本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:パラプリュイ

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92話 ロン・ウィーズリーと出版契約

 ロン・ウィーズリーが走ってきた。

 

 走ってきたというより、廊下を転がってきた。

 

 ただし本人の顔は、転んだ人の顔ではなかった。宝くじに当たった人の顔だった。魔法界に宝くじがあるのかは知らない。あったとしても、ロンはたぶん当たった直後にフレッドとジョージに券をすり替えられる。

 

「マーリンの髭!」

 

 ロンは叫んだ。

 

「どうしたの?」

 

「すごい手紙が来たんだよ!」

 

「どこから?」

 

 ハーマイオニーが、羽ペンを止めて顔を上げた。

 

「羽ペン通信社!」

 

 ロンは、まるで宝物を出すようにポケットから封筒を取り出した。

 

「羽ペン通信社から手紙が来たんだ!」

 

 それを聞いた瞬間、ハーマイオニーの眉が上がった。

 

「羽ペン通信社?」

「僕のコラムを本にしないかって!」

 

 ロンは両手を広げた。

 

「『つまり、ハリー・ポッターは英雄なのか?』だぞ! 僕が本になるんだ!」

 

「あなたが本になるわけじゃないわ。あなたの文章が本になるの」

 

「細かいな、ハーマイオニー! 今はそこじゃないだろ!」

 

 ロンはまったく聞いていなかった。

 

 椅子に座る。立つ。また座る。また立つ。

 

 喜び方がロンが飼っているふくろうのピッグウィジョンみたいだった。

 

「母さんに言わなきゃ。でも母さんに言ったら親戚全員に伝わる」

 

「言うわね」

 

 ジニーが横から言った。

 

「親戚には言わないように言っておくか?」

 

「無理よ。母さんが知った時点で、台所の鍋まで知るわ」

 

 ロンはうめいた。

 でも、顔はにやけていた。

 よほど嬉しいのだろう。

 

 わたしはそれを見て、少しだけ胸があたたかくなった。

 

 ロンはずっと、ハリーの親友だった。

 お下がりを着て、兄たちと比べられて、ハーマイオニーに怒られて、ジニーに刺されて、フレッドとジョージに遊ばれて、それでもハリーの隣にいた人。

 

 そのロンが、自分の言葉で誰かに見つけられた。

 嬉しくないはずがない。

 

「ホグズミード外出日に、三本の箒で説明したいって。そこで契約書も持ってくるってさ」

 

「待って、次のホグズミード外出日って、ダンブルドア校長のインタビューの日じゃない?」

 

「そうだ、忘れてた。もっと先の日にした方がいいかな? いや、この日しかだめって書いてある」

 

「パドマがメインで取材する予定だからきっと大丈夫よ。ロンは契約が苦手そうだから、私も行くわ」

 

「苦手そうって何だよ」

 

「苦手でしょう」

 

 わたしは手を挙げた。

 

「わたしも行きたい」

 

「マインも?」

 

「出版って、どうやってするのか面白そうだし」

 

 本音だった。出版という言葉に魅力を感じないわけがない。

 

「ハリーも来るか?」

 

 ロンが近くにいたハリーに尋ねた。

 

「僕はダンブルドアのインタビューを優先したい」

 

「あー、そうか」

 

 ロンは少し気まずそうな顔になった。

 前のハリーだったらダンブルドアのインタビューよりロンの出版を優先しただろうと想像したのかもしれない。

 

 

 *

 

 

 ホグズミード外出の日、ロンは朝から変だった。

 いつものロンもだいたい変だが、その日は特に変だった。

 髪を手で整え、鏡を見てから「作家っぽい顔ってどんな顔だ?」と聞いてきた。

 

「締切に追われてる顔じゃない?」

 

 わたしが答えると、ロンは即座に顔をやつれさせた。

 

「こうか?」

 

「まだ足りないわ。作家はもっと目の奥が遠いの」

 

 ハーマイオニーが冷静に言った。

 

「やめろよ! 僕はまだ本を出す前から燃え尽きたくない!」

 

 三本の箒は混んでいた。

 いつものように生徒たちでにぎやかで、バタービールの甘い匂いがして、窓の外には冬の光が白く差していた。

 ロンは席に着くなり、メニューを見ずに言った。

 

「今日は僕のおごりだ」

 

「まだ契約してないでしょう」

 

 ハーマイオニーが即座に言った。

 

「夢を見させろよ!」

 

「契約前の夢は一番危険なの」

 

 わたしは頷いた。

 

