本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:パラプリュイ

129 / 153
番外編 マルフォイ家の家族会議⑪

 

 ルシウス・マルフォイは、朝食の席で重大な報告を受けるのが嫌いだった。

 

 食事とは、一日の中でも比較的安全な時間であるべきだ。

 

 まだ誰も決闘を始めておらず、魔法省から召喚状も届いておらず、屋敷の地下から悲鳴も聞こえない。銀の食器は正しい位置に並び、紅茶は適温で、新聞には昨日までに起きた不幸しか載っていない。ルシウスが死喰い人であることはどうやら今日もまだバレていないようだった。

 

 ところが、その日のベラトリックスは、朝からひどく機嫌がよかった。

 マルフォイ邸の食堂へ入ってくるなり、ナルシッサの隣の椅子を引き、葡萄酒を注ごうとしたドビーの手を止めた。

 

「いらないわ」

 

 ルシウスは羽ペン通信から顔を上げた。

 ベラトリックスが酒を断った。朝でもかまわず酒を飲むような女だったはずだ。

 これだけで、何かよくないことが起きている。

 

「体調でも悪いの?」

 

 ナルシッサが尋ねた。

 

「いいえ。最高よ」

 

 ベラトリックスは、朝から獲物を追い詰めた時のような笑みを浮かべていた。

 

「子どもができたの」

 

 ルシウスの手から、羽ペン通信が滑り落ちた。

 

 紙面には、ダンブルドアの自伝の上巻が刊行されたという記事が載っていた。先ほどまでルシウスが抱えていた不安は、それだった。

 ルシウスはマインが本を編集したという情報を入手し、既に何冊かマルフォイ家用に購入していた。娘がクリスマスに帰らなかった理由の一つなのだろう。

 闇の帝王に見つからないようダンブルドアの自伝を隠しておかなければならない。見つかったら終わる。

 それが今、急に小さな問題になった。

 

「……子ども?」

 

 ナルシッサは紅茶を置いた。

 

「ええ」

 

 ベラトリックスは自分の腹へ手を添えた。

 まだ外見からは何も分からない。

 

「誰の?」

 

 ナルシッサが聞いた。

 必要のない質問だと、ルシウスは思った。

 同時に、どうか必要な質問であってほしいとも思った。

 ベラトリックスは胸を張った。

 

「我が君の御子よ」

 

 ルシウスの胃が、ゆっくりと裏返った。

 正確に言えば、ベラトリックスが闇の帝王に恋慕を抱いていることは、以前から知っていた。

 知らないふりをしていた。

 それは本人の命と、周囲の平穏のためだった。

 

「いつの間に?」

 

 ナルシッサは、姉が何色のドレスを買ったのか尋ねるような口調だった。肝が座っている。

 

「少し前に、我が君とお酒を飲んだ夜よ」

 

「あなたが誘われたの?」

 

「私から迫ったわ」

 

 ルシウスは目を閉じた。

 世の中には、怖いもの知らずがいる。

 いや、ベラトリックスの場合、恐怖を感じる機能そのものが欠けているのかもしれない。

 

「あなたからあの方に?」

 

 ナルシッサが念を押した。

 

「そうよ」

 

「正気だったの?」

 

「お互い酔っていたわ」

 

 闇の帝王が酔う。

 ベラトリックスが闇の帝王に迫る。

 その結果、子どもができる。

 

 一つずつならまだ理解できる単語が、並べると理解を拒んだ。

 

「姉さん」

 

 ナルシッサは静かに言った。

 

「今後は一人でお酒を飲んで」

 

「なぜよ?」

 

「屋敷の家系図がこれ以上複雑になると、説明するのが面倒だからよ」

 

 ベラトリックスは不満そうだった。

 ルシウスは、家系図だけの問題ならどれほどよかっただろうと思った。

 闇の帝王の子である。

 

