本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:パラプリュイ

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アンブリッジ視点。



95話 ドローレス・アンブリッジは名乗らない

 

 羽ペン通信全国版は、朝の紅茶より先に大臣室へ届いた。

 

 コーネリウス・ファッジ大臣は封を切るなり、椅子から半分立ち上がった。丸い頬が、怒りと喜びの区別もつかない色に染まっていく。

 

 わたくしは角砂糖を銀の匙でつまんだまま、紙面に目を落とした。

 

 *

 

 羽ペン通信 全国版

 記者:ロルフ・スキャマンダー

 

 ダンブルドア校長、ポッター氏虐待把握を認める

 若き日にグリンデルバルド氏と「マグル支配」を構想 妹の死にも言及

 

 ハリー・ポッター氏がマグル家庭において虐待を受けていたことを知っていたと、アルバス・ダンブルドア校長が本紙の取材で認めた。

 

 ダンブルドア氏は、魔法省によるホグワーツ魔法魔術学校への教育介入について、「子どもから身を守る術を奪ってはならない」と批判した。だが、その取材の中で浮かび上がったのは、校長自身が過去に何度も、子どもや若者の痛みを「大きな目的」の陰に置いてきたという事実である。

 

 ポッター氏はホグワーツ入学以前、マグルの親類宅で育てられていた。その環境が幸福なものではなかったことは、関係者の証言からも明らかになりつつある。

 

 なぜ、保護しなかったのか。

 

 この問いに対し、ダンブルドア氏は「ハリー・ポッターが英雄になると恐れていた」と話した。ダンブルドア氏は闇の帝王が復活したと訴えていた。

 

 また、ダンブルドア氏は若き日、後に史上最も危険な闇の魔法使いの一人となるゲラート・グリンデルバルド氏と親交を結び、マグルに対する魔法使いの支配を構想していたという。

 

 校長は当時を振り返り、「若さと野心と傲慢さは相性がよい」と語った。

 

 さらに本紙は、アリアナ・ダンブルドア氏の死について尋ねた。

 

 アリアナ氏は、ダンブルドア校長の妹である。幼少期にマグルの少年たちから暴行を受け、その後、長く家庭内で保護されていたとされる。彼女の死には、長らく多くの謎が残されてきた。

 

 ダンブルドア氏は当時、グリンデルバルド氏、弟アバーフォース氏、そして自分の間で争いが起きたことを認めた。

 

 ダンブルドア氏は「出世の邪魔だった。一番大切な家族を死に追いやったのは私だ」と話した。

 

 アリアナ氏の死について、今から法的責任を問うことは難しい。年月は過ぎ、当時を知る者は少なく、本人でさえ「誰の呪文だったのか分からない」と語る。

 

 だが、これは法廷の記事ではない。

 

 問われているのは、ダンブルドア氏を今なおホグワーツの校長として据え続けてよいのか、という一点である。

 

 若き日にゲラート・グリンデルバルド氏とマグル支配を構想し、その争いの中で妹を死なせた可能性を否定できず、さらにハリー・ポッター氏がマグル家庭で虐待されていたことを知りながら放置した人物。

 

 その人物が、いま「子どもの安全」を語っている。

 

 過去を悔いているからこそ、教育者にふさわしいのだという声もあるだろう。

 

 しかし、読者は考えるべきである。

 

 妹を殺したかもしれない者に、他人の子どもを預けてよいのか。

 

 その答えを出す責任は、魔法省だけにあるのではない。ホグワーツに子を通わせるすべての家庭にある。

 

 

 *

 

 

 たいへんよく燃えそうな見出しですこと。

 

 記事は見事だった。

 

 ハリー・ポッター氏がマグル家庭で虐待されていたことを、アルバス・ダンブルドアは知っていた。若き日のダンブルドアは、ゲラート・グリンデルバルドとマグル支配を構想していた。妹アリアナ・ダンブルドアの死に、自分の呪文が関わっていた可能性を否定しなかった。

 

『妹を殺したかもしれない者に、他人の子どもを預けてよいのか』

 

 わたくしは紙面の端を整えた。

 

