本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:パラプリュイ

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ハリー視点(?)



100話 ハリー・ポッターという英雄

 

 英雄というものは、友の裏切りに直面したときほど、美しく微笑まなければならない。

 怒りに顔を歪めてはいけない。泣き叫ぶなど論外だ。胸を引き裂かれるような悲しみを静かに押し隠し、それでもなお、闇へ堕ちた友を救おうと手を差し伸べる。

 

 それでこそ、真の英雄である。

 

 僕──ヘンリー・ポーターは、杖を向けてきたセオドール・ノットを見つめた。

 信じていた友の変わり果てた姿を目にしても、僕は取り乱さなかった。

 

「どうしてだ、セオドール」

 

 声はよく響いた。

 責めるだけではない。悲しみと慈悲を含み、それでも正義を曲げることのない声だった。

 

「君だけは信じられると思っていた」

 

 セオドールが眉を寄せた。

 

「なぜだ」

 

「なぜって、僕たち親友だったじゃないか!」

 

 僕は、彼との思い出を振り返ろうとした。

 

 セオドールとは──。

 

 同じホグワーツで学んだ。

 同じ廊下を歩いた。

 大広間で何度か顔を合わせた。

 

 舞踏会では、ローゼマインと踊っていた。礼装に身を包んだ彼は実に優雅で、寡黙な青年特有の影があり、どこか心に傷を抱えていそうでもあった。

 僕たちは言葉にせずとも互いを理解し、互いの背中を預け合い、時には夜明けまで将来を語り──。

 

「お前、あいつとそんなに仲良くないぞ」

 

 ロンが言った。

 

「え?」

 

 ロンの言葉で僕は現実に戻った。

 

「ほとんど話したことないだろ」

 

「しかし、裏切られたことに変わりはない」

 

「仲間じゃなかったやつに裏切られるって何だよ」

 

 確かに、僕たちは親友ではなかったかもしれない。

 だが、ショックなものはショックだった。

 それに、友情とは交わした言葉の数だけで測れるものではない。遠くから互いの生き方を認め合う関係もあるのだ。

 セオドールが僕を認めていたかどうかは、この際さほど重要ではない。

 

「こんなことをして、闇の帝王に怒られないの?」

 

 ハーマイオニーが鋭く尋ねた。

 セオドールは、口元だけで笑った。

 

「怒られる?」

 

 彼は両腕を広げた。

 まるで舞台に立つ役者が、満場の観客へ正体を明かすかのような仕草だった。

 

「僕こそが、闇の帝王だ」

 

 重苦しい声が、広間に響いた。

 僕は息をのんだ。

 

 まさか、身近な友が世界を脅かす宿敵だったとは。

 それならば、僕が彼に感じていた友情も、運命によって与えられた最後の救済だったのかもしれない。

 

 ジニーが即座に杖を突きつけた。

 

「ハリーを騙そうとしても無駄よ!」

 

 ハリー。

 また、その名前だった。

 

 最近、周囲の者たちは、なぜか僕をそう呼びたがる。

 きっと、過酷な運命に翻弄される僕を心配するあまり、混乱しているのだろう。

 

「ヴォルデモート本人はハリーにそう思わせたいってことね」

 

 ハーマイオニーは冷静だった。

 セオドールの笑みが、ほんの少しだけ固まった。

 

 ヴォルデモート。

 誰だろう。

 

 聞き覚えがある気もした。

 

 その名前を頭の中で繰り返した瞬間、額に痛みが走った。

 

 緑色の光。

 女の悲鳴。

 一瞬だけ浮かんだ光景は、すぐに金色の靄へ覆われた。

 

 思い出せないものは、今は考えなくていい。

 英雄には、目の前の苦難へ立ち向かう義務がある。

 

「君が何者を名乗ろうと関係ない」

 

 僕は一歩前へ出た。

 

「僕は君の企みを止める」

 

