トムは、ロメルダの首元を見ていた。
ロメルダは泣いたあとの顔で、目元を袖で乱暴に拭っていた。怒っているのか、恥ずかしいのか、まだ泣き足りないのか、本人にも分かっていない顔だった。
その胸元で、古い銀のロケットが揺れている。
重そうな鎖。擦り切れた縁。閉じたままの蓋。
わたしはそれを見た瞬間、妙な引っかかりを覚えた。
どこかで見た気がする。
本で読んだのか。絵で見たのか。誰かが身につけていたのか。
思い出そうとしたけれど、頭の中の書架には、肝心の本だけ背表紙がこちらを向いていなかった。
「ロメルダ」
トムは静かに言った。
「そのロケットを、僕にくれないかな」
「は?」
ロメルダが、泣き顔のまま眉を吊り上げた。
「なに、急に。トム様ってそういうの趣味だっけ?」
「趣味ではないけど」
「じゃあ無理。これ、アンブリっちにもらったやつだし」
ロメルダはロケットを手で覆った。
さっきまで紙面で人の恋愛を焼き払っていた人間とは思えないほど、子どもっぽい仕草だった。
「アンブリっちが、あなたなら似合わせられるって言ったの。あげられない」
トムの表情は変わらなかった。
変わらなかったけれど、指先が一度だけ動いた。
「そのロケットは、僕のものだ」
「……は?」
ロメルダの声が低くなった。
「あたしがもらったって言ってんじゃん」
「所有権の話をしているんじゃない。出どころを知る必要がある」
「なにそれ。怖い言い方しないでよ」
ロメルダは一歩下がった。
わたしは、トムを見た。
彼はロケットから目を離さない。いつものような余裕のある笑みはない。嫌なものを見つけた人の顔だった。
トムにとって嫌なもの。
それだけで、だいたい碌なものではない。
「ロメルダ。いまは預からせて」
「嫌」
「危険かもしれない」
「だったらなおさら嫌。アンブリっちがくれたものを、勝手に危険物扱いしないで」
ロメルダの声が震えた。
その震え方が、怒りだけではなかったから、トムはそれ以上強く言わなかった。
「分かった。アンブリッジ先生に確認しよう」
「……アンブリっちに?」
「そうだ」
「じゃあ、あたしも行く」
「君は休んだ方がいい」
「やだ。あたしのロケットの話でしょ」
ロメルダはロケットを握りしめた。
「あたし抜きで話すとか、そういうの一番むかつく」
トムは短く息を吐いた。
「なら、来るといい」
ロメルダが少しだけ勝ち誇った顔をした。
でも、トムの顔はまったく勝敗を気にしていなかった。
その顔を見て、わたしの胸の奥が重くなった。
これは恋愛欄の後始末だけでは終わらない。
そういう顔だった。
ロメルダが少し離れて、号外の没収についてマダム・ピンスに文句を言いに行こうとして、わたしに全力で止められたあと、トムは低い声でわたしだけに分かるように言った。
「あれは分霊箱だ」
わたしは瞬きした。
「分霊箱」
「間違いない」
「……その、魂を分けて入れるやつ?」
「そう」
トムは廊下の窓の外を見た。空は曇っていて、湖の方が鉛色に沈んでいる。
「あれがスリザリンのロケットなら、僕なら分霊箱にふさわしいと考える」
僕なら。
その言い方に、わたしは少しだけ引っかかった。
けれど、いまはそれを本棚から引き抜いている暇がない。
「でも、あんまり由緒あるものじゃない方がいいんじゃないの?」
わたしは首を傾げた。
「だって、大事なものほど人に見つかりやすいよね。由緒ある宝物なんて、記録に残るし、盗まれるし、狙われるし。分霊箱にするなら、そこらへんの石ころの方が安全じゃない?」
トムがこちらを見た。
とても冷たい目だった。
「君は、自分の魂をただの石ころに入れておきたいと思うのか」
「思わないけど」
「それが答えだ」
「でも、その方が破壊される心配がないのに」
「魂を裂いて不死を得ようとする時点で、合理性だけで動く者ではない」
「つまり、見栄?」
「尊厳と言ってほしいね」
トムはわたしの返事に、ほんの少しだけ口元を歪めた。
けれど、笑みはすぐに消えた。
「アンブリッジに破壊していいか確認する。もし出どころが僕の予想通りなら、すぐに破壊する必要がある」
アンブリッジ先生の部屋は、以前ほどピンク色に埋もれてはいなかった。
それでも、完全に脱ピンクしたわけではない。花柄のティーカップ、薄桃色のクッション、猫の皿。かつての名残が、あちこちに生き残っている。
ロメルダは部屋に入るなり、少し安心したような顔をした。