 美しい記事だった。

 だからこそ、下品だった。

 

「これは使えるぞ」

 

 大臣が言った。

 

 ああ、やはり。

 

 この方は火を見ると、まず暖炉だと思う。自分の袖に燃え移る可能性を考えるのは、いつも少し遅い。

 

「大臣。ここでダンブルドアを叩くのは下策ですわ」

 

「下策だと? ドローレス、君は読んだのかね、この記事を」

 

「ええ。隅々まで」

 

「あの男はポッター少年の件を知っていたんだぞ。妹を死なせたかもしれん。若い頃にはグリンデルバルドと、あのグリンデルバルドとだ!」

 

「問題だらけですわね」

 

「だったら!」

 

「ええ、だからこそ、今が底辺です」

 

 大臣の口が止まった。

 

「……何がだ?」

 

「ダンブルドア校長の株ですわ」

 

 ファッジ大臣は、わたくしを見た。まるで初めて会う人を見るような顔だった。

 

「ドローレス。君がゴブリンのようにグリンゴッツの出資証書に興味がある魔女だとは思わなかったが」

 

「あら、株は底辺で買うというのは基本ですわよ」

 

「そうかね」

 

「ええ。ダンブルドアはいまや誰もが売りたがっている最底辺の株ですわ。保護者は疑い、生徒は揺らぎ、魔法省は叩きたがっている。ここで一緒になって踏みつけても、得られるのは一時の喝采だけです」

 

 わたくしは紙面の端を指で押さえた。

 

「底辺の株を買うのです」

 

「買う?」

 

「ええ。そして、こちらの手で株を上げる」

 

 ロメルダ・ベインから押しつけられた『マグノリアの令嬢』シリーズは、最初の数章で閉じるつもりだった。

 

 主人公の令嬢はあえて家名を名乗らず、侮られても微笑む。侍女に礼を言い、騎士を励まし、噂好きの夫人も微笑みで黙らせる。あまりに高貴な振る舞いに人々は彼女を高貴な血筋の令嬢だと勘違いする。

 それはただの恋愛小説ではなかった。社交界の生き抜き方を書いた指南書だった。

 

 一冊目の『マグノリアの令嬢は名乗らない』で、わたくしは血筋ではなく振る舞いが本物を作ると知った。

 二冊目の『ミモザの令嬢は拍手を求めない』では、人気者になるためには権威を振りかざすよりも親しみやすさが大切だと学んだ。

 三冊目の『椿の令嬢は夜明けを待つ』で、わたくしは思わず背筋を伸ばした。

 

 株は、一番下がった時に買うべし。

 

 社交界で評判を落とした青年を、椿の令嬢だけが見捨てなかった。誰もが距離を置き、扇の陰で笑う中、彼女だけが見捨てなかった。

 

 後に、その青年は王宮で返り咲いた。

 周囲は令嬢の優しさを讃え、青年は令嬢に求婚する。

 

 優しい令嬢が得をするというありがちな展開? 

 

 いや、違う。

 彼女は底値で彼の株を買ったのだ。

 

 誰も拾わない価値を拾い、誰も差し出さない時に手を差し出した。あれは投資である。少なくとも、わたくしはそう読んだ。

 

 ロメルダ・ベインは、騒がしい子である。礼儀も怪しい。教師を妙な愛称で呼ぶ悪癖もある。

 けれど、本を選ぶ目だけは悪くなかった。

 

 今のダンブルドアは、底値だった。

 これ以上ないほど、底値だ。

 新聞は燃え、保護者は疑い、生徒はざわめき、魔法省は喜び、死喰い人は笑う。

 

 だからこそ、今が買い時なのだ。

 

「大臣」

 

 わたくしは記事の署名欄を指先で押さえた。

 

「わたくしは証言できます」

 

「証言?」

 

「この記事の取材現場に、死喰い人のバーティ・クラウチ・ジュニアがいました」

 

 ファッジ大臣の顔色が変わった。

 

「何だと? アズカバンで死んだのではないのか」

 