 無事に生まれれば、後継者争いが起きるかもしれない。生まれなければ、それはそれで誰かが責任を取らされる。母体に何かあればマルフォイ邸の管理責任を問われ、赤子が泣けば闇の帝王の機嫌を損ね、笑えば何を企んでいるのか疑われる。

 誕生前から、ろくな未来が見えない。

 

「我が君にこのことを伝えたのか?」

 

「もう伝えたわ」

 

 ベラトリックスは嬉しそうに笑った。

 

「何と?」

 

「『そうか』と」

 

 それだけだったらしい。

 

 闇の帝王の反応としては、悪くない。

 ベラトリックスは殺されていない。

 

 ルシウスは、それだけで祝福すべきなのか迷った。

 

 食堂の扉が開いた。

 迷う時間は終わった。

 黒いローブを引きずりながら、闇の帝王が入ってきた。

 

 その後ろには、バーティ、デルフィー、そして額に包帯を巻いたロックハートが続いている。

 

「我が君」

 

 ルシウスは立ち上がった。

 ベラトリックスも勢いよく立とうとしたが、ナルシッサが肩を押さえた。

 

「妊娠しているのだから、急に立たないで」

 

「まだ何ともないわよ」

 

「今から気をつけるの」

 

 ベラトリックスは渋々座り直した。

 闇の帝王は、そのやり取りを見なかったことにした。

 

「ダンブルドアが本を出した」

 

 闇の帝王は席へ着くなり言った。

 

 ルシウスは床へ落ちた新聞を、長いローブの裾で隠した。

 

「自伝でございますね」

 

「あの老人は、自分がまだ魔法界の中心にいると示すつもりだ」

 

 闇の帝王の前へ、ドビーがおそるおそる紅茶を置いた。

 

 砂糖壺を置き、闇の帝王が指示する量を入れる。

 闇の帝王が見ると、ドビーは砂糖壺ごと姿を消した。

 

「書店には行列ができたそうです」

 

 バーティが吐き捨てるように言った。

 

「愚かな民衆です。老いぼれの昔話に金を払うなど」

 

 ルシウスは黙っていた。

 マルフォイ邸には、ダンブルドアの自伝が三冊ある。

 

 一冊はナルシッサ用。

 

 一冊はドラコ用。

 

 もう一冊は、ローゼマインが編集時に書き込みをした見本本である。ドラコが入手したものをルシウスは大切にしていた。

 

 ルシウスは夜中に数ページだけ読んだ。

 読みやすかった。

 それを認めれば殺されそうなので、墓まで持っていくつもりだった。

 

「邪魔だ」

 

 闇の帝王は細い指でテーブルを叩いた。

 

「さっさと殺してしまえばいい」

 

 ルシウスの胃が、今度は縦に縮んだ。

 先ほど裏返ったばかりなので、もう少し休ませてほしかった。

 

「ダンブルドアを、でございますか?」

 

「ほかに誰がいる」

 

 できれば著者ではなく、本の方であってほしかった。

 発禁処分にする程度なら、まだ対応できる。

 

「本の影響を懸念されているのであれば、流通を止める手もございます」

 

 ルシウスは慎重に言った。

 

「出版社を押さえ、書店へ圧力をかければ――」

 

「出版社にはあの娘がいる」

 

 闇の帝王の赤い目がルシウスへ向いた。

 

「ローゼマインは、圧力をかければ販売をやめる娘か?」

 

「……別の販売経路を探すかと」

 

「では、ダンブルドアを殺す方が早い」

 

 ローゼマインの本への執着が、ダンブルドアの寿命を縮めていた。

 父親として誇るべきなのか、止めるべきなのか分からない。

 

「その前に、魔法省をこちらへ傾ける必要があります」

 

 バーティが身を乗り出した。

 

「アンブリッジは目障りです。純血主義を掲げているくせに、我々へ従おうとしない」

 

「だから、マグルの首相を服従させろと言った」

 

