イヌバラの思い出 作:ローズヒップティー
それほど速くはない突進。
さきほどの
Xのルーンを破ったときのような、幾重もの刃へ変形されるのが一番厄介なんだが、向かってくる水銀メイドは自然体だ。
さてどうするか。
受け止めるか。同じ次元に水銀を重ねるようなことをしていなければ、重量は多くても1トン程度。『強化』をしている様子はないため、そこまでの威力はなさそうに思える。
いや、なしか。
受け止めた瞬間、変形。俺の腕がバラバラに。
なんてこともある。任務外でこれ以上
緩慢とした突撃を、横に転がるようにして回避する。
汚れるのが嫌だったので、Xに魔力を通し、泥水を凍らせて服に付くのを防ぐ。
「さて……って、あれ?」
体勢を立て直し、水銀メイドへと向き直るも──
彼女はそのまま、一直線に走り去っていく。こちらを見向きもせず、ただ真っ直ぐに駆けていった。
「えー……?」
霧に呑まれ、じきに影すら見えなくなる。
またしても、静寂だけが周囲にあった。何故かマイオの気配ももうない。俺という目撃者を逃したくない筈なのに。
気がつくと、結界も解けており、
「……ほんとにどうしよ」
答えてくれるモノはいない。
狭い視界を見渡す。水銀メイドのものも、青年のものも、どちらもハッキリと足跡が残っている。これであればどちらも容易に追える。
俺が塔へ戻るのをあんなに嫌がっておいて、これはどういうことか。
追うしかあるまい、マイオを。
ライネスのメイドが何故ここにいるのか、何故泉へ向かったのか、などはこの際置いておこう。行かない方のことを考えてもしょうがない。
視点も今は一つしかない。だから、考えることもひとつでいい。
「──と、こんなモンかな」
マイオの足跡に靴を合わせる。右足で踏みしめた跡、そこに己の右足を乗せる。
身長もそうだったが、やはり彼の方が少し大きい。踵を併せたがつま先の方に隙間がある。当然、歩幅も相応に広さがあるだろうと予想がつく。
少しだけ考えて、身体能力で
「──
瞬間、駆け出す。
マイオの右足から始まった軌跡に沿って踏み出す。
彼の左足の跡に、俺の左足がぴったりと合致する。その後も同じ。二歩目、右足の跡には右足が。三歩目、左足の跡には左足が。
彼の動きをトレースして走る。
木々の隙間を抜けて、
──駆ける。
『定義』した速度は、本来の彼よりも速い。
眼を使わずに『定義』したため、少々無理のある動きが所々に見られるが、身体能力によるゴリ押しで通す。
今回は魔術による妨害がない。すぐに追いつけることだろう。
程なくして、霧を抜けた。
甘い香りが霧散し、澄んだ森の空気が肺へ送り込まれる。元の森の臭いも鼻をくすぐる。同時に、消毒液にも似た匂いが漂っていることに気付く。
彼の部屋で嗅いだ匂いだ。
目標は近い。
視界が開けたので、速度を更に上げる。広かった筈の歩幅はその分狭く感じられて、忙しなく足を動かすことになった。
ちょっと無理があったかな、と速度を落とそうとして、その姿が見えた。
森の切れ目。濡れた石畳の道、その反射光が目に入る。月の塔は近く、亭々たる白亜の壁が
そこへ向かうマイオの背中を捉えた。
自身へ掛けた魔術を解き、本来あるべき走行姿勢へ移行する。
前傾に。
頭は揺らさず、目線は前へ。
姿勢は低く、歩幅は限界まで広く。
────まるで猟犬だ。
タン と一際強く踏み込んで、跳ねる。
彼は気づく様子もない。
首筋にハイキックを叩き込もうとして、流石に死ぬかもしれないな、と思いとどまった。
なので、二の腕らへんを程よく蹴ることにする。
「いっっ────ンガッ……!」
くの字に折れ曲がるマイオの腕。衝撃がそれだけで収まる訳もなく、そのまま横に吹っ飛ぶ。
転がるようなかたちで石畳の上に二、三回ほどバウンドし、やがてグッタリと動かなくなった。
殺人犯、確保完了である。
「さて、黄金姫の件とメイドの件、詳しく聞かせてもらおうじゃないか」
マイオからの返事はない。気絶しているので当たり前だが。
だから俺のこの言葉は独り言であり、返答があるなんて考えてもいなかった。
「────それは誤解です」
故に、その声に驚いた。
月の塔へと続く道。そこからやってくる二人の人影が目に入る。
美しい紫のドレス。裾が泥で汚れぬよう、後ろでメイドが持ち上げている。薄いヴェールから微かに覗く銀の髪と美しき貌。
「黄金姫──ディアドラ姉様を殺したのは、マイオではありません」
「……白銀姫」
間違えようもない。白銀姫──エステラであった。
「それは、どういうことでしょうか」
「……詳しくお話しましょう。ですが、その前に彼を、マイオを医務室へ運んでも?」