「おそらく仕組まれていますわね。わたくしはこの目ではっきりと見ました。ダンブルドア校長への取材の場に、彼がいました。しかも、その後ポートキーで逃走しております」

 

「なぜそれを早く言わん!」

 

「今申し上げました」

 

 わたくしは微笑んだ。

 ダンブルドアと魔法省が今まで敵対してきたからこそ、死喰い人はわたくしがダンブルドアを味方にするとは思わないはず。それをわたくしが覆す。

 

「この紙面は単なる告発記事ではございません。死喰い人が同席した場で組み立てられた、魔法省とホグワーツを分断するための記事です」

 

「だが、内容が嘘とは限らん」

 

「ええ、全て本当のことですわ」

 

 捏造なら否定できる。

 中傷なら訴えられる。

 けれど、事実を選び、順番を整え、読者が最も残酷な結論へたどり着くよう道を敷いた記事は違う。

 

 わたくしは、そういう文章を知っている。

 省令も、通達も、教育方針も、似た顔をしている。

 

「ですが、ここで魔法省がダンブルドア処分に飛びつけば、我々は死喰い人の用意した舞台で踊ったことになります」

 

「では、どうする」

 

「まず、死喰い人が現場にいた事実を公表します」

 

「ダンブルドアを守るのか」

 

「違いますわ」

 

 わたくしは、にっこりと笑った。

 

「わたくしたちが買った株を、わたくしたちの手で上げるのです」

 

 大臣は新聞を握りしめた。

 

 ポッター少年が虐待されていた。

 その一文は、記事全体の中で最も使いやすく、最も嫌な場所に置かれていた。母親は息を呑む。父親は校長を疑う。生徒は、自分も見捨てられるかもしれないと思う。

 子どもの苦痛は、政治的にたいへん使い勝手がよい。

 

 それを知っている者が書いた記事だった。

 

「君は、ダンブルドアの味方をするのかね」

 

 大臣が低く言った。

 

「いいえ」

 

 それだけは、即座に答えられた。

 

「わたくしはいつだって魔法省の味方ですわ」

 

「ならば、なぜ奴を守る」

 

「ダンブルドアに恩を返させたいからですわ」

 

 わたくしは鞄から羊皮紙を取り出した。

 大臣の目が、少しだけ大きくなる。

 

「声明案か」

 

「ええ」

 

 第一文は、もう決めてある。

 

 魔法省は、ホグワーツの生徒と保護者の不安を重く受け止め、事実確認を進めるとともに、学校運営の安定を最優先する。

 

「バーティ・クラウチ・ジュニアが現場にいたという証言は?」

 

「声明の後に言いましょう。先に声明で強調しすぎれば、こちらが言い訳をしているように見える。ですが、裏付けが取れた時には、この記事の印象をひっくり返せます」

 

「ひっくり返す?」

 

「ええ。死喰い人がダンブルドアを追い落とすために悪意を持って書かれた記事だった、と」

 

 大臣の眉が動いた。

 

「ダンブルドアの株が上がる」

 

「魔法省の株も上がりますわ」

 

「そして、君の株もかね」

 

「大臣」

 

 わたくしは軽く目を伏せた。

 

「わたくしは大臣とともにあります。わたくしの株が上がるということは、大臣の株が上がることでもありますわ」

 

「否定はしないのだな」

 

「嘘はよくありませんもの」

 

 ファッジ大臣は、長く紙面を睨んでいた。

 

 やがて、低く言った。

 

「……進めたまえ」

 

「承知いたしました」

 

 わたくしは微笑んだ。

 

 

 *

 

 

 校長室へ向かう階段は、相変わらず悪趣味に回った。

 扉の前で立ち止まると、中から声がした。

 

「入りたまえ」

 

 呼ぶ前に呼ばれるのは、好きではない。

 わたくしは微笑みを整え、扉を開けた。

 

 アルバス・ダンブルドアは机の向こうに座っていた。新聞は、すでに畳まれている。

 

「校長先生。魔法省からの声明案をお持ちしましたわ」

 

「それはありがたい」

 

 彼は眼鏡の奥で、わたくしを見た。

 

「わしは今日、ずいぶん多くの親切を受ける日らしい」

 