 闇の帝王の声が低くなった。

 食堂の端に立っていたロックハートが、包帯の位置を直した。

 包帯の下から、前髪が少し焦げている。

 

「その件ですが」

 

 ロックハートは、場違いに爽やかな笑顔を作った。

 

「誠に残念ながら、先方との話し合いは、少々予想外の形で終了しました」

 

「話し合い?」

 

 デルフィーが横から言った。

 

「あなた、首相の記憶を消そうとしたでしょう」

 

「穏便に記憶を整理しようとしたんだ」

 

「杖を向けながら?」

 

「話し合いには必要なことだよ」

 

 ロックハートは包帯を指差した。

 

「ところが、アンブリッジ魔法大臣が突然現れましてね。あの女性は、もう少し対話というものを学ぶべきです」

 

「何をされた」

 

 闇の帝王が尋ねた。

 

「最初に武装解除呪文。その後、爆破呪文をかけられこの有様ですよ」

 

「首相の記憶は?」

 

「残っています」

 

 闇の帝王の指が止まった。

 ルシウスは、ハウスエルフたちが全員いなくなっていることに気づいた。

 逃げ足だけは優秀である。

 

「つまり」

 

 闇の帝王はゆっくり言った。

 

「お前は、何もできずに戻ったのか」

 

「何も、というのは正確ではありません」

 

 ロックハートは胸を張った。

 

「マグル政府の警備体制と、アンブリッジ魔法大臣の戦闘能力について、有益な情報を持ち帰りました。アンブリッジは私の記憶を綺麗に忘れ去りました。次からは潜入しやすくなるはずです」

 

「負けた結果を、情報収集と言い換えないで」

 

 デルフィーの指摘は容赦がなかった。

 

「君はもう少し恋人を支えるべきではないかな」

 

「失敗まで褒めるつもりはないわ」

 

 ルシウスは、二人の会話にわずかな違和感を覚えた。

 ロックハートは今、デルフィーを恋人と言った。

 聞き間違いであってほしかった。

 

 今日のルシウスは、すでに一度、聞き間違いを願って失敗している。

 

「バーティ」

 

 闇の帝王はロックハートから視線を外した。

 

「誰か適当な人物になりすまし、魔法省へ入れ」

 

「喜んで」

 

 バーティは即座に頭を下げた。

 

「アンブリッジに対抗できる政治家を探せ。私に従う者であれば、血筋は問わん」

 

「純血でなくとも?」

 

「アンブリッジを引きずり下ろせるなら構わん」

 

 ベラトリックスが不満そうに鼻を鳴らした。

 

「穢れた血や半純血を使うの?」

 

「使えるものを使うだけだ」

 

 闇の帝王の声には苛立ちが混じっていた。

 

「魔法省の内部へ潜り込み、誰が何を欲しがっているか調べろ。地位、金、復讐。人間は何かを与えれば動く」

 

「必ず、我が君にふさわしい者を見つけます」

 

 バーティの目が熱に浮かされたように輝いた。

 魔法省への潜入を命じられて喜ぶ人間も、十分に怖いもの知らずである。

 今日は豊作だった。

 

「それで、ロックハート」

 

 闇の帝王が再び顔を向けた。

 

「先ほど、何と言った?」

 

 ロックハートの笑顔がわずかに引きつった。

 デルフィーが腕を組む。

 

「隠しても仕方ないわ」

 

「私は、適切な時機を見て説明しようと思っていたんだ」

 

「その適切な時機はもう過ぎてるの」

 

「何の話だ」

 

 闇の帝王の声がさらに低くなる。

 

 ロックハートは襟元を整えた。

 包帯を巻き、髪の先を焦がしながらも、姿勢だけは崩さない。

 

「ご挨拶が遅れましたが」

 

 一度、デルフィーを見た。

 ロックハートは彼女の隣へ立ち、手を取った。

 

「娘さんと、お付き合いしています」

 

