本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:パラプリュイ

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ロン視点。


99話 傷跡は年頃の病ではない

 

 ロン・ウィーズリーが廊下を歩いていると、隣にいたヘンリーが倒れた。

 廊下の角を曲がった、その直後だった。

 

 足がもつれたわけでもない。誰かの呪文を受けたわけでもない。

 額を押さえたまま、突然、石床へ膝をついた。

 

「ハリー!」

 

 ロンが駆け寄るより早く、ハーマイオニーが鞄を放り出した。

 

 ヘンリーの腕から本が滑り落ち、床に散らばる。ハーマイオニーはその場に膝をつき、額の傷をのぞき込んだ。

 

 ロンも隣へしゃがもうとしたが、ハーマイオニーの肩がすぐ近くに来た途端、体が妙に固くなった。

 

 ロメルダが、ハーマイオニーはロンとヴィクトール・クラムの二人を相手にしているのではないか、などという記事を書いたせいだった。

 

 もちろん、そんなわけはない。

 

 ハーマイオニーがクラムと手紙を交わしていることと、ロンにしょっちゅう怒っていることを並べただけの記事だ。そもそも、怒鳴られることを交際に数えていいのなら、ロンには母を含めて何人もの恋人がいることになる。

 

 だが、記事が出てからというもの、ハーマイオニーが近づくだけで、ロンは周りの目が気になるようになった。

 

 今も、顔が近い。

 髪が腕に触れそうなほど近い。

 

「ロン、ぼんやりしないで」

 

「してない!」

 

 思ったより大きな声が出た。

 ハーマイオニーが怪訝そうに振り返る。

 

「どうして怒鳴るのよ」

 

「怒鳴ってない」

 

「今のは完全に怒鳴っていたわ」

 

 床では、ヘンリーが額を押さえたまま苦しんでいる。

 

 ロンはようやく、自分が気にするべきなのはロメルダの記事でも、ハーマイオニーとの距離でもないと思い出した。

 

 

「痛い……」

 

 ヘンリーの声がかすれていた。手は額の傷跡を押さえている。

 

「傷が痛むの?」

 

 ハーマイオニーが顔をのぞき込む。

 ロンとハーマイオニーはヘンリーが傷跡を抑えて時折痛いと言うのを何度も見てきた。

 授業中に突然痛み出すこともあったし、話の途中で額を押さえることもあった。けれど、そのたびにヘンリーは顔を伏せ、前髪の隙間から睨むような目をして、妙に格好をつけていた。

 だからロンは、年頃の病だと思っていた。

 十四、五歳になると、男子は理由もなく窓辺に寄りかかり、傷跡を押さえて遠くを見るようになるのだと。

 よく考えれば、そんなわけがなかった。

 

 今さら気づいた自分を三発くらい殴りたくなったが、ヘンリーが顔を上げたので、それどころではなくなった。

 

「ナギニだ」

 

 焦点の合わない目が、ロンたちの向こう側を見ている。

 

「白銀卿の大きな蛇が、誰かを襲ってた」

 

「誰を?」

 

 ハーマイオニーが尋ねた。

 ヘンリーの唇が動いた。

 

「ロンのお父さん、だと思う」

 

 ロンの呼吸が止まった。

 

「父さん?」

 

「間違いない。赤毛で、魔法省のローブを着てた。何度も噛まれて……床に血が……」

 

 喉の奥が急に狭くなった。

 

 父は今日も魔法省へ行っているはずだ。予算が少ない規模とはいえ、魔法省に勤めていることは間違いない。

 

「どこだ」

 

 ロンはヘンリーの肩をつかんだ。

 

「どこで見た?」

 

「分からない。暗くて、棚がたくさんあって……」

 

 ヘンリーが目を閉じる。

 見たものを手繰り寄せるように、床についた指が動いた。

 

「近くにフェルディナンドもいた」

 

「フェルディナンド先輩?」

 