 よく決まった。

 多少髪が乱れているのが惜しいが、険しい表情にはかえって似合っているかもしれない。

 

「あら、素敵」

 

 甲高い笑い声が聞こえた。

 セオドールの背後から、長い黒髪の女が姿を現した。

 

「ベラトリックス、あまり人質を虐めるな」

 

 セオドールが女に言った。

 ベラトリックスはわざとらしく腰を折った。

 

「仰せのままに、わが君」

 

 彼女はセオドールの部下らしい。

 その杖の先には、一人の男が倒れていた。

 

「父さん!」

 

 ロンが叫んだ。

 

 アーサー・ウィーズリーは、黒い鎖で床に縛りつけられていた。

 ローブは裂け、額から流れた血が頬を濡らしている。胸は浅く上下し、鎖の間から見える腕には、蛇に噛まれたような黒紫色の傷が残っていた。

 

 ベラトリックスが杖を振った。

 

「クルーシオ!」

 

 アーサーさんの背中が弓なりに反った。

 

 鎖が石床を打ち、甲高い音を立てる。

 悲鳴が彼の喉の奥から絞り出された。

 ロンが飛び出した。

 ハーマイオニーとジニーが両側から腕をつかんだが、止めきれない。

 

「離せ!」

 

「今行ったら、あなたまで捕まるわ!」

 

「父さんを放せ!」

 

 ロンの顔から血の気が引いていた。

 いつもの赤毛の友人らしい陽気さは、どこにも残っていない。

 ベラトリックスは楽しそうに笑った。

 

「見て見て、坊や。パパが苦しんでいるよ。いいのかい、このままで?」

 

「殺してやる!」

 

「ロン!」

 

 僕は彼の前に腕を伸ばした。

 

 英雄には、怒りに我を忘れた友を止める役目もある。

 

「落ち着け。必ず助ける」

 

「お前に言われなくても助ける!」

 

 感謝を表現する余裕がないらしい。

 無理もない。

 

 セオドールが杖をアーサーさんへ向けた。

 

「解放してほしいなら、条件がある」

 

「何だよ」

 

「君のコラムだ」

 

 ロンの動きが止まった。

 

「……は?」

 

「これまで書いた原稿、今後発表する作品、その翻案権、出版権、再版権。すべてをこちらへ譲渡しろ」

 

 数秒、誰も言葉を発しなかった。

 ハーマイオニーが先に口を開いた。

 

「アーサーさんを人質にして、著作権を奪うつもりなの?」

 

「正確には、著作財産権の一切だ」

 

「そこを正確に言い直す必要ある!?」

 

 ジニーの声が裏返った。

 

「ふざけるな!」

 

 ロンが吠えた。

 

「父さんを放せ!」

 

「署名すれば解放する」

 

「信用できるわけないだろ!」

 

「君に選択肢があると思うのか」

 

 セオドールが指を動かした。

 ベラトリックスの杖が、再び持ち上がる。

 

 その瞬間、広間の扉が吹き飛んだ。

 砕けた木片と黒い煙の間を、銀色の光が走る。

 ベラトリックスの杖が弾かれ、宙を回転して床へ落ちた。

 

「父親を人質にして息子の原稿を奪うとは、ずいぶん野蛮だな」

 

 シリウスが、煙の向こうから現れた。

 隣にはルーピン先生。

 その後ろから、不死鳥の騎士団の魔法使いたちが次々となだれ込んでくる。

 

 そして、最後にフェルディナンドが歩いてきた。

 彼だけは走っていなかった。

 周囲で呪文が飛び交い始めても、まるで散らかった部屋へ入ってきたかのように、不機嫌そうに辺りを見回している。

 

「遅いぞ、ムーニー!」

 

「君が一人で先に飛び込んだんだろう!」

 

 シリウスの呪文が死喰い人を吹き飛ばした。

 ルーピン先生がアーサーさんを覆うように防御呪文を張る。ジニーとハーマイオニーも杖を構え、ロンは父親のそばへ近づこうと身を低くした。

 