「親切ではございません。取引ですわ」

 

「ほう」

 

 わたくしは羊皮紙を机の上に置いた。

 

「魔法省は、事実確認が済むまで性急な処分を行わない方針です。生徒と保護者の不安を抑えるため、校長職の継続を認めます。ただし、保護者への説明、教育内容の透明化、魔法省への定期報告にはご協力いただきます」

 

「つまり、わしを守るかわりに、首輪をつけると」

 

「ずいぶん物騒な言い方をなさいますのね」

 

「違うかね?」

 

「安全のためですわ」

 

 ダンブルドアは、羊皮紙を読んだ。

 

 その横顔は、記事で切り刻まれた老人のものには見えなかった。傷ついていないわけではない。けれど、傷を見せる相手を選んでいる。

 

 やはり、この男は嫌いだ。

 

「ドローレス」

 

「何でしょう」

 

「わしらは敵対していると思っておった」

 

 わたくしは笑みを深めた。

 

「底辺のものを正しく評価するのは、社交における大切な技術ですわ」

 

「それはどの本で学んだのかね」

 

 わたくしは今度こそ、指を止めた。

 この老人は本当に嫌いだ。

 

「あら、校長先生は教師の読書傾向まで把握していらっしゃるの?」

 

「近ごろのホグワーツでは本がよく人を動かすからのう」

 

「読書は人を成長させますでしょう?」

 

「その通りじゃ。何を育てるかは、本だけでは決められんがね」

 

「では、ご安心ください。わたくしは、たいへん正しく育ちましたわ」

 

「見れば分かる」

 

 嫌な老人。

 だが、今ここで勝つ必要はない。

 

 勝つとは、相手を床に倒すことではない。相手がこちらの用意した道を歩くことだ。

 

「ところで」

 

 ダンブルドアは、ふと思い出したように言った。

 

「君は最近、セルウィン家の末裔を名乗らなくなったそうじゃな」

 

 わたくしは、手袋の皺を直す手を止めなかった。

 

「まあ。よくご存じですのね」

 

「年寄りの耳は、都合のよい時だけよく聞こえるのじゃよ」

 

「それは便利ですこと」

 

「やめたのかね」

 

 穏やかな声だった。

 

 セルウィン。

 

 以前のわたくしなら、その名を口にするだけで背筋が伸びた。古い血。古い家名。自分がどこに属する者かを示す、甘く硬い響き。

 

 けれど、マグノリアの令嬢は名乗らなかった。

 

 名乗らないから、周囲は勝手に想像した。

 名乗らないから、侮った者はあとで恥をかいた。

 名乗らないから、彼女の一挙手一投足に意味が生まれた。

 

 家名は、叫ぶものではない。

 相手に探させるものだ。

 

「名乗る必要が、なくなりましたの」

 

「ほう」

 

「本当に価値のあるものは、こちらから説明しなくても、相手が勝手に意味を見つけてくださいますでしょう?」

 

 ダンブルドアは、今度は笑わなかった。

 不死鳥が止まり木の上で羽を震わせ、窓の外では雲が塔の影を流していた。

 やがて、ダンブルドアは声明案を机に置いた。

 

「以前の君は、権力を見せびらかしておった。今の君は、権力を見えにくくする術を覚えた。敵を追い落とす代わりに、貸しを作る」

 

「うふふ。今日の校長先生は、わたくしをずいぶん高く評価してくださいますのね」

 

「低く見積もるほど、わしは若くない」

 

 その言い方は、少しだけ疲れていた。

 この老人は、わたくしを見ながら、たぶん別の誰かも見ている。かつて自分が見誤った若者。手を組み、遅れて恐れた相手。

 

 ゲラート・グリンデルバルド。

 

 わたくしは、その名を踏まないように微笑んだ。

 

「では、わたくしを排除なさいます?」

 

「いいや」

 

 ダンブルドアは、静かに首を振った。

 

「君と手を組みたい」

 

 わたくしは、手袋の上から指先を重ねた。

 

「……わたくしと?」

 

「そうじゃ」

 