 ハーマイオニーが聞き返す。

 

「蛇と戦ってた。たぶん、神秘部だ。フェルディナンドは神秘部で働いているって聞いたことがある」

 

 フェルディナンドが魔法省の神秘部で無言者として働いていることは、ロンも知っていた。

 無言者が何をしているのかまでは知らない。

 本人に聞いても答えない。マインは知っているようだったが、その話題になると決まって本を顔の前へ持ち上げた。

 

「フェルディナンド先輩がいるなら、もう助けを呼んでいるかもしれないわ」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「違う」

 

 ヘンリーはすぐに首を振った。

 

「何かがおかしかった。フェルディナンドは蛇を止めようとしてた。でも、別の誰かがあいつを攻撃しようとしてたんだ」

 

「誰かって?」

 

「見えなかった。でも、誤解されてる。悪い蛇じゃないんだよ。きっと何かおかしいことが起きてる。行かないと」

 

 ヘンリーは立ち上がろうとした。

 足に力が入らず、また膝が落ちる。

 ロンはその腕を自分の肩へ回した。

 

「行こう」

 

「ロン」

 

 ハーマイオニーの声が低くなった。

 

「これは罠かもしれない」

 

「父さんが噛まれたんだぞ」

 

「分かってる。でも、ハリーが見たものが、本当に今起きているとは限らない。誰かに見せられた可能性もあるわ」

 

「血が出てた」

 

 ヘンリーが言う。

 

「作り物じゃない」

 

「見せられた光景の中なら、血くらい流せるわ」

 

「ハーマイオニー!」

 

 ロンの声が廊下に響いた。

 壁の肖像画が一斉にこちらを向く。

 ハーマイオニーは眉ひとつ動かさなかった。

 

「まずはダンブルドアに知らせるべきよ」

 

「知らせてる間に父さんが死んだらどうする」

 

「何の準備もせず飛び込んで、全員捕まったらどうするの?」

 

「それでも行く」

 

 ヘンリーが壁に手をつき、今度こそ立ち上がった。

 顔色は真っ白だった。

 

「あそこで何か起きてるのは、僕のせいかもしれない」

 

「どうしてハリーのせいなのよ」

 

 廊下の向こうから、ジニーが駆けてきた。

 腕に抱えていた本を窓枠へ置き、ヘンリーの顔を見てからロンへ向き直る。

 

「何があったの?」

 

「父さんが襲われた」

 

 それだけで、ジニーの表情が変わった。

 

「どこで?」

 

「神秘部らしい」

 

「じゃあ、私も行く」

 

「駄目だ」

 

「何で?」

 

「危ないからだよ」

 

「父さんが噛まれてるのに、私だけここで待ってろって?」

 

 ジニーはもう杖を抜いていた。

 

 父が血を流して倒れている姿を思い浮かべたのは、ロンだけではない。

 

「あなたたちが正常な判断をできていないことだけは、よく分かったわ」

 

 ハーマイオニーが大きく息を吐いた。

 

「だから私も行く」

 

「罠かもしれないんだろ」

 

「罠だと考えられる人間が一人くらい必要でしょう」

 

 言い返せなかった。

 

 今のロンの頭には、父が血まみれで倒れている姿しかない。目の前に扉があれば、向こうに何がいるか確かめずに蹴破るだろう。

 

「どうやって魔法省へ行くの?」

 

 ジニーに聞かれ、ロンはヘンリーを見た。

 ヘンリーもロンを見返す。

 

「……分からない」

 

 ハーマイオニーが額を押さえた。

 

「それで行くと言っていたの?」

 

「行く方法は、行きながら考えればいいだろ」

 

「あなたの場合、到着する前に問題が増えるのよ」

 

「何かあったのか」

 

 声がして、ロンは振り返った。

 ノットが少し離れたところに立っていた。

 

 何冊かの本を抱えている。普段なら、他人の騒ぎにわざわざ近寄ってくるような男ではない。

 だが、床に散らばった本と、額を押さえるヘンリーを見て足を止めたらしい。

 