「アンブリっち先生」
「ロメルダさん」
アンブリッジ先生は椅子から立ち上がった。
ロメルダの顔を見て、すぐに眉を寄せる。
「泣きましたの?」
「泣いてないし」
「目元が赤いですわ」
「泣いてないってば」
その会話だけなら、少し変わった教師と少し面倒な生徒の放課後だった。
けれど、トムが一歩前へ出た瞬間、部屋の温度が変わった気がした。
「先生。ロメルダにあげたロケットのことについてお伺いできますか」
アンブリッジ先生の目が、一瞬だけ泳いだ。
「ロケット?」
「古いロケットです。どこで手に入れましたか」
「……あれは、わたくしの家に代々伝わる由緒ある品ですわ」
「嘘をつくな!」
声が鋭く飛んだ。
アンブリッジ先生の口が止まった。
わたしも止まった。
ロメルダも止まった。
トムは、怒鳴ったあとでさえ整っていた。だから余計に怖かった。癇癪ではない。刃物を抜いたような声だった。
「もう一度聞きます。どこで手に入れた」
「……わ、わたくしが盗んだわけではありませんのよ」
「盗んだかどうかは聞いていない」
「本当ですわ。正式な購入です」
「誰から」
アンブリッジ先生は唇を結んだ。
それから、観念したように視線を落とした。
「マンダンガス・フレッチャーという男ですわ」
トムの目が細くなった。
「フレッチャー」
「ええ。たいへん信用ならない男でしたけれど、品物を見る目だけはあるように見えましたの……わたくしにふさわしいと思いましたのよ。一ガリオンまで値切って、やっと手に入れましたの」
「信用ならない男から一ガリオンで買ったと」
「そのように言われると、とても愚かに聞こえますわね!」
「実際に愚かだ」
アンブリッジ先生の頬が赤くなった。
以前なら、ここで処罰だの減点だのと騒いだかもしれない。
けれど、彼女はロメルダを見た。
ロメルダはロケットを握っていた。
アンブリッジ先生の顔色が変わった。
「……まさか」
トムは頷かなかった。ただ言った。
「これは闇の品です。ロメルダに悪影響を与えている。破壊しても構いませんね」
アンブリッジ先生の口元が震えた。
「あれが、闇の品」
「はい」
「わたくしは……」
アンブリッジ先生は椅子に手をついた。
「わたくしは、あの子に呪いを渡すつもりではありませんでしたわ」
「呪いは、渡す者の意図を気にしない」
トムの声は冷たかった。
ロメルダがロケットを握る手に力を込める。
「でも、アンブリっちがくれたのに」
「ロメルダさん」
アンブリッジ先生は、ロメルダの前に立った。
いつものような作った甘さはなかった。飾りを外した声だった。
「ごめんなさい」
ロメルダの目が丸くなった。
「え」
「わたくしは、あなたに悪いものを渡しました。知らなかったとはいえ、言い訳にはなりませんわ」
「アンブリっち」
「それは壊してください」
「でも」
「別のものを、改めて差し上げます」
アンブリッジ先生は少しだけ背筋を伸ばした。
「今度は、出どころの確かなものを。血筋の証などではなく、あなたに似合うものを」
ロメルダの唇が震えた。
「……ほんと?」
「ええ」
「かわいいやつ?」
「もちろんですわ」
「ピンクすぎないやつ?」
「頑張って探しますわ」
「そこは約束してよ」
泣きそうな声で文句を言うロメルダに、アンブリッジ先生が困った顔をした。
その顔を見て、わたしは急に思った。
もしかして。
「アンブリッジ先生があんなに邪悪そうだったの、分霊箱のせいかもしれないね」
部屋の全員がこちらを見た。
「だって、ロメルダでもあんな影響が出たわけだし。長く身につけてたら、性格が悪くなっても不思議じゃないよ。これいつ手に入れたの?」
アンブリッジ先生は複雑そうな顔をして黙った。
トムは遠い目をした。
「いや、もともとの性格だと思うよ」
アンブリッジ先生が、不満そうに唇を尖らせた。
「それの影響があったのだと思いますわ」
「多少はね」
トムは譲歩した。
譲歩の仕方が、ひどく雑だった。
ロメルダはロケットを見下ろしていた。
「ていうかさ」
彼女は恐る恐る顔を上げた。
「分霊箱って、なに?」
トムがわたしを見た。
なぜ見る。
「説明して」
「わたし?」
「君の方が穏当に説明できる」
「無理だと思う」
それでもロメルダに見られたので、わたしは仕方なく言葉を選んだ。
「すごく悪い魔法で、自分の魂を裂いて、物に入れるの。その物が壊れない限り、本体が死ににくくなる」