「正気でいらっしゃいますの?」

 

「それを問われる資格は、今日のわしにはあまりなさそうじゃな」

 

 ダンブルドアは、畳まれた新聞に目を落とした。

 

「この記事を書いた者は、わしを燃やしたいだけではない。ホグワーツと魔法省を互いに敵対させたいのじゃろう。生徒を不安にし、保護者を怒らせる。そこへ死喰い人が入る隙間を作る」

 

「ご理解が早くて助かりますわ」

 

「君がそれを利用しようとしていることも、理解しておる」

 

「まあ」

 

「だが、君は少なくとも、魔法省を死喰い人に渡すつもりはない」

 

「当然ですわ。自分の屋敷の鍵を招待状も持たぬ客に渡す令嬢がどこにおりますの?」

 

 それだけは、即座に答えられた。

 ダンブルドアは頷いた。

 

「わしはその言葉を信じる」

 

 それで十分だった。

 

「では、わたくしはバーティ・クラウチ・ジュニアが現場にいたと証言しましょう。ダンブルドアについて書かれた記事は全て死喰い人が書いたものだと」

 

 わたくしが言うと、ダンブルドアは羊皮紙を一枚引き寄せた。

 

「代わりに君が望むものは?」

 

「大したものではありませんわ。今後魔法省を希望する生徒の進路指導をする際は、わたくしを窓口にしていただきたいのです」

 

 ダンブルドアの目が、半月眼鏡の奥で細くなった。

 

「スリザリンの生徒に限らず?」

 

「もちろんですわ。魔法省は、全ての寮の生徒に開かれておりますもの」

 

 同じ派閥の令嬢ばかりと仲良くしても意味がない。魔法省にわたくしの派閥を作るならば、それは寮関係なくアンブリッジ派であるべきだ。

 

 彼はしばらく黙ってから、羽根ペンを取った。

 

「よかろう」

 

「では、校長先生」

 

 わたくしは一礼した。

 

「魔法省とホグワーツは、ひとまず協力関係にある。そういうことでよろしいですわね」

 

「ひとまず、という言葉を忘れぬように」

 

「もちろん」

 

 わたくしは扉へ向かった。

 

「ドローレス」

 

 背中に声がかかった。

 

「はい?」

 

「君は本当に、恐ろしい教師になったのう」

 

「いいえ、校長先生」

 

 わたくしは、折り目ひとつ乱さず羊皮紙を畳んだ。

 

「ようやく教育の意味が分かってきただけですわ」

 

 

 *

 

 

 校長室を出たあと、わたくしはホグズミードへ向かった。

 

 理由はある。

 

 保護者説明会に向け、ホグズミードの反応を確認する必要があった。校外の噂は、生徒の食堂より少し早く腐る。どの店で、どの話題が、どの程度の火加減で煮詰まっているかを知るのは、魔法省職員として当然の職務である。

 蜂蜜公爵の店先には、『マグノリアの令嬢』シリーズとの限定コラボ菓子、マグノリア・クリームボンボンの小さな看板が出ていた。

 もちろん、わたくしは菓子に釣られたわけではない。しかし、どんな味か興味があった。

 

 マグノリア・クリームボンボンを買ったあとに裏通りへ回ると、石畳の端に小さな露店が出ていた。

 

 露店と言うにはあまりに雑然としている。布の上には、片方だけのカフスボタン、欠けた銀杯、古びた燭台、用途不明の鍵束、妙に曇った鏡が並んでいた。どれもこれも、由緒ある骨董品というより、誰かの家の引き出しから慌てて持ち出されたものに見える。

 その向こうで、ひげ面の男がこちらに気づき、肩を揺らした。

 

「あら、あなたはたしか、マンダンガス・フレッチャーだったかしら」

 

「こ、これはこれは、ミス・アンブリッジ!」

 

 マンダンガスは両手をこすり合わせた。

 

 小物がよく似合う男だった。魔法界には様々な人間がいるが、彼ほど「押収品目録」という単語の似合う者も珍しい。

 

「これは合法的な商品でしょうね?」

 

「へえ、もちろん。全部、きちんとした由来のある品で」

 

