三本の箒はひどく混んでいた。
暖炉の火は赤く、バタービールの甘い匂いが店の奥まで満ちている。
わたしたちの前には、未来から来たという子どもが三人いた。
リラ。アルバス。スコーピウス。
そして、なぜか隣にはセオドールが座っていた。
「ローゼマイン。ここ、空いてる?」
そう聞かれた時点で、わたしはまだ「空いていない」と答える余地があると思っていた。
甘かった。
セオドールは返事を待たずに椅子を引き、当然のように腰を下ろした。手には湯気の立つカップ。周囲の席はどこも埋まっていて、セオドールの居場所はなさそうだった。
追い返す理由がない。
「セオドールもホグズミードに来てたんだ」
「少し用があって来た。退屈な用事だ」
「なあ、こいつに聞かれてもいいのか?」
ロンが小声でわたしに聞いた。
「セオドールなら、大丈夫だと思う。たぶん」
セオドールはわたしと一緒に過去に戻ったことがあるが、あの時の話を他人にべらべら話したりはしなかった。時間旅行についても詳しい。
ハーマイオニーが杖を軽く振った。周囲のざわめきが少しだけ遠のく。遮音魔法だ。セオドールの目が一瞬だけ杖先を見たが、何も言わなかった。
「それで」
ロンが腕を組んだ。
「未来から来たって話の続きを聞こうじゃないか」
「君たち未来から来たのか」
セオドールが興味深そうに言った。
三人の子どもたちは、同時にセオドールを見た。
リラが目を見開く。
「もしかして、セオドール・ノットですか?」
「ああ、そうだけど。僕のことを知っているの?」
「聞いたことがあるだけです」
リラはセオドールをじろじろ見ていたが、アルバスに袖を引っ張られてすぐに姿勢を正した。
スコーピウスが、両手を膝の上で組んで説明していた。
「僕たちはホグワーツの三年生です」
「三年生、だからなのね」
ハーマイオニーはそう呟いてわたしと顔を見合わせた。
三年生になると複数科目の選択が許される。そこで全科目を取った生徒は学校から特別にタイムターナーを貸与してもらえる。
「全くついていけないのは僕だけ?」
ロンがムスッとした顔で言った。
「リラは、複数科目の履修のためにタイムターナーを借りていました。つまり、時間を戻す魔法道具です」
「そんなものがあったのか」
「でも、あれには五時間の制限があったはず」
リラが顔を上げた。
「わたしが改造しました」
言い切った。
わたしはカップを持つ手に力を入れた。バタービールが少し揺れる。
「……何のために?」
「ロン・ウィーズリー先生の初稿を見るためです」
ロンがむせた。
「そんなことのために時間を戻すなんてことあっていいのかしら……」
ハーマイオニーが眉を寄せる。
けれど、その横でわたしは、否定しきれない自分に気づいていた。
失われた初稿。
未確認の版。
後世で議論になっている原文。
本のためなら、人は少しおかしくなる。
残念ながら、よく知っていた。
「『つまり、ハリー・ポッターは本当に英雄なのか?』は未来で出版されているんだね」
「はい!」
リラの目が、急にきらきらした。
「わたしたちの時代では初稿が失われていて、研究者の間でも議論があるんです。刊行版は何度も版が変わりました。今読まれているものは、最初にロン・ウィーズリー先生が書いたものとは大幅に違うのではないか、と」
「そんなことあるの?」
ハーマイオニーは疑い深く聞いた。
「見れば分かります」
リラはそう言って、鞄の中に手を入れた。
取り出したのは、小さな本だった。
表紙は何度も開かれたせいで角が丸くなり、背表紙には補修の跡がある。題名は見覚えがあった。
『つまり、ハリー・ポッターは本当に英雄なのか?』
その下に、小さく文字が入っている。
ロン・ウィーズリー著。
わたしは息を止めた。
ロンはもっとひどかった。自分の名前が本の表紙になっているのを見て、バタービールを飲んでいないのにむせた。
「……僕の名前が本になってる」
「あなたが書いたんでしょ」
ハーマイオニーが言った。
「書いてる途中のものと、本になったものは別物だろ!」
それは、かなり正しい。
リラは本を両手で持って、そっと開いた。扱い方が丁寧すぎて、逆に怖かった。まるで聖典か、禁書か、その両方のようだった。
「現在一番流通している版では、こうなっています」
リラはページを見下ろしたまま読んだ。
「“ハリー・ポッターが英雄であったことは疑いない。しかし、彼を英雄たらしめたものは血筋でも偶然でもなく、白銀卿の理論によって初めて明らかにされた、正しい導きの力であった”」
「待て」
ロンの声が低くなった。
さっきまでの照れも、むせた顔も消えていた。
「僕、そんなこと書いてない」
リラは顔を上げなかった。
「はい、そうですよね」
「いや、はいじゃなくて。僕はそんなこと、絶対に書かない」
「だから、初稿が読みたいんです」
セオドールが、カップを持つ手を止めた。