「みんな顔色が悪いぞ」

 

「父さんが神秘部で襲われたってハリーが」

 

 ロンが言うと、ノットはヘンリーへ視線を移した。

 

「見たのか?」

 

「傷が痛んで、頭の中に入ってきた」

 

 ノットはしばらく黙っていた。

 何かを考えるとき、ノットの顔からは余計な表情が消える。

 

 ロンは、ノットとそれほど親しいわけではなかった。

 

 同じ授業に顔を出していても、ノットとは話す機会がない。ロンはスリザリン生が全員嫌なやつだと思っているときもあったからだ。

 

 それでも、知らない相手ではない。

 

 たしか、去年のユールボールでノットはマインと一緒にダンスを踊っていた。ドラコがユールボールに行くのを渋っていたマインのために見つけたスリザリン生だ。

 ドラコは、他人の服装にはすぐ文句をつけるくせに、人間そのものについてはさらに疑り深い。そんなドラコが長くそばに置いている相手なら、少なくとも友人の父親が襲われたときに、面白半分で近づいてくるような男ではない。

 

 ロンはそう思った。

 

「魔法省へ行きたいのか」

 

 ノットが尋ねた。

 

「ああ。でも、ホグワーツからどうやって行けばいいのか分からない」

 

「ジェドゥソール先生が課外授業で使った部屋に、姿をくらますキャビネット棚がある」

 

 ハーマイオニーが目を細めた。

 

「どうして知ってるの?」

 

「ジェドゥソール先生の課外授業で見た」

 

「そんなのあったかしら」

 

 ノットは抱えていた本を窓枠へ置いた。

 

「片方は城にある。もう片方はボージン・アンド・バークスだ」

 

「ノクターン横丁?」

 

 ジニーが眉を上げる。

 

「どうして、そんな店と学校がつながってるの?」

 

「ジェドゥソール先生だからだろ」

 

 ロンが言うと、誰も反論しなかった。

 

 説明として強すぎた。

 ハーマイオニーだけは、まだノットを見ていた。

 

「ドラコの友達だろ? そんなに悪いやつじゃないって」

 

「ドラコが信用しているからといって、無条件に信じていいわけじゃないわ」

 

「でも、誰も知らない道を探すよりはましだろ」

 

「罠かもしれないのよ」

 

「父さんがいるかもしれないんだ」

 

 ハーマイオニーの唇が引き結ばれた。

 納得したわけではない。

 だが、反対してロンとヘンリーだけで行かせる方が危険だと判断したらしい。

 

「案内してくれ」

 

 ヘンリーが言った。

 ノットは額の傷を見たまま、短くうなずいた。

 

 ノットに連れていかれて部屋に入ると、部屋はがらんとしていた。

 

 机も椅子もなく、壁際に黒いキャビネット棚だけが置かれている。表面には金色の蔦が彫られ、閉じた扉の隙間から冷たい風が漏れていた。

 

「一人ずつ入るの?」

 

 ジニーが扉を開けた。

 

 中は、人一人が立てる程度の広さしかない。

 

「一人ずつだ」

 

 ノットが答える。

 

「着いた先で待て。途中で扉を開けるな」

 

「途中って何だよ」

 

「途中は途中だ」

 

 また、答えになっていなかった。

 

 最初にノットが入り、内側から扉を閉めた。

 

 棚が低く唸り、床が一度だけ震える。

 

 しばらくして扉を開けると、中は空になっていた。

 

「私が行く」

 

 ジニーがさっさと中へ入る。

 こういうときの妹は、止めるより先に消える。

 ハーマイオニー、ヘンリーと続き、最後にロンが入った。

 

 扉を閉じる。

 闇が全身へまとわりついた。

 

 足元が消え、胃が喉まで持ち上がる。細い筒の中を、誰かに襟首をつかまれて引きずられているようだった。

 次の瞬間、靴底が硬い床にぶつかった。

 