「限定版の予約特典も危険だよ。気づいたら同じ本が三冊ある」

 

「それはマインだけよ」

 

「違うよ。本好き全員の問題だよ」

 

 わたしたちが言い合っていると、席に人が近づいてきた。

 わたしの父だった。

 

 ロンの顔から血の気が消え、バタービールより白くなった。

 

「帰る」

 

 ロンは椅子から立ち上がりかけた。

 

「まだ座ったばかりよ」

 

 ハーマイオニーが袖をつかんだ。

 

「相手がマルフォイだぞ!」

 

「だから契約書を見ないと危ないのよ」

 

「見ても危ないだろ!」

 

 わたしは何も言えなかった。

 父が来るなんて聞いていない。

 

 父は、三本の箒の空気に一切なじんでいなかった。バタービールばかりが置かれた店内で、彼は一人だけ紅茶を頼んで店員をたじろがせた。別の世界から来たみたいだった。

 

「ごきげんよう、ウィーズリー」

 

 父が言った。

 

「グレンジャー。ローゼマイン」

 

「お父さま……」

 

 わたしの声は、思ったより小さかった。

 父はわたしを一瞥した。

 

 わたしはバタービールのカップを両手で持った。防御である。飲み物は盾にはならないが、手を空けているよりはましだ。

 

「君のコラムを読んだよ。『ヘンリー・ポーター』よりもずっと面白かった」

 

 褒め言葉にもロンはムスッとした顔しか返さなかった。

 父は、鞄から羊皮紙の束を取り出した。

 

「これが契約書だ」

 

 ロンは座ったまま、ものすごく遠い目をした。

 

「僕……出版社の人が来るものだと思ってました」

 

 父は微笑んだ。

 

「ご存知かもしれないが、マルフォイ家は羽ペン通信社にちょっとした出資をしていてね。いやなに、恐れる必要はない。君にとって悪い話ではない」

 

 ロンが契約書を読む前にハーマイオニーが契約書を受け取った。

 目が速く動く。

 さすがハーマイオニーだ。文字を読む速度が、怒る速度とほぼ同じである。

 

 わたしも横から覗き込んだ。

 

「印税が五割……?」

 

 ロンがつぶやいた。

 父はゆったりとうなずいた。

 

「さらに契約料も上乗せする。500ガリオンを前払いだ」

 

「500ガリオンだって!?」

 

 ロンの声が少しかすれた。

 無理もない。

 ウィーズリー家にとって、それは大金だった。

 

 新しいローブ。新しい箒。家族への仕送り。双子の店への投資。両親の喜ぶ顔。

 ロンの頭の中に、たぶん全部が一瞬で浮かんだのだと思う。

 

 それくらい、ロンの顔が揺れた。

 ハーマイオニーが羊皮紙を机に置いた。

 

「編集権と著作権を、すべて羽ペン通信社が管理する、とあります」

 

「当然だ」

 

 父は言った。

 

「出版物として整えるには、専門家の手が必要だ」

 

「具体的に何をするんですか」

 

「文章の調整、構成の整理、読者に届きやすくするための編集だ」

 

「つまり」

 

 わたしは口を挟んだ。

 

「コラムを書き換えるってことだよね」

 

 父の視線がわたしに向いた。

 店内のざわめきが遠くなった気がした。

 

「ローゼマイン」

 

「違う?」

 

 わたしは契約書の一文を指差した。

 

「著者の事前確認なしに、内容の補筆、削除、再構成を行えるって書いてある。これ、ロンの文章を好きに直せるってことだよね」

 

 ロンが羊皮紙を見た。

 顔色が、青から赤に変わっていく。

 

「僕のコラムを?」

 

「本にふさわしく整えるだけだ」

 

 父は静かに言った。

 

「君はまだ若い。勢いはあるが、文章には粗さがある。読者に誤解されないよう、補助が必要だ」

 

「誤解?」

 

 ロンの声が低くなった。

 

「僕が書いたハリーを、誰かが勝手に直すってことだろ」

 

「直す、という言い方は適切ではない」

 

「じゃあ何だよ」

 

「磨くのだよ」

 

「磨いて別物にするんだろ!」

 

 ロンが机を叩いた。

 

 カップが跳ねた。バタービールが少しこぼれた。

 わたしは反射的に羊皮紙を守った。

 

「そんなの認めない!」

 

 ロンは言った。

 

「僕はハリーのことを書いたんだ。誰かの都合のいいハリーにするためじゃない」

 

 父は、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「ウィーズリー。よく考えた方がいい」

 

 その声は、冷たかった。

 

