ハリーが神秘部からホグワーツへ戻って、一週間が経った。
その一週間で分かったのは、自分が正気に戻ったところで、周囲まで元通りになるわけではないということだった。
むしろ、以前より面倒になっていた。
帰還した翌朝、ハリーが大広間へ入ると、談笑していた生徒たちが一斉に振り返った。
次の瞬間、拍手が起きた。
ハリーは扉の前で足を止めた。
英雄扱いには慣れている。赤ん坊の頃に闇の帝王を倒したことになっていた時から、自分の知らない功績で褒められてきた。
だが今回は、自分の知っている失敗まで新聞になっていた。
『神秘部決戦、闇の帝王復活を目撃』
羽ペン通信ホグワーツ版の一面には、パドマとアーニーの連名で記事が載っていた。
神秘部へ向かった経緯。
死喰い人との戦闘。
白銀卿とダンブルドアの決闘。
そして、ロックハートによる記憶改変。
記事は腹立たしいほど正確だった。
『ハリー・ポッター氏は忘却術を受けながらも自らの名を取り戻し、「僕はハリー・ポッターだ」と宣言した』
その一文だけ、見出しと同じ大きさで印刷されていた。
ハリーは新聞を裏返した。
「格好いいじゃん」
向かいでロンが言った。
「自分で言った台詞を、こんなに大きく印刷されてみろよ」
「僕の台詞なんて、きっとパドマが全部削ったさ。あーあ」
ロンは残念そうに言いながら、トーストへバターを塗っていた。
全国版では、さらに理解しがたいことが起きていた。
ファッジが、白銀卿と闇の帝王は別人である可能性があると口走ったせいで、二人は別人だという説が広まり始めていたのだ。
白銀卿は白銀の髪を持つ美男子であり、闇の帝王は鼻のない怪物なので、同一人物とは考えにくいらしい。
顔で判断するな、とハリーは思った。
自分はしばらく、ロックハートのせいで性格どころか髪型と口調まで変えられていた。
アンブリッジもまた、死喰い人による偽取材を早期に公表した功績で、一躍時の人になっていた。
『魔法省の良心』
『情報工作を見破った女性政治家』
『次期魔法大臣候補、ドローレス・アンブリッジ氏』
ハリーは三度読み返したが、文字は変わらなかった。
「誰がアンブリッジを魔法大臣にしたがるんだよ」
「ダンブルドアも支援するかもしれないそうよ」
ハーマイオニーが平然と言った。
「それ、誰から聞いたんだ?」
「ロメルダ」
ちょうどそのロメルダは、アンブリッジと恋愛小説を交換する約束があると言って、大広間から出ていくところだった。
ハリーは追いかける気力を失った。
政治よりも、身近な問題の方が深刻だった。
ヘンリー・ポーターが、ハリーの周囲を荒らしすぎていたのだ。
「サインをお願いします!」
三年生の女子生徒が、朝食中のハリーへ一冊の本を差し出した。
表紙には、白いマントを翻す自分の顔が描かれていた。
『ヘンリー・ポーターとブラック家の当主』
「それは僕じゃない」
「でも、顔はハリー先輩ですよね?」
「勝手に使われただけだよ」
「ハリー・ポッターって書くだけでいいんです」
「どうして?」
「あなたのサインが欲しいからです!」
以前からコリン・クリービーのような熱心なファンはいた。
だが、ヘンリーだった頃のハリーは、自分からサインを配り、写真撮影にも応じ、羽根ペンを指先で回してから名前を書いていたらしい。
今のハリーには、一つもできなかった。
「ヘンリー先輩は、もっと素敵に笑ってくれました」
女子生徒は残念そうに本を閉じた。
「そいつは偽物だ」
「でも、格好よかったです」
彼女は本を抱えて去っていった。
偽物の自分と比べられて負けるのは、思っていた以上に腹が立った。
恋愛も元には戻らなかった。
ハリーはチョウを呼び出し、記憶を操作されていた間のことを謝った。
急に態度を変えたこと。
彼女を傷つけたこと。
ヘンリーとして、彼女の気持ちを軽く扱ったこと。
