ダンブルドア先生の自伝上巻が出版されたのは、学期末試験が始まる三日前だった。
題名は、
『アルバス・ダンブルドア──英雄になるまで 上巻』
である。
わたしとしては、英雄になったあとも本人は普通に生きているのだから、少し変な題名だと思った。
けれど、題名を考えたロンは、「下巻を買わせるには、途中で終わってる感じが必要なんだよ」と主張した。
その判断は正しかったらしい。
本はよく売れた。
ロンの本ほど爆発的ではなかったけれど、子どもから老人まで、幅広い世代が買った。
ダンブルドア先生を尊敬している人は、偉大な魔法使いがどうやって今の姿になったのか知りたがった。
ダンブルドア先生を嫌っている人は、偉大な魔法使いの過去に傷がないか探したがった。
どちらでもない人は、みんなが読んでいるから買った。
結果として、世間の評価はきれいに割れた。
若い頃のダンブルドア先生は、何もかも見通す賢者ではない。
判断を誤り、思い込み、後悔し、それでも生きてきた。
その部分を読んで感動する人もいれば、失望する人もいた。
羽ペン通信でも、発売翌日に書評を掲載した。
見出しは、
『英雄ではなく、アルバス・ダンブルドアを読む』
だった。
書評には、こう書かれていた。
『この本に、完全無欠の英雄は登場しない。
登場するのは、才能を持て余し、自分が正しいと信じ、家族を傷つけ、それでも自分の過ちから目を背けきれなかった一人の少年である。
ダンブルドアを最初から偉大だった人物として読みたい人には、この本は不快だろう。
だが、人は失敗しないから英雄になるのではない。失敗したあと、何を選び直したかによって、その後の人生が決まる。
これは英雄の功績を並べた本ではない。
英雄になる前に、何を失ったのかを記した本だ』
最後には、短い一文が添えられていた。
『英雄もまた、人だった』
その書評は、予想以上に読まれた。
感動したという手紙も届いた。
英雄を貶めるなという抗議も届いた。
ダンブルドア先生の失敗を知って安心したという人もいれば、知りたくなかったという人もいた。
翌日には、ほかの新聞まで似た言葉を使い始めた。
やがて生徒たちまで、何か失敗するたびに、「英雄も人だったから」と言い訳するようになった。
ロンも魔法史の試験で人名を間違えたときに使っていた。
「英雄だって、人名くらい間違えるだろ」
「あなたは英雄じゃないわよ」
ハーマイオニーに即座に切り捨てられていた。
問題は、上巻がダンブルドア先生とグリンデルバルドの関係へ踏み込む直前で終わっていることだった。
読者は荒れた。
『なぜここで終わるのですか』
『下巻はいつ発売されますか』
『続きが出るまで眠れません』
『仕事をしていても、グリンデルバルドのことばかり考えてしまいます』
出版社に届く手紙は、日を追うごとに切迫していった。
「続きが読みたくて仕方がない病だね」
わたしが診断すると、スネイプ先生は手紙の山を一瞥した。
「病名をつければ、対処したことになると思うな」
「薬はないんですよ」
「下巻を出せば治るだろう」
「下巻を出したら、その続きが読みたくなるかもしれないじゃないですか」
「ならば一生書いていろ」
これまで何人もの作家と読者を苦しめてきた病である。
治療は難しい。
下巻の原稿を急がなくてはならないと思っていたところへ、別の事件が起きた。
ある朝、大広間に入ると、羽ペン通信ホグワーツ版がいつもの倍の速さで売れていた。
一面の見出しは、『ダンブルドア校長、実弟に襲撃される』だった。
「襲撃じゃないわよ」
ジニーが新聞を広げながら言った。
「ただの兄弟喧嘩でしょ」
「校長室のガーゴイルを蹴り倒して入ったらしいぞ」
ロンが記事をのぞき込む。
「それはもう襲撃じゃない?」
「兄弟なら兄弟喧嘩よ」
家族なら何をしても兄弟喧嘩で済むらしい。
パドマの書いた記事によれば、アバーフォース・ダンブルドアは早朝のホグワーツへ現れ、校長室に突入した。
原因は、もちろん本だった。
