本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:パラプリュイ

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 ロメルダ視点。ギャル強めです。


89話 マグノリアの令嬢は名乗らない

 

 アンブリッジ先生の演説を聞きながら、あたしはかなり失礼なことを考えていた。

 

 この先生、恋愛してるところが全然想像できない。

 

 ピンクのカーディガン。ピンクのリボン。ピンクの笑顔。声まで砂糖菓子みたいに甘いのに、恋の匂いがしない。

 

 たぶん恋文をもらったら、まず差出人の家柄を確認する。デートに誘われたら「適切な手続きを踏んでいただけるかしら」と言う。手をつなぐ前に許可証がいる。キスしたら教育令が三つ増える。

 

 ドローレス・アンブリッジ。

 

 アンブリッジ。

 

 アンブリ。

 

 アンブリっち。

 

 あ、決まった。

 

 絶対本人にはまだ言わない。命が惜しい。でも、あたしの中ではもうアンブリっちだった。ピンクだし。丸いし。響きだけならちょっと可愛い。中身が可愛いかどうかは、かなり長めの審議になる。

 

 アンブリっちの演説は長かった。

 

 長いだけならいい。問題は、途中から全部「大人しくしなさい」に聞こえてくるところだった。

 

 はいはい、わかった。杖は振るな。本は読め。先生の言うことを聞け。魔法省は正しい。だいたいそういう話だ。

 

 あたしは黙って聞いた。

 

 こういうとき、顔に出す子は負ける。アンブリっちは絶対に見る。誰が退屈しているか、誰が反抗的か、誰が鼻で笑ったか。ピンクの笑顔で全部数えているタイプだ。

 

 恋愛小説で学んだこと、その一。

 

 笑顔は武器。

 

 ただし、相手によっては凶器として押収される。

 

 だから、口角だけ上げておいた。感じよく。生意気にならない程度に。ちょっと上品に。

 

 実際に始まった闇の魔術に対する防衛術の授業は、みんなの期待をきれいに裏切った。

 

 いや、あたしはそこまで期待してなかったけど。

 

 演説の時点で、もう「今年は何もさせません」って顔に書いてあったし。実技なし。杖をしまえ。教科書を開け。理論を学べ。危険な魔法を未熟な生徒に扱わせる必要はありません。

 

 うん。知ってた。

 

 ただ、教室の空気は面白かった。

 

 アンブリっちが教壇に立つ。その横に、補助教員としてトム様が立つ。

 

 その瞬間、みんなの集中力が二つに割れた。

 

 アンブリっちの話を聞いているふりをしながら、どうやってトム様に声をかけるか考えている子が多すぎる。質問するために羽根ペンを構える子。教科書のページをわざと間違える子。インク瓶を落としかけて「すみません」と言う練習をしている子までいた。

 

 わかる。

 

 めちゃくちゃわかる。

 

 だってトム様、今日も顔がいい。

 

 顔がいいだけじゃなくて、立っているだけで「この人は自分の人生を全部ちゃんと支配しています」みたいな空気がある。ずるい。こっちは朝、前髪が決まらないだけで一日終わるのに。

 

 授業が終わる頃には、教室中が「期待外れ」と「トム様に話しかけたい」でぐちゃぐちゃだった。

 

 あたしも席を立ちながら、ちょっと迷った。

 

 アンブリっち、絶対やばい。

 

 あの先生に目をつけられたら面倒くさい。ロメルダ・ベインという名前は、ただでさえ目立つ。羽ペン通信で『恋の脚注』を書いているのが有名になってきているからだ。グリフィンドールで浮くほどではないけど、静かにしているタイプでもない。

 

 つまり、狙われたら終わる。

 

 どうすればいい? 

 

 大人しくする? 無理。

 

 授業で寝ない? 努力はする。

 

 廊下に出たところで、背後から声がした。

 

「ロメルダ」

 

 振り向いた瞬間、心臓が変なところに落ちた。

 

 トム様だった。

 

 はい、今日のあたし、勝ちました。

 

「何か悩んでいるなら相談に乗るよ」

 

 え。

 

 見てたの? 

 

 あんなにみんながトム様を見ていたのに、トム様はあたしが悩んでるのに気づいたの? 

