合う…?いやとにかく、すぐ戻らないと――痛ッ゙!」

 

 

 百花繚乱編第一章が始まるどころか、最悪の場合丸ごとすっぽかすことになってしまう可能性もある。

 

 原作を知っている身としても、百花繚乱の一員としても……何より御稜ナグサの妹としても大イベントどころの話ではないのに、それを寝過ごすなどとどんな悪夢だ。

 

 弾かれるようにベッドから身体を起こそうとした瞬間、恐らく生命維持のために繋がれていた点滴の針と、寝たきりの反動が祟って、激痛に顔をしかめる。

 

 

「何やらお急ぎのようですね。今、針を抜きますのでお待ち下さい」

 

「はい……。あの、黒服さん……コレは?」

 

 

 今や黄昏に完全に侵食された左腕に、見覚えのない御札のようなものが貼り付けられているのが目に入り尋ねると、黒服は上機嫌に笑って答える。

 

 

「クックックッ!実は貴方が熟睡している間に、身体の世話も兼ねて色々と実験していたのですよ。その成果の一つが、その“栞”です。抑制剤に代わる、貴方の神秘を止める新たな手段です」

 

「栞……ですか。確かに抑えるというよりも、止まっている感じです。そっか、だからさっきの夢にも……」

 

「一体、どのような夢だったので?」

 

「ええっと……気がついたら、不思議な……幻想的な空間にいて。そこで、誰かと会って……次の瞬間には溺れかけているような状態で――」

 

 

 原作を見ているはずなのに、あの誰かが思い出せない。

 

 靄でもかかったかのように、知っているはずなのに思い出せないもどかしさだけが燻って、気持ち悪いことこの上ない。

 

 家を出た瞬間に、ふと何かを忘れているかもしれないと感じるあの気持ち悪さ。例えるならそんなところだろうか。

 

 今にも消えてしまいそうなほど白く、華奢で……それでいて絶対的な格の違いを感じさせるあの生徒の名前は……。

 

 

「まぁ、思い出した時にでもお話ください。それはそうと、お急ぎだったのではないですか?」

 

 

 あれこれ考えている内にとっくに処置は済んでいたようで、重い身体を引きずるようにしてベッドから降りる。

 

 少し離れた場所に百花繚乱の制式ライフルと、すっかり黒ずんでしまった羽織を身に纏いながら、ふと気になったことを尋ねてみる。

 

 

「……黒服さん、一つ聞いても?」

 

「はい?……あぁ、黄昏の侵食のことであれば、それ一つで十分持つはずです。余程のことがなければ、ですが」

 

「ありがとうございます……。じゃなくて、その……身体の世話もしたって……」

 

「……はい、貴方は大事な契約相手ですからね。サンプルを問題なく取るためにも、最低限の汗拭きなどは――」

 

「……………変態」

 

 

 思わず羽織を抱き寄せるようにして一睨みを利かせる。

 

 なんだか以前にも同じようなやり取りをしたような気がしなくもない。

 

 やっぱり黒服しかり、先生しかり……この世界の大人は大体変態なのかもしれない。

 

 当の黒服はというと、慣れたものといった様子でサラリと受け流していた。

 

 

「クックッ!いつもの調子に戻ったようで何よりです。ここはトリニティ自治区に近いですので、人目にはお気をつけください。いつもの転送オーパーツは、アヌビスの襲撃の傷が癒えていませんので……」

 

「分かりました。その……何から何までありがとうございます」

 

「礼には及びません。貴方のおかげで、私は新たな真理に辿り着く事が出来ましたから。それを考えれば、まだまだ釣り合っていませんよ」

 

 

 その真理とやらが何か気になるものの、黒服は既に出入り口のセンサーに手をかざし、電子的な解錠音を鳴らしていた。

 

 感知センサーによって順に電灯がついて行き、地上の光の漏れ出す扉が照らし出される。

 

 