 僕はセオドールへ杖を向けた。

 かつての友との決着をつける時が来た。

 

「待て」

 

 背後から、襟をつかまれた。

 

「何をするんだ」

 

 振り返ると、フェルディナンドが僕を見ていた。

 眉間の皺が、いつも以上に深い。

 

「お前が戦う相手はこいつではない」

 

「今はそれどころじゃない。セオドールが僕たちを裏切り──」

 

「こいつと親しかったのか?」

 

「いや。ロンによれば、そうでもなかったらしい」

 

「では、なぜ悲劇の主人公のような顔をしている」

 

「裏切りは、関係の深さにかかわらず悲しいものだからだ」

 

 フェルディナンドの目が、さらに冷たくなった。

 

「お前、シリウスのあだ名を知っているか?」

 

「もちろんだ」

 

 シリウスのあだ名は、確か──。

 

 父親同然の大切な名付け親。

 勇敢で、自由を愛し、長い不遇にも屈しなかった男。

 だが、名前が出てこない。

 

「急には出てこないけど、シリウスは僕にとって父同然の大切な名付け親で──」

 

「思い出せないのだな」

 

「そういうわけでは──」

 

 フェルディナンドの視線が、僕の後方へ動いた。

 

 巨大な水晶の釣鐘があった。

 透明な鐘の内部を、白い霧が満たしている。

 中では一羽の鳥が卵へ戻り、殻を破って生まれ、羽ばたき、老いて骨になり、再び卵へ戻っていた。

 

 フェルディナンドがつぶやいた。

 

「ちょうどいい」

 

 ひどく嫌な言い方だった。

 

「何が?」

 

「お前の頭を治す」

 

「僕の頭? 僕は至って正常だ!」

 

「いや、頭がおかしくなっている」

 

 彼は僕の襟をつかんだまま、釣鐘へ歩き始めた。

 

「待ってくれ、フェルディナンド!」

 

「時間がない」

 

「なぜ僕を釣鐘へ近づけるんだ」

 

「記憶に上書きされた異物があるなら、お前自身の時間をさかのぼれば剥がれる可能性がある」

 

 僕は足を踏ん張った。

 

「離してくれ。英雄として、僕には戦う義務が──」

 

「ロックハートの本を朗読しているようで不快だ」

 

 僕が抗議する前に、フェルディナンドが僕の背中を押した。

 目の前に水晶の壁が迫る。

 

 ぶつかる。

 

 そう思って腕で顔をかばった。

 しかし、衝撃はなかった。

 

 釣鐘の表面が水のように揺れ、僕の体を飲み込んだ。

 冷たい霧が鼻と口から入り込む。

 外の戦闘音が遠ざかり、代わりに何百という時計の針が回る音が聞こえた。

 

 僕の指が伸びた。

 爪が伸び、縮み、皮膚に皺が刻まれたかと思えば、次の瞬間には子どもの手へ戻っている。

 

 歯が抜け、また生えた。

 膝が伸び、体が重くなり、急に床が遠くなる。

 

 時間が、逆向きに動き始めた。

 

 

 *

 

 ロックハート先生が笑っていた。

 髪には乱れひとつなく、黄金色の巻き毛が光を受けて輝いている。

 

 真っ白な歯。

 薄紫色のローブ。

 鼻をくすぐる、甘すぎる香水の匂い。

 机の上には何冊もの本が積まれていた。

 

 表紙には、どれも彼自身の顔があった。

 

 笑うロックハート。

 杖を構えるロックハート。

 髪を風になびかせるロックハート。

 

 その脇には、新しい原稿が置かれていた。

 題名はまだない。

 

 けれど、一番上の紙には金色のインクで、僕の名前らしきものが書かれていた。

 

 ヘンリー・ポーター。

 

『君には、もっと美しい物語がふさわしい』

 

 ロックハート先生は椅子から立ち上がり、僕の周りをゆっくり歩いた。

 