チラリと青年を見やる白銀姫。その瞳には僅かに憐れみの色が滲んでいた。
なんとなく、彼女は全てを理解している気がした。この双貌塔での事件、そのすべてを。
無言で小脇にマイオを抱える。起きて何かしてくると面倒なので、手はガッチリと強く掴んで動かせなくして、だ。
「──医務室、どっちです?」
「ありがとうございます、ヴィジリア様」
「お礼を言われることではないと思いますが……。彼を
「いいえ、それでもです」
心底ほっとしたような口調で、彼女は言う。
後ろのメイド──レジーナの表情も、心なしか和らいだように思えた。
*
────同刻。
その少女は、驚愕の表情で佇んでいた。正確に言うならば、立ち尽くしていた。
「……トリム?」
口からもれるそれには、一体どれほどの感情が篭っていたのだろうか。
息が止まった。目が揺れる。
何かの間違いだ、と
「そん……な……」
彼女の背後で、やっと追いついたらしい灰色の少女が呆然とする。
それは、黄金姫殺害の疑いを晴らすため、探偵役を買って出たライネスたちであった。
手掛かりを求め、森へ入るも、
「……ライネス、様」
ぎこちなく振り向く、水銀のメイド。
そこは泉のほとりであった。薄れゆく霧の中、細い陽光に照らされてソレは輝く。一体なにか。
泉の水か。──否。
水銀の肌か。──否。
では何か。
トリムマウの手から滴る、血の色に他ならない。
無論、彼女は水銀製。血など流さない。零れ落ちるそれは、泉に浮かぶもう一つのメイドのものだ。
カリーナの血である。
一見して、
「お前……」
小さなライネスの声。湿度は驚くほど高く、喉など潤いにあふれているだろうに、その声はそうとは思えないほど掠れていた。
一歩、メイドに近づこうとして────
「おっと待った。動かないでもらおう」
その背中に、別の声がかかる。
森の緑と同じ色のドレスが姿を
「ロード・バリュエレータ、それにバイロン卿。
……なぜここに?」
「それはお互い様だ。さっき、おかしな魔力の気配がしたものでね」
双貌塔にいたイノライだったが、突如張られた結界を不審に思い、バイロンと共に様子を見に来たのである。
足の悪い男と、もう七十近い老女。歩みは遅いが、とはいえここはイゼルマのホーム。最短ルートはバイロンが熟知している。
ライネスたちが霧やら結界やら、他にも色々あるが、とかく対処に追われているうちに追いついたのだ。
「……事情を説明させていただいても?」
「もちろん。だが──」
肯定を口にするも、そこには不穏な逆接が付く。
ちらりとトリムマウに視線をやると、イノライが腰にくくった小袋から砂を掴み、短い呪言とともに大地は投げ放った。色彩豊かな砂が振り撒かれる。
その地に舞った砂が、あたかも密教の
そして、砂絵がアニメのように動かないのと同じく、トリムマウも照応するように動きを停止させた。
「流石にアレをそのままに、って訳にはいかないだろうさ」
当然だろう、と眉をあげて主張するイノライ。
「では、改めて。事情をご説明いただけるかな。エルメロイの姫」
地面をにじるように杖をつきながら、一歩バイロンが近づいて言う。
糾弾と云うにはいささか冷静に過ぎるが、なんにせよ、ライネスにはとって彼の真意など関係ない。真犯人の究明、敵対派閥の排除、はたまた別の何かか。
どれにしたって、彼女が追い詰められているのに変わりはない。
「この光景……その水銀メイドがカリーナを殺した後、証拠隠滅に泉に投げ込もうとしたようにしか見えないが?」
「…………」
ライネスは答えない。
答えられない。
ここには死んだカリーナがおり、トリムマウにはその血が付着している。明白でいて、露骨な状況である。弁明などできよう筈もない。
仮に何か口にしたとして、証拠がなくては話にならない。
「どうしたのかな? エルメロイの姫。言葉も出ないとは。これは観念したということかね」
「……はは、ご冗談を」
乾いた笑い。沈んだ声が漏れ出る。強がりか自嘲か。きっと彼女本人にも、正確には判じ得ない。
「ライネスさん」
グレイの呼びかけ。
果たしてライネスには、その声が聞こえていたかどうか。聞こえていたとして、その声に含まれた感情に気づいたかどうか。
俯き、セカイが遠ざかっていく錯覚に囚われていたライネスには、その足音が聞こえていなかった。
「……一体何をしてるんだ。レディ」
その声で、彼女はやっと気づいて振り仰いだ。
黒い男であった。
長い髪も、スーツも、纏うコートも漆黒。肩から垂れるマフラーだけが赤く、目を引く。不機嫌そうに眉間に皺を作って、咥えた細い葉巻からは紫煙を
「……兄上……」
──ロード・エルメロイII世、その人である。