 

 優しい。

 

 いや、鋭い。

 

 いや、優しいし鋭い。

 

 どっちもある。危険。心臓に悪い。

 

「アンブリッジ先生に目をつけられないようにするには、どうしたらいいかなって」

 

 トム様は少しだけ目を細めた。

 

「目をつけられたくないだけなら、大人しくして、適度に媚を売ればいいんじゃないかな」

 

 言い方。

 

 でも正しい。

 

「ただし、それだと相手の機嫌に振り回されることになるけどね」

 

「じゃあ、どうすればいいんですか?」

 

「仲良くなればいい」

 

 あたしはまばたきした。

 

「仲良く?」

 

「教師が敵になると厄介だけど、味方になると便利だ。特に、規則を好む教師ほど、自分の側にいる生徒には甘い」

 

 トム様は、さらっと恐ろしいことを言った。

 

 でも、あたしは感心してしまった。

 やっぱりトム様は鋭い。

 

 アンブリっちは、生徒を平等に見る先生じゃない。お気に入りと、それ以外に分ける。絶対そういうタイプだ。だったら、逃げ回るより近づいたほうがいい。

 

 問題は、近づき方だけ。

 だからといって、いきなりアンブリっちに突撃するほど、あたしは雑じゃない。

 

 恋愛は情報戦である。

 

 これは『恋の脚注』を書き始めてから、骨身にしみて学んだ。相手と仲良くなりたいなら、まず相手の好きなものを知る。

 好きな飲み物。

 好きな色。

 好きな動物。

 嫌いな話題。

 踏むと怒る地雷。

 褒めると顔がゆるむ場所。

 

 つまり、取材である。

 

 というわけで、あたしは図書室に向かった。

 

 目的はアンブリっち調査だ。

 新聞の束を引っぱり出して、魔法省関連の記事をめくる。ドローレス・アンブリッジ。魔法省高官。教育に関する発言。規律。秩序。適切な管理。

 

 うん、そこはもう知ってる。知りすぎて胸焼けしてる。

 でも、記事というものは、本人が言いたいこと以外もこぼす。

 

 写真に映り込んだティーカップ。

 

 胸元のブローチ。

 

 執務室の壁紙。

 

 記者が何気なく書いた「猫の皿に似た飾り皿」。

 

 はい、来た。

 

 あたしは羽根ペンを走らせた。

 

 アンブリっち、猫派。

 

 しかも、ただの猫派じゃない。猫を「可愛いもの」として見るタイプ。たぶん毛並みがきれいで、丸くて、鳴き声が高いやつが好き。ハグリッド先生が連れてきそうな猫は無理。巨大とか、牙とか、そういうのは駄目。アンブリっちの猫は、皿の上に描かれている必要がある。

 

 次。

 

 ピンク。

 

 これは調べるまでもないけど、念のため確認した。記事の写真、全部どこかしらピンク。リボン。カーディガン。小物。インクの色まで怪しい。好きというより、もはや陣地。ここはピンクの支配地域です、という主張を感じる。

 

 そして紅茶派。

 

 写真に映るカップ。会議後のコメントで「お茶の時間を大切に」。別の記事では、記者に出された飲み物が紅茶だったとある。

 

 あたしは羊皮紙にまとめた。

 

 猫派。

 ピンク大好き。

 紅茶派。

 

 情報としては可愛い。でも、本人は手厳しそうだ。

 この先生に効く誘い方は、たぶん「楽しいことがあります」じゃない。楽しそうなものを嫌いそうな顔をしている人だから。

 

 でも、「生徒の活動を見ていただきたいです」なら来るかもしれない。「教育的に適切かどうか、先生の目で確かめてほしいです」なら、もっと来るかもしれない。

 

 つまり、招待状の形をした監視許可証。

 

 我ながら、性格が悪い。

 

 でも相手はアンブリっちである。正面から「遊びに来てください」は通じない。通じたとしても、ピンクの笑顔で教育令にされる。こっちも作戦を立てないと死ぬ。

 

 授業後、あたしは教室に残った。

 

「あの、アンブリッジ先生」

 

 声をかけると、先生はゆっくり顔を上げた。

 

「まあ。ベインさん。何かしら?」

 

 甘い声だった。

 ただし中に針が入っているタイプ。

 

「あの、先生のブローチ、すごく可愛いですね。猫ちゃんですよね?」

 