言うべきことは、できる限り言った。
「もう一度、やり直せないかな」
チョウは、すぐには答えなかった。
「謝ってくれてありがとう」
そこまではよかった。
「でも、もう過去には戻れないわ」
ハリーには納得できなかった。
自分は元に戻った。それなのに、チョウはもう以前の場所にはいない。
すべてロックハートが悪いのに。
喉まで出かかった言葉を、ハリーは飲み込んだ。
それを口にしたところで、彼女が戻ってくるわけではない。
「分かった」
チョウは少し困ったように笑い、そのまま去っていった。
ハリーが振られた日の夕方、ロンはグリフィンドールの談話室で、ハーマイオニーとロメルダに挟まれて原稿を書いていた。
「編集は私がするわ」
ハーマイオニーが言った。
「恋の脚注はあたしがつける」
ロメルダも譲らなかった。
「必要ないわ」
「一個くらい読んでから決めてよ」
「読まなくても却下よ」
「僕の原稿を挟んで争わないでくれないか」
ロンは羽根ペンを握ったまま、二人を交互に見ていた。
ハリーは少しだけ同情した。
「それで、どっちにするんだ?」
ハリーが小声で尋ねると、ロンは真剣に考え込んだ。
「両方でいいんじゃないか? ハーマイオニーが編集して、ロメルダが脚注をつける」
ハリーは数秒、言葉を失った。
「両方選ぶのは、原稿についてだけだよね?」
「もちろん」
ロンは目をそらした。
「ほかに何があるんだよ」
ハリーはチョウに振られたばかりだった。
なぜかロンに負けた気がして、さらに腹が立った。
だが、その週で最もハリーを苛立たせたのは、ダンブルドアが用意した特別授業だった。
「君の精神は、今もヴォルデモートとつながっておる」
校長室へ呼び出されたハリーに、ダンブルドアはそう告げた。
「閉心術を身につけてもらわねばならん」
「まさかアンブリッジに習えって言うんじゃないでしょうね」
「いや」
ハリーは安堵した。
「トムに頼んだ」
暖炉の横から、トム・ジェドゥソールが姿を現した。
ハリーは椅子から立ち上がった。
「ヴォルデモートから心を守る方法を、ヴォルデモートに習えって?」
「僕はヴォルデモートではないよ」
トムは落ち着いていた。
「彼になる前の記憶だ」
「同じようなものだろ」
「違いが分からないなら、ちょうどいい。授業を受ければ少しは見分けられるようになる」
腹の立つ言い方だった。
「魔法書研究会の者たちも、すでにトムから学んでおる」
ダンブルドアが言った。
「皆が?」
「ドラコを除いてな。ロメルダも、かなり上達したそうじゃ」
「ロメルダまで?」
ハリーが知らない間に、魔法書研究会では閉心術が一般教養になっていたらしい。
自分だけが習っていなかったのは、記憶を操作されている間に精神へ余計な刺激を与えるべきではないと判断されたからだという。
つまり、皆が先へ進んでいる間、ハリーだけが格好をつけてサインを書いていた。
ますます腹が立った。
最初の授業は、使われていない教室で行われた。
机と椅子は壁際へ寄せられ、部屋の中央には二脚の椅子だけが向かい合わせに置かれている。
ダンブルドアも教室までついてきた。
袖口からのぞいた右手が黒ずんでいた。火傷というより、内側から焼け焦げているように見えた。
「先生、その手は?」
ダンブルドアはすぐに袖を下ろした。
「少々、扱いの難しい呪いに触れてしまってのう」
「呪いでそんなことになるんですか?」
「呪いを侮ってはいかんよ。では、トム。よろしく頼む」
ダンブルドアは答えを待たずに教室を出ていった。
「先生も残らないんですか?」
扉はすでに閉まっていた。
「逃げたな」
ハリーが言った。
「あの老人は、自分が始めた面倒事から離れるのが上手い」
トムは向かいの椅子へ腰を下ろした。
ハリーは座らなかった。
以前のハリーは、トムを悪い人間ではないと思っていた。