「魂を裂く?」
「うん」
「物に入れる?」
「うん」
「で、このロケットは?」
わたしはトムを見た。
トムは少しだけ目を伏せた。
「ヴォルデモートの魂の一部だ」
ロメルダは、しばらくロケットを見た。
それから悲鳴を上げた。
「はあああああ!? あたし、闇の帝王の魂をアクセ感覚でつけてたってこと!? 無理無理無理無理! 最悪なんだけど! 恋愛運下がるどころじゃないじゃん!」
「恋愛運の問題ではない」
「分かってるし! でもまずそこも最悪じゃん!」
ロメルダはロケットを首から外そうとして、鎖が髪に絡まってさらに悲鳴を上げた。
アンブリッジ先生が慌てて手伝う。
トムはロケットから目をそらさなかった。
「破壊する方法は?」
わたしが聞くと、トムは短く答えた。
「悪霊の火。あるいはバジリスクの毒」
「バジリスクの毒は?」
「アルドゥスは今あの男のもとにいる」
「じゃあ、悪霊の火?」
「ここでは使えない。城を燃やす気なら別だけど」
「絶対だめ」
図書室どころか、ホグワーツ全体が燃える。
そんなことになったら、わたしは闇の帝王より先に本の亡霊に呪われる。
「禁じられた森へ行く」
トムは言った。
ロメルダが即座に顔を上げた。
「あたしも行く」
「危険だ」
「それ、あたしがつけてたんだよ。あたしのせいでハーみょんもジニたんも傷つけた。ここで部屋で待ってろとか、無理」
「足手まといになる」
「なるかもね。でも行く」
ロメルダの声は震えていた。
それでも、引かなかった。
アンブリッジ先生が何か言いかけたけれど、ロメルダの顔を見て止めた。
トムは少しだけ黙った。
「分かった。離れるな」
「りょ」
「軽い返事をするな」
「トム様、かしこまり!」
「あんまり変わってなくないか?」
こうして、わたしたちは禁じられた森へ向かうことになった。
どうして恋愛欄の後始末から禁じられた森の闇の品破壊に発展するのか、わたしには分からない。
木々が高く重なり、枝が暗い天井を作っている。足元には湿った落ち葉が積もり、踏むたびに小さな音を立てた。風が通るたび、どこかで葉が擦れる。
灯りは、トムの杖先だけだった。
ロメルダはわたしの袖をつかんでいる。
「ねえ、森ってこんなに暗いの?」
「夜だから」
「正論いらない」
トムは前を歩いていたが、途中でふと足を止めた。
「セストラルがたくさんいる」
「どこ?」
わたしは周囲を見回した。
何も見えない。
木。影。霧。暗がり。
生き物の気配はあるのに、姿がない。
「見えないのか」
「見えない」
「人の死を見た者にしか見えないからね」
トムは淡々と言った。
ロメルダが袖を握る力を強めた。
「トム様、見えるんだ」
「本で読んだだけだ」
「その返事、信じる人いる?」
「君たち以外ならいるかもしれない」
わたしは見えない何かのいる方を見た。
見えないというのは、不便だった。
いると分かっているのに見えないものは、いないものよりずっと気になる。
しばらく進むと、急に周囲の音が減った。
虫の声も、鳥の羽音も、葉擦れも、少し遠のいたように感じる。
トムが立ち止まった。
「このあたりでいいだろう」
ロメルダが小さく息を吐いた。
「やっと?」
その瞬間、足元の落ち葉が動いた。
最初は、風かと思った。
違った。
小さな蜘蛛が、落ち葉の隙間から湧くように出てきた。
一匹。二匹。十匹。数えられないほど。
「……あたし、蜘蛛苦手」
ロメルダの声がひっくり返った。
「わたしも得意じゃない」
蜘蛛は増えた。
小さなものだけではない。
木の根元から、幹の陰から、闇の奥から、脚の長い影がいくつも現れた。
大きい。
あまりにも大きい。
馬車ほどの胴体に、黒い脚。無数の目が杖の光を反射した。
ロメルダが完全にわたしの背中へ隠れた。
「無理! これは無理!」
トムが低く呟いた。
「ハグリッドが飼っていたやつが、まだ生きていたのか」
「ハグリッドが飼っていたって、正気!?」
「これが原因で退学になった。これは、アクロマンチュラだ」
アクロマンチュラ。
わたしの頭の中で、魔法生物の本がばさばさと開いた。
「アクロマンチュラは、たしか人の言葉を話す」
「ほかには?!」
「えっと、集団で暮らしてて」
他は何だったかな。
「あ、人肉が好き?」
「知りたくなかった!」
ロメルダが叫んだ。
蜘蛛たちはじりじりと距離を詰めてくる。
トムが杖を構えた。