ハーマイオニーが本を覗き込む。
「この版は?」
「改訂十九版です。学校で使われている抜粋版は、さらにここから短くなっています」
「十九版……」
ハーマイオニーの眉間に深い皺が寄った。
「そこまで版を重ねる間に、誰が直したの?」
「分かりません」
スコーピウスが答えた。
「けれど、版が新しくなるたびに、ロン・ウィーズリー先生の言葉は少しずつ減りました。代わりに、解説と注釈が増えました」
「注釈?」
ロンが嫌そうに言う。
リラは別のページを開いた。
「ここです」
余白には、本文よりも細かい字がびっしり並んでいた。
本文はロンの文章のはずだった。
けれど、余白が本文を囲んでいる。説明が、本文を押し潰している。本を書いた人間の声より、その本をどう読むべきか命令する声の方が大きい。
嫌な本だった。
本なのに、読者を信じていない。
「……僕の文章、どこ?」
ロンが呟いた。
誰もすぐには答えられなかった。
リラは本を閉じた。
「初稿には、まだ注釈がありませんよね? 誰かが読み方を決める前の、羽ペン通信社に編集される前のロン・ウィーズリー先生の言葉が残っています」
ロンは自分の鞄を見た。
そこには、折れた紙束が入っている。
本人が乱暴に突っ込んだ、まだ本になる前の原稿。
急に、それがひどく危なっかしいものに見えた。
「だから、未来で奪われる前の内容を見せてください」
リラは静かに言った。
「ちょっと待って」
わたしは片手を上げた。
「羽ペン通信社に編集される前って言った?」
「はい」
「ロンと出版契約したのはルシウス・マルフォイ?」
リラは口を閉じた。
スコーピウスが、そっと話を引き取った。
「その通りです」
「ロンはさっき契約を断ったのよ。どうやって出版するっていうのよ?」
「そこまで細かいことは分からないですが、書類上では明後日契約したとなっていました」
「ふざけるなよ」
ロンが吐き捨てるように言った。
アルバスが肩をすくめた。
「でも、そういう未来なんです」
ハーマイオニーが身を乗り出した。
「未来で何が起きるの? ヴォルデモートはどうなったの?」
三人が、そろって首を傾げた。
その反応が、妙だった。聞き慣れない単語を聞いた顔だった。
「ヴォルデモートよ」
ハーマイオニーが重ねた。
「名前を言ってはいけないあの人よ。あなたたちの時代には、もういないの?」
「名前を言ってはいけない……?」
リラが考え込む。
アルバスもスコーピウスも、互いを見た。
わたしは、そこで少しだけ息を吐きそうになった。
もしかして。
ヴォルデモートがいない未来なのかもしれない。
あれほど恐れられた名前が、子どもたちに通じないくらい遠い過去になったのかもしれない。
一方で、嫌な想像もしてしまった。
「白銀卿だったら分かる?」
三人の顔が変わった。
リラの指が、カップの取っ手から外れた。スコーピウスは視線をテーブルに落とし、アルバスは奥歯を噛んだ。
わたしの背中を、冷たいものが滑った。
ロンが低く言った。
「そっちは知ってるんだな」
「はい」
スコーピウスは頷いた。
「白銀卿は、魔法大臣なの?」
ハーマイオニーが聞いた。彼女は明らかに最悪の未来を想像していた。
「違います」
「じゃあ、ホグワーツの校長とか?」
「違います」
わたしは息を吐きそうになった。
けれど、スコーピウスの顔は少しも明るくならなかった。
「でも、僕たちの学校は、まだ白銀卿が作った時間割で動いています」
「……時間割が?」
ロンが眉をひそめる。
「教科書の前書きには、白銀卿の言葉があります。防衛術では、白銀卿の理論を基礎として習います。図書館の禁書指定は、白銀卿の時代に整理された分類が今も残っています。魔法史では、白銀卿登場以前と以後で章が分かれます」
リラは淡々と言った。
淡々としているから、余計にひどかった。
わたしは、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
まるで自由ではない本棚だ。
人を椅子に座らせるのではなく、本棚を作った。棚の名前を決め、分類を決め、どの本を手前に置き、どの本を奥へ押し込むかを決めた。
一度それを学校にしてしまえば、子どもたちは毎日決まった棚の前を歩く。
「新聞は?」
わたしは聞いた。
「新聞も、白銀卿の言葉を引用します。批判する文章がまったくないわけではありません。ただ、届きにくい」
「届きにくい?」
「禁止されていない本でも、注文できなければ読めません。存在している記事でも、配達されなければ読まれません」
ロンは顔をしかめた。
「僕の本も、そうなったのか」
リラが唇を噛んだ。
「だから、初稿が必要なんです」
「見るために?」
ハーマイオニーが静かに聞く。
リラはどう答えるか迷っているようだった。彼女はロンを見て、それからセオドールを見た。
アルバスが代わりに言った。
「それだけでなく、ある人を救うためにもです」