 アンブリっちの目が、ほんの少しだけ動いた。

 

 はい、当たり。

 

 雑な褒め言葉じゃ駄目だ。ピンクが似合います、だけでは弱い。猫のブローチ。そこまで見る。恋愛相談でも同じ。「可愛い」だけじゃなくて、「そのリボン、髪型に合ってる」が強い。

 

「ええ。よく気づきましたね」

 

「丸い感じが上品で、先生の雰囲気に合ってます」

 

 これは半分本当で、半分技術だった。

 

 丸いのは本当。

 

 上品かどうかは、あたしの中でまだ審議中。

 

「あなたのような生徒にも、細やかなものを見る目があるのね」

 

 うわ。

 今、けっこう失礼だったよね? 

 

 でも、あたしは笑った。ここでムッとしたら負け。相手が上から来るときは、上に立ちたい理由がある。だったら、とりあえず踏み台を用意してあげる。恋愛でも取材でも、相手が気持ちよくしゃべり始めたら勝ちである。

 

「ありがとうございます。実は、先生にご相談があって」

 

「相談?」

 

 アンブリっちの声が、少し甘くなった。

 

 やっぱり。

 

 この先生は、相談されるのが好きなタイプだ。助けたいからじゃない。正しく導きたいから。そこを間違えると危ない。

 

「魔法書研究会で、ビブリオバトルをするんです」

 

「びぶりお、ばとる?」

 

 アンブリっちは甘い声で繰り返した。

 

 可愛い響きのはずなのに、アンブリっちが口にした瞬間、校則違反みたいに聞こえた。怖い。言葉って、持つ人によって武器になるんだ。

 

「はい。本を紹介し合う会で……」

 

「“バトル”という言葉は、教育の場にふさわしいのかしら」

 

 そこ? 

 

 そこから? 

 

「もちろん、実際に戦うわけじゃありません。発表会に近いです」

 

「では、読書発表会と呼べばよろしいのではなくて?」

 

 改名された。

 

 開始三十秒でイベント名が死んだ。

 アンブリっち、強い。

 

「その集まりは、学校の許可を得ているのかしら?」

 

「もちろんです。羽ペン通信を運営している魔法書研究会の活動です。図書室で、騒がしくならないようにします」

 

 アンブリっちも羽ペン通信のことは知っているから、興味を持つかもしれない。

 期待を持ちながら、「羽ペン通信を運営する」と強調した。

 

「参加者は?」

 

「何人かです。各寮から」

 

「紹介される本の一覧は?」

 

 来た。

 

 完全に監査だ。

 

 あたしは内心で、ちょっとだけトム様に文句を言った。仲良くなれば教師が味方になるって言ってましたよね。これ、味方というより査察官ですけど。ピンクの査察官ですけど。

 

「一覧は、まだ全部は決まっていません。でも、先生に見ていただけたら安心かなって思って」

 

 アンブリっちの目が、少しだけ細くなった。

 

「まあ。わたくしに確認を求めるのね」

 

「はい。先生なら、どこが教育的に問題になるか、ちゃんと見てくださると思ったので」

 

 これは媚びである。

 でも、ただの媚びではない。

 

 相手がほしがっている椅子を差し出すタイプの媚びだ。座るかどうかは相手次第。でもアンブリっちは、こういう椅子が好きなはずだった。

 

「わたくしが必要と判断すれば、見に行きましょう」

 

 来るとは言ってない。

 でも、来ないとも言ってない。

 

 アンブリっちは招待を受けたんじゃない。監督権を手に入れたのだ。

 

 あたしは笑顔で頭を下げた。

 

「ありがとうございます、先生」

 

 教室を出た瞬間、足の力が少し抜けた。

 

 誘えた。

 いや、違う。

 

 あれは誘えたんじゃなくて、呼び込んだ。

 ピンクの査察官を図書室に。

 

 でも、ここまで来たら仕方ない。

 

 

 *

 

 

 アンブリっちは最後までいた。

 

 途中で止めなかった。

 

 教育令も出なかった。

 

 ビブリオバトルの名前も、その場では処刑されなかった。

 

 これは勝ちでは? 

