クリスマス休暇の初日、ロンの本が発売された。
本屋の前には朝から行列ができた。
もともと羽ペン通信で人気だったコラムをまとめ、書き下ろしを加えた本なので、ある程度は売れると思っていた。
初版が一ヶ月でなくなるくらいには売れるのではないかと思っていた。
ところが、フタを開けてみれば、発売日の昼には増刷を検討することになった。
「まだ昼だよ?」
わたしは売上報告を見ながら言った。
「昼だから何だよ」
ロンは三本の箒のテーブルで、落ち着かなさそうにバタービールのジョッキを回していた。
「昼なのに、初版が全部売れたんだって」
「……本当に?」
「本当に」
「返品されない?」
「本を買った人が、本屋へ戻しに来ることはないよ。同じ本を間違えて買わない限り」
「だって、僕が書いた本だぞ。みんな、本当に分かって買ってるのかな」
「表紙に名前が書いてあるから分かるはず」
ロンは表紙を見た。
赤い文字で、ロン・ウィーズリー著と書かれている。
何度見ても自分の名前が消えていないか怯えているようだった。
出版祝いは、三本の箒の奥にある大きなテーブルで開かれた。
怪我が治ったばかりのアーサーさんを含めてウィーズリー家はパーシー以外勢揃いしていた。
魔法書研究会のメンバーに、出資者のシリウス、それからトムも来ていた。
シリウスは発売されたばかりの本を十冊ほど積み上げ、自分が書いたわけでもないのに誰より得意そうな顔をしていた。
「どうだ、プロングズ出版の第一作目だ」
「結局その名前にしたのね」
ハーマイオニーが言った。
「変える理由があるか?」
「羽ペン通信との関連を示した名前になると思っていたから」
プロングズとは、ハリーの父であるジェームズ・ポッターのあだ名だったらしい。
出版社の候補名を募った時、シリウスはプロングズ出版と書いた羊皮紙を提出した。
第二候補もプロングズ出版。
第三候補もプロングズ出版。
多数決を取る意味がなかった。
「父さんのあだ名が出版社になるなんて、変な感じだな」
ハリーは本の背表紙を指でなぞった。
「嫌か?」
シリウスが少しだけ不安そうに聞く。
「ううん」
ハリーは笑った。
「父さんがロンのことを応援してくれたみたいで、嬉しいよ」
ロンが持っていたジョッキを置いた。
顔が少し赤い。
暖炉のせいか、バタービールのせいか、今の言葉のせいかは分からない。
「僕の本っていうか、ほとんどハリーの本だけどな」
「自分でロックハートに対抗できなかったのは悔しいけど、これはロンの本だよ。こっちのハリーのが僕らしかった」
ハリーは少し唇を尖らせてから、ロンを見た。
「みんなが僕を英雄だと思っていた時も、ロンは僕がただのハリーだって知ってた。……だから、ロンに会えてよかったよ」
ロンが固まった。
ハーマイオニーは目を伏せた。
「今の、もう一回言って」
ジニーが言った。
「嫌だよ」
「聞こえなかったの。ロンが鼻をすすった音で」
「すすってない!」
ロンがすぐに反論した。
「じゃあ、もう一度言われても平気ね」
「やめろ!」
ジニーは笑ったが、ロンの顔を見て、それ以上は続けなかった。
ロンは持っていたジョッキを置き、積み上げられた自分の本を一冊取った。
「僕だって、ハリーに会えてよかったよ……って恥ずかしいこと言わせんな!」
「よい友情だね」
