羽ペン通信に、妙な広告が載った。
いや、妙な広告はいつものことだ。双子の広告欄など、読むだけで健康に悪い。問題は、今回の広告が妙に真面目だったことである。
『防衛術の教科書だけでは不安な生徒へ。試験対策を兼ねた実技補習を行います。希望者は本日放課後、七階「バカのバーナバス」の絵の近くへ。合言葉は、必要なのは実技です』
最後の一文を読んだ瞬間、わたしは羽ペン通信を閉じた。
トムだ。
絶対にトムだ。
この、表面上は穏当で、よく読むとアンブリッジ先生の授業に肘鉄を入れている感じ。しかも「試験対策」という、教師も親も生徒も黙らせる魔法の言葉を添えている。犯人は一人しかいない。
放課後、七階の廊下には、半信半疑の生徒たちが集まっていた。
「本当にここなの?」
ジニーが壁を見た。
「壁だな」
ロンが言った。
「壁ね」
ハーマイオニーが言った。
壁の向かいには、例の絵がある。バーナバスさんは今日も元気におかしなことをしていた。あれを見るたびに、世の中には本にするべきことと、絵にして壁に飾るべきことと、そっとしておくべきことがあるなと思う。
パドマが小さく咳払いをした。
「合言葉、誰が言う?」
「マインでいいんじゃない?」とジニー。
「どうして?」
「一番言いそうだから」
わたしは壁の前に立って、できるだけ真面目な顔をした。
「必要なのは実技です」
次の瞬間、向かいの壁に扉が現れた。
廊下にいた全員が、きれいに黙った。
こういうとき、スリザリン生はまず周囲を見る。レイブンクロー生は仕組みを考える。グリフィンドール生は開けたがる。ハッフルパフ生は「先に先生を呼んだほうが」と言いかける。
そしてわたしは、本棚の気配を探した。
扉を開けると、中には巨大な大広間が広がっていた。
天井は高く、床は広く、壁一面に本棚が並んでいる。訓練用らしい的や、クッションの敷かれた一角、呪文の反射を防ぐらしい透明な壁まであった。
本棚だ。
本棚がある。
本棚がたくさんある。
わたしは本棚に向かって一歩踏み出した。
「マイン」
襟首をつかまれた。
振り向くと、トムが完璧な笑顔で立っていた。
「授業を始めるよ」
「一冊だけ」
「始めるよ」
「背表紙を見るだけ」
「始めるよ」
「分類番号を確認するだけでも」
「始めるよ」
わたしは大広間の真ん中へ戻された。納得はいっていない。本棚があるのに見てはいけないなんて、喉が渇いているときに湖があるのに水を飲むなと言われるようなものだ。
集まっていた生徒たちは、トムを見てざわついた。
防衛術の補助教員。ジェドゥソール先生。顔は優しい。声も優しい。笑顔も優しい。
でも、魔法書研究会の一部は知っている。
あの笑顔は、油断した相手をきれいに棚へ戻す笑顔である。
「今日は来てくれてありがとう」
トムは穏やかに言った。
「この課外授業は、あくまで教科書だけでは不安な生徒のための実技補習だ。ふくろう試験やNEWT試験にも対応する。授業で扱う理論を、実際に使える形にする。それだけだよ」
それだけ、の言い方がもうそれだけではない。
「まず、誰が来ているか把握したい。こちらに名前と学年、寮を書いて」
机の上に羊皮紙が置かれた。
わたしは苦笑した。
トムがただの出席簿を作るわけがない。絶対に何かやっている。名前を書いた瞬間、実技のことが話せなくなる呪いにかけられるとか、裏切ったらインクが紫色に光るとか、そういうやつだ。
わたしがじっと見ると、トムは片目をつぶった。
ウィンクだった。
何も説明していないのに、説明したつもりの顔だった。
「マイン、顔」
パドマに小声で注意された。
「今、すごく『この羊皮紙、合法?』って顔してる」
「合法かどうかで言うと、たぶん合法なんだよね」
「そこが一番怖いわね」
名前を書き終えたころ、ロンがハリーのほうを見た。
「ハリー、また痛むのか?」
ハリーは額に指を当てていた。しかも、やけに角度がついている。窓辺に立つ主人公みたいな角度だ。ここには窓がないのに。
「昔の傷さ」
ハリーは低く言った。
「英雄には、つきものだろう?」
ロンが沈黙した。
ハーマイオニーも沈黙した。
ジニーは顔をそむけた。肩が震えている。
わたしは思った。
痛むのは、たぶん額じゃない。
周囲で見ている人間の心だ。
授業が始まる前、トムは魔法書研究会のメンバーだけをちらりと見た。
ほんの一瞬だった。
でも、わたしたちはそれで十分だった。
事前に言われていたからである。
『課外授業中、僕が近くに来たら閉心術を使うこと』
言われたとき、ロンは「どのタイミングで閉心術をするものなんですか」と聞いた。
トムは微笑んだ。
『常時』
あのときの沈黙は、いま思い出しても重い。
寝るときは。ご飯のときは。チェスのときは。ロンがいくつか質問したけれど、返答はだいたい「できれば」だった。チェスのときだけ、トムは「相手によるね」と答えた。ロンはものすごく嫌そうな顔をした。