 

 いや、そう思ったあたしが甘かった。

 

 会が終わって本を片づけていると、アンブリっちが近づいてきた。

 

「ベインさん」

 

「はい」

 

 あたしは背筋を伸ばした。

 

 反射である。

 

「あなたの紹介した本について、少し確認が必要です」

 

 来た。

 

 監査だ。

 

 やっぱり監査だ。

 

「『マグノリアの令嬢は名乗らない』ですね」

 

「はい」

 

「生徒に紹介する本として適切かどうか、内容を見なくてはなりません」

 

 あたしは本を胸に抱えたまま、にこっと笑った。

 

「もちろんです。お貸しします」

 

 アンブリっちは一瞬、目を細めた。

 

 生徒に本を借りるのは嫌なのかもしれない。でも、「確認が必要」と言ったのは先生のほうである。ここで引いたら、監査官としての筋が通らない。

 

 あたしは本を差し出した。

 

「読み終わったら、感想を聞かせてください」

 

「感想ではありません。確認です」

 

「はい。確認の結果を聞かせてください」

 

 言い換えた。

 

 偉い。

 あたし、今かなり偉い。

 

 アンブリっちは本を受け取った。表紙の猫に、ほんの一瞬だけ視線が落ちた。

 

 はい、見た。

 

 二回目。

 

「では、返していただくときに、お時間をいただいてもいいですか?」

 

「なぜかしら」

 

「先生がどこを不適切だと思ったか、ちゃんと聞きたいので。あたしも、下級生に本をすすめるときの参考にしたいです」

 

 これは半分本当。

 

 もう半分は口実。

 

 返却。

 

 確認結果。

 

 お茶。

 

 この三つをつなげれば、アンブリっちともう一度話せる。

 

 アンブリっちは、少し考えるように本の表紙を撫でた。

 

「……よろしいでしょう。明後日のお茶の時間にいらっしゃい」

 

 勝った。

 

 いや、勝ってない。

 

 お茶の時間という名の呼び出しである。

 

 でも、約束は取り付けた。

 

「ありがとうございます、先生」

 

 あたしは笑顔で頭を下げた。

 

 トム様が少し離れたところでこちらを見ていた。

 

 たぶん、気づいている。

 

 あたしが本を貸して、返してもらう口実で、お茶会を取り付けたことに。

 

 やばい。

 見られてた。

 恥ずかしい。

 

 でも、ちょっと嬉しい。

 

 次の次の日、あたしはアンブリっちの部屋に向かった。

 

 扉の前に立った瞬間、逃げたくなった。

 

 でも、逃げたら負けだ。恋愛も取材も読書会も、呼ばれたら行く。行って、座って、飲み物を受け取って、相手の第一声を聞く。怖いけど、そこからしか始まらない。

 

「失礼します」

 

 部屋に入った瞬間、あたしは理解した。

 

 アンブリっちは本気の猫派だった。

 

 壁に猫の皿。棚に猫の置物。ティーカップにも猫。こっちを見る猫。あっちを見る猫。たぶん夜中に全員で会議している。部屋全体が「可愛いでしょう?」と圧をかけてくる。

 

 あと、ピンク。

 

 すごいピンク。

 

 ピンクの壁紙、ピンクのクロス、ピンクの花。ここまでくると色というより思想である。

 

「お座りなさい、ベインさん」

 

「失礼します」

 

 あたしは椅子に座った。背筋は伸ばした。足も揃えた。普段よりかなりちゃんとしている。恋愛小説の令嬢パートを読んでいてよかった。こういうとき、姿勢だけでも命綱になる。

 

 アンブリっちは紅茶を注いだ。

 

 やっぱり紅茶派。

 

 しかも所作が妙に丁寧だった。こういうところは本当に上品に見える。見えるだけかもしれないけど、見えることは大事だ。恋愛小説でも社交界でも、見えるものが半分くらい勝つ。

 

 机の端に、『マグノリアの令嬢は名乗らない』が置かれていた。

 

 しおりが挟まっている。

 ちゃんと読んでる。

 

 あたしは紅茶を飲む前から、心の中で拍手した。

 

「この本についてですが」

 

「はい」

 

「文章は、思ったより落ち着いていますね。近ごろの若い生徒が好むものは、もっと騒々しいものかと思っていました」

 

 褒めた? 

 

 今、褒めた? 

