本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:bookworm

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10話 スリザリンの継承者

 

 黒緑の革表紙。金の箔押しの題名は『純血一族一覧』。

 ……うん。見た目の時点で、すでに感じが悪い。

 いかにも「由緒正しい純血がどうこう」と語り出しそうな顔をしている。本に顔があるなら、たぶん鼻で笑ってる。顎も上がってる。

 でも、わたしは最初にそれを手に取った瞬間、別の意味で引っかかった。

 紙の質は古いのに、ある頁だけ妙に手触りがなめらかだ。

 インクの色も、家系図の線だけほんの少し濃い。

 そして何より、ページをめくるたび、耳の奥でかすかに何かが擦れるような音がする。

 紙の音じゃない。

 もっと細くて、もっと湿っていて、ぞわっとする音。

 まるで鱗が石の上を這うみたいな気配だった。

 

「……いや、気のせいじゃないよね、これ」

 

 小声でつぶやくと、ポケットの日記帳がふっと面白がるみたいに気配を揺らした。

 

『その本には仕掛けがある。スリザリンに関する秘密の仕掛けだ。それを見つけたら——』

 

 そこで黙るのが、いかにもトムだった。

 最後まで言って。人に謎をぶら下げて去るの、本当に性格が悪い。続きが読みたい病を発症させようとしてくる。

 

『トム、続きは?』

『見つけてからのお楽しみだよ』

 

 わたしの脳は一瞬で決まっていた。

 一度気になった本を放置するなんて、本に対する冒涜だ。読む権利の侵害だ。

 そこからのわたしの日々は極めて不健全だった。

 授業に出る。食事をする。図書室に行く。ここまでは健全。

 スリザリンに関する本を読む。創設者四人の記録を読む。サラザール・スリザリンの伝承を読む。純血主義の起源に関する記述を読む。蛇の紋章、地下室、秘密の部屋、血統記録、古い呪文学、隠し文字、家系図の偽装、魔法のインク——読めるだけ読む。読んで、読んで、また読む。合間の時間に両親宛に本の感想を書いた手紙を送った。

 天国みたいな生活だった。

 問題はその天国がわたしの身体にぜんぜん優しくないことだ。

 だって、資料って読めば読むほど増えるのである。一冊で済むわけがない。参考文献が参考文献を呼び、注釈が注釈を産み、気づけば本の山のふもとで「ここが入口だったか……」みたいな顔になる。

 読書とは雪崩だ。しかも雪崩れた先にまた雪崩がある。永久に終わらない。最高だ。体力以外は。

 

「マイン、また顔色が悪いぞ」

 

 ある朝、朝食の席でドラコが露骨に顔をしかめた。

 向かいに座るわたしは、パンにも手を付けずに分厚い本を開いていた。片手には紅茶。なお、とっくに冷めている。飲むのを忘れていたからだ。忘れていたというか、紅茶の存在を認識していなかった。視界に入っていたはずだが、本のページの方が優先度が高いので、紅茶は背景に分類されていた。

 

「大丈夫。今日は倒れてない」

「『今日は』で済ませるな」

「この前は図書室の前でちょっと意識が飛んだだけだし」

「それを一般に失神って言うんだ!」

「ちょっとした失神だよ」

「失神に『ちょっとした』はない!」

 

 ドラコの声に、近くにいた一年生がびくっと肩を揺らした。すまないね。でもわたしは忙しいので気にしない。視線は本から外さない。

 

「それに、もう少しで見えてきそうなんだよ。この『純血一族一覧』の仕掛け。普通の隠しインクじゃないし、綴じ糸にも意味がありそうだし、頁の端の擦れ方も不自然で——」

「授業の予習は?」

「……してるよ」

「嘘をつけ。お前、昨夜も『ホグワーツ校史』と『創設者の遺物と象徴体系』と『古代魔法文字入門』を抱えて寝落ちしてたらしいじゃないか。アストリアが言ってた」

「関連資料だもん」

「教科書を関連資料扱いするな」

 