『あまりにも多くの大人が、君を利用した。特にダンブルドアだ』

 

 ダンブルドア。

 その名前とともに、白い髭をたくわえた老人の顔が浮かんだ。

 

『君を危険な親戚のもとへ送り、学校では毎年のように命を危険にさらした。そんな老人を、いつまで信じるつもりなのかな?』

 

 僕は何かを言おうとした。

 けれど、舌が重く、言葉にならなかった。

 

『苦しい記憶は、英雄の輝きを曇らせるだけだ』

 

 杖が僕の額に向けられる。

 

『心配しなくていい。私が、世界中から愛される君を書いてあげよう』

 

 金色の光が頭の中へ入ってきた。

 熱くはない。

 むしろ、温かかった。

 

 柔らかな羽毛に包まれ、眠りへ沈んでいくような心地よさだった。

 だからこそ、逃げられなかった。

 

 ロンの顔が金色の文字に変わる。

 忠実な友人に。

 

 ハーマイオニーの声が遠ざかる。

 聡明な少女に。

 

 シリウスは不遇の名付け親に。

 

 ダンブルドアはすべてを操る校長に。

 

 人間だった者たちが、物語の役割へと書き換えられていく。

 

『君は、ヘンリー・ポーター』

 

 違う。

 そう思ったはずなのに、口元は笑っていた。

 

『誰からも愛される英雄だ』

 

 ロックハート先生が満足そうにうなずいた。

 

 時間が巻き戻った。

 

 

 *

 

 

 僕はベッドに寝ていた。

 

 いや、ベッドというほど立派なものではなかった。

 薄い毛布の下には、硬い床がある。

 横を向けば、鼻の先に木の扉があった。扉の内側には、僕が数えた線がいくつも刻まれている。

 

 昨日が何本目だったか、もう分からない。

 頭上から、誰かが階段を上り下りする音が響く。

 靴底の泥が隙間から落ち、毛布の上にぱらぱらと降ってきた。

 

 階段下の物置。

 空気は埃っぽく、古い靴と洗剤の匂いがした。壁際には蜘蛛の巣が張り、暗がりで小さな脚が動いている。

 

 英雄は、孤独な少年時代を乗り越える。

 そういうものだ。

 

 孤独は魂を磨き、困難は人を強くする。

 

 違う。

 僕はただ腹が減っていた。

 

 台所から、焼いたベーコンの匂いが漂ってくる。

 皿が触れ合う音が聞こえてくる。

 ダドリーが追加のソーセージをねだる声にペチュニアおばさんが甘い声でそれに応える。

 

 僕の朝食は、冷えたパンの端だけだった。

 

 寒かった。

 薄い毛布を顎まで引き上げても、床から冷気が染み込んでくる。

 

 トイレへ行きたかった。

 けれど、扉には外から鍵がかけられていた。

 

「出して」

 

 小さな拳で扉を叩く。

 

「おばさん。出してよ」

 

 返事はない。

 

 もう一度叩くと、頭上でダドリーが足を踏み鳴らした。

 

「うるさいぞ!」

 

 階段が揺れ、埃が落ちてくる。

 外から笑い声が聞こえた。

 

 時間が進む。

 

 僕は少し大きくなっていた。

 台所でフライパンを握っている。

 油が跳ね、手の甲に赤い点ができた。

 

「焦がすんじゃないぞ」

 

 バーノンおじさんが新聞の向こうから怒鳴った。

 ダドリーは椅子に座り、僕の眼鏡を片手でぶら下げている。

 

「返せよ」

 

「取ってみろよ」

 

 僕が手を伸ばすと、ダドリーは笑って眼鏡を床へ落とした。

 靴底が、片方のつるを踏んだ。

 乾いた音がした。

 

 視界が滲んだ。

 

 英雄の試練ではない。

 僕は、いじめられていた。

 

 腹が立っていた。

 悔しかった。

 僕は、助けてほしかった。

 なのに、誰も来なかった。

 