 ルシウスの胃は、もはや裏返る方向を失った。

 食堂の空気を読まず、壁の時計だけが時を刻んでいる。

 

「娘?」

 

 ベラトリックスが言った。

 

「誰の?」

 

「あなたの娘よ」

 

 ナルシッサが答えた。

 

「あなた、私の娘だったの?!」

 

 未来から来た本人が目の前にいると、まだ腹の中にいる娘との対応関係が分かりにくい。

 

 ベラトリックスはデルフィーを上から下まで見た。

 次にロックハートを見る。

 

「お前、出来心で私の娘に手を出したの?」

 

「失礼な。相思相愛で純愛ですよ!」

 

 ロックハートは答えた。

 

「それに、手を出したという表現には、いささか語弊がありますね」

 

「ないわ」

 

 デルフィーが言った。

 

「最初に手を出したのはあなたでしょう」

 

「こんなことなら記憶を消しておけば良かった」

 

「父親の責任を放り出そうとしたら殺すわよ」

 

 闇の帝王の赤い目が、ロックハートの手とデルフィーの手を見た。

 

「お前が」

 

 声が震えている。

 怒りである。

 

「私の義理の息子だと?」

 

 椅子の背に細い亀裂が入った。

 ロックハートは青ざめた。

 それでも、デルフィーの手を離さなかった。

 

 そこだけは、ルシウスも少し意外だった。

 

「将来的には、そのような関係も考えております」

 

「考えるな」

 

「しかし、私たちは真剣に――」

 

「お前が私を父と呼ぶ未来など認めん!」

 

「ええ、ええ。私としても、今すぐ『お養父様』と呼ぶのは早いかと」

 

「呼ぶな!」

 

 銀の皿が一斉に震えた。

 ベラトリックスは腹を抱えて笑い始めた。

 

「我が君がこいつの養父!」

 

「笑うな、ベラトリックス」

 

「だって、この男が我が君の息子になるのよ?」

 

「ならん!」

 

「お静かに」

 

 ナルシッサの声が、食堂を通った。

 闇の帝王が振り向いた。

 ナルシッサは眉一つ動かさない。

 

「妊婦の前で声を荒らげないでください」

 

「何?」

 

「ベラトリックスが妊娠しています」

 

 ナルシッサはベラトリックスを指した。

 

「それから、デルフィーも」

 

 ルシウスは紅茶を盛大に吹き出してしまった。熱い紅茶がロックハートにかかった。

 

「……デルフィーも?」

 

 ベラトリックスが首を傾げた。

 

「ええ」

 

 デルフィーは、少し気まずそうに腹へ手を添えた。

 

「妊娠しているわ」

 

 ルシウスの胃は、そこで静かになった。

 痛みが消えたのではない。

 理解を諦めたのである。

 

 ベラトリックスの腹には、未来から来たデルフィーがいる。

 未来から来たデルフィーの腹には、ロックハートの子がいる。

 この場には、母親と胎児と成長した胎児と、その胎児の胎児が同席している。

 家系図を描けば、線が時間を越える。

 

 ルシウスは純血家の複雑な婚姻関係を理解してきたが、時間旅行を含む家系図は専門外だった。

 

「私、祖母になるの?」

 

 ベラトリックスは自分の腹を見下ろした。

 

「まだ母親にもなっていないのに?」

 

「順番としては、母親になるのが先よ」

 

 ナルシッサが言った。

 

「この場に成人した娘がいるだけで」

 

「ふん、いいわ!」

 

 何がいいのか、ルシウスには分からなかった。

 闇の帝王は立ったまま、ロックハートを見つめていた。

 今すぐ殺したそうな顔をしている。

 

「お父様」

 

 デルフィーが言った。

 

「ギルデロイを殺さないで」

 

「名で呼ぶな」

 

「付き合ってるから名前で呼んでいるの」

 

「その関係を認めた覚えはない」

 

「認められる前から付き合ってるわ」

 

「いつからだ」

 

「神秘部へ行く前から」

 

