110話 アンブリッジ魔法大臣
勝負の日には、最も自分らしい服を着るべきだ。
アンブリッジは衣装箪笥の前に立ち、三着の桃色のローブを見比べた。
一着目は、淡い薔薇色。上品ではあるが、少し弱い。
二着目は、青みを帯びた薄紅色。魔法省の会議には向いているが、初対面の相手を圧倒するには足りない。
三着目は、頭から爪先まで迷いのないピンクだった。
胸元には大きなリボン。袖口には小さなフリル。帽子には人工の花が三輪ついている。靴も鞄も同系色で、鏡の前に立てば、本人の姿がそのまま「ドローレス・アンブリッジ」という署名になる。
アンブリッジは三着目を選んだ。
魔法大臣として初めてマグルの首相と会う日である。
地味に見せる理由はなかった。
以前の彼女なら、由緒ある純血の魔女に見えるかどうかを気にしただろう。
今は違う。
父親が魔法使いで、母親がマグルだった。その事実を隠すために、ずいぶん遠回りをした。遠回りした末に、全身ピンクのまま魔法大臣になってしまったのだから、もう取り繕う意味もない。
首相官邸へは、暖炉ではなく正面玄関から入った。
母親がマグルだったアンブリッジにとって、マグルの建物へ入る手順は難しくない。
扉を開ける。
名を告げる。
金属製の探知機のようなものの前で止められる。
鞄の中に入っていた銀製の羽根ペンについて説明を求められる。
杖を細長い凶器と判断される。
そこまで含めて、予想の範囲内だった。
「これは職務上必要なものですわ」
アンブリッジが杖を指で示すと、玄関の警備員は困った顔をした。
「銃器の類いですか」
「いいえ」
「刃物ですか」
「違いますわ」
「では、何に使うものです?」
「必要に応じて人を拘束し、武器を奪い、明かりをつけ、紅茶を温めますわ」
警備員は黙った。
隣にいた男も黙った。
「コンファンド」
アンブリッジは仕方がないので、錯乱の呪文を放った。
「ェヘンェヘン! 入れてくださりますの?」
「ええ、もちろんです」
アンブリッジは杖を鞄へ戻し、ピンク色の靴音を廊下に響かせながら歩いた。
マグルの首相の執務室は、思っていたより地味だった。
魔法大臣室なら、壁には歴代大臣の肖像画が並び、どの絵も好き勝手に口を挟んでくる。こちらには油絵が何枚か掛かっているだけで、誰も喋らない。
少し寂しい。
その代わり、書類の量は魔法省と変わらなかった。
執務机の脇には、背の高い黒人の男が立っていた。
濃紺のスーツ。
隙のない姿勢。
顔には疲労も焦りもなく、アンブリッジの全身を見ても眉一つ動かさない。
キングズリー・シャックルボルトだった。
表向きは、首相付きの新任秘書。
実際には、魔法省から派遣された護衛である。
「首相」
キングズリーが静かに告げた。
「魔法大臣がお見えです」
首相は書類から顔を上げた。
アンブリッジの顔を見た。
次に帽子を見た。
胸元のリボンを見た。
靴まで視線を下ろし、もう一度帽子へ戻った。
そのあいだ、キングズリーは一度も動かなかった。
「ドローレス・アンブリッジですわ」
アンブリッジは執務机の前まで進み、右手を差し出した。
「このたび、魔法大臣に就任いたしました」
「また代わったのか」
首相は手を握る前に言った。
アンブリッジは笑顔を崩さなかった。
「ええ」
「あの険しい顔の男は?」
「辞任いたしました」
首相は目を閉じた。
こめかみを指で押さえている。
「君たちの政府は、もう少し長く同じ人物に任せられないのか」
「事態を悪化させた者へ長く任せ続けるより、健全な判断ですわ」
キングズリーが扉を閉めた。
音はほとんどしない。
首相の机には、新聞と報告書が積み重なっていた。一番上にあるのは、橋の崩落事故に関する書類だった。
死者十二名。
原因は調査中。
写真には、途中から折れた橋と、濁った川面が写っている。
アンブリッジには、調査するまでもなかった。
「悪い知らせなんだろう」
首相が言った。
「まずは良い知らせから申し上げます」
アンブリッジはピンク色の鞄から羊皮紙の束を取り出した。
「魔法省は、闇の帝王の復活を正式に認めました」
「それのどこが良い知らせなんだ」
「これまで認めてすらいなかったことと比べれば、大きな進歩ですわ」
首相はキングズリーを見た。
キングズリーは、ごく小さく頷いた。
「つまり、本当にいるのか」
「おります」