「君にとって、これほど条件のよい話はそうない。大金だ。君の家なら、役に立つだろう」

 

 ロンの顔がこわばった。

 ハーマイオニーの目が怒った。

 わたしの手も震えた。

 

「金が必要なのは恥ではない」

 

 父は優しく続けた。

 

「だが、機会を逃すのは愚かだ。君の文章に値段がついた。君はその価値を理解すべきだ」

 

「その価値って」

 

 ロンが言った。

 

「ハリーを売る値段か?」

 

 父は答えなかった。

 その沈黙だけで、十分だった。

 ロンは拳を握った。

 

「僕は」

 

 声が震えていた。

 でも、逃げていなかった。

 

「僕は、ピーター・ペティグリューにはならない」

 

 ハーマイオニーが息をのんだ。

 わたしも、胸の奥がぎゅっとなった。

 

 ロンは続けた。

 

「金は欲しい。すごく欲しい。たぶん、ここにいる誰より欲しい」

 

「ロン……」

 

「でも、ハリーを売るほどじゃない」

 

 店の中が静かになっていた。

 

 誰も大きな声を出さなかった。

 父はしばらくロンを見ていた。

 その顔からは、何を考えているのか読めなかった。

 

「即答するには惜しい話だ」

 

 父は契約書をゆっくり畳んだ。

 

「時間を与えよう」

 

 ロンは目を瞬いた。

 

「え?」

 

「三日だ」

 

 父は羊皮紙の束を机に置いた。

 

「条件は変えない。だが、君が冷静になる時間くらいは与えてもよい。私は出版業界にも顔が利く。私の契約を断って他に契約してくれる人はいないだろう。感情で判断したと後悔するには、君はまだ若い」

 

「僕は──」

 

「ウィーズリー」

 

 父の声が、ロンの言葉を切った。

 

「君が私を嫌うのは構わない。だが、君の家に必要なものまで嫌う必要はない」

 

 ロンの口が閉じた。

 

 それは、脅しよりずっと嫌な言い方だった。

 正論みたいな顔をした毒だった。

 

 ハーマイオニーが睨んだ。

 

「不当な契約を持ってきておいて、考え直せと言うんですか」

 

「不当かどうかを判断するには、君たちは若すぎる」

 

「若いことと、騙されることは違います」

 

「グレンジャー家では、助言に対する礼儀を教わらないのか」

 

「不当な契約を持ってくる大人への礼儀なら、まだ習っていません」

 

 ハーマイオニーは強かった。

 わたしは心の中で拍手した。実際にすると、父に見られるのでやめた。

 

 父は立ち上がった。

 

 そして、わたしを見た。

 

「ローゼマイン」

 

「……はい」

 

「家に帰ってきなさい」

 

 胸が詰まった。

 命令ではなかった。

 でも、お願いでもなかった。

 

 それが一番困る。

 

「今は帰れません」

 

 わたしは言った。

 

「やることがあるから」

 

「本か」

 

「本も。新聞も。友達も」

 

 父の眉が、ほんの少し動いた。

 

「そうか」

 

 それだけ言って、父は踵を返した。

 

 黒い外套が揺れる。

 

 三本の箒の扉が開き、冷たい風が入って、すぐに閉じた。

 

 父は去った。

 

 契約書と、大金と、三日という時間を残して。

 

 時間。

 

 たぶん父は、それを親切だと思っていない。

 

 猶予だ。

 

 迷わせるための猶予。

 

 ロンが自分の家のことを思い出すための猶予。

 

 ハリーの顔と、モリーさんの顔を、同じ机の上に置かせるための猶予。

 

 しばらく誰も喋らなかった。

 

 最初に口を開いたのはロンだった。

 

「……正しい選択をした」

 

 小さな声だった。

 

「僕は正しい選択をした。だよな?」

 

「したわ」

 

 ハーマイオニーがすぐに言った。

 

「絶対に」

 

「でも、まだ断ってない」

 

 ロンは契約書を見た。

 

「三日後に、もう一回断らなきゃいけない」

 

「断ればいいわ」

 

「分かってる。分かってるけどさ、大金すぎる」

 

 ロンは机に突っ伏した。

 

「断るだけでこんなに疲れるなら、作家って何なんだよ……」

 

「たぶん締切に追われる前から疲れている人」

 

 わたしが言うと、ロンは顔だけ上げた。

 

「今の僕、作家っぽい?」

 

「かなり」

 

「嬉しくない……」

 