ハンサムなボーバトンの代表選手。周囲から注目されても気取らず、実力があり、マインと親しく話している青年。
だが、ヴォルデモートの記憶から生まれた分霊箱だと知った今では、すべてが違って見えた。
ハリーは以前、トム・リドルと名乗る日記に悩みを打ち明けたことがある。
目の前の男をマインのあふれた魔力を受け止める無害な魔法道具だと信じ切っていた。
でも、トム・ジェドゥソールと会ったときはそのことをすべて忘れていた。
きっとトムはマインを騙している。
信頼させ、そばへ置き、いつか利用するつもりに違いない。
「君は、考えていることが顔に出すぎる」
トムが言った。
「まだ何もしてないだろ」
「だから問題なんだ。開心術を使う必要すらない」
ハリーは渋々、椅子へ座った。
「心を空にしろと教える者もいるが、何も考えないのは難しい。見られたくない記憶を奥へ移し、その手前に別の記憶を並べる方が簡単だ」
「図書室みたいに?」
「それはマインにした説明だ」
「やっぱり同じ説明をしてるじゃないか」
トムは少し考えた。
「では、クィディッチにしよう。守りたい記憶をゴールの後ろへ置き、別の記憶で守備を固める」
「随分雑な説明になったな」
「君が図書室を嫌がるからだよ」
トムは杖を膝の上に置いた。
「守りたい記憶を一つ選んで」
ハリーは両親のことを思い浮かべた。
「それでは駄目だ」
「まだ何もしてないだろ!」
「顔を見れば分かる。君は大切なものを守ろうとすると、すぐに眉間へ力が入る」
トムは杖を上げた。
「レジリメンス」
教室が消えた。
緑の閃光。
母親の叫び声。
階段下の物置。
ダドリーの笑い声。
シリウスとフェルディナンドが待つブラック家。
ロンの隣に座るハーマイオニーとロメルダ。
背を向けて去っていくチョウ。
記憶が次々と引き出されていく。
ハリーは力任せに押し返そうとした。
「閉じようとするな」
トムの声が頭の中から聞こえた。
「別の記憶を前へ出せ」
ハリーはクィディッチ競技場を思い浮かべた。
冷たい風。観客の歓声。掌に収まった金のスニッチ。
その奥へ、両親の記憶を押し込む。
教室が戻った。
ハリーは椅子の背へ倒れ込んだ。
「今のは悪くなかった」
「悪くなかっただけ?」
「初心者にしてはね」
二度目の侵入を防げなかったところで、トムは杖を下ろした。
「休憩にしよう」
「君も疲れたの?」
「僕は疲れていない。君がこれ以上失敗すると、教師へ八つ当たりを始めそうだからだ」
「そんなことしない」
「すでにしているよ」
トムは窓の外を見た。
十二月の空は低く曇り、校庭の芝生には白い霜が残っていた。
「君には、帰る場所があったんだね」
突然、トムが言った。
「ダーズリー家のことなら、帰る場所とは呼びたくない」
「そこではないよ」
トムは杖を指先で回した。
「君の記憶には、いつも誰かがいる。ロン、ハーマイオニー、シリウス。両親の姿さえ、何度も見ている」
「君にはいなかったのか?」
「いなかった」
トムはあっさり答えた。
「孤児院では、誰かを信用する理由がなかった。僕がほかの子どもより優れていると証明できれば、それで十分だった」
「ヴォルデモートらしい考えだ」
「そうだね」
否定されなかったので、ハリーは拍子抜けした。
「ホグワーツから迎えが来た時、僕はようやく、自分が異常なのではなく特別なのだと知った」
ハリーの脳裏に、ハグリッドが扉を壊して入ってきた夜が浮かんだ。
自分は何かがおかしい子どもなのではなく、魔法使いだった。
初めて、自分が何者なのか分かった。
その感覚を、ハリーは知っていた。
知ってしまったことが嫌だった。
「でも、君にも迎えに来てくれた人がいただろ」
「そうだね。ダンブルドアが僕にとってそういう先生になってくれれば良かったのに」
トムの声には、怒りも悲しみもなかった。