 ドラコがこめかみを押さえた。

 失礼だな。教科書だって本なんだから、関連資料に決まっている。全部つながっているんだよ。世界は本で編まれている。

 とはいえ、今回のわたしがちょっと夢中すぎるのは自覚があった。

 食事を忘れる。睡眠を削る。授業中ですら「この授業の内容、スリザリンの仕掛けに役に立つかな」と考えている。

 でも仕方ない。気になった本を放置するなんてできるわけがない。

 嫌なことに、授業中に当てられるとそれなりに答えられてしまうから、自分でも「まだ大丈夫かも」と思ってしまう。人間、少しできると反省が遅れる。わたしは本に関してそれが顕著だ。

 ドラコに言わせれば「顕著どころか末期」らしい。

 

 夕食の席で、マルフォイ家の紋章入りの手紙が届いた。

 見ただけで「軽いお小言では済みません」と書いてあるような格式の高さだった。

 父からだ。

 嫌な予感しかしない。

 封を切った。一行目で背筋が凍った。

 

『ローゼマイン。フェルディナンドから、図書室の前で失神したと聞いた』

 

 フェルディナンド先輩─────!!!! 

 報告したの!? 

 裏切りだ。いや、裏切りじゃない。もともと味方じゃなかった。フェルディナンドは誰の味方でもない。強いて言えば事実の味方だ。事実を淡々と報告する人間だ。最悪に信頼できる。信頼できるからこそ最悪だ。

 

『ドラコからは、本ばかり読んで健康を疎かにし、授業の勉強をしている気配もないと報告を受けている』

 

 お兄さままで! 

 共謀だ。父とフェルディナンドとドラコの三者共謀だ。マルフォイ家とブラック家の連合軍がわたしに向かって結成されている。

 

『手紙も本の感想文ばかりでお前が元気に本へ埋もれていることは理解した。しかし、ホグワーツは読書のためだけの施設ではない。ちゃんと勉強するつもりはあるのか? もし次の成績で学年一位でなければ、以後、お前が趣味で読む本は一切禁止する。図書室の利用も、教科書と授業に必要な参考書以外は認めないよう学校側に相談する。脅しではない。通告だ。読書を続けたければ、結果を出せ』

 

 手紙を持つ指が震えた。

 本の禁止。教科書以外だめ。

 それはわたしにとって世界の八割が閉鎖されるのと同義だった。残り二割がぎりぎり食事と睡眠と魔法と呼吸。呼吸まで削られそうな勢いだ。

 横からドラコがそっと覗き込んで、内容を察した顔で肩をすくめた。

 

「父上、やったな」

「お兄さま、何か報告した?」

「した」

「ひどい! 人でなし!」

「お前の健康のためだ!」

「本を禁止は重いよ……!」

「だったら生活を立て直せ」

「ひどい!」

 

 認めたくないが、認めざるを得ない。ここ数日、わたしの頭の大半は『純血一族一覧』とサラザール・スリザリンで占領されていた。小テストくらいはなんとかしても、学年一位を盤石に取るための積み上げとは言いがたい。

 その晩から、わたしの生活はさらに過酷になった。

 朝は授業の予習。休み時間は授業ノートの整理。昼食後は課題。夕食後に図書室でスリザリン関連の資料を読む。夜は翌日の復習。寝る前のわずかな時間だけ『純血一族一覧』を開く。

 読書量は減った。でも執念は減らなかった。むしろ濃縮された。

 限られた時間で読む本は、輝きが違う。ページを開くたびに「今この一秒が尊い」と思う。

 父はたぶん教育的指導のつもりだったんだろうけど、結果としてわたしの読書欲に薪をくべている。本を禁止すると脅されると、余計に読みたくなるんだよ。人間ってそういうものじゃない? 

 少なくともわたしはそう。

 だから『純血一族一覧』の違和感も、ますます見逃せなくなった。

 ブラック家。ノット家。マルフォイ家。レストレンジ家。

 血統を示す線は整然としているのに、一部の頁だけ妙に曲線が多い。飾り罫が蔦に見えて、よく見ると蛇の胴みたいでもある。名前の頭文字を指で追うと、どうにも規則性がある気がする。

 そこでわたしは思い出した。

 ロックハート先生にサインをもらった、閲覧禁止の棚を見るための許可証。あれが役に立つ時が来た。

 放課後、フェルディナンドと一緒に図書室に行った。もはや一緒に図書室に行くのが日課になっている。フェルディナンドは自分の研究資料を読み、わたしは自分の調べものをする。会話は最小限。でも隣にいると不思議と集中できる。この人の周囲には余計な音が寄りつかない。人間版の防音呪文だ。