上巻に書かれた家族の話を読み、兄本人へ文句を言いに来たのである。
目撃者は少なかった。
けれど、校長室の窓からトロールが三匹飛び出したという証言と、廊下の端まで怒鳴り声が聞こえたという証言が載っていた。
記事の最後には、ロメルダの短評まで添えられていた。
『長年ため込んだ兄弟間の感情が爆発したとみられる。日頃からの話し合いが重要』
ロメルダにしては、ずいぶん無難な文章だった。
「もっと書いたらジニーに止められた」
ロメルダは不満そうに唇を尖らせた。
「『百歳を超えても兄弟喧嘩は終わらない』って見出しにしたかったのに」
「今の見出しも十分ひどいわよ」
その日の午後、わたしは下巻の原稿を持って校長室へ向かった。
ダンブルドア先生は、机の前に座っていた。
左の頬から顎にかけて、紫色の呪いの痕が残っている。
治療は受けたらしいけれど、完全には消えていなかった。
「先生、大丈夫?」
「もちろんじゃよ」
ダンブルドア先生は、傷に触れないように気をつけながら笑った。
「アバーフォースは昔から、手加減というものを知らんのでね」
「呪文を使ったの?」
「途中までは杖で話し合っておった」
途中から何で話し合ったのかは、聞かない方がよさそうだった。
机の端には、割れた銀色の器が置かれていた。
壁には新しい焦げ跡がある。
フォークスは離れた止まり木から、どこか冷めた目でダンブルドア先生を見ていた。
「本に書く内容は、先生にも確認してもらったよね」
「確認したとも」
「じゃあ、なんで喧嘩になったの?」
「読んで理解することと、許すことは別だからのう」
ダンブルドア先生は、割れた器の欠片を指先で寄せた。
「兄弟喧嘩など、何年ぶりじゃろうな」
その声には、怒りよりも懐かしさが混じっていた。
わたしには、よく分からない。
けれど、何十年もまともに話していなかった兄弟が、同じ部屋で怒鳴り合った。
呪いまで飛び交ったとしても、それを前進と呼ぶ人はいるのかもしれない。
「下巻にも書く?」
「それは困る」
「読者は喜ぶと思うよ」
「わしの顔を見る限り、アバーフォースは喜ばんと思う」
下巻の発売は、もう少し先になりそうだった。
それから学期末試験が始まった。
本が売れていても、校長室が壊れていても、生徒は答案を書かなくてはならない。
今年も、わたしは全科目の試験を受けた。
試験最終日、地下牢の廊下でスネイプ先生に呼び止められた。
「来年度も、本当に全科目を続けるつもりか」
言葉だけなら、履修科目について尋ねている。
実際には、『タイムターナーをいつまで持ち続けるつもりだ』と聞かれていることは分かっていた。
「もちろんです」
「来年度はOWL試験だ」
「知っています」
「今年と同じやり方で乗り切れると思っているのか」
「今年より効率を上げれば大丈夫です」
スネイプ先生の眉間に、深い皺が刻まれた。
「質問に答えろ」
「全科目取ります」
「愚か者め」
即答だった。
「先生は全科目取ったんですか?」
「話を逸らすな」
「トムにもできたんだから、できると思います」
「二度と来るな」
部屋から追い出された。
わたしは許可されたと判断した。
寮杯は、グリフィンドールが取った。
最後の決め手になったのは、クィディッチの優勝だった。
今年のハリーは絶好調だった。
箒に乗っているときだけは、新聞の記事も、予言も、闇の帝王も、全部地上へ置いていけるようだった。
金のスニッチを追う姿は、見ている方が息をするのを忘れるほど速かった。
ドラコも、よく食らいついた。
けれど、今のハリーを止めるには足りなかった。
試合後、ドラコは箒から降りるなり、「次は勝つ」と悔しそうに言った。
ドラコは、そのあと一日中不機嫌だった。
一方、ゴールを守ったロンは堂々としていた。
「本のアンチに比べれば、ゴールを守るくらい簡単だ」
試合後、そう言って胸を張った。
以前のロンは、一度失点すると、そのまま次の球まで止められなくなることがあった。