「以前の大臣は、そんなものはいないと言っていた」
「前大臣は、自分が恐れているものを存在しないことにすれば、問題も消えると考えておりましたので」
「なぜ、そんな男が大臣だった」
「選んだ者たちに聞いてくださいな」
「いま目の前にいるのは、その後任だが」
「わたくしは自分へ投票しておりませんの」
首相は返事をしなかった。
キングズリーの口元だけが、ごくわずかに動いた。
アンブリッジは机の上へ羊皮紙を並べた。
橋の崩落。
マグルの失踪。
巨人の移動。
不可解な気象現象。
住宅地の上空に浮かんだ髑髏。
どれも、魔法界だけで処理できる段階を過ぎている。
「今後、魔法省は必要な情報をマグル政府と共有いたします」
「マグル?」
「失礼、非魔法族のことをわたくしたちはそう呼んでおりますの」
「必要かどうかを決めるのは誰だ」
「いいえ、わたくしですわ」
「安心できない答えだな」
「嘘をついて安心させるより、誠実でしょう」
「君の前任者たちも、同じようなことを言わなかったか」
「言葉ではなく、今後の結果をご覧くださいな」
首相は椅子の背へ体を預けた。
その顔には、政治家として磨き上げた愛想より、眠れていない人間の疲労が濃く出ている。
アンブリッジは机の端に置かれたティーカップへ目をやった。
紅茶はすっかり冷めていた。
杖を振ると、カップから湯気が立ち上った。
首相が警戒するように見た。
「毒は入れておりませんわ」
「言われなければ、考えもしなかった」
「では、忘れてくださいな」
「今のところ、君たちの世界では聞き流せない言葉だな」
首相がカップへ手を伸ばした、そのときだった。
執務室の扉が叩かれた。
アンブリッジはキングズリーを見る。
彼は小さく首を横へ振った。
予定された来客ではない。
「誰だ」
首相が声をかける。
「緊急の書類をお持ちしました」
扉の向こうから、男の声がした。
アンブリッジには聞き覚えがあった。
あまりにも滑らかで、本人が喋っているというより、朗読用の音声を流しているような声だった。
キングズリーが扉へ近づき、わずかに開く。
隙間から、灰色のスーツを着た男が身を滑り込ませた。
腕には書類の束を抱えている。
明るい金髪。
左右対称に整った顔。
白い歯だけで、暗い廊下を照らせそうな笑顔。
「首相、お忙しいところ失礼いたします」
男は一礼した。
書類を届けに来た秘書の礼ではなかった。
舞台へ登場した俳優の礼だった。
その目がアンブリッジを捉える。
「ああ」
嬉しそうに細められた。
「これはこれは。大臣閣下」
アンブリッジは杖を抜いた。
「ギルデロイ・ロックハート」
「覚えていてくださった」
ロックハートは書類を胸へ押し当てた。
「光栄です。あなたには、私もずいぶん期待していたんですよ」
「何をしに来ましたの」
「少々、記憶を整理しに」
書類が彼の腕から離れた。
床へ落ちる前に、一枚一枚が白い鳥へ変わった。
翼が広がる。
羽音が執務室を満たし、机の上の報告書が舞い上がった。
「伏せてください!」
キングズリーが首相の肩を押し、机の陰へ沈める。
「またか!」
首相が叫んだ。
何が「また」なのかは分からなかったが、すでに魔法関係の騒動を経験しているらしい。
白い閃光が鳥の隙間を抜けた。
アンブリッジは盾の呪文で弾く。
光が天井へ逸れ、照明を砕いた。
ガラス片が降る。
キングズリーは杖を一振りし、机の上に見えない膜を張った。破片が空中で弾かれ、床へ転がった。
「オブリビエイト」
ロックハートの声が響く。
次の光はキングズリーへ向かった。
彼は首をわずかに傾けるだけでかわし、赤い閃光を返した。
白い鳥が数羽、ロックハートの前へ集まる。
呪文を受けた鳥は書類へ戻り、端から燃えながら散った。
「なるほど、なるほど」
ロックハートは、部屋を壊している最中とは思えないほど楽しそうだった。
「優秀な秘書を雇いましたね」
「人を見る目はございますの」
「昔と違って?」
彼の笑みが深くなる。
「あなたは、もっと扱いやすい人だった」
白い鳥が一斉に向きを変えた。
何十もの黒い目がアンブリッジを捉える。
羽ばたきが視界を埋め、ピンク色の袖に白い羽根が張りついた。
羽音の奥で杖が動く。
「オブリビエイト」
アンブリッジは盾を張った。
わずかに遅れた。
白い光が肩をかすめた。
痛みはなかった。