 マダム・ピンスのカウンターに行って、許可証を差し出した。

 

「閲覧禁止の棚の利用許可証です」

 

 マダム・ピンスが許可証を手に取った。さらさらと書かれたロックハートの署名。

 マダム・ピンスの眉が上がった。

 フェルディナンドが後ろから覗き込む。

 

「……偽物か?」

「なんで疑うんですか!」

「ロックハート先生の署名入りでなければ、まだ信じた」

「本物ですよ! ダイアゴン横丁のサイン会で直接もらったんです!」

「本物だとしても、署名した人物の判断力に疑問がある」

「先輩、それロックハート先生への悪口ですよ」

 

 マダム・ピンスが許可証を裏返したり、光に透かしたりした。完全に偽造文書の検分だ。わたしが偽造したみたいな空気になっている。やろうと思えばできなくもないけど、今回はやっていない。

 

「彼女はスリザリン生で、監督生の私無しでは行かせられない。私は許可を出すべきではないと思う」

「監督生もそう言っていることですし、今回は認められません」

 

 マダム・ピンスが許可証を突き返してきた。

 

「そんなあ! これは本物です」

「閲覧禁止の棚で倒れても困りますからね。監督生が一緒に付き添うなら別ですが」

 

 フェルディナンドが許可証をもう一度手に取って、じっと見た。

 

「そもそも、閲覧禁止の棚に何を探しに来た」

 

 わたしは一瞬だけ黙った。正直に言えば、絶対止められる。でも黙っても顔に出る。わたしの顔は本に関することだけ正直だ。

 

「……ちょっと、スリザリン関係の資料を」

「却下だ」

「まだ理由言ってないですよ!」

「言わなくても分かる。ろくでもない」

「偏見!」

「経験則だ」

 

 フェルディナンドはきっぱり言い切った。「経験則」の三文字で会話を終わらせる手腕がすごい。

 

「出直せ。正式な許可を、権限のある教授から取れ」

「ロックハート先生は闇の魔術に対する防衛術の教授ですよ!」

「本物の教授から取れ」

「ロックハート先生、教授なのに教授としてカウントされてない!」

「そういう人もいる」

 

 普通はない。教授が教授扱いされないなんてあり得ない。

 

「スネイプ先生に頼めばいいのでは?」

 

 アストリアが後ろから提案してきた。いつの間にか来ていた。図書室にわたしがいる日はアストリアもだいたいいる。

 

「スネイプ先生は忙しいから迷惑かけたくない」

「図書室の前で失神する方が迷惑では?」

「正論で殴らないで」

「正論しか持ち合わせがありません」

 

 結局、閲覧禁止の棚には入れてもらえなかった。

 許可証は返された。ただし「念のため写しを取る」とフェルディナンドに言われた。なんで。犯罪文書扱いなのか。わたしの許可証は押収物件ではない。

 図書室から出たわたしは、紙を握りしめながら小さくうめいた。トムに報告する。

 

『入れなかったのかい?』

 

 トムは明らかに面白がっていた。

 

『フェルディナンド先輩に許可証を偽物扱いされた。マダム・ピンスにも門前払いされた』

『それで諦めるのかい?』

『諦めるわけないよ』

 

 今あるだけの情報でどうにかするしかない。

 スリザリン関連の伝承にはやたらと蛇が出てくる。蛇の紋章。蛇と語った創設者。秘密の部屋に眠るとされる怪物。スリザリンの継承者。純血。言葉。

 言葉? 

 そこで頭の中で何かが引っかかった。

 普通の呪文なら、書物の仕掛けは杖か呪文式で開くことが多い。でもこの本は違う。線そのものに、名前の並びそのものに意味がある。蛇のモチーフがつながっている箇所を遡ると、サラザール・スリザリンに繋がる。

 さらに、ある古い資料の隅にこんな一文があった。

 ——サラザールは己が血を継ぐ者に、文字ではなく声で道を残した。

 わたしはその一文を三回読んだ。四回読んだ。五回読んで、机に突っ伏した。

 

「声?」

 

 文字ではなく、声。

 サラザール・スリザリンはパーセルタングを話すとされている。

 そこでようやく、答えが一本の線でつながった。

 

『もしかして、蛇語?』

『どうしてそう思った?』

 