 

 いや、油断するな。アンブリっちの褒め言葉は、たいてい後ろに罠がある。

 

「ただし、主人公が家名を名乗らないという点には、少々問題があります」

 

 来た。

 

 そこだよね。

 

「名家の責任というものを、若い読者が誤解する可能性があります。家名とは、ただ飾りのように掲げるものではありません。受け継がれる品位と義務を示すものです」

 

 アンブリっちは、そこで少し背筋を伸ばした。

 

 来る。

 この顔は、来る。

 

「わたくしも、セルウィン家の血を引く者として、そうした責任については幼いころからよく理解しています」

 

 アンブリっちは、さりげなく言ったつもりなのかもしれない。でも、声の端が少しだけ上がっていた。誇らしげ、というより、見て、ここを見て、と言っている感じ。

 

「セルウィン家は古くから魔法界に知られた家です。もちろん、血筋をひけらかすようなことは好みませんが」

 

 いや、今してる。

 めちゃくちゃしてる。

 

「大切なのは、血にふさわしい振る舞いです。正しい教育、正しい礼儀、正しい立場。それらを軽んじる者が増えているのは、まことに嘆かわしいことです」

 

「へえ」

 

 あたしは言った。

 

 しまった。

 かなり興味なさそうな声が出た。

 

 だって、正直、セルウィン家がどれくらい偉いのか、あたしにはよくわからない。すごいんだろうな、とは思う。でも、恋愛相談で「彼の家がすごいんです」と言われたときくらいの温度である。

 

 で? 

 

 あなたは何が好きなの? 

 

 そこが知りたい。

 

 アンブリっちは、あたしの反応が思ったより薄かったのか、少しだけ目を細めた。

 

「あなたは、名家に関心がないのかしら」

 

「ないわけじゃないです」

 

 嘘ではない。

 でも、強い関心はない。

 

「ただ、あたしが気になるのは、先生が何を好きなのかです」

 

 アンブリっちは黙った。

 

 紅茶の湯気がふわっと上がった。

 

「……何を?」

 

「はい。セルウィン家がすごいのはわかりました。でも、先生が好きなのは何ですか?」

 

「質問の意味がよくわかりませんね」

 

「猫とか、紅茶とか、ピンクとか」

 

 アンブリっちの指が止まった。

 

 当たり。

 

 いや、当たりというか、部屋を見れば誰でもわかる。でも、こういうのは言葉にするのが大事である。

 

「先生、猫がお好きですよね。このカップも可愛いです。あと、紅茶もすごく美味しいです」

 

 アンブリっちは、ほんの少しだけ目を伏せた。

 

「……当然です。お茶を雑に扱うのは、感心しません」

 

「ですよね。先生の紅茶、ちゃんとしてます」

 

「ちゃんと、とは」

 

「香りがいいです。苦すぎないし、薄くもないし。あと、カップが可愛い」

 

 アンブリっちは何か言いかけて、やめた。

 

 たぶん、褒められ慣れていない場所を褒められたのだ。

 

 血筋ではなく。

 肩書きではなく。

 魔法省の役職でもなく。

 

 好きで選んだカップとか、丁寧に淹れた紅茶とか、そういうもの。

 

「あなたは」

 

 アンブリっちは言った。

 

「ずいぶんと、細かいところを見るのね」

 

「恋の脚注を書いてるので」

 

「また、その軽薄な連載ですか」

 

「軽く見えるようにはしてます」

 

 あたしは紅茶を一口飲んだ。

 

 腹立つくらい美味しい。

 

「そのほうが、相談しやすい子もいるので」

 

 アンブリっちの目が、少しだけ動いた。

 

「軽く見えるものが、必ずしも軽いとは限らないってことです。恋愛小説も、たぶんそうです」

 

「あなたは、あの本をそう読んだのですね」

 

「はい」

 

「あの主人公は、家名を名乗らないことで、周囲を試しているようにも見えます」

 

「そうかもしれません」

 

「正直とは言えません」

 

「でも、家名で態度を変える人も正直じゃないですよね」

 

 言った瞬間、少しだけ部屋が静かになった。

 

 やばい。

 今のは、ちょっと刺した。

 

 アンブリっちは、カップを置いた。

 

「あなたは、家名を軽んじているのですか」

 

「違います。家名より、何が好きかのほうが、その人のことがわかる気がするだけです」

 

 あたしは、部屋を見回した。

 