その代わり、冷たい指が頭の中へ入り、頁を一枚ずつ破り取っていくような感覚があった。
白い鳥。
壊れた照明。
机の陰にいる首相。
杖を持った金髪の男。
状況は見えている。
けれど、その男だけがどこにもつながらない。
名前が出てこない。
どこで会ったのかも、何をした人物なのかも思い出せない。
なぜ自分が杖を向けているのかさえ、曖昧になった。
「わたくしは、ここで何を……?」
「大臣」
男が優しい声で呼びかけた。
「もう大丈夫ですよ」
ハンサムな男だった。
肖像画か本の表紙で見たような気もする。
少なくとも、ひどく愛想がいい。
「少し混乱しているだけです。杖を下ろしてください」
アンブリッジの腕が、わずかに下がる。
男は笑顔のまま一歩近づいた。
「そいつは死喰い人だ」
キングズリーの声が飛んだ。
アンブリッジは即座に杖を振った。
「ボンバーダマキシマ!」
赤い光が男の胸へ飛ぶ。
男は目を見開き、床へ身を投げ出した。
閃光が背後の本棚へ直撃し、分厚い本と木片が吹き飛ぶ。
首相が机の陰から叫んだ。
「本棚まで壊す必要があるのか!」
「必要ですわ!」
アンブリッジは答えた。
何の本棚なのかは知らないが、死喰い人より優先するものではない。
「驚いたな」
男は片膝をついたまま笑った。
「私のことを忘れたのに、それでも攻撃するのかい?」
「キングズリーが、あなたは死喰い人だと言いましたもの」
「秘書の言葉を、そこまで簡単に信じる?」
「キングズリーは、わたくしに嘘はつかないのですわ」
キングズリーの杖から紫色の閃光が放たれた。
男は倒れた机を蹴り上げ、盾にする。
呪文を受けた机が中央から裂け、床を木片が滑った。
首相が、机の陰から半分だけ顔を出した。
「その男は、本当に秘書なのか」
「給料は秘書として受け取っています」
キングズリーは前を向いたまま答えた。
「素晴らしい」
金髪の男は立ち上がった。
「本当に、素晴らしい変化だ」
褒めるような口調だった。
けれど、その目には、大切な収集品を壊された者のような残念さが浮かんでいる。
「でも、あなたは完璧だったのに」
「何の話ですの」
「悪役ですよ」
男は杖を指の間で回した。
「ピンク色に固執し、甘ったるい声で規則を振りかざし、自分の正しさを疑わない。弱い者を罰しておきながら、それを秩序と呼ぶ」
ロックハートの笑顔が、昔の写真のように整った。
「読者が一目見ただけで嫌える。物語に必要な悪役として、これ以上ないほど完璧だった」
アンブリッジは、自分のローブを見下ろした。
ピンク色に固執している点についてだけは、否定しにくい。
「それが、どうしてこうなってしまったんでしょうね」
男は本気で惜しんでいた。
「生徒と恋愛小説を交換し、嫌われ者を救う教師。あげくに魔法大臣となって、マグルを守ろうとしている」
机の陰から、首相が口を挟んだ。
「私を守ろうとしていたのか」
「もちろんですわ」
「先ほどから本棚と机ばかり壊れているが」
「あなたは死んでおりませんでしょう」
首相はまた机の陰へ引っ込んだ。
「わたくしが、あなたの期待に従う義務がありまして?」
アンブリッジが尋ねると、男は肩をすくめた。
「ありませんよ。だから悲しいんです」
心底残念そうだった。
「登場人物が勝手に筋書きを外れると、作者は困る」
「作者? あなたは作家ですの?」
「ああ。そこも忘れてしまったか」
「お前は他人の人生を奪って、自分の物語に書き換えているだけだ」
キングズリーが言った。
男の笑みがわずかに固まる。
「嫌な男だ」
「よく言われる」
白い鳥が再び舞い上がった。
男の姿が羽の中へ消える。
「オブリビエイト!」
光が三つに分かれた。
一つはアンブリッジへ。
一つはキングズリーへ。
最後の一つは机の陰にいる首相へ。
キングズリーが首相の前へ飛び出した。
アンブリッジも杖を振った。
「エクスペクト・パトローナム!」
銀色の猫が、ピンク色の袖口から飛び出した。
猫は倒れた椅子を踏み台にし、空中で身をひねる。
首相へ向かっていた忘却術へ体当たりした。
白い光が銀色の粒へ変わり、執務室に降り注ぐ。
猫は机の上へ着地し、書類の山を一つ崩した。
首相が、また顔を出した。
「その猫は味方なのか」
「ええ」
「書類を落としたが」
「細かいことを気になさらないで」
銀色の猫が尾を立てた。
男の顔が、初めて露骨に歪んだ。