トムが紅茶を飲みながら言った。
「僕の知っているホグワーツ時代は、もう少し友情を利用している関係だった」
「ヴォルデモートの学生時代と比較するのやめてくれない? 勝てるわけないのに」
ハリーが嫌そうな顔をする。トムは肩をすくめた。
トムはクリスマス休暇の直前から、闇の魔術に対する防衛術の代理教師を務めることになった。
アンブリッジ先生が魔法大臣になり、学校へ戻れなくなったためである。
元闇の帝王の分身に、闇の魔術に対する防衛術を教えさせる。
人選だけを聞くと、ホグワーツはとうとう何かを諦めたように思える。
けれど、授業の評判はとても良かった。
トムは無駄な理論を長々と話さない。
呪いを受けた時、どう逃げるか。
相手の杖をどこへ向けさせないか。
廊下や階段で戦う時、何を障害物にするか。
実践的で、分かりやすく、少し怖い。
「次に出版するものは決まっているのかい?」
「ダンブルドア先生の自伝だけど、先生の筆が思いの外のっちゃって、刊行は来年になりそう」
わたしが答える。
「その次は?」
「まだ決めていないよ。トムも本を書けばいいのに。闇の魔術に対する防衛術の教本とか。授業も評判がいいし、絶対に売れるよ」
「来年度は補助教員に戻る予定だ。教本を出すほどの立場ではないよ」
「補助教員でも書けるでしょ」
わたしは少し不思議に思った。
トムなら、代理教師で満足せず、来年度は正職員にしてほしいとダンブルドア先生へ交渉すると思っていた。
肩書きにこだわらないような顔はするけれど、権限があれば使うし、必要な立場は自分から取りにいく。授業の評判もよいのだから、正式な教師になるには十分だった。
「正職員にはならないの?」
「今のところ、その予定はないね」
「トムなら、校長になるまで昇進を目指しそうなのに」
「ずいぶん先まで期待されているらしい」
トムは笑った。
「僕の名前を表紙へ載せれば、内容より著者について騒がれる。必要なら、今年度の授業記録を編集して使えばいい。教材はすべて整理してある」
「来年も自分で使うんでしょ?」
「補助教員なら、授業を担当する教師に合わせるものだよ」
「でも、トムが作った教材なんだから、トムが説明した方が分かりやすいよ」
「誰が読んでも使えるように作るのが、よい教材だ」
トムは使い古したノートを片手に言った。
わたしはノートを覗き込んだ。
トムは授業で使った羊皮紙をすべて清書しているようだった。
呪文の説明だけではない。
生徒が失敗しやすい箇所。
実技をさせる時の机の配置。
杖を取り上げるべき危険な組み合わせ。
ロメルダが余計な記事を書き始めた場合の対処法まで、別の教師が読んでも分かるように書かれている。
「なんだか、引き継ぎ書みたいだね」
わたしが言うと、トムの指がノートの表紙で止まった。
「来年度の担当者が困らないようにするだけだよ」
トムがノートを閉じた。
「トムもいるのに?」
「僕が常に隣にいるとは限らないだろう」
トムは穏やかに笑った。
来年度は補助教員に戻る。
そう言われれば、授業を引き継ぐ準備をしていても不自然ではない。
けれど、正職員になろうともしないのは、トムらしくない気がする。
トムの作った資料には、補助教員として自分が担当する仕事は一切書かれていなかった。
自分がいなくなったあとに必要なことばかりが、丁寧に残されていた。