「由来を説明なさい」

 

「ええと……古い家から出た、由緒ある……」

 

「どこの家です?」

 

「それはその、持ち主のご事情で」

 

 わたくしは微笑んだ。

 マンダンガスは汗をかいた。

 その時、布の端に置かれたものが目に入った。

 

 金のロケットだった。

 

 大きすぎる。重たげで、今どきの装いには少々古めかしい。けれど、表面には蛇のような飾り模様があり、中央には優雅な文字が刻まれていた。

 

 S。

 

 わたくしの胸が、ふわりと温かくなった。

 

 セルウィン。

 

 もちろん、セルウィン家の正式な紋章とは違う。分かっている。わたくしは家系図については誰よりも慎重で、誰よりも敬意を払っている。

 

 だが、Sである。

 

 銀ではなく金だけれど、Sである。

 

 わたくしはそっと手に取った。ひんやりとした感触が指先に吸いつく。古い魔法の気配がするような気がした。上等なものは、見ただけで分かる。わたくしのように、品位を理解する者には。

 

「これは?」

 

「お目が高い! 大変珍しい品でさあ。古い名家の──」

 

「どこの名家です?」

 

「ええと、そこは買い手の想像力にお任せする品で」

 

「ンフフ、便利な説明ですこと」

 

 わたくしはロケットを開けようとしたが、蓋は固かった。

 まあいい。

 名家の品とは、簡単に中身を見せないものだ。

 

「これをいただきます」

 

「へ?」

 

「価格は?」

 

 マンダンガスは一瞬だけ、悪い顔をした。すぐに隠したが、遅い。

 

「百ガリオンで」

 

「一ガリオン」

 

「いやいや、先生、これは由緒ある──」

 

「由緒を説明できない品を、百ガリオンで売るおつもり?」

 

「五十ガリオン」

 

「ではこの店にある品は全て押収しましょう。窃盗被害者が見つかるかも知れませんわね?」

 

「一ガリオンで喜んで売らせていただきます!」

 

 話が早くて助かった。

 わたくしは代金を置き、ロケットを手のひらに包んだ。

 何かに勝った気がした。

 実際、勝ったのだと思う。

 

 底値のダンブルドアに投資し、その株をこちらの手で上げる算段をつけ、由緒あるSのロケットまで手に入れた。

 

 今日のわたくしは実に冴えている。

 城へ戻る道すがら、わたくしはロケットを首にかけた。

 少し重い。

 

 だが、重みとは責任である。名家の血、魔法省の威信、ホグワーツの秩序。わたくしはそういうものを背負うのに慣れている。

 

 淡いピンクのローブの上で、金のロケットが揺れた。

 なかなか悪くない。

 

 そう思っていた。

 少なくとも、ロメルダ・ベインに見つかるまでは。

 

 

 *

 

 

「アンブリっちせんせー、それ新しいアクセ?」

 

 廊下の角で、ロメルダがこちらに駆け寄ってきた。羽ペン通信の原稿を抱え、髪には小さなリボンがついている。校内で走るのは感心しない。けれど、近ごろの彼女はよく本を貸しに来るので、叱るタイミングが少し難しい。

 

「ええ。少々、由緒ある品を手に入れましたの。なかなかいいでしょう?」

 

「うーん」

 

 ロメルダが首を傾げた。

 わたくしは微笑みを保った。

 

「何か?」

 

「いや、アンブリっち先生には、あんま合ってないかも」

 

 わたくしは瞬きをした。

 

「わたくしに合っていない?」

 

「うん。先生ってピンクでも、ふわっとしたピンクとか、ちょっと白っぽい甘い色の方が似合うじゃん? それ、なんか重いじゃん。金も強いし、形もごついし、首元だけ急に古城の未亡人みたい」

 

「古城の未亡人」

 

 わたくしは少しショックを受けた。

 

「ごめん! でも先生のファッションには、ちょっと浮いてるかも」

 

 わたくしはロケットを見下ろした。

 

 S。

 

 由緒あるS。

 

 セルウィンのS。

 