悪霊の火を使う場所を探しに来て、悪霊の火を使う前に蜘蛛に囲まれる。
かなり悪い展開だった。
待って。
アクロマンチュラの天敵は。
「アクロマンチュラの天敵はバジリスクだ!」
わたしは声に出した。
そう、バジリスクだ。
手元にないなら、出せばいい。
最近のわたしなら、そんな危険思想は思いついても棚の奥に戻す。
でも、周囲には人肉好きの巨大蜘蛛がいる。
いまは、棚の奥に戻している場合ではない。
「サーペンソーティア!」
杖を振った瞬間、魔力が腕から抜けた。
地面がうねった。
落ち葉が吹き飛び、土が割れた。そこから、銀白色の鱗が現れる。太い胴。長い首。森の暗がりの中で、巨大な蛇がゆっくりと頭をもたげた。
ロメルダが小さな声を出した。
「……この蛇、でかくない?」
でかい。
とてもでかい。
そして、わたしはその蛇を知っている。
「アルドゥス!」
巨大なバジリスクは、ゆっくりこちらを向いた。目には黒い布が巻かれたままだった。
『ごはん?』
ロメルダが固まる。
「いま、なんか言った?」
「ごはんって言った」
「この蛇も人肉食べるとか言わないよね?!」
アルドゥスは、周囲の蜘蛛を見た。
アクロマンチュラたちは一斉に後ずさった。
さっきまで人肉がどうのという雰囲気だったのに、急に全員が被害者みたいな顔をしている。蜘蛛の顔はよく分からないけれど、たぶんしていた。
『あれ、食べて』
わたしは蛇語で頼んだ。
『食べる』
アルドゥスが動いた。
そこからは早かった。
巨大な蜘蛛たちが散った。木の幹を駆け上がり、枝から飛び、闇の奥へ逃げる。けれど、アルドゥスは速かった。銀白色の体が森の中を滑り、尾が地面を打つたびに蜘蛛の群れが崩れた。
ロメルダは両手で顔を覆っていた。
「見たくないけど、音も嫌!」
「耳を塞いで」
「手が足りない!」
トムはその光景を見て、しばらく黙っていた。
やがて、蜘蛛の気配が遠ざかった。
森に、少しずつ音が戻ってくる。
アルドゥスは満足そうに戻ってきた。
『まだある?』
『あとで』
『あとで』
とても嬉しそうだった。
トムがわたしを見た。
バジリスクの毒は分霊箱を破壊する手段の一つだ。
「最初からそうしておけば良かった」
「わたしも今そう思ってる」
「いや、思いつくのが遅い」
「巨大蜘蛛に囲まれてから冷静な判断をするのは難しいんだよ」
ロメルダが指の隙間からアルドゥスを見た。
「ねえ、その子、味方?」
「たぶん」
「たぶんなの、だいぶやばくない?」
「やばい」
否定できない。
でも、いまはそのやばさが役に立つ。
わたしはトムに手を出した。
「ロケット」
トムは一瞬ためらった。
それから、布に包んだロケットを渡してきた。
銀のロケットは、月のない夜の中でも嫌な重さを持っていた。手に乗せるだけで、指先が冷える。
わたしはアルドゥスの方を向いた。
『これ、食べて』
アルドゥスが顔を近づける。
『かたい?』
『たぶん』
『毒ある?』
『たぶん』
『ごはん?』
わたしは少し考えた。
『ごはんじゃない。でも、食べて』
アルドゥスは素直に口を開けた。
ロメルダが悲鳴を飲み込む。
銀のロケットが、巨大な牙の間に挟まれた。
次の瞬間、鈍い音がした。
金属が割れる音ではなかった。
もっと嫌な音だった。
閉じ込められていたものが、最後に爪を立てるような音。
黒い煙が噴き出した。
ロメルダがわたしの背中にしがみついた。
アンブリッジ先生がくれたもの。
ロメルダが手放せなかったもの。
ヴォルデモートの魂の一部。
それは、アルドゥスの牙の間で砕け、黒い影を吐き出し、やがて消えた。
トムは、それを瞬きもせずに見ていた。
顔色が悪い。
けれど、何も言わなかった。
アルドゥスは口をもぐもぐさせた。
『まずい』
「まずいって」
わたしが訳すと、ロメルダが震えた声で言った。
「そりゃそうでしょ。例のあの人の魂だもん。おいしかったら困るし」
アルドゥスは不満そうに舌を出した。
『蜘蛛の方がいい』
「それも知りたくなかった」
ロメルダはもう半泣きだった。
そして、ようやく周囲が落ち着いたところで、彼女はアルドゥスを指さした。
「で、この子どうするの?」
巨大なバジリスクが、森の中でゆっくりと首を傾げた。
わたしは答えに詰まった。
トムも黙った。
アルドゥスだけが、期待に満ちた声で言った。
『おかわり?』
ロメルダが、完全に泣きそうな顔になった。
「絶対だめなやつじゃん!」