「早く出ろ」

 

 ノットに腕を引かれ、ロンはキャビネット棚の外へ転がり出た。

 古い棚と不気味な仮面が並ぶ、薄暗い店だった。

 ガラスケースの中には黒ずんだ手が置かれ、壁には人間の骨らしきものが吊られている。

 

「二度と使いたくない」

 

 ロンが腹を押さえる。

 

「帰りもこれよ」

 

 ハーマイオニーは店の入口を確かめながら言った。

 

「父さんを助けたあとなら、歩いて帰る」

 

「ロンドンから?」

 

「途中で箒を買う」

 

 ジニーがあきれたようにため息をついた。

 

「箒を買うお金なんてないくせに馬鹿ね。そもそもマグルに見つかっちゃうでしょ」

 

 店内に人の気配はなかった。

 ノットが裏口の鍵を開ける。

 

 外へ出ると、細い路地の石畳は湿り、頭上には洗濯物のように黒い布が垂れていた。どの店の窓にも、買った瞬間から不幸になりそうな品が並んでいる。

 ヘンリーは歩きながら、何度も額へ触れていた。

 

「まだ見えるのか、ハリー?」

 

 ロンが聞く。

 

「いや。でも、痛みは消えてない」

 

「急ごう」

 

 漏れ鍋を抜け、マグルの通りへ出た。

 ハーマイオニーが車道へ向かって片手を上げると、黄色い明かりをつけた車が止まった。

 

「何で今止まったんだ? どんな魔法だ?」

 

「タクシーよ」

 

「魔法省へ行くのか?」

 

「近くまでね」

 

 運転手は、ローブ姿の学生五人を見ても何も言わなかった。

 ロンドンでは、関わらない方がいいものを見分ける力が必要なのかもしれない。

 ジニーとロンが後部座席へ押し込まれ、ヘンリーとノットまで乗り込む。ハーマイオニーは助手席へ座った。

 

「赤い電話ボックスのある通りまでお願いします」

 

 運転手がミラー越しに五人を見た。

 

「仮装大会かい?」

 

「学校行事です」

 

 ハーマイオニーは一切迷わなかった。

 

 車を降りた先に、古びた赤い電話ボックスがあった。

 曇ったガラスの狭い箱へ五人で入ると、肩と肘がぶつかった。

 

「番号は?」

 

 ハーマイオニーが受話器を取った。

 

「六、二、四、四、二」

 

 ジニーが答える。

 

「父さんが前に教えてくれた」

 

 数字を回すたび、受話器の奥で機械音が鳴った。

 やがて、冷たい女の声が響く。

 

『魔法省へようこそ。お名前とご用件をお話しください』

 

「ロン・ウィーズリー。父親の救出」

 

『ご用件を確認できませんでした』

 

「父親の救出だ!」

 

『ご用件を確認できませんでした』

 

「魔法省職員の緊急救助」

 

 ハーマイオニーが横から言った。

 

『確認しました』

 

「最初からそれを言えよ」

 

「あなたが叫ぶ前に言う隙がなかったのよ」

 

 足元が揺れた。

 電話ボックスが地面の下へ沈み始める。

 地上の光が上へ遠ざかっていく。

 ヘンリーは壁に背を預け、目を閉じていた。赤い光が顔を横切るたび、額の傷だけが別の生き物のように脈打って見えた。

 

 電話ボックスが止まり、扉が開いた。

 魔法省のアトリウムには、誰もいなかった。

 磨かれた黒い床に、五人分の足音だけが響く。

 受付にも、警備員の机にも人影はない。

 

「おかしいわ」

 

 ハーマイオニーが杖を抜いた。

 

「いくら遅くても、誰かはいるはずよ」

 

「襲撃されて、避難したのかもしれない」

 

 ロンはそう言ったが、自分でも納得できなかった。

 