今日の課外授業では、閉心術の話は出ない。
一般参加者に聞かせる内容ではないからだ。
だからわたしたちは、表向きは普通に並びながら、内心ではそれぞれ必死に心の扉を閉めていた。
アストリアとパドマはすぐに成功した。
アストリアは澄ました顔で、するりと心の扉を閉める。パドマは考えごとを整理するみたいに、きれいに意識を畳む。レイブンクローとスリザリン、ずるい。向いている。
わたしはどうするか悩んだ末に、頭の中で『闇の魔術に対する防御術の理論と実践・改訂版』を開いた。
非常につまらない。
一ページ目からつまらない。文字が硬い。例文に愛がない。索引だけは少し許せるけど、本文が眠い。
トムが横を通った。
わたしは頭の中で、つまらない本をめくり続けた。
トムの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑った。
たぶん成功した。
つまらない本は、心を守る。
防衛術の教科書が、初めて役に立った瞬間だった。
一方、苦戦していたのはロンとジニーとアーニーだった。
ロンは顔に出る。ジニーは怒りが強い。アーニーは誠実すぎて、心の扉に「どうぞ」と書いてある感じだった。
トムが近づくたび、三人とも顔が引きつる。
「今、読まれた?」
「読まれてないと思いたい」
「僕は読まれた気がする」
「アーニーはたぶん、読まれる前から全部顔に書いてあるよ」
「マイン、それは慰めではない」
その後、いよいよ呪文の訓練に移った。
「今日は武装解除呪文と盾の呪文から始める。試験にも実戦にも使える。派手さはないが、基礎ほど命を救う」
トムが言うと、みんなの顔が少し引き締まった。
「二人一組になって。撃つ側と受ける側を交代する。ただし、最初は威力を絞ること。相手を倒す訓練ではなく、相手を見て、杖の動きに反応する訓練だ」
わたしは周りを見た。
ジニーはロンを捕まえた。ハーマイオニーはパドマと組んでいる。ドラコはなぜかアーニーと向かい合い、互いにものすごく礼儀正しく嫌そうな顔をしていた。
わたしの前に、セオドール・ノットが立った。
「僕でいい?」
「え、うん。いいけど」
セオドールはいつも通り静かだった。静かすぎて、部屋の温度を一度下げる。けれど視線は鋭い。人を見るというより、現象を観察している目だ。
「マインの魔力出力は、初動で跳ねる」
「いきなり嫌な分析をされた」
「予測だよ」
「予測も十分嫌だよ」
セオドールは少しだけ首を傾げた。
「撃つ前に、息を止める癖がある。止めると、魔力が詰まって一気に出る。だから暴発する」
「そうなの?」
「見ていればわかる」
見ないでほしい。
いや、見てもいいけど、そんなに正確に見ないでほしい。
わたしは杖を握った。
大丈夫。
今日は暴走しない。
ちゃんと唱える。
ちゃんと狙う。
ちゃんと止める。
「エクス──」
唱えようとした瞬間、わたしの周りに巨大なガラスの囲いが現れた。
透明な壁で、天井まである。
完全に展示物だった。
「……先生?」
「そのくらい必要かと思って」
トムがにこやかに言った。
「わたし、まだ呪文を撃ってないよ」
「だから間に合った」
あまりにもひどい。
周囲から妙に納得した空気が流れたのもひどい。
「マイン、頑張れ」
ジニーが言った。
「見世物みたいだけど」
「言わなくていいことを言ったね?」
セオドールはガラスの向こうに立ち、冷静に距離を測っていた。
「これなら安全だ」
「セオドールまで納得しないで」
「正直、安心している」
「正直すぎる」
ガラス越しに呪文を練習するのは、思ったより難しかった。けれどセオドールは真面目に付き合ってくれた。杖の角度、息の吐き方、魔力を一気に押し出そうとしないこと。
「本を読むときと同じでいい」
セオドールが言った。
「一冊を一度に読まない。行を追う。段落を切る。意味を取り違えない」
「急にわかりやすい」
「君には、本で説明したほうが早い」
その通りなので腹が立つ。
わたしは息を吸った。
止めない。
少し吐く。
一行ずつ。
呪文も、読書みたいに。
「エクスペリアームス」
杖先から赤い光が飛んだ。
的が軽く揺れた。
倒れなかった。
爆発もしなかった。
本棚も燃えなかった。
大成功である。
「今の見た?」
わたしは振り返った。
「見ていた」
セオドールが言った。
トムがこちらを見て、満足そうにうなずいた。
「いいね、マイン。今のは制御されていた」
「先生、ガラスは?」
「もう少しそのままで」
「信用がない」
「実績がある」
反論できなかった。
広間の反対側では、チョウとハリーがペアを組んでいた。
最初は普通だった。
チョウが盾の呪文を構え、ハリーが武装解除呪文を撃つ。光が走り、チョウの盾に弾かれる。動きはきれいだった。チョウはさすがに上級生で、杖の構えに無駄がない。