出版祝いは、気づいたらそのままクリスマスパーティーになっていた。
フレッドとジョージが勝手に司会を始め、店内に金色の雪を降らせた。雪は床に落ちる直前で小さなカナリアに変わり、客のジョッキから勝手にバタービールを飲んでいる。
「それでは皆様、お待たせいたしました!」
「今年もっとも出世した、我らが特別ゲストのご登場です!」
二人が三本の箒の入口へ杖を向けた。
赤と金の火花が噴き上がり、空中に大きな文字が浮かぶ。
ドローレス・アンブリッジ魔法大臣
「魔法大臣!」
「大臣閣下!」
「支持率が下がる前に一言お願いします!」
扉が開いた。
アンブリッジ先生は、双子に向かってにこやかに杖を構えていた。
「次に余計なことを言った方を、青少年向け危険人物一覧の一番上へ載せますわよ」
「光栄です、大臣閣下!」
「一覧は写真付きですか?」
「希望するなら、賞金付きの指名手配書にして差し上げますわ」
二人は口を閉じた。
ほんの三秒ほどだった。
すぐに笑顔になりまた囃し立てる。
「よっ、魔法大臣!」
「将来の終身大臣!」
「終身など縁起でもありませんわ。わたくしにも引退後の読書時間くらい必要ですもの」
アンブリッジ先生は当然のように拍手の中を歩いてきた。
以前のように全身を桃色で埋め尽くしてはいない。黒いローブの襟元に、淡いピンクのリボンを一つだけつけていた。
手には小さな包み。
その後ろには、魔法省の腕章をつけた若い魔女がいた。記録用の羽根ペンとカメラを持っている。
「記者連れてきたの?」
ロメルダが聞いた。
「広報官ですわ」
「同じじゃん」
「大臣が若者の出版活動を支援したという記録は、正確に残す必要がありますの」
「アンブリっち先生、ロンロンのパーティーを政治利用する気じゃん」
「人聞きの悪いことをおっしゃらないで。招待状に『魔法大臣が来たら盛り上がる』と書いたのはあなたでしょう」
「書いたけど!」
「ならば盛り上げて差し上げますわ」
アンブリッジ先生はロメルダの隣へ腰を下ろした。
「それに、招待状の追伸には『欠席したら、魔法大臣は若者の友情を軽視しているとパドマが書く』ともありましたわね」
「ちゃんと読んだんだ」
「脅迫状は隅々まで読む主義ですの」
アンブリッジ先生は包みをテーブルへ置いた。
中には、ロンの本があった。アンブリッジ先生が表紙をめくると、下には魔法省図書室の蔵書印だけでなく、第一刷の番号まで記録されている。
「魔法省の図書室に収蔵しますわ」
「いいんですか?」
ロンが聞いた。
「大臣就任後、最初に収蔵を決めた民間出版物です。今後、この本を発禁にしようとする者が現れれば、わたくしの判断へ異議を唱えることになります」
アンブリッジ先生は甘く微笑んだ。
「先に保護しておきましたのよ」
「発禁から守ってくれたってこと?」
「わたくし以外の誰かが発禁にするのは、腹が立ちますもの」
「そこなんだ……」
ロンは本を受け取った。
素直に感謝してよいのか判断できない顔をしている。
本にはなぜか大量の付箋が貼ってある。かなり熟読しているようだった。
「この付箋、何て書いてるんですか?」
わたしが聞くと、アンブリッジ先生は胸を張った。
「『有力者には、功績を記録する忠実な友人が必要』ですわ」
そんな内容だったっけ?