 その訊き方で、当たりだと分かる。

 

『資料に書いてあったの。スリザリンの秘密は、文字じゃなくて声で継がれることがあるって。蛇の伝承も多すぎるし、この本の線も蛇に見えるし、継承者が開く仕掛けなら蛇語が鍵でもおかしくない』

 

 少しの沈黙のあと、トムが返した。

 

『正解だ』

『やっぱり!』

『だが正解を知ることと、実行できることは別の問題だよ。君、蛇語は話せるのかい?』

『…………これから勉強する』

『正気か、君は』

『本のためなら、だいたい正気じゃないよ』

『そうだった。君はそういう魔女だったね』

 

 そこからのわたしは、前にも増して忙しかった。もう忙しいというより、半分くらい執念で動いていた。

 成績一位を取るために授業の勉強をする。その合間に蛇に関する伝承、魔法生物学、古代語の発音変化、呪文学の音声理論まで手を広げた。

 

「なんで蛇語の本がこんなに少ないの……!」

 

 図書室で小さく嘆くと、フェルディナンドが冷たい目でわたしを見下ろしてきた。

 

「君はなぜ蛇語を?」

「蛇と話してみたくて」

「嘘をつくならもう少し上手くつけ」

「嘘じゃないです。蛇と話したいのは本当なんです。蛇と話すと本の仕掛けが——あ」

「何の本だ」

「……何でもないです」

「今、口が滑っただろう」

「滑ってません。舌が散歩しただけです」

「舌は散歩しない」

 

 フェルディナンドの追及が鋭い。この人に嘘をつくのは不可能に近い。嘘をつく前に見抜かれる。予知能力があるのではないか。

 

「先輩、追及しないでください。これはわたしの研究です」

「研究と呼べる段階ではないだろう。資料の寄せ集めだ」

「寄せ集めから始めるのが研究の第一歩では?」

「……否定はしない。だが体を壊すな。ルシウスさんに報告する手間が増える」

「報告しなければ手間はゼロですよ」

「報告しないという選択肢はない。気をつけて見張るように言われてる」

「またそれだ!」

 

 フェルディナンドとの会話は常に堂々巡りだ。この人の辞書に「見て見ぬふり」は載っていない。

 資料は少ない。断片ばかり。理屈は少し分かる。でも音が分からない。

 どう発音するのか。どこで息を擦らせるのか。喉なのか、舌なのか、歯の裏なのか。

 書物だけでは限界があった。

 蛇語の教材がないのだ。当たり前だ。需要がない。蛇を飼うしかないのかもしれない。

 深夜、談話室の暖炉の前で「よく分かる蛇語」を膝に置いてうなっていると、日記のページがひとりでに捲くられてトムの文字が出現した。

 

『行き詰まったかい?』

『かなり』

 

 認めるのは悔しかったけど、事実なので仕方ない。

 

『理論はある程度分かる。でも実際の音が合っているか分からないの。資料が少なすぎるし、書き方も不親切だし、みんな当たり前みたいに「蛇のように発音する」って書くけど、蛇になったことないんだから分かるわけないでしょ。「鳥のように歌え」って書いてある歌の教科書と同じくらい不親切だよ』

『面白い比喩だな』

『面白くない。困ってるの』

 

 トムはしばらく黙っていた。考えているのか楽しんでいるのか読めない。

 

『見せてあげようか』

 

 見せる? 

 

『何を?』

『僕の日記は、ただの紙の束じゃない。君も知っているだろう?』

 

 知っている。嫌というほど知っている。この日記は書かれた文字だけじゃなく、持ち主の記憶まで抱え込んでいる。

 

『音が必要なら、文字では足りない。だったら記憶を見るのが一番早い』

『見たい』

 

 返事をした瞬間、ページの文字がふっと滲んだ。暖炉の火が遠のく。床が揺れる。視界がインクみたいに溶けて、次の瞬間には、まったく別の場所に立っていた。

 ホグワーツのスリザリン寮だ。

 でも今のわたしが知っているホグワーツより少しだけ古い。少しだけ静かで、少しだけよそよそしい。

 スリザリン寮の部屋で少年がベッドに座っている。

 黒髪で、整った横顔。年若いのに、妙に完成された雰囲気。世界を値踏みしているような目をしている。

 トム・リドルだとすぐにわたしはきづいた。

 