 争った跡がない。

 椅子は倒れていない。壁も焦げていない。血も落ちていない。

 最初から誰も働いていなかったように、魔法省全体が空になっている。

 

「神秘部はこっちだ」

 

 ノットがエレベーターを指した。

 五人は走った。

 

 エレベーターは地下九階で止まった。

 正面には、取っ手のない黒い扉があった。

 ヘンリーが近づくと、扉は音もなく開いた。

 

 その先は円形の部屋だった。

 壁一面に同じ扉が並び、どれも見分けがつかない。

 

「どれだ?」

 

 ロンが聞く。

 ヘンリーは迷わず、一つを指した。

 

「あれだと思う」

 

「どうして?」

 

「分からない。でも、こっちだ」

 

 扉を開ける。

 

 石造りの階段が中央へ向かって下り、その底には古い石のアーチが立っていた。

 

 アーチから垂れ下がる黒い布が、風もないのに揺れている。

 向こう側には何もない。

 

 そう見えるのに、誰かが立っているような気がした。

 

「待って」

 

 ノットが足を止めた。

 

「何だよ」

 

「声がする」

 

 ロンは耳を澄ませた。

 

 靴底が石をこする音と、ジニーの呼吸しか聞こえない。

 

「誰の声?」

 

 ハーマイオニーが尋ねた。

 

「分からない」

 

 ノットはアーチを見たまま、階段を一段下りた。

 

「呼ばれてる」

 

「誰もいないわ」

 

「いる」

 

 ノットの声は、いつもと同じように平坦だった。

 それなのに、返事をしている相手がロンたちではないように聞こえた。

 

「セオドール」

 

 ヘンリーが振り返った。

 

「今は行かないと」

 

 ノットはしばらく動かなかった。

 

 やがてアーチから目を離し、四人のあとを追った。

 部屋を出る直前にも、一度だけ振り返った。

 

 次の部屋には、時計があった。

 壁にも、棚にも、机の上にも、大小さまざまな時計が置かれている。

 

 無数の針の音が重なり、雨音のように降り注いでいた。

 部屋の奥では、透明なクリスタルの釣鐘が淡く光っている。

 

 その中に、一個の卵が浮いていた。

 

「何、これ」

 

 ジニーが近づく。

 

 卵がゆっくりと上昇した。

 釣鐘の上部まで昇ったところで殻にひびが入り、中から小さなハチドリが飛び出す。

 鳥は羽ばたきながら下降し、底へ近づくにつれて羽が縮み、くちばしを失い、再び卵へ戻った。

 

「触らないで」

 

 ハーマイオニーがジニーのローブを引いた。

 

「触ってないわよ」

 

「触ろうとしていたでしょう」

 

「近くで見ようとしただけ」

 

「杖を持った手を伸ばしながら?」

 

「すぐ疑うんだから」

 

「ここでは全部疑って」

 

 ヘンリーは釣鐘を見つめていた。

 

「父さんはどこだ」

 

 時計の音に負けないよう、ロンは声を上げた。

 

「蛇はどこにいたんだ?」

 

「この先だ」

 

 ヘンリーが奥の扉を指した。

 

「棚がある。見た場所と同じだ」

 

「九十七列目だ」

 

 ノットが言った。

 

 ロンは、扉へ向けていた足を止めた。

 

「何が?」

 

「九十七列目へ行けばいい」

 

「どうして知ってるんだ?」

 

 ノットはロンを見た。

 自分が何を口にしたのか、今気づいたような顔だった。

 

「ハリーが言った」

 

「言ったっけな」

 

 ヘンリーが首を振った。

 

「僕は棚があったとしか言ってない」

 

 時計の針が一斉に動いた。

 無数の音が重なり、部屋全体が軋んだように聞こえる。

 

 ハーマイオニーがノットへ杖を向けた。

 

「誰から聞いたの?」

 

「知らない」

 

「知らないはずがないでしょう」

 

「本当に分からない」

 

