イヌバラの思い出 作:ローズヒップティー
一話 伝承科の魔術師
コー コーコー
コー コーコー
────遠くで
その音で、もうそんな時間なんだな、と気がついた。
ぼんやりとした頭で窓を見やる。
夕暮れと呼ぶにはいささか遅く、西の空に僅かな赤い色を残すばかり。
窓に嵌められた
外を歩いている帰宅途中のサラリーマン。これからクラブか何かへ遊びにいく若者の姿。それらがうっすらと透き通って俺の目に飛び込んでくる。
同時に、ソファだとか、食器棚だとか、あるいは天井の照明だとか、室内のモノたちも半透明の鏡に反射して俺の目に飛び込んでくる。
重なった映像のどちらにピントを合わせるか。
こういう時間帯での変化に、人々は神秘を感じたそうだ。
黄昏時。
昼から夜へと移り変わる時、同じくして移り変わる物事の法則。
────例えば、硝子のあちら側とこちら側。
それぞれの明るさが同じであれば、双方の光が通過し、双方が向こう側を認識出来る。
しかし、それぞれの明るさが著しく異なる場合、暗い方から明るい方は視認出来るが、明るい方から暗い方は視認出来ない。
結界の魔術にも使われる、鏡へと変容する硝子の神秘。
結界の内側の条件を、外側の環境から変質させることで内側を隠す。外側からは、鏡のように周囲の環境を反射させて、ギリースーツのように周りと同化して分からないようにする。
この内側と外側、つまり昼と夜を上手く調整することで、あるはずのモノをないように見せたり、なかったはずの場所に突然なにかを出したりできるのだ。
0と1しかないデジタル的な変化ではなく、滑らかな曲線を描くような変化だからこそ、このような魔術は成立する。故に、昼と夜という太陽と月のアナログ的運行を利用するのは必然と言えるだろう。
いつの日か、似たようなことを誰かが言っていたので、その時のことを思い出してしまったようだ。
たしかベルフェバン卿に誘われて、何の気なしに見学に行った講義でのことだったか。
「────」
先程まで読んでいた報告書を傍に置き、用意だけして結局手をつけ忘れていたコーヒーを啜る。
わざわざ豆を挽くのは面倒だったのでインスタントだ。客人に出す時のために良い豆を揃えてはいるが、自分一人のときならこれで十分だ。
「……冷めてる」
当然といえば当然。温かいコーヒーを長時間そのままにしておけば伝導・放射・対流によって熱は均一化され、結果として冷めてしまう。
別にこのままでも飲めなくはないが、ホットでもアイスでもないどっちつかずのものは美味しくない。インスタントとはいえ味は大事だ。
マグカップに入れたままのスプーンをつまみ、ひと回し、ふた回し。
「──
スプーンを回しながら、そう一言呟く。
マグカップの取っ手を持つ指に、じんわりとした熱が伝わってくる。白いもやが徐々に浮き上がっていく。
まるで時間が巻き戻ったかのよう。淹れたてと見間違うほどにコーヒーは熱を取り戻していた。
「うん、上出来だ」
目を閉じて一口飲む。喉を伝い、胃の中へ流れ込んでくる温かな感覚。舌へ染み込んでくる苦味と、鼻をくすぐる柔らかな香りが心地いい。
ほう、と息を吐く。
他に誰も居ない、静かな部屋。
上から垂らした小ぶりのシャンデリアが、ソファの皺を浮き上がらせるかのように照らしている。
コーヒーから立ち昇る湯気が、そんな天井の光へ向かってゆらゆらと手を伸ばす。
ふと────、鴉たちの声がすっかり失われていることに気が付いた。
彼らにとって、今はもう寝る時間なのだろう。
つまり、夜になったということだ。
外は暗くて、窓の向こうは全く見えない。硝子は鏡へと完全に変わってしまっているようだった。見えるのは、左右反転した部屋と自分の姿だけ。
ガス灯の頼りない明かりでは、残念ながら室内の電灯には叶わなかったみたい。
無機質な電気の光よりはガス灯の方が好みだが、それはあくまで俺個人の感傷だ。魔術師らしいレトロ趣味である、というと語弊があるか。
単に色合いの好みかもしれない。オシャレな照明だからと取り付けてみたが、もう少し温かみのある発光色のものに変えるのもいいだろう。
────そんな風に取り留めのない思考に耽っていた時。
コン コンコン コン
ふとしたノックの音で、視線は扉へ向かった。
特に来客の予定はなかったと記憶しているが……。
「どうぞ」
居留守を使う理由もなし。見られてマズいものもなし。入室を促す。
しかし、いくら待てどもドアは開かれることなく、沈黙だけがそこにはあった。
悪戯、という線はないだろう。一般道に面している格安物件とはいえ、このフラットは魔術師たちの住処。冗談半分でそんなことをする命知らずはいない。
となれば答えは一つ。
「──────」
振り返る。
視線はドアからドアへ。
ただし、見るべきドアは此処ではない。別の位相。先程まで眺めていた硝子/鏡の世界。
窓に嵌め込まれた鏡には、反転したドアを開けて入ってくる黒い影が映っていた。
男か女かも分からない、黒いモヤが人間の形を取っているような、そんな姿。とは言え、俺にはこの人が誰かなんてのは分かりきっている。この姿隠しの術式は保険のようなものだ。
「こんばんは。ロード・ブリシサン。今日はいかがなさいましたか?」
「────イゼルマの話は聞いているな」
しわがれた声。荘厳にも、軽快にも聞こえるその声。姿と同じように音声にもプロテクトを掛けているらしい。
以前に比べて、最近のロード・ブリシサンは慎重だ。きっと何かがあったんだろうが、巻き込まれたくはないので気にしないことにする。
して、イゼルマときたか。
そして、そのお披露目が近いとも。
「お披露目パーティのことですか?