 猫の皿。

 

 ピンクの花。

 

 丁寧に畳まれたナプキン。

 

 きちんと温められたポット。

 

「先生は、ちゃんと可愛いものが好きなんですよね」

 

「可愛いもの」

 

 アンブリっちは、まるで授業で禁止語を聞いたみたいに繰り返した。

 

「はい。可愛いもの。上品なもの。整ってるもの。紅茶の時間をきれいにすること。猫の絵を飾ること。ピンクで揃えること」

 

「それが何か」

 

「それ、先生が選んだものじゃないですか」

 

 あたしは言った。

 

「セルウィン家の血より、そっちのほうが先生っぽいです」

 

 猫の皿が全員こっちを見ている気がした。いや、皿は見ない。わかってる。でも見ている気がする。

 

「……ずいぶん失礼なことを言いますね」

 

「すみません」

 

「セルウィン家の名を、猫のカップと比べるとは」

 

「比べたつもりは」

 

「比べています」

 

「はい。比べました」

 

 素直に認めた。

 

 だって、比べた。

 

 アンブリっちは怒ると思った。

 でも、怒鳴らなかった。

 ただ、紅茶を一口飲んだ。

 

「あなたには、名家の重みがわからないのでしょう」

 

「たぶん、わかってないです」

 

「でしょうね」

 

「でも、認められたい気持ちは、ちょっとわかります」

 

 アンブリっちの手が止まった。

 

 あたしは、そこで止まればよかった。

 本当に、止まればよかった。

 

 でも、『マグノリアの令嬢は名乗らない』の表紙が机にあって、紅茶の香りがして、アンブリっちがピンクの部屋の真ん中で綺麗に背筋を伸ばしているのを見たら、どうしても思ってしまった。

 

 この人、好きなものがいっぱいある。

 

 猫も好き。ピンクも好き。紅茶も好き。可愛いものも、上品に見えるものも好き。

 

 なのに、好きって顔をする前に、正しさとか、秩序とか、血筋とか、そういう硬い箱にしまう。

 

 それから、もうひとつ。

 

 アンブリっちは、きっと白銀卿が好きだ。

 

 恋じゃない。

 たぶん、恋ではない。

 でも、好きだ。

 

 白銀卿のそばにあるものが好き。高貴さ。血筋。選ばれた魔法使い。誰かに見下されない場所。自分が正しいと証明してくれる何か。

 

「先生」

 

 あたしは言った。

 

「先生って、白銀卿が好きですよね」

 

 部屋の温度が一段下がった。

 

 気がした。

 

 アンブリっちは笑っていた。

 

 笑っていたけど、目は笑っていなかった。

 

「好き、という言葉は不適切ですね」

 

 はい。

 

 踏んだ。

 

 完全に踏んだ。

 

「すみません。恋愛的な意味じゃなくて」

 

「なおさら、不適切です」

 

「ですよね」

 

 あたしはすぐ謝った。

 

 でも、アンブリっちは席を立てとは言わなかった。

 

 怒っている。

 

 でも、聞いている。

 

 なら、まだ終わってない。

 

「憧れ、ですかね」

 

「ベインさん」

 

「はい」

 

「わたくしは、魔法界の秩序と伝統を重んじているだけです。特定の人物に軽々しく憧れているなどという表現は、慎むべきです」

 

「はい。軽かったです」

 

 あたしはうなずいた。

 

 そして、できるだけゆっくり言った。

 

「でも、先生が白銀卿を見るときって、ただ有名な人を見る感じじゃない気がします」

 

 アンブリっちは黙っていた。

 

「先生は、白銀卿に認められたいんじゃないですか」

 

 言った。

 

 言ってしまった。

 

 あたしの心臓は、もうドレスの裾を踏んで階段から落ちたみたいになっていた。

 

 アンブリっちは、ゆっくりカップを置いた。

 

「ずいぶんと、人の心を軽々しく語るのね」

 

「すみません」

 

「恋愛小説の読みすぎではなくて?」

 

「それは、あるかもしれません」

 

 これは本当なので否定できない。

 

「でも、恋愛小説って、好きな人の話だけじゃないんです。誰かに選ばれたいとか、ちゃんと見てほしいとか、馬鹿にされたくないとか、そういう話も多いんです」

 