ロンの顔がわずかに変わった。
「誰を?」
アルバスは口を開きかけた。
スコーピウスが、テーブルの下で彼の袖を掴む。
その動きは小さかった。けれど、はっきりと止める動きだった。
「言えません」
ロンは苛立ったように髪をかいた。
「未来の子どもって、肝心なところで便利に黙るんだな」
「言えば、救えなくなるかもしれません」
アルバスの声は、子どもにしては重かった。
ロンはそれ以上言わなかった。
ハーマイオニーはまだ聞きたそうだった。誰が死ぬのか。誰が裏切るのか。何をすれば避けられるのか。聞けるなら全部聞くべきだと、彼女の目が言っていた。
でも、彼女は飲み込んだ。
その横で、リラがぽつりと言った。
「過去を変える危険があるのは、分かっています」
「分かっている人は、タイムターナーを改造しないわ」
ハーマイオニーの返しは速かった。
「でも、お母さまでも同じことをしたはずです!」
リラの声が、店のざわめきの中で妙にはっきり響いた。
お母さま。
わたしは、まばたきをした。
リラは言ってから、しまったという顔をしてわたしを見た。それがもう答えだった。スコーピウスが目を閉じる。アルバスが天井を見た。
やっぱり、この子は。
わたしは自分の膝の上で、両手をぎゅっと握った。
未来の娘らしき子が、タイムターナーを改造して過去へ来た。理由は、失われた初稿を見るため。
否定できない。
ものすごく否定しにくい。
「……わたしなら、やると思われているの?」
「思われているというか」
リラは気まずそうに視線を泳がせた。
「お母さまなら、失われた本があると聞いた時点で、まず保存方法を考えます」
わたしは反論できなかった。
ロンがぼそっと言った。
「遺伝って怖いな」
「ロン」
ハーマイオニーが睨んだ。
「いや、今のは事実だろ」
ロンは立ち上がった。
「初稿なら、あげるよ」
「え?」
リラが目を見開く。
「いいんですか?」
「いいも何も、僕が書いたやつだろ。僕がいいって言えばいいんじゃないか?」
「でも、歴史的な重要資料です」
「そんなこと言われても、自分の原稿に歴史的資料とか言われても実感沸かないよな。ほら」
ロンは鞄から紙束を取り出した。端が折れて、インクのにじみもある。本人が思っているより、ずっと大事なものに見えた。
リラが両手を伸ばしかける。
けれど、ハーマイオニーがその前に紙束を押さえた。
「原本は渡せないわ」
「なんで?」
ロンが驚く。
「未来で失われる原本を、ここで未来に渡したら、この時代から原本が消える。歴史を直すために、別の歴史改変を作ることになる」
リラの手が、少しだけ下がった。
「でも」
「複製を作るわ」
ハーマイオニーは言い切った。
「ただの複製じゃない。ロン本人の許可を取って、原本と照合して、作成時刻と証明を書き添える。未来の研究者が疑うなら、好きなだけ疑えばいいわ。疑える資料が残るだけ、何もないよりずっとましよ」
ロンが鼻を鳴らした。
「面倒くさいな」
「現在のあなたも十分面倒よ」
「それは関係ないだろ」
ハーマイオニーは杖を抜いた。紙束の横に、もう一つの紙束が現れる。見た目はそっくりだった。彼女は二つを慎重に見比べ、複製の最後に短い証明文を書き添えた。
ロンも、渋々そこに署名する。
ロン・ウィーズリー。
リラがその名前を見つめた。
さっきまで堂々としていた顔が、今だけ年相応に崩れた。
「ありがとうございます、ロン・ウィーズリー先生」
「先生はやめろ」
「無理です」
「なんでだよ」
「わたしたちの時代で、この本は希望なんです」
ロンは返事をしなかった。
セオドールが、静かにその複製を見ていた。
「ウィーズリーの原稿が希望ね」
彼の声は小さかった。
ロンが椅子を蹴りそうな顔をしたので、ハーマイオニーが肘で止めた。
リラは複製原稿を胸に抱いた。
原本は、ロンの鞄に戻った。
それだけのことなのに、何かが決定的に変わった気がした。
セオドールは椅子を戻しながら、いつもの調子で言った。
「随分、賑やかな読書会だったね」
「読書会じゃないだろ」
ロンが言う。
「そうかな」
セオドールは店の扉へ向かった。
「本の話をして、未来を変える相談をして、読者が作家の原稿を持ち帰った。僕には読書会に見えたよ」
リラは、セオドールの背中を見ていた。
扉の鈴が鳴った。
セオドールがホグズミードの通りに消える。
ロンが、リラと扉を交互に見た。
「……なあ」
「何?」
ハーマイオニーが警戒した声を出した。
「あの子、ノットのこと見すぎじゃなかったか?」
「ロン」
ハーマイオニーの声が一段低くなる。
「いや、だってさ。あいつ絶対マインの未来の娘だろ? もしかして、父親って」
「まさか。ノットには似てなかったわよ」
ハーマイオニーは肩をすくめた。
テーブルの上には、まだロンの原稿の匂いが残っていた。
まだ乾ききらないインクの匂いがした。