 フェルディナンドとは方向性が違うけれど、女子生徒がそわそわしそうな顔だ。トムはこんな顔だったのか。

 トムの前には小さな蛇がいた。どこから入り込んだのか分からない、細い緑色の蛇。ベッドの上で鎌首をもたげ、しゅるりと舌を動かしている。

 トムが口を開いた。

 空気が擦れるような、湿った音。喉の奥で息が裂けて、細く長く伸びていく。子音が骨みたいに固いのに、その間をぬめるような母音がすり抜ける。

 蛇が応じた。

 ——会話してる。本当に会話してる。

 

「今なんて言ったの? もう一回」

 

 思わず言っていた。自分でも驚くほど即座に。

 記憶の中なのに、声が響いた。トムだ。

 

「授業を受ける生徒の第一声としては、なかなか図太いね」

「だって今の、ちゃんと聞き取れなかった。もう一回。巻き戻して」

「一回で聞き取れると思ったのかい?」

「思ってない。だからもう一回。三回くらい。できれば五回」

「欲張りだな」

「本のためだもん」

 

 トムが小さく笑った。場面が巻き戻るみたいに揺れて、少年トムがもう一度蛇に話しかける。

 わたしは必死で耳を澄ませた。

 

「……違う、今の最初の音、巻き舌じゃない」

 

 そこから、わたしの奇妙な授業が始まった。

 トムは日記の記憶を何度も見せた。廊下で。人気のない教室で。薄暗い温室の隅で。少年トムが色々な場所で蛇に話しかける場面を、断片的に、でも執拗に。

 わたしはそれを貪るように見て、本と照らし合わせて内容を推測する。

 

「今の単語、さっきと同じ?」

『似ているが違う』

「語尾が変わった?」

『よく気づいたね』

「じゃあ命令形と呼びかけ?」

『筋はいい』

 

 その言い方が腹立つ。でも腹が立つと同時に嬉しいのも事実だ。分かることが増えるのは楽しい。

 ただし、トムは決して優しくなかった。

 

「ス、シュ……シィ……」

『違う』

「じゃあ、スス、サァ、シュウ……」

『下手だな』

「知ってるよ!」

『知っていて改善しないのは感心しない』

「先生みたいなこと言わないで」

『先生よりは有能だと思うけれど』

「否定できないのが嫌」

 

 授業としては最悪に近い。褒めない。容赦しない。間違えたら即座に指摘する。改善しなければ呆れた沈黙を返す。

 でも教材としては最高だった。なにしろ実地映像つきだ。体験型参考書だ。

 

『ねえ、君は純血についてどう思う?』

 

 ある日、唐突に日記にそう浮かんだ瞬間、わたしは顔をしかめた。

 

『急に何?』

『そのままの意味だよ。純血の血統。混ざらないことの価値。魔法族としての誇り。君は、それをどう考える?』

 

 罠みたいな質問だな、と思った。 トムは自分の中で明確な正解を持っていて、それ以外の答えを望んでいないように気がする。それでもわたしは本音で話したい。

 

『記録としては面白いよ』

『記録として?』

『家同士の繋がりとか、どこで枝分かれしたかとか、誰がどこに嫁いだかとか。そういうのは面白い。本としては』

 

 少し間があった。

 

『思想としては?』

『別に』

 

 即答すると、日記の文字が一瞬止まった。

 

『君はマルフォイだろう?』

『そうだよ』

『なら純血の価値も理解しているはずだ』

『血そのものに価値があるかは知らない。でも蔵書を守ってきた家には価値があると思う』

『……蔵書?』

『だって、本を大事にしてきたってことでしょ』

 

 わたしは本気でそう思った。古い家系に価値があるとしたら、それは血が古いからじゃない。古い記録や本や知識が残っている可能性が高いからだ。

 

『逆に、純血でも本に書き込みする人は嫌』

『書き込み?』  

『角を折るのも嫌。ページを開きっぱなしで伏せるのも嫌。食べかすを落とすのも論外。血統が立派でも本の扱いが悪かったら評価は下がる』

『君の基準は奇妙だな』

『奇妙じゃないよ。すごくまっとうだよ』

 

 日記は少し黙ったあと、また文字を浮かべた。

 