「────いや、行くのは私ではなくお前だ」
「え、それは……何故です? あの家に視るべき物などないでしょう」
「────何も。ただ、クライネルスの様子が気になってな」
「あぁ、なるほど」
クライネルス家はブリシサンの分家だ。何世紀か前からイゼルマの研究に協力しているらしい。というか、創造科の監視目的に送り込んだ、が正しいのか。
それを見張るのも
クライネルスも、そういった役目を担った家なのである。
とはいえ、完全にスパイかと云われると少し違う。ようは『人類の脅威』となるものを発見したら、それを本家へ伝えるだけのもの。それ以外は関知しない。
『伝承』に関わらなければ、その家に全面協力して何の問題もない。
「つまり、伝承科としての本分を忘れてないか確認すれば良いんですね」
「────まあ、そうだな」
「でも──それだけじゃないですよね。それだけなら、いま俺にやってるみたいにしてクライネルスに繋げばいい」
それだけなら、俺を使う必要もない。さっき言ったみたいに直接クライネルスに回線を繋げばいいだけだし、それが出来なくともこのくらいそこらの木っ端にでも頼めばいい。
俺にわざわざ依頼してくる理由。それがある。
「本題に入りましょう、ロード」
「────……件の社交会、トーコ・アオザキが来るのでな。アレに接触できる機会は珍しい。探れ、徹底的にな」
なんとなく嫌な仕事と予想はしていたが、想像以上に酷い話だ。あの
格好つけて、本題に入りましょう、だなんて言わなければよかった。
どの道、言っても言わなくても同じ命令はあっただろうが、乗り気に見えてしまうのはよろしくない。今後のためにも。
「……徹底的に、申しますと?」
「────封印指定より現在まで、八年間の足取りその全てだ。魔術工房のありか、所持している礼装・遺物。悉くを暴き立てよ」
「…………」
「────もし、脅威を持ち得ていた、或は触れていたのならば──対処せよ。バスカヴィルの仔。星の瞳を持つ者よ」
勘弁してくれ、という泣き言はきっと聞き入れられない。だから言わない。
確かに、今までの『落とし物探し』よりは危険度は低い。他人の過去を調べることなど、俺にとってはスコーンを焼くより容易いことだ。
俺の魔眼──
千里眼としての機能も同時に備わっていて、範囲はこの
少し前に発表された、
ただ、照準を合わせることができるのは基本的に土地に対してで、特定個人を視るのには向いていない。本質は地球の観測だからね。
それでも人間一人に絞って観測する方法はある。
それは対象と目を合わせること。目が合うことで、俺の眼と相手の目との間にパスが作られる。
まるで月から地球を眺めるような通常の視点から、対象の視界を乗っ取ったような視点へと変わる。そして、その視点で相手の過去を視ることが出来るのだ。
『相手視点での過去』という不正確極まりない
俺の性能はともかく、まあ────要するに、
"トーコ・アオザキの過去を観測して、地球外のモノに接触していたら何とかしろ" ということだ。
「まあ、分かりました。なんとかして彼女を視てみます。でも魔術師の過去を覗くんですよ。バレたらただじゃ済まないんですけど」
「────その際には、180秒間のみ使用を許す。では、任せたぞ」
黒い影は霧のように消えていった。
パチリと瞬きをすれば、そこには普通の窓。硝子の中のドアは閉じていて、現実の部屋と全く同じ様子を映していた。
鏡越しに自分と目が合う。赤い瞳がこちらを射抜く。
魔眼は制御下にあり、仮に意図せず発動したとしても視えるのは自分の過去だ。見知った光景。見知った映像。どうということはない。
けれど、目を逸らした。今の自分の姿が、自分でもどうかと思うほど、随分と情けない顔に思えたからだ。
その逸らした先で、ふと、机上の報告書が目に入った。
生体18番によって、全身が五ミリ幅の輪切りにされたという内容だ。
「こうはなりたくないねぇ……」
呟きはどこに届くわけでもなく、静寂な部屋の中で消えていく。
アオザキを追っていた封印指定執行者が始末された、という話は何度か聞いたことがある。
下手を打てば俺もそうなるのだろう。この報告書の人物のようにされる可能性だってある。
満月の夜ならいざ知らず、昼間にこうまで
露出を増やせばそれだけ
……いや──まあ、いいか。爺さんの思惑はどうでも。
ともかくとして、彼女が『
それが、伝承科の魔術師としての責務だからだ。
「────とか、言えたら格好良かったのかな」
誰に聞かせるでもない、自虐の呟き。
それも仕方なきこと。
これは自覚があるが、俺は割と惰性でやってる部分がある。なので、使命感のようなものを持って行動している人たちのことは素直に尊敬する。
そういった気持ちがゼロかと云われると、全くのゼロではないというのが逆に困りものだ。いっそ無ければ無いで諦めもついたものを。
やりたいこと。
やらなくてはいけないこと。
やるべきこと。
ああ、多すぎてパンクしてしまいそう。
時間も猶予も、無限にあったらいいのに。