 アンブリっちの指が、猫のカップの持ち手に触れた。

 

「先生が白銀卿を好きなのは、白銀卿が素敵だからだけじゃなくて」

 

 あたしは言葉を探した。

 

「白銀卿に認められたら、自分がちゃんとした人になれる気がするから、じゃないですか」

 

 アンブリっちは怒鳴らなかった。

 

 たぶん、当たった。

 当たったから、怒鳴らない。

 

 当たっていなければ、もっと簡単に笑い飛ばせる。

 

「あなたは」

 

 アンブリっちは、いつもより少し低い声で言った。

 

「自分が何を言っているのか、わかっているのかしら」

 

「たぶん、かなり失礼なことを言ってます」

 

「ええ。そうですね」

 

「でも、馬鹿にしてるわけじゃないです」

 

 そこだけは、ちゃんと言わなきゃいけないと思った。

 

「先生のこと、ちょっとわかる気がしたんです」

 

「あなたが?」

 

「はい。あたしが」

 

 アンブリっちの眉が、ほんの少し上がった。

 

 たぶん、「あなたごときが」と思っている顔だった。

 

 そこはもういい。

 あたしも、アンブリっちに似ていると言われたら泣くかもしれない。だからお互い様である。

 

「恋愛小説にハマる前のあたし、けっこうそうだったので」

 

 あたしはカップの中を見た。

 

「誰かに選ばれたいのに、選ばれなかったら嫌だから、先に相手を値踏みするんです。自分が傷つく前に、相手のほうを下に置く。好きって言う前に、理由をいっぱい並べる。ちゃんとしてるから、上品だから、正しいから、って」

 

 アンブリっちは何も言わなかった。

 

「でも本当は、ただ認めてほしいだけだったりします」

 

 あたしは笑った。

 

 ちょっとだけ。

 

「先生も、そうなのかなって思いました」

 

「……ずいぶん勝手な解釈ですね」

 

「はい。勝手です」

 

「そして、無礼です」

 

「はい。無礼です」

 

「自覚があるのなら、改めるべきですね」

 

「それは、努力します」

 

 アンブリっちは、あたしをじっと見ていた。

 

 甘い笑顔は戻っている。

 でも、さっきより薄い。

 

 ピンクの壁も、猫の皿も、紅茶の香りもあるのに、少しだけ何かがはがれた気がした。

 

「この本は」

 

 アンブリっちは、『マグノリアの令嬢は名乗らない』に指を置いた。

 

「まだ返せません」

 

「え」

 

「確認が終わっていません」

 

 あたしは一瞬、ぽかんとした。

 それから、笑いそうになった。

 

 まだ読むんだ。

 

 アンブリっち、まだ読むんだ。

 

「わかりました」

 

「勘違いしないように。教育上の確認です」

 

「はい」

 

「不適切な箇所がないか、慎重に見ています」

 

「はい」

 

「それから」

 

「はい」

 

「紅茶が飲みたくなる、というあなたの発言は、全面的に誤りとは言えません」

 

 あたしは今度こそ、笑いそうになった。

 でも我慢した。

 

 ここで笑ったら、たぶん本当に処刑される。

 

「ありがとうございます」

 

「褒めてはいません」

 

「はい」

 

 あたしはうなずいた。

 内心ではガッツポーズだった。

 

 アンブリっちが続きを読む。

 

 理由は監査でも確認でも教育上の必要でも何でもいい。読んでしまえば、こっちのものだ。

 

 恋愛小説は軽薄じゃない。

 甘いふりをして、いちばん痛いところに届く。

 

 アンブリっちは面倒くさい。

 かなり面倒くさい。

 

 でも、面倒くさい女の人ほど、刺さる本がある。

 

 目をつけられない方法を探していたはずなのに、完全に目をつけられた。

 

 でも、たぶんこれでいい。

 

 トム様は「仲良くなればいい」と簡単に言った。

 

 アンブリっちと仲良くなる道は、思ったよりずっと険しい。

 というか、入口に教育令が立っている。

 

 でも、その奥に紅茶と猫とピンクの部屋があるなら、まだ入れる。

 

 あたしは恋の脚注のロメルダ・ベインである。

 

 面倒くさい恋も、面倒くさい女の子も、面倒くさい先生も、入口を間違えなければ話は聞ける。

 

 たぶんね。

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