何度も触れて、もう痛み方を忘れた傷のようだった。
「トムのお父さんは?」
「僕が生まれる前に母から逃げた。惚れ薬で偽の愛情を持たされていただけだからね」
「だから人を信用しなくなったのか?」
「そんなに単純ではないよ」
トムはハリーを見た。
「友達がいなかっただけで、人は闇の帝王にはならない」
「それは安心したよ」
「ただ、誰か一人でも信用していれば、すべての人間を道具だと思わずに済んだかもしれない」
「マインがいたから、今は違うってか?」
トムの視線がわずかに動いた。
「マインは僕がどんな人間だろうと、本が好きな友人ならそれで十分だと思っている」
「マインらしいや。ヴォルデモートでもかまわないってことだろう?」
「本の読み方にはうるさいよ」
トムは言い直した。
「君、マインのことが好きなの?」
「ロメルダみたいな質問だね」
「答えをはぐらかすなよ」
「答える必要がない」
「マインがフェルディナンドと結婚しても?」
「まだ結婚していない」
返事が速かった。
「婚約しただろ」
「戦闘中の口約束だ。しかも、マインは本に釣られただけだ」
ハリーは目を細めた。
トムはマインのことを気にしている。
少なくとも、どうでもいい相手について出す声ではなかった。
「本当は嫌なんだ」
「君は閉心術より先に、他人の恋愛へ口を挟まない方法を学んだ方がいい」
「心を読んだな」
「読んでいない」
「嘘だ」
「顔に出ている」
魔法を使われる前から、考えていることを全部見破られている。
ハリーが不満そうに睨むと、トムの表情からわずかな笑みが消えた。
「君に、最初に伝えておくことがある」
先ほどまでとは声が違った。
「何?」
「ヴォルデモートを完全に殺すためには、僕たちも死ぬ必要がある」
ハリーは、すぐには意味を理解できなかった。
「僕たち?」
「君の中には、彼の魂がある」
トムは自分の胸へ指先を当てた。
「僕も同じだ」
「魂の欠片だけを取り出す方法を、ダンブルドアが探してるって言ってた」
だから、どうにかなるとハリーは思っていた。
「見つかるとは限らない」
「君は、それでいいのか?」
「いいとは言っていないよ」
トムの声は静かだった。
「だが、僕が生きている限り、ヴォルデモートが完全に死ぬことはない。君も同じだ」
「ほかの方法を探せばいい」
「探している」
「だったら、死ぬ前提で話すな」
「必要になった時の話をしているんだ」
ハリーは杖を握った。
数日前までなら、目の前にいるのがヴォルデモートの一部だと知れば、破壊すべきだと思ったかもしれない。
だが今は、そう思えなかった。
孤児院で育ち、ホグワーツで初めて自分が何者かを知り、マインに初めて対等な一人の相手として扱われた少年がいる。
それを、分霊箱という一言で片づけることはできなかった。
ダンブルドアは、そのためにトムをハリーの教師にしたのではないか。
互いを知れば、同じ魂を宿す者同士として、いずれ必要な決断を下せるようになる。
そんな考えが浮かび、ハリーはぞっとした。
「ハリー」
トムが呼んだ。
「何だよ」
「僕を殺す役目は、君に任せたい」
ハリーはトムを見た。
「どうして僕なんだ」
「マインには頼めない」
トムは迷わなかった。
「彼女は最後まで、僕を生かす方法を探そうとする」
「僕なら諦めるって?」
「君なら、必要だと思えばやるだろう?」
それは信頼なのか、侮辱なのか分からなかった。
「それに君は、僕をヴォルデモートだと思っている。両親を殺した男だと」
トムは杖を机の上へ置いた。
「僕を憎んでいる人間の方が、最後には迷わない」
授業の終了を告げる鐘が鳴った。
廊下で生徒たちの足音が重なり、遠くから笑い声が聞こえた。
「……簡単に言うなよ」
ハリーは呟いた。
教室の外では、何も知らない生徒たちが次の授業へ走っていた。