 だが、ロメルダ・ベインは恋愛とファッションについて、妙に鋭い。軽薄な言葉遣いの奥で、人がどう見られたいのか、どう見えてしまうのかを見ている。

 わたくしは教師であり、魔法省の役人である。

 だからこそ、専門家の意見は尊重すべきかもしれない。

 

「……では、あなたにあげますわ」

 

「え、いいの?」

 

 ロメルダの目が丸くなった。

 

「わたくしに似合わないものを、わたくしが持っていても仕方ありませんもの。あなたなら上手く合わせられるでしょう?」

 

「でも高そうじゃんそれ」

 

「一ガリオンでした」

 

「安っ」

 

「価値あるものは、底値で手に入れるべきですわ!」

 

「アンブリっち先生、まーた貸した本変な読み方してるでしょ」

 

「変ではありませんわ。実践的に読んでいるだけです」

 

 ロメルダは笑った。

 その笑い方は、授業中の生徒たちの笑いとは違った。馬鹿にしているのではなく、こちらの言葉を面白がっている。無礼ではあるが、悪意はない。

 

 わたくしはロケットを外し、彼女の手の上に置いた。

 ロメルダは両手で受け取った。金の重みで、少しだけ手首が下がる。

 

「ありがと、アンブリっち先生。大事にするね!」

 

「ええ。あなたにはいつも本を借りていますから」

 

「じゃあ、先生にはこれあげる! ピンクだし、先生にはこっちのが似合うよ」

 

 ロメルダは彼女がつけていたピンクの珊瑚でできたハートのネックレスを首から外し、わたくしに差し出した。

 

 驚くほど軽い。

 

 けれど、淡いピンクのローブには、こちらの方がずっと馴染んだ。

 

「ほら、似合う」

 

 ロメルダが満足そうに笑った。

 

「アンブリっち先生、そういう丸くて可愛いの似合うもんね」

 

「当然ですわ」

 

「褒めたらすぐそれだもん」

 

 ロメルダは金のロケットを胸元に当てた。

 

「じゃあ、あたしがこっちを似合わせる。黒いチョーカーとか合いそうじゃない?」

 

「校則の範囲内で」

 

「はいはい」

 

 ロメルダはロケットを胸元に当て、鏡もないのに角度を変えて眺めた。

 Sの飾りが、廊下の窓から差す光を受けて鈍く光った。

 

「やっぱ、なんか強そう」

 

「由緒ある品ですもの」

 

「アンブリっち先生、ありがとね!」

 

 そう言って、ロメルダはにっと笑った。

 わたくしは満足して頷いた。

 良い取引だった。

 

 ダンブルドア校長への投資も、ロケットと珊瑚のネックレスの交換も、すべて将来につながる一手である。

 

 ロメルダからもらったネックレスを触り、わたくしは微笑んだ。

 わたくしはその日、底値で手に入れたものを、もっと価値あるものに替えたのだった。

 





マグノリアの令嬢シリーズの正式名称は舞踏会恋愛事件簿シリーズと言います。異なる主人公が恋愛をしながら事件を解決していく恋愛推理小説です。
マグノリアの令嬢シリーズに対するそれぞれの感想はこんな感じです。

一巻「マグノリアの令嬢は名乗らない」
ロメルダ「身分違いの愛は偉大!」
アンブリっち「家名は自分で叫ぶより、相手に察させた方が価値が上がりますのね」

二巻「ミモザの令嬢は拍手を求めない」
ロメルダ「みんなに愛されるヒロイン最高!」
アンブリっち「人気とは求めるものではなく、振る舞いが作るものということですわね」

三巻「椿の令嬢は夜明けを待つ」
ロメルダ「評判落ちた彼を見捨てないの愛じゃん!」
アンブリっち「底値の株は買うべきですのね!」

マイン「本当に同じ本読んでる?」

ちなみに「株」については、魔法界にも商会への出資や持分、グリンゴッツ預かりの出資証書くらいはあるだろう、という扱いです。
アンブリっちは純血名家の人脈や事業権も含めて「価値が下がった時に買うもの」と学びました。
恋愛小説の読み方ではない。
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