今は観客席から野次が飛んでも、次の瞬間にはもう構え直している。
自分の名前が印刷され、知らない人から批判され、それでも本が売れ続けた。
その経験に比べれば、正面から飛んでくるクアッフルは、ずいぶん素直なのだろう。
終業式の翌日、わたしたちはホグワーツ特急に乗った。
荷物を置いたあと、わたしはドラコとアストリアと同じコンパートメントにいた。
アストリアは窓際に座り、膝の上に小さな革鞄を置いていた。
列車が走り出してしばらくすると、アストリアは鞄から細い薬瓶を取り出した。
中には、濃い青色の液体が入っている。
アストリアが薬を飲んでいたことをわたしは知らなかった。
アストリアが栓を開けるより先に、ドラコが瓶を取り上げた。
「今日はもう飲んだだろう」
「朝の分は」
「これは夜用だ」
「家に着くまでに遅れるかもしれないですから」
「時間は僕が見る」
ドラコは薬瓶を光に透かして中身を確かめ、それからアストリアに返した。
声はいつものように偉そうだったけれど、瓶を扱う指先だけは慎重だった。
アストリアは困ったように笑った。
「ドラコが薬を調合しているわけではないでしょう」
「今はな」
「今は?」
「必ず見つける」
ドラコはアストリアをまっすぐ見た。
「君の呪いも治す方法を見つける」
アストリアは何も言わなかった。
ただ、薬瓶を握ったまま目を伏せた。
そこで、わたしはようやく分かった。
未来から来たスコーピウスが話していた、もう一人。
ドラコが助けようとしていた人。
それはアストリアのことだったのだ。
なるほど。
やっぱり、この二人はそういうことらしい。
ドラコがアストリアを気にかけていることは、前から知っていた。
けれど、薬を飲む時間まで覚えているとは思わなかった。
恋愛小説なら読める。
他人の恋愛話も聞ける。
けれど、兄の恋愛が目の前で始まると、なぜか居場所がなくなる。
ジニーが、兄たちの恋愛を見たくないと言っていた気持ちが、少し分かった。
「わたし、ほかのコンパートメントに行くね」
立ち上がると、ドラコがこちらを向いた。
「急にどうした」
「用事を思い出した」
「さっき、今日はもう何もすることがないと言っていただろう」
「今できた」
アストリアは口元を手で隠していた。
たぶん笑っている。
わたしは二人を残し、廊下へ出た。
魔法書研究会のメンバーが集まっているコンパートメントは、三両先にあった。
扉を開けると、ロンが自分の本を枕にして眠り、ハーマイオニーがそれを見つけて怒っていた。
ハリーとジニーは、蛙チョコレートのカードを交換していた。
ロメルダだけが、わたしを見るなり目を細めた。
「ブクマちゃん、なんかあった?」
「なんで?」
「一人だけ妙な顔してる」
わたしは空いている席へ座った。
「兄の恋愛を見たくないって言ってたジニーの気持ちが分かった」
ジニーが顔を上げた。
「ドラコ?」
「アストリアと一緒にいる」
ロメルダの目が輝いた。
「あたし、ちょっと用事」
「ないよね」
返事を待たず、ロメルダはコンパートメントを飛び出した。
廊下を駆けていく足音が遠ざかっていく。
ジニーは額を押さえた。
「止めなくていいの?」
「止めても行くよ」
「それもそうね」
ハリーは他人事のようだった。
「気の毒に」
「助けに行かないの?」
「なんで僕が?」
「友達でしょ」
「自力で切り抜けるのって大事だよね」
ハリーは前の恋愛で既に色々学んだらしかった。
窓の外では、ホグワーツを囲む山々がゆっくりと遠ざかっていた。
ダンブルドア先生の本は、まだ上巻しか出ていない。
闇の帝王との戦いも終わっていない。
アストリアの呪いを治す方法も、まだ見つかっていない。
それでも、列車は進んでいく。
夏休みが来る。
その先には、新しい学期が待っている。
廊下の向こうから、ドラコの怒鳴り声が聞こえた。
「ベイン! 出ていけ!」
「ちょっと聞くだけじゃん!」
どうやら、次の問題はもう始まっているらしい。
不死鳥の騎士団編はこれにて終わりです。