「ロンロンがハリポの友達でよかったってこと?」
「優秀な側近の条件について述べた章でしょう」
「僕、側近だったの?」
「本人が否定しても、歴史が判断します」
「嫌な歴史だな」
アンブリッジ先生は別の頁を開いた。
「こちらの章も秀逸です。英雄は何度失敗しても、親しい語り手が事情を説明すれば支持を回復できる」
「失敗を隠すなって書いたところだよ!」
「失敗を隠さず、好意的に解釈して公表する。高度な広報戦略ですわね」
「違うって!」
「ミスター・ウィーズリー、魔法省広報部へ来ませんこと?」
「話を聞いてくれ!」
ロンが本を取り返そうとしたが、アンブリッジ先生は先に閉じてしまった。
「文章はところどころ粗雑ですし、魔法省に対する不当な批判も八か所ありました」
「わざわざ数えたの?」
「しかし、若者が自ら英雄を定義し直し、既存の報道へ対抗する姿勢は評価できます」
アンブリッジ先生は本の表紙を撫でた。
「放置すれば危険ですが、正しく導けば役に立つ」
アンブリッジ先生は、題名を全員に見えるように掲げた。
「この本は、英雄とは本人の資質だけで生まれるのではなく、周囲の組織と物語によって生み出されるものだと証明していますわ」
「そこまで作者は考えてないと思う」
わたしは苦笑しながら言った。
「ならば、そういう解釈が正しいことにすればよろしいのです」
「政治家の読書、怖すぎない?」
ジニーが言った。
パーティーの終わりが近づくと、双子は余興と称して、参加者に一つずつ得意な呪文を披露させ始めた。
シリウスはナプキンを黒い犬に変えた。
ハリーは空中を飛んでいた皿を武装解除した。皿に武装があったのかは分からない。
最後に残ったアンブリッジ先生へ、全員の視線が集まった。
「大臣閣下の得意技!」
「国家を率いる必殺呪文!」
「税金を増やす呪文ですか?」
ジニーが聞いた。
「税金は呪文で増やしません。法案を通します」
「もっと怖い」
アンブリッジ先生は立ち上がった。
ローブの裾を払い、広報官のカメラの位置を横目で確認する。
「その角度ではリボンが見えませんわ」
広報官が慌てて移動した。
「アンブリっち先生、やる気満々じゃん」
「記録に残る以上、見栄えは重要でしょう」
アンブリッジ先生は胸の前で杖を構えた。
「最後に、わたくしが一番得意な呪文をお見せしますわ」
「まさか服従の呪文?」
「まあ! 次に言ったら、あなたの恋愛欄を大臣権限で発禁にしますわよ」
ロメルダが両手で口を塞いだ。
アンブリッジ先生は満足そうに杖を振った。
「エクスペクト・パトローナム」
杖先から銀色の光があふれた。
光はテーブルの上を滑り、しなやかな四本の脚と長い尻尾を形作る。
銀色の猫だった。
猫は積み上げられたロンの本へ飛び乗り、その上でゆっくりと前脚を舐めた。
「猫が本を踏んでいる写真はきっと紙面映えしますわよ」
「なんかあざといな」
ロンが小さく言った。
猫はテーブルを一周し、ロメルダの前で立ち止まった。
ロメルダが手を伸ばす。
銀色の猫は触れられる寸前で身をかわし、代わりに尻尾の先で彼女の指を撫でた。
「かわいい!」
「安易に触らせないところまでアンブリッジ先生に似てるね」
ハリーが言った。
「守護霊とは術者の内面を反映するものですから」
アンブリッジ先生は平然と答えた。
「つまり、かわいらしく、気高く、見る目のない人間には懐かないということですわ」
「自分で全部言った」
ロメルダが笑った。
アンブリッジ先生も口元だけで笑い、銀色の猫へ目を戻した。
「ホグワーツには、正直、よい思い出はありませんでしたの」
広報官の羽根ペンが動く音がした。
アンブリッジ先生はすぐにそちらを見た。
「ェヘンェヘン! 今のは記録するのはおやめなさい。大臣が母校を批判した記事になりますわ」
「どこからなら?」
「次からです」
アンブリッジ先生は咳払いをした。
「しかし、皆さんのおかげで、少なくとも一つくらいはよい思い出ができましたわ」
銀色の猫がロメルダの腕へ頭を擦りつけた。