 そのとき、別の記憶が浮かんだ。

 

 白い髭。

 三日月形の眼鏡。

 ダンブルドア。

 

 僕をこの家へ送ったのは、あの人だ。

 なぜ、ここだったのだろう。

 魔法使いの家ではなく、僕を嫌う人たちの家。

 

 なぜ、僕を一度も迎えに来なかったのだろう。

 分からない。

 けれど、ダンブルドアには何か理由があったに違いない。

 

 そう思いたかった。

 

 あの人ほど賢い魔法使いが、何の理由もなく僕をここへ置くはずがない。

 僕が知らないだけだ。

 きっと、僕を守るために必要なことだった。

 

 そうでなければ──。

 

 階段下の暗闇が、急に狭くなった。

 そうでなければ、僕はなぜ、ここで十年も待っていたのだろう。

 

 時間が巻き戻った。

 

 

 *

 

 

 緑色の光が見えた。

 

 僕は赤ん坊だった。

 泣き声を上げても、言葉にはならない。

 

 女の人が、僕を抱いていた。

 

 胸に押しつけられ、早鐘のように鳴る心臓の音を聞いている。

 

 彼女の髪が頬に触れた。

 赤い髪が汗と涙で頬に張りついていた。

 

 部屋の外で、何かが倒れる音がした。

 

 男の声。

 短い叫び。

 

 足音が階段を上ってくる。

 女の人が僕をベッドへ置いた。

 震える手で僕の頬に触れる。

 

『大丈夫よ、ハリー』

 

 ハリー。

 

 彼女はそう呼んだ。

 

『愛しているわ』

 

 扉が開く。

 黒い影が入ってきた。

 

『退け』

 

 高く、冷たい声だった。

 母さんは首を振った。

 

『この子だけは』

 

『退け』

 

『お願い。この子だけは。私を殺して』

 

 母さんの背中が、僕の視界を塞いでいた。

 英雄の母らしく、美しく命を捧げたのではない。

 

 彼女は泣いていた。

 声を震わせていた。

 怖かったはずだ。

 それでも、退かなかった。

 

 緑の光が母さんの体を包んだ。

 彼女の膝が折れる。

 赤い髪が床へ広がった。

 

 僕は泣いた。

 

 手を伸ばした。

 指先は、何にも届かなかった。

 黒い影が僕を見下ろす。

 

 ヴォルデモートだ。

 

 その名前を思い出した瞬間、額の傷が内側から裂けるように痛んだ。

 

 杖先に緑の光が集まる。

 ヴォルデモートは僕を殺そうとした。

 母さんが守った。

 

 呪文が放たれた。

 世界が白く弾ける。

 次に見えたとき、黒い影は消えていた。

 僕は泣きながら、床に倒れた母さんを見ていた。

 誰も僕を抱き上げなかった。

 

 時間がまた巻き戻った。

 

 

 *

 

 

 ロックハート先生が笑っていた。

 

『君は、ヘンリー・ポーター』

 

 違う。

 

 時間が戻る。

 

 階段下の物置。

 

 時間が戻る。

 

 緑の光。

 母さんが倒れる。

 

 時間が進む。

 

 汽車の窓を、秋の田園風景が流れていた。

 向かいの席に、赤毛の少年が座っている。

 少年は膝の上に、潰れた包みを置いていた。

 

『これ、食べる?』

 

 包みを開く。

 

 中には、少し乾いたコンビーフのサンドイッチが入っている。

 

『母さん、いつもコンビーフなんだ。僕、あんまり好きじゃないけど』

 

 僕の膝の上には、車内販売で買った菓子が山ほど積まれていた。

 

 蛙チョコレート。

 百味ビーンズ。

 大鍋ケーキ。

 

 その半分を、僕は彼の座席へ押しやった。

 少年の目が丸くなる。

 

『本当に?』

 

『一人じゃ食べきれないから』

 