「それですよ」
「何ですの」
「その守護霊」
男は銀色の猫を不愉快そうに見つめた。
「以前のあなたには、似合わなかった」
「今は似合うと?」
「だから困るんです」
猫が机を蹴った。
銀色の体が白い鳥の群れへ飛び込む。
男が紫色の閃光を放ち、猫を退けた。
キングズリーが横から攻撃を重ねる。
二方向から呪文が走り、男の逃げ道を削っていく。
アンブリッジは杖を突き出した。
「インカーセラス!」
縄が男の腕へ絡みついた。
腕から肩へ巻きつき、胸元まで締め上げる。
だが、捕らえたと思った瞬間、男の姿が紙吹雪となって弾けた。
紙片がピンク色の帽子へ降りかかる。
幻影だった。
「後ろだ!」
キングズリーの声に、アンブリッジは振り返った。
金髪の男は扉の前に立っていた。
髪は乱れ、スーツの袖は焦げている。
それでも笑顔だけは崩していない。鏡を見なくても、最も見栄えのいい角度を知っているような笑みだった。
「惜しいなあ、アンブリッジ」
名前を呼ばれても、彼との記憶は戻らなかった。
「あなたは、憎まれるために生まれてきたような人だったのに」
「随分と失礼な惜しみ方ですわね」
「敵に回すなら、昔のあなたの方がよかった」
男が扉を開ける。
向こうにあるはずの官邸の廊下は消え、薄暗い石造りの通路が伸びていた。
「今のあなたは、少々厄介すぎる」
「褒め言葉として受け取りますわ」
「次に会うときまでには、元へ戻っていてください」
「お断りします」
「残念です」
男は本当に残念そうに言った。
「悪役の席は、そう簡単には空かないんですよ」
キングズリーが呪文を放つ。
扉が閉じた。
赤い光が扉を貫いたものの、その先に残っていたのは首相官邸の廊下だけだった。
金髪の男は消えている。
白い鳥も元の書類へ戻り、床の上へ散らばった。
執務室には、紙が落ちる乾いた音だけが残った。
首相が机の陰からゆっくり立ち上がる。
「終わったのか」
「今のところは」
キングズリーが答えた。
首相は執務室を見回した。
照明は割れ、本棚は吹き飛んで木っ端微塵になっていた。机は中央から裂けて割れている。
床一面には書類が広がっていた。
その上に、銀色の猫が平然と座っている。
「あの男は誰だ」
アンブリッジもキングズリーを見た。
彼女にも分からない。
名前も、過去も、何一つ思い出せなかった。
ただ、次に現れれば攻撃すべき相手であることだけは分かる。
「ギルデロイ・ロックハートです」
キングズリーが答えた。
「忘却術を得意とする死喰い人です」
「何者なんだ」
「作家です」
首相はしばらく黙った。
「作家?」
「他人の功績を奪い、自分の冒険として出版していました」
「それで今は、政府首脳を襲う暗殺者なのか」
「殺すより、相手の記憶を書き換えることを好みます」
首相はキングズリーを見た。
「確かなのか」
「確かです」
キングズリーは落ち着いて答えた。
アンブリッジは杖を収めた。
ギルデロイ・ロックハート。
名前を聞いても、記憶は一つも蘇らない。
それでも、キングズリーが死喰い人だと言った。
それで十分だった。
「ところで」
首相が壊れた机を見下ろした。
「この部屋は元に戻せるのか」
アンブリッジは杖を取り出しかけた。
キングズリーが静かに首を横へ振った。
「マグルの品を完全に元へ戻す場合、担当部署を通す必要があります」
「規則ですの?」
「規則です」
アンブリッジは杖を戻した。
「では、申請なさいませ」
「私が?」
「所有者ですもの」
首相は何も言わず、まだ無事だった椅子へ腰を下ろした。
「今夜のようなことが、これからも起きるのか」
先ほどまでの苛立ちが、声から消えていた。
アンブリッジは桃色の帽子の位置を直した。
「残念ながら、今夜の出来事は例外ではございません」
「これより悪くなると?」
「ええ」
銀色の猫が、アンブリッジの足元へ戻ってきた。
猫の背から零れる光を見ていると、クリスマスの夜が浮かんだ。
生徒たちの笑い声。
双子に魔法大臣と囃し立てられ、恥ずかしさをこらえながら前へ出たこと。
「だからこそ──」
アンブリッジはピンク色のローブの袖を整え、胸を張った。
「わたくしが魔法大臣になりましたの」
半純血のプリンスの冒頭結構好きです。今回は原作をリスペクトしてマグルの首相と魔法大臣が会う回にしました(なお魔法大臣はアンブリッジ)