深夜22時
周囲のフロアの電灯が消え薄暗くなったデスクに齧りつくかのように
スーツ姿の女性が眉一つ動かさずタイピングに没頭している。
『わっ、ユズさん!まだいらしたんですか?』
薄暗くなったフロアに似つかわしい制服と巫女服を合わせたような姿の【太刀花藍】に声を掛けられて
スーツ姿の女性【ユズ=トウジ】はゆっくりと眼鏡をはずして答える。
『太刀花さんこそこんな時間までお疲れさまです。
…ちょっと労働環境に問題がありますね。』
この時間に現れたという事は今まで外で活動していたのだろう。
13歳の少女が命を懸けて戦うのも問題だが、それを差し置いても22時に仕事をしているのも問題である。
もっとも労働環境なんてのは世界相で大きく異なる物でもあるのだが…
『私は家のお手伝いでもありますから当然の事です。
それよりも女性職員のユズさんがこんな遅くまでいる事の方が問題ですよ。』
なんと逆に心配されてしまった。
さぁ子供らしい文句を吐き出しなさいと意気込んでいたのに出鼻を挫かれてしまった。
『大丈夫ですよ。
仕事はもう終わりですし後は帰ってゆっくりするだけです。』
『いえいえ大事な事なのです!』
話を切り上げ席を立とうとしたユズに割って入ったのは【ポーチ・ド・ドッグ】
最近とあるファンタジー世界から召喚されたコボルトのお姫様である。
今は太刀花家で暮らしている。
『上司Aさん!
ユズさんは今から帰宅されるそうですが移動時間にお給料は発生しますか?』
小さな体で何のその。
彼女はユズの上司Aのデスクによじ登ってダーザインの業務形態にメスを入れ始めた。
『入っていない?おかしいではありませんか!ユズさんは移動中は寛げません。
これはゆゆしき問題なのですよ!』
『ぽ、ポチちゃん落ち着いて。おじさん達も色々大変なんだからお仕事の邪魔をしたらダメだよ。』
藍はポチを机から引きずり降ろすと、失礼しましたと頭を下げ廊下へと向かったのだが…
『お待ちなさい。
こんな事もあろうかと素晴らしい発明品があります。
それをコボルト王国の王女としてダーザインに販売交渉したいのです。』
天下の切り札【王族として】が切られてしまった。
これを言われるとどんなトンチキ行動でも認めざるを得ない。
藍がゆっくりと手を離すとポチ姫は空間から大きな椅子を取り出した。
『これぞコボルト王国が開発した新型椅子、全自動寛ぎ帰宅マシンなのです!』
『ほうほう、これはこれは』
ユズのメガネがわずかに光を放つ。
無線式イヤホンジャックに液晶ゴーグル。
背中、手、足に超音波マッサージ機のような物も見える。
背もたれはどこまでも沈んでいきそうな最高級のふかふか素材が使用されている。
これはなかなかの装備である。
『使ってみますか?』
『いいんですか?』
ポチ姫が横に避けたのでユズは遠慮なく座らせてもらう事にした。
『わ、これ座り心地がとてもいいですよ』
『えっへん、座り心地は基本なのです』
良い事を言う。
どれだけ多機能な椅子であろうと座り心地が悪ければ意味がない。
コボルト王国は基本を押さえている。
『マッサージ機もいい感じですよ。あー・・・気持ちいい・・・』
『更にこちらを』
ポチ姫の合図で液晶ゴーグルが掛けられる。
『こちらはユズさんの個人用デバイスとリンクします』
目の前に映るのは確かにユズの個人用デバイスの画面だった。
ユズが試しにデバイスを取り出すとアームがデバイスを掴んだ。
それを指で操作すると画面も同じように切り替わる。
『液晶モニタは2窓も可能なので、目の前で動画を観つつゲームの日課をこなす事も可能ですよ』