問題は、ハリーのほうだった。
「すごいね、チョウ」
ハリーは額に指を当て、少し斜めを向いた。
「君の盾は、まるで悲しみを閉じ込めた湖面のようだ」
チョウの盾が消えた。
わたしはガラスの中で、そっと目をそらした。
湖面は悪くない。悲しみも悪くない。けれど、防衛術の実技訓練中に言う言葉ではない。
「ハリー」
チョウの声は静かだった。
「真面目にやって」
「もちろん真面目だよ」
ハリーは微笑んだ。
「僕はいつだって、過去の傷と向き合っている」
「今、向き合うべきなのは私の盾の呪文でしょ」
「盾の向こうに、君がいる」
「そういうの、やめて」
空気が一段冷えた。
ロンがちらりとそちらを見た。ハーマイオニーも見た。ジニーは見ないふりをしていた。見ないふりがうますぎる。たぶん本気で見たくないのだ。
チョウは杖を下げなかった。
「あなた、前はそんな話し方しなかった」
「人は変わるものだよ、チョウ」
「変わるのと、別人みたいになるのは違う」
ハリーの笑みが、ほんの少し固まった。
その瞬間、わたしは背筋がぞわっとした。
これは防衛術の訓練ではない。
もっと面倒な、恋愛と記憶と本人確認の訓練である。
「君は、昔の僕を見ているんだね」
ハリーは低く言った。
「違うわ」
チョウは即答した。
「私は、今のあなたを見ようとしてる。でも、あなたがずっと物語の中にいるから、こっちを見てくれない」
「物語?」
「そうよ。英雄とか、古い傷とか、孤独な道とか。そういう言葉ばかり。私が話したいのは、そんな人じゃない」
ハリーは額を押さえた。
ロンが一歩動いた。
「ハリー、また痛むのか?」
ハリーは答えた。
「古い傷が、時々思い出させるんだ」
「何を?」
「僕が、普通の少年ではいられなかったことを」
「今それ言うところじゃないわよ!」
ハーマイオニーが小声で叫んだ。
小声なのに、ちゃんと怒っていた。
チョウは目を細めた。
「ほら、また」
「チョウ」
「私は、英雄と付き合いたかったんじゃない」
その言葉は、呪文よりはっきり飛んだ。
ハリーは黙った。
広間の音が、少し遠くなった気がした。的に呪文が当たる音も、誰かの笑い声も、急に背景になった。
「私は、ハリーと話したかったの」
チョウは続けた。
「戻ってきてくれて嬉しかった。でも、戻ってきたあなたは、私の知ってるハリーじゃなかった。心配しても、あなたは格好いい台詞で返す。怒っても、悲しんでも、全部そう。私、あなたの観客じゃない」
ハリーは肩をすくめた。
悪い癖だった。
格好よく見える角度を知っている肩のすくめ方だった。
「英雄のそばにいるのは、簡単じゃないからね」
チョウの顔から、迷いが消えた。
「あ、無理」
ものすごく短かった。
でも、ものすごく強かった。
「ごめん。私、あなたとはもう無理」
ハリーは一瞬だけ目を見開いた。
それから、また額に手を当てた。
「そうか」
声は低かった。
「選ばれた者は、いつも誰かを置いていく」
「最後までそれなのね」
チョウは杖を下ろした。
「さよなら、ハリー」
彼女はそのまま別のペアのほうへ歩いていった。背筋が伸びていた。泣いてはいなかった。少なくとも、ここでは泣かないと決めている顔だった。
ハリーはこちらへ戻ってきた。
「どうしたの?」
ロンが聞いた。
「振られた」
ハリーはあっさり言った。
あっさり言いすぎて、逆に怖い。
「えっ」
「英雄の道は孤独だからね」
ハリーは肩をすくめた。
ロンが頭を抱えた。
ハーマイオニーは目を閉じた。
ジニーは口元を押さえた。
「これ、恋の脚注に書いたら読まれるよね」
ロメルダがぽつりと言った。
「書くの?」
ジニーが聞く。
ロメルダは、チョウの方を見た。
「書かない。少なくとも、名前は絶対に出さない」
「意外」
「失恋はネタじゃないし。……でも、『好きだった人が別人みたいになったとき』って相談にはできるかも」
ロンが目を丸くした。
「お前、ちゃんと考えてるんだな」
「ロンロン、それけっこう失礼だよ」
ロメルダは羽ペンをくるりと回した。
「恋は記事になるけど、人の傷は見出しにしちゃだめなんだよ」
授業の終わり、トムは全員を見渡した。
「今日やったことは基礎だ。けれど、基礎を実際に使える者は少ない。次回からは、相手の動きを見る訓練も入れる。試験対策としても、身を守る手段としても、続ける価値はあると思う」
誰も帰りたいとは言わなかった。
アンブリッジ先生の授業では、教科書を読む。
ここでは、杖を振る。
その差は、思ったより大きかった。
わたしは本棚を見た。
トムが見ていた。
「マイン」
「まだ何もしてない」
「目がしていた」
理不尽である。
でも、次回も来る。
実技のために。
試験のために。
ついでに、いつかあの本棚の分類を確認するために。