 ノットはわずかに眉を寄せた。

 

「でも、九十七列目だ。そこに行かないといけない」

 

「誰が?」

 

 ジニーが聞いた。

 ノットは答えなかった。

 

「父さんがいるかもしれない」

 

 ロンは扉を開けた。

 

「話はあとだ」

 

「ロン!」

 

「ここまで来たんだぞ!」

 

 扉の向こうには、果てが見えないほど長い棚が並んでいた。

 

 一つ一つの棚に、曇ったガラス玉が置かれている。玉の下には、黄ばんだ札がついていた。

 光はほとんどない。

 棚の番号だけが、青白く浮かんでいる。

 

 五人は走った。

 

 三十列。

 

 五十二列。

 

 七十四列。

 

 何度父を呼んでも、返事はない。

 

 血の跡も、蛇が這った跡もなかった。

 

「九十七」

 

 ジニーが番号を見つけた。

 

 ロンは棚の間へ飛び込んだ。

 

「父さん!」

 

 誰もいない。

 

 棚だけが、暗闇の中へ続いていた。

 

「父さん!」

 

 声は遠くへ吸い込まれ、返ってくるのは自分の声だけだった。

 

「いない……」

 

 ヘンリーが立ち尽くした。

 

「そんなはずない。ここだった。絶対にここだったんだ」

 

「場所を間違えたのかもしれないわ」

 

 ハーマイオニーは周囲へ杖を向けたまま言う。

 

「戻るわよ。すぐに。これは――」

 

「待って」

 

 棚の中に、見覚えのある名前があった。

 

 手を伸ばせば届く高さに置かれたガラス玉。

 

 その下の札に、細い文字が刻まれている。

 

「ハリー」

 

 ロンは札を指した。

 

「お前の名前がある」

 

 ヘンリーが近づき、札をのぞき込んだ。

 

「ハリー・ポッター……」

 

 自分とは関係のない名前を読むような声だった。

 

「僕はヘンリーだ」

 

「でも、これ、お前のことだろ」

 

「貸して」

 

 ノットが後ろから言った。

 

「暗くて、よく見えない」

 

 ヘンリーは棚へ手を伸ばした。

 

「触らないで!」

 

 ハーマイオニーが叫ぶ。

 

 だが、ヘンリーの指はもうガラス玉を包んでいた。

 

 棚から持ち上げても、何も起こらなかった。

 

 ヘンリーは玉を見つめ、それからノットへ振り返る。

 

「これのこと?」

 

 ノットが手を差し出した。

 

 ヘンリーは、その掌へガラス玉を載せた。

 

 ノットの指が閉じる。

 

「セオドール?」

 

 ハーマイオニーの声が硬くなった。

 

 ノットは答えなかった。

 

 ガラス玉を光へかざし、札の文字を確かめる。

 

 それから慎重な手つきで、ローブの内側へしまった。

 

「それ、返せよ」

 

 ロンは杖を抜いた。

 

 ノットが一歩下がる。

 

 その背後で、靴音が鳴った。

 

 一つではない。

 

 左右の棚の奥から、黒いローブをまとった影が次々に現れる。青白い光を受け、銀色の仮面が闇の中に浮かび上がった。

 

 ハーマイオニーとジニーも杖を構える。

 

 ヘンリーだけが、まだ信じられないようにノットを見ていた。

 

「どうして」

 

 ノットは答えず、死喰い人たちの方へ歩いていった。

 

 ロンたちとの間に、はっきりと距離を置く。

 

 ドラコが信用していた男だった。

 マインと踊った男だった。

 だから、少なくとも自分たちを罠へ連れていくような男ではないと、ロンは思っていた。

 

 ノットは肩越しに振り返った。

 廊下で見せていた心配そうな顔は、もうどこにもない。

 

 口元だけをわずかに曲げる。

 

「僕のおつかいに付き合ってくれてありがとう、ヘンリー・ポーター」

 

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