『おお、至れり尽くせりですね』
正直あまり感心しないと思う世代だが個人の問題なので上司Aは口出ししない。
『更に左手にはお飲み物をご用意!』
『あ、これコンビニの新作ジュースですね。飲んでみたかったんですよ。』
ゴーグルを付けスマホを操作し左手でジュースを飲む姿はなかなかシュールだが藍も何も言えない。
大人はこんなにも全力で寛がねばならないのだと思う事にした。
『口を数秒間開けるとアームがおつまみを放り込みます』
『おっと、ビーフジャーキーですか。美味しいですね。』
更にユズの耳にはイヤホンジャックが刺しこまれる。
『今日はお前の為に…ここまでしてやったんだぜ…』
『っ、イケボ男子が耳元で囁いてくる。これがASMRってやつか……』
よくぞここまでするものだと上司Aは感心する。
視覚、味覚、聴覚、嗅覚、触覚の五感全てに快楽が与えられている。
快楽を求めない事こそが究極の幸せなのだと故人は言ったが今の彼女はそれとは真逆の存在にある。
言わば快楽の権化と化しているのだ。
『あ、太刀花さんこのシーン。
このドラマで私が一番好きなシーンなんですよ。
って、太刀花さんには見えませんよね。』
『ええ、でもユズさんがリラックスなされていて何よりです。』
とにもかくにも彼女がリラックスしているのは間違いない。
『ふむ、確かにこれならば職員の疲れも癒されるだろうね。』
高性能なのは事実なので総務に話を通すくらいはいいだろう。
そう思って声を掛けた上司Aをポチ姫は制止する。
『このマシンは全自動お寛ぎ帰宅マシンなのです!』
そう言えばこれは帰宅をするためのマシンなのだ。
情報量が多すぎて本質を見失っていた。
(…これほどの小型な椅子にワープ機能まで付いているのか。)
ワープには非常に細やかな演算が必要とされる。
様々な未来世界に於いても小型のワープ装置は見つかっていない。
おそらくワープ理論への科学的アプローチにおける限界なのだろう。
となるとこの椅子はコボルト王国が操る理解不能な魔術と科学を合わせて製作したマシンなのだろう。
『どれだけ高速で帰宅するマシンを作っても移動には時間が消費されてしまいます。
ならば帰宅までの移動時間に最高級の寛ぎを与えるのが本マシンのコンセプトなのです。』
なるほど、ポチ姫の言ってる事は正しいと思う。
ワープ機能を駆使して帰宅したとしてもワープを起動するまでの時間は消費されるのだ。
この装置ならばワープの起動時間や設定中も寛げるだろう。
『ではポチ姫。早速やってくれるかな?』
『はい!では行きます!』
2人が同時に声を合わせる。
『ワープ機能を!』
『GO!帰宅マシン、帰宅路を検索して自走なさい!』
見事に発言が食い違う。
『えっ!?自走!?』
上司Aと藍が同時に声を挙げると全自動お寛ぎ帰宅マシンはタイヤをフル回転させて外へと飛び出していく。
慌てて藍が飛び出すが全自動寛ぎマシン速い!超早い!
『ユズさぁぁぁん!』
藍の悲痛な叫びも空しく全自動寛ぎマシンは人混みの中で巧みに衝突を避けながら爆走していく。
マシンは所詮マシン。
人の都合も恥も事情も気にしない。
通行人からユズへ向けられるあらゆる感情めいた視線をものともせずマシンは進んでいくのだった。
『あーいいですねー。
それにAMSRっていうのも癖になりそうで…
ぁ、それ耳がくすぐったいやばい。……ひゃっ…………』
ゴーグルで顔が見えず人物が特定できなかったのが唯一の救いだろう。
全力お寛ぎの姿の彼女を人々はどう思ったであろうか。
ユズは己が地獄にいる事に気付かぬまま全力で寛ぐ姿を通行人に晒して帰宅していった。