今度は逃げなかった。
アンブリッジ先生は猫を見たまま、少しだけ黙った。
「……一つではありませんわね」
その声は、広報官の羽根ペンが拾えないほど小さかった。
けれど次に顔を上げた時には、もう魔法大臣の笑顔へ戻っていた。
「なお、魔法省は将来有望な若者を歓迎しております。入省希望者には、わたくしの推薦状を用意しましょう」
「感動的な話から採用活動につなげた!」
「大臣ですもの。感情だけで話を終えるほど暇ではありませんわ」
アンブリッジ先生はロンを指した。
「ミスター・ウィーズリーはぜひ広報部に」
ハーマイオニーへ視線を移す。
「ミス・グレンジャーは魔法法執行部」
ロメルダを見る。
「あなたは……」
「恋愛相談室?」
「存在しない部署を作らせないでください」
「じゃあ大臣補佐官」
「機密をすぐに翌朝の新聞に載せる人間を、誰が補佐官にするのですか」
「『アンブリっち動静』は好評だよ」
「だから困っているのです!」
フレッドとジョージが再び声を揃えた。
「よっ、魔法大臣!」
「若者に愛される大臣閣下!」
「その標語は採用しますわ」
「採用するんだ!」
広報官が急いで羊皮紙へ書き留めた。
銀色の猫は、アンブリッジ先生が席へ戻ってからもしばらく消えなかった。
*
クリスマス休暇が終わると、わたしはドラコを連れて図書館へ向かった。
「走るな」
「走っていないよ」
「さっきから僕より三歩前にいる」
「歩幅の違いだよ」
「君の方が小さいだろう」
わたしの手には、ダンブルドア先生からもらった許可書がある。
閲覧禁止の棚。
長い間、扉の向こうからしか見られなかった場所が、ついにわたしへ開かれる。
図書館の奥には、重い鎖のついた扉があった。
マダム・ピンスが許可書を三度読み、裏返し、光に透かし、ダンブルドア先生の署名を睨んだ。
「本物です」
「分かっています」
「なぜそんなに見ているのですか?」
「校長が正気ではなかった証拠を探しています」
見つからなかったらしい。
マダム・ピンスは不本意そうに扉を開けた。
中は、普通の書架より暗かった。
棚には鎖で固定された本、革の表紙が脈打っている本、近づくと歯ぎしりをする本が並んでいる。
「危険な香りがするけど本の匂いだ!」
「感想がおかしい」
ドラコがわたしのローブの襟をつかんだ。
最初の棚には、闇の魔術に関する本が並んでいた。
魂を傷つける方法。
呪いを血筋へ残す方法。
死者の骨から記憶を取り出す方法。
題名だけで、没収されそうな本ばかりだった。
奥へ進むと、予言や時間旅行に関する本もあった。
『まだ起きていない未来の記録』
『同じ昨日を百回生きた魔女』
『時間を巻き戻してはいけない七つの理由』
「七つしかないんだね」
「一つで十分だろう」
さらに奥の棚には、魔術そのものではなく、思想が危険だとして封じられた本が置かれていた。
その多くに、ゲラート・グリンデルバルドの名前があった。
『より大いなる善のために』
『魔法族の新しい秩序』
『グリンデルバルド演説集』
どれも古く、何度も閲覧を禁じられた跡がある。
「そっか、こういうのも禁書の一種なんだね」
わたしが一冊を取ると、ドラコが表紙を確認した。
「ダンブルドア先生の昔の恋人じゃないか」
「声が大きいよ」
「間違ってないだろう」
「図書室では静かに」
「そこを注意するのか」
ダンブルドア先生の自伝の原稿を読んだあとでは、グリンデルバルドはただの歴史上の闇の魔法使いではなくなっていた。
ダンブルドア先生が憧れ、愛し、最後には倒さなければならなかった人。
その人自身の言葉を読めば、ダンブルドア先生が何を見て、何を信じ、どこで間違えたのか、もう少し分かるかもしれない。
「先生を理解するために読んでみようかな」
「君は、理解した相手の本を出すからな」
「グリンデルバルドの本も売れるかな」
「やめろ」
「まだ思いついたしただけだよ」
わたしは本を抱えて、本棚を見た。こうして見ると、禁書といっても様々だ。