 本当は、一人で食べてもよかった。

 自分の金で好きなものを買ったのは、初めてだった。

 けれど、誰かと分けた方が楽しかった。

 蛙チョコレートが箱から跳び出し、窓へぶつかる。

 

 少年が笑った。

 僕も笑った。

 

 忠実な友人ではない。

 英雄に付き従う脇役でもない。

 

『僕、ロン。ロン・ウィーズリー』

 

 ロンは僕の最初で最高の友達だった。

 

 時間が進む。

 

 

 *   

 

 女子トイレは、ひどい臭いがした。

 湿った石壁。

 割れた洗面台。

 床には水が広がり、巨大な足が踏みつけるたびに波紋が揺れる。

 トロールが棍棒を振り上げた。

 

 隅で、髪の多い女の子が身を縮めている。

 目は泣き腫らされ、頬には涙の跡が残っていた。

 

 僕とロンは、考えてここへ来たわけではない。

 英雄だから助けようとしたのでもない。

 ただ、彼女がここにいると知って、置いていけなかった。

 

『杖を鼻に突っ込め!』

 

『そんなの授業で習ってないぞ!』

 

『いいからやれ!』

 

 棍棒が振り下ろされる。

 

 僕はトロールの背中へ飛びついた。

 大きな音とともに、トロールが倒れた。

 先生たちが駆け込んできたとき、ハーマイオニーは震えながら前へ出た。

 

『私が悪いんです』

 

 彼女は、僕たちを庇うために嘘をついた。

 それと同時に、なぜ女子トイレに一人でいたのかも言わなかった。

 

 泣いていたことを知られたくなかったのだ。

 

 彼女は聡明な少女ではない。

 意地っ張りで、融通が利かず、傷ついていた女の子だ。

 

 ハーマイオニー。

 

 その夜から、僕たちは三人になった。

 

 時間が進む。

 

 

 *

 

 

 冷たい石床に膝をついていた。

 巨大な蛇の像が、闇の中からこちらを見下ろしている。

 

 三大魔法学校対抗試合の第三の課題。

 

 迷路で触れた日記が、僕とフェルディナンドを秘密の部屋へ運んだ。

 

 湿った空気。

 床を這う水。

 石柱に彫られた蛇。

 

 目の前には、ヴォルデモートがいた。

 

 赤い目が僕を見ている。

 額の傷が、熱した針を差し込まれたように痛んだ。

 

 フェルディナンドは僕の前へ立ち、杖を構えていた。

 その背中越しに、ヴォルデモートの杖が見えた。

 

 そこへマインとトムが現れた。

 マインの顔には焦りがあり、トムはヴォルデモートを睨んでいた。

 マインは本棚の魔法で死喰い人を蹴散らし、トムは死喰い人たち複数人を相手にした。

 僕も何かしなければならない。

 

 そう思って杖を上げた。

 ヴォルデモートの杖から緑の光が放たれる。

 僕も呪文を叫んだ。

 二本の杖から伸びた光が空中で衝突し、糸のようにつながった。

 

 杖が震える。

 指が痺れる。

 腕が引きちぎられそうになる。

 

 光の糸の中で、人の声がした。

 

『ハリー、杖を離さないで』

 

「母さん?」

 

 その隣に、眼鏡をかけた黒髪の男が現れた。

 

『ハリー、よく耐えたな』

 

「父さん……」

 

『何が起きても、奴の言葉を信じるな』

 

 ヴォルデモートが杖を握ったまま、空いている手を伸ばした。

 周囲の闇が捻れ始める。

 

『生きるのよ』

 

 世界が押し潰された。

 父さんと母さんの姿も、秘密の部屋も、金色の光も、すべてが闇の中へ引き延ばされていく。

 

 

 *

 

 

 ロックハート先生が笑っていた。

 

『君は、ヘンリー・ポーター』

 

「違う」

 

 杖が光る。

 

 ロンの記憶が消えかける。

 僕は、それをつかんだ。

 