『では、マグル生まれでも本を敬う者なら?』

『好き』

『半純血でも?』

『好き』

『純血でも本を粗末にする者なら?』

『嫌い』

『徹底しているね』

『本は大事にされるべきだからね』

 

 そこで、わたしは少しだけ考えてから、付け足した。

 

『人間の価値なんて血で先に決めたら、読む意味が減るでしょ』

 日記の文字が止まる。

 

『読む意味?』

『そう。本も人も、表紙だけで決めつけるのはつまらない』

 

 しばらくして、ようやく返事が来た。

 

『君は面白い』

 

 

 「純血一族一覧」に対して覚えたての蛇語をいくつか試した。挨拶では開かなかった。

 

『開け』

 

 飾り罫がぞわりと動く。

 蔦に見えていた線が、するするとほどけ、細い蛇の群れみたいに頁の上を這い始めた。

 家系図の線が絡まり、ほどけ、中央に集まり、もともとなかった綴じ目が浮かび上がる。

 紙が一枚、ひとりでにめくれた。

 

「……開いた」

 

 そこには、今まで存在しなかった隠し頁があった。

 黄ばんだ紙の中央に、細く整った文字がゆっくりと浮かび上がっていく。

 ──スリザリンの継承者へ。

 その筆跡を見た瞬間、背筋が冷えた。

 知っている字だった。毎晩、日記帳の頁で見ている。整いすぎていて、気取っていて、腹が立つくらい見覚えのある字。

 

「トム、これ……」

『読んでごらん』

 

 わたしは喉を鳴らして、頁を追った。

 

 スリザリンの継承者へ。この頁を開いたのなら、君は凡愚ではない。血を誇るだけの者に、この頁は決して開けない。門は名ではなく、知と声に応える。ゆえに、君は選ばれた。あるいは、自ら選び取った。私は君に、サラザール・スリザリンの秘密の部屋への道を示そう。

 城の奥底、古い水場を探せ。娘たちの涙と、水音の絶えぬ場所。そこに蛇の印がある。杖ではなく、古き言葉で命じよ。開け、と。門は資格ある者にのみ開く。見つけ、解き、開いた者だけが、継承者を名乗るに値する。もし君がそこまで辿り着いたなら、認めよう。君は、私の後に続くに足る者だと。

──スリザリンの継承者より

 

 読み終えた瞬間、ぞくりとした。

 最後の一文が、嫌に静かで、嫌に傲慢で、そして嫌になるほどトムらしかった。

 

『トム、これってどういうこと?』

 

 少しの間をおいて、日記に文字が浮かぶ。

 

『書いてある通りだよ』

『わたしは継承者なんかじゃない』

『そうかな』

『そうだよ。わたしはただ、この本の仕掛けを解きたかっただけ』

『だが、解いた』

 

 さらりと返されて、言葉が詰まる。

 

『血を誇るだけの者には、この頁は開けない。君は読み、考え、声を覚え、門を開いた。少なくとも、本は君を拒まなかった』

 

 その言い方が癪だった。

 選ばれた、みたいに言う。

 わたしは自分で見つけて、自分で調べて、自分でこじ開けたのだ。

 

『君は肩書きに興味がない。分かっている。でも、サラザール・スリザリンが、蛇語でしか開けられない秘密の先に何を残したかには興味があるだろう?』

 

 その一文に、ぴたりと手が止まった。

 

『秘密の部屋は、ただの空洞だと思うかい? 創設者が自分の継承者のために、何も遺さなかったと?』

 

 心臓がどくんと鳴る。

 

『古い知識。記録。継承者だけが触れられるもの。そういうものが、まったくないと本気で思うのなら——』

『……思わない』

『そうだろうね』

 

 視線はもう、頁の文面に戻っていた。

 

 秘密の部屋。

 どう考えても、ろくでもない。

 ドラコやフェルディナンドに知られたら怒られる。父に知られたら読書禁止どころでは済まない。

 でも。

 本が、続きを寄越してきたのだ。

 その事実の前では、継承者なんて肩書きはどうでもよかった。

 大事なのはただ一つ。

 まだ読んでいない秘密が、ホグワーツのどこかでわたしを待っているということだけだ。

 わたしは隠し頁を抱きしめた。

 

「……絶対に見つける」

 

 日記帳の奥で、トムが静かに笑った気がした。

 

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