「さぁ、こちらからどうぞ。もしよろしければ、車を出しましょうか?その姿では交通機関も使えないでしょうし」

 

「……ありがとうございます。ですが体を慣らすためにも、その提案は切らせてください。それに……なんと言いますか、軽い感じがするんです。身体も……心も」

 

 

 あの夢を見てから――正確には、もう一人のワタシとやらと栞を介して解離した時から、憑き物が取れたような身軽さが満ちてきていた。

 

 具体的に何をすべきなのか、どうしてなのかも確たる事は何も分からないけれど――

 

 ――ずっとひた隠しにされてきた本能が、産声を上げたかのような……心の底から為すべき事が解ったような気がする。

 

 今はただ、一刻も早く、お姉ちゃんに……みんなに会いたい。

 

 会って、それから―――。

 

 そんな曖昧な返答にも、黒服はどこか我が子の成長を見守るような視線で頷いてきた。

 

 

「そうですか……変わりましたね、クユリさん。貴方の思うように、貴方だけの物語を紡いでください。ゲマトリアは――いえ、私は、いつでも貴方を見ていますよ。クックック!」

 

 

 その言葉を背に、一息に陽のさす表の世界へと身を躍らせる。

 

 心なしか、曇らせを求めていた頃よりも世界が光って見えるのは、気の所為なのかもしれない。

 

 

 

       〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

「………おや?あの方、こんな早くから随分と急いているのですね。もしや、救護対象が……!?」

 

「――団長!ミネ団長!セリナです!患者が目を覚ましました!」

 

「……ッ!分かりました。至急救護に向かいます!」

 

 

       〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 日が昇って、沈み……また昇って沈みかけた、黄昏時。

 

 ついに、百鬼夜行の自治区の離れにたどり着いた私は安堵のため息を漏らした。

 

 

「よかった……まだ燈籠祭は始まってない……!ほんとにギリギリだった……」

 

 

 鮮やかな提灯、祭りの開催の決定を知らせる空砲。

 

 日も暮れないうちから各地からの観光客で溢れかえり、百鬼夜行特有の熱量がここまで伝わってくる。

 

 それも当然、二十年前の再現となるお祭りなのだから、日常的などんちゃん騒ぎのお祭りとはわけが違う。

 

 だからこそ、様々な思惑が入り乱れるメインストーリーの舞台に相応しいのだ。

 

 そして、私も――――――

 

 

 そうして、百鬼夜行の敷地に足を踏み入れるその時だった。

 

 

「――おや、これは奇遇さね……。いや、意図的な偶然は必然と云うべきかね。何にせよ、あの日ぶりやねぇ………」

 

 

 蛇に睨まれた蛙。そう形容する他ない金縛りが私を襲う。

 

 誰かなんて振り返って見るまでもない。

 

 あの日、私が黄昏に身を堕とすために利用した形で相まみえた、百花繚乱のみならず、百鬼夜行の永き因縁の相手……花鳥風月部の部長であり、魑魅魍魎の頭領――

 

 

「我の名は覚えておるかえ?……いや、お前さんには名乗っていなかったか……。改めて、我が名はコクリコ。

 

 

 ――先輩として、少し助言を授けてやろうと思ってねぇ……。少し、語りに付き合ってもらうさね……“黄昏の黒百合”、御稜クユリとやら」

 

 

 ゾワリと肌が総毛立つ。

 

 耳を傾けるなと、今すぐ逃げろと全細胞がしきりに叫ぶのに――

 

 

「――お前さんの受けてきた仕打ち、得られたはずの愛を奪われた悲しみを……そっくりそのまま返してやりたい。そうは、思わんかえ?」

 

 

 首筋に突き立てられた牙から流れ込む甘美な毒は、一度は振り払ったはずの闇へと私を引きずり込んでいった。




逃げられません。逃がしはしません。


*時系列としては、クユリが帰還したのは燈籠祭当日。キキョウとユカリの継承戦よりも後となります。

黒服は私の父になってくれるかもしれなかった男だ!
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