『忠実な友人だよ』

 

「ロンだ」

 

 ハーマイオニーの顔が、金色の文字へ変わる。

 

『聡明な少女』

 

「ハーマイオニーだ」

 

 母の名前が英雄の母という一文へ変わる。

 

『美しく勇敢な母親』

 

「母さんだ。リリー・ポッターだ」

 

 黒髪の男が、勇敢な父という言葉へ変わる。

 

「父さん。ジェームズ・ポッター」

 

 時間が戻る。

 

 階段下の物置。

 

 時間が進む。

 

 ホグワーツ特急。

 トロール。

 秘密の部屋。

 緑の光。

 杖と杖が繋がってできる光。

 

 何度繰り返したか分からない。

 

 十回か。

 百回か。

 千回だったかもしれない。

 

 そのたびに時間を繰り返した。

 

 背が伸びた。

 髪が白くなった。

 指に皺が刻まれた。

 

 次の瞬間には、言葉も話せない赤ん坊へ戻っていた。

 自分の人生を、何十年分も生き直したような気がした。

 

 そのたびに、ロックハートは僕をヘンリーと呼んだ。

 そのたびに、僕は違うと心の中で答えた。

 

 ヘンリー・ポーターは、いつも美しい言葉を知っていた。

 誰からも愛され、どんなときも微笑み、迷うことなく正しい選択をした。

 

 僕は違う。

 

 怒った。

 嫉妬した。

 間違えた。

 怖くなった。

 友達にひどいことも言った。

 

 ダンブルドアがなぜ僕をダーズリー家へ送ったのか、今も分からない。

 きっと、何か理由があったのだと思う。

 

 そうであってほしい。

 

 それでも、階段下で怖かったことは消えない。

 

 父さんと母さんが殺されたことも。

 ロックハートに奪われた時間も。

 立派な物語には変えられない。

 

 それらは全部、僕の人生だった。

 

『君は、ヘンリー・ポーター』

 

「違う」

 

 僕は、金色の文字を引き裂いた。

 

 ロンが初めて名乗ったあと、僕も返した名前。

 ハーマイオニーが怒るときに呼ぶ名前。

 シリウスが、ジェームズ・ポッターの面影を探しながら呼んだ名前。

 父さんと母さんがつけてくれた名前。

 

「僕は、ハリー・ポッターだ」

 

 白い霧の向こうから、手が伸びてきた。

 

「つかめ!」

 

 フェルディナンドの声だった。

 

 僕はその手をつかんだ。

 

 

 *

 

 

 強い力で、釣鐘の外へ引きずり出された。

 床に転がり、肩を打つ。

 息を吸うと、肺が焼けるように痛んだ。

 辺りでは、まだ戦闘が続いている。

 

 ルーピン先生がアーサーおじさんを守り、ハーマイオニーとジニーがベラトリックスを牽制している。

 ロンは父親の鎖を外そうと、床に膝をついていた。

 

 シリウスの呪文が死喰い人を壁へ吹き飛ばした。

 

 シリウスのあだ名はパッドフットだ。怒っているときは黒犬閣下。

 こんなすぐに思い出せるじゃないか。

 

 何十年も経ったような気がしたのに、外では数分しか過ぎていないらしい。

 

 フェルディナンドが僕の襟をつかみ、顔をのぞき込んだ。

 

「気分はどうだ?」

 

 僕は咳き込みながら、彼を睨んだ。

 

「ああ、最高の気分だよ。今すぐヴォルデモートとロックハートをまとめてぶっ殺せたら、もっと最高だけどな」

 

 フェルディナンドは僕から手を放して笑った。

 

「それでこそ、ハリー・ポッターだ」

 





記念すべき100話目にハリー・ポッターが戻ってきました!

おかえり、ハリー!

ヘリポうざすぎて読者に申し訳ないなと思いながらもそのうざさを楽しんでいる作者がいました。お待たせしてすみません。
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