「……これだけ本があったら、トムが死なないで済む方法も見つかるよね?」
わたしが思わず呟くと、後ろにいたドラコの足が止まった。
「どういうことだ」
振り返ると、ドラコは眉をひそめていた。
「あいつが死ぬって、誰から聞いた」
「誰からも聞いていないよ」
「では、なぜそんな話になる」
「トムが、自分が死んでもいいと思っているから」
ドラコの表情が険しくなった。
「ジェドゥソール先生が、そう言ったのか?」
「言っていない」
「なら、君の思い込みだ」
「わたしも、そうだったらいいと思ってる」
最初は、代理教師だから授業記録をまとめているのだと思った。
けれど、あのノートにはトムのことが何一つ書かれていなかった。
「来年度は補助教員に戻るのに、引き継ぎノートにはトムが来年何をするか、一つも書かれていなかった」
「正式な引き継ぎ書なら、自分の予定を書く必要はない」
「でも、トムなら正職員を目指すと思わない?」
ドラコは答えなかった。
「代理教師になって、授業の評判もいい。トムなら、その実績を使って正式な教師になろうとするよ。そのうち寮監になって、校長の椅子まで狙うと思ってた」
「本人が聞いたら喜ぶのか怒るのか分からない評価だな」
トムは、来年の教師が困らないようにノートを残した。
生徒たちが生き残れるように、必要なことをすべて教えようとしていた。
その中に、自分だけがいなかった。
「ヴォルデモートを倒す話をする時もそうだよ」
わたしは、魂に関する本が並んだ棚を見上げた。
「トムは分霊箱をどう壊すかは考える。でも、ヴォルデモートが死んだあと、自分がどうなるかは一度も話さない」
「分霊箱である以上、本体と運命を共有すると考えているのかもしれない」
「だからって、調べないのは変だよ」
トムは、必要な知識を放置する人ではない。
知らないことがあれば調べる。使えそうな魔法があれば試す。自分に不利な可能性ほど先に潰そうとする。
そのトムが、自分を生かす方法だけ探していない。
「トムは、方法がないと思ってるんじゃない」
わたしは言った。
「方法を探す必要がないと思ってる。自分がヴォルデモートと一緒に死ねば、それで終わるから」
「それが本人の選択なら、君が勝手に変えることではない」
「まだ選択肢が一つしかないよ」
死ぬ以外の方法を知らないまま死ぬと決めても、それは選んだことにはならない。
生きる方法が本当にないのか。
あるのに、トムが探していないだけなのか。
それを確かめてからでなければ、わたしは納得できなかった。
「方法を見つけるつもりか」
「うん」
「前例もないのに?」
「前例がないことと、できないことは同じじゃないよ」
ドラコは長く息を吐いた。
それから、わたしが手を伸ばしかけていた本を杖先で押し戻す。
表紙に浮かんでいた口が、悔しそうに歯を噛み合わせた。
けれど、分霊箱について書かれた本は一冊も見つからなかった。
殺人が魂を傷つけるという記述すらほとんど見つからない。
仕方なく、わたしたちは別の棚を調べた。
悪霊と人間を切り離す方法。
血によって結ばれた魔法の解除。
肖像画に残る人格と記憶。
どれもトムとは違う。
それでも、違う魔法の中に同じ仕組みが隠れているかもしれなかった。
それからの時間は、驚くほど早く過ぎた。
春になり、雪が消え、湖の水面に日差しが戻った。
わたしはタイムターナーも使った。
ただし、一日に一度、短時間だけ。
薬も飲み、食事も取り、本を読む時間だけでなく眠る時間も確保した。
それでも倒れなかった。
「健康優良児になったみたい」
朝、食卓でわたしが言うと、ドラコは教科書から顔を上げた。
「普通の人間は、わざわざ健康を宣言しない」
「前はすぐに倒れたのに最近は倒れてないから」
「比較対象が悪すぎる」
「階段も三階分上れたよ」
「ホグワーツで暮らしているなら当然だ」
「昨日は夕食も全部食べれた」
「それはえらい」
ようやく褒められた。
健康とは素晴らしい。
けれど、学期が終わっても、トムが死なずに済む方法は見つからなかった。