 そのときだった。

 突然、ロンの前に金髪の少女が立っていた。少し遠くに座っていた少女だ。

 両手を胸の前で握りしめ、顔を輝かせた。

 

「ロン・ウィーズリー先生!」

 

 ロンが顔を上げた。

 

「何だ?」

 

「サインください!」

 

 ロンの口が開いた。

 閉じた。

 また開いた。

 

「……先生?」

 

 ハーマイオニーが、ものすごくゆっくり少女を見た。

 

 ジニーだったら笑っていたと思う。ここにいなくてよかった。いたら絶対に面白がった。

 黒髪の少年が後ろから少女の口を押さえた。

 顔立ちのどこかに見覚えがあった。少しだけハリーに似ている。でも、ハリーより不機嫌そうで、ハリーより血色が良さそうだ。

 金髪の少年も少女を取り押さえている。

 

 ロンが椅子ごと後ろに下がった。

 

「マルフォイ!?」

 

「違います!」

 

 金髪の少年は即座に言った。

 

「いや、違わなくはないんですけど、違います!」

 

「何だその一番嫌な答え!」

 

「リラ、落ち着いて」

 

 黒髪の少年が低い声で言った。

 

「落ち着いてるよ!」

 

 少女は答えた。

 

「落ち着いている人は、対象へ突撃しない」

 

 白金色の少年が、少女の腕をつかんで後ろに引いた。

 

「でも、著者本人だよ!?」

 

「だから駄目なんだ!」

 

「初稿と連載版と単行本版の差異を確認できる機会なんだよ!?」

 

「今その単語を出すな!」

 

 ロンは、呆然と三人を見ていた。

 

「僕が……先生?」

 

「そこに反応するの?」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「だって先生なんて言われたことないぞ!」

 

 わたしは少女を見た。

 

 リラ。

 

 さっき、そう呼ばれていた。

 

「あなたたち、誰?」

 

 ハーマイオニーが杖に手をかけた。

 

 黒髪の少年が、慌てて両手を上げた。

 

「怪しい者ではありません」

 

「今の登場でそれを言えるの、かなりすごいわね」

 

「怪しい者ではありますが、敵ではありません」

 

「悪化したわ」

 

 金髪の少年が顔を押さえた。

 

「アルバス、説明を僕に代わって」

 

「スコーピウス、お前が説明すると長くなる」

 

「お前よりはマシだ!」

 

 二人はなぜか揉め始めた。

 

「ロン・ウィーズリー先生」

 

 リラは争っている二人をよそにロンに小声で言った。

 

「生原稿はどちらに?」

 

「生原稿?」

 

 ロンが繰り返した。

 

「はい。できれば初稿、余白の書き込みも含めて──」

 

「リラ」

 

 金髪の少年が低い声で言った。

 

「これ以上喋ると、歴史に殴られるよ」

 

「歴史は物理攻撃しないよ」

 

「今の君ならされても文句は言えない」

 

 わたしは、なぜかその会話にものすごく覚えがあった。

 本を前にした人間が、止める人間を理屈で押し流そうとする感じだ。

 

「あなたたち」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「どこから来たの?」

 

 三人は黙った。

 見事に黙った。

 ロンが震える指で、テーブルの契約書を指差した。

 

「まさか、ルシウス・マルフォイの差し金か?」

 

「違います」

 

 スコーピウスが即答した。

 

「その件については、むしろ見に来たというか」

 

「見に?」

 

 ハーマイオニーの目が細くなった。

 リラが、目を輝かせた。

 

「現存資料に不一致がありまして」

 

「資料?」

 

「ロン・ウィーズリー先生の著作には複数の版が存在します。初版本、普及版、単行本版、教育用抜粋版、検閲版、禁書版、海賊版、あと非常に出来の悪い注釈版が──」

 

 リラは流れるように話し始めた。

 

「僕の本、本になる前から版が多すぎない?」

 

 ロンが青ざめた。

 

「待って」

 

 わたしは言った。

 

「初版本? 検閲版? 注釈版?」

 

 リラは、そこで初めてしまったという顔をした。

 アルバスが天井を仰いだ。

 スコーピウスが小さく呻いた。

 

「ロンの本はまだ出版されてないよ」

 

 わたしはハーマイオニーを思わず見た。

 ハーマイオニーの目が、契約書から三人へ移る。ハリーによく似た少年。ドラコによく似た少年。少女が誰に似ているか、わたしは考えたくなかった。

 ハーマイオニーは状況を把握したようだった。

 

「あなたたち、未来から来たのね」

 

 三本の箒のざわめきが、なぜか遠く聞こえた。

 

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