「なぜ報告しなかった」

 

「交際の報告をするような雰囲気じゃなかったでしょう」

 

「妊娠の報告は?」

 

「遅くなってごめんなさい」

 

 闇の帝王のこめかみに、見たことのない種類の緊張が走った。

 敵を殺す時には見せない顔だった。

 闇の帝王も、娘の交際報告には不慣れらしい。

 

「それで」

 

 ナルシッサがデルフィーへ向き直った。

 

「あなたは、いつ未来へ戻るの? 出産まではここにいるのよね?」

 

 質問されたデルフィーの顔から、少しだけ強気が消えた。

 

「もう戻れないの」

 

「なぜ?」

 

「タイムターナーを奪われたから」

 

 闇の帝王が動きを止めた。

 

「誰に」

 

「トム・リドル」

 

 名前が落ちると、食堂の温度まで下がったように感じた。

 ルシウスは、今度こそ本当に胃が縮むのを感じた。

 

「神秘部で奪われた」

 

 デルフィーは続けた。

 

「あいつが私のタイムターナーを奪ったの」

 

「なぜ」

 

 闇の帝王は、ロックハートへの怒りを一時的に忘れた。

 

「タイムターナーを奪われたと、早く言わなかった」

 

「タイムターナーを奪われましたと言ったら、先に私を殺しそうだったからよ」

 

「殺さん」

 

 闇の帝王は即答した。

 少し間を置いた。

 

「タイムターナーの所在を聞くまでは」

 

「ほら」

 

 デルフィーはロックハートを見た。

 

「言わなくて正解だった」

 

 ロックハートが真剣に頷いた。

 

「さすが、デルフィー。賢明な判断だ」

 

「お前は黙れ」

 

「はい」

 

 今度は素直だった。

 闇の帝王は食卓の端へ手を置いた。

 

「タイムターナーがあれば、過去を変えられる」

 

「簡単ではないわ」

 

「不可能ではない」

 

 赤い目が鋭く細められた。

 

「未来から来た子どもたちが証明した。過去を変えれば、現在も変わる」

 

「変え方によっては、あなた自身が消えるかもしれない」

 

「私が消えない過去を選べばいい」

 

 それが簡単にできるなら、誰も苦労しない。

 しかし、その場で指摘する者はいなかった。

 

「トムから取り戻す」

 

 闇の帝王は言った。

 

「ダンブルドアを殺す前に、タイムターナーを奪う。あれがあれば、失敗した全てをやり直せる」

 

 ルシウスは、その言葉を聞きながら、別のことを考えていた。

 

 失敗した全て。

 闇の帝王にとって、それがどこから始まるのか。

 赤子のハリーを殺し損ねた夜か。

 それより前か。

 あるいは、トムだった頃まで戻るつもりなのか。

 やり直した過去に、マルフォイ家が存在する保証はない。

 闇の帝王が時間を手に入れることは、勝利より恐ろしいかもしれなかった。

 

 会議は、その後もしばらく続いた。

 バーティは魔法省へ潜入する準備のため、早々に屋敷を出た。

 

 ベラトリックスは、自分の孫にどのような名前をつけるか考え始めた。もう娘の名前は決まっていたからだ。

 

 デルフィーはロックハートに、次にアンブリッジと戦う時は一人で行くなと言った。ロックハートは、次は必ず華麗に勝利すると答え、デルフィーに額の包帯を引っ張られた。

 ナルシッサはドビーを呼び戻し、妊婦用の食事を二人分用意するよう命じた。

 

 ルシウスだけが、一言も発しなかった。

 何かを口にすれば、胃まで出てきそうだった。

 

 

 *

 

 

 夏休みのある日の夕方、ドラコがルシウスの書斎を訪れた。

 帰宅して数日が経っていたが、以前より口数が減っている。

 

 神秘部で起きたことも、ローゼマインの出版社のことも、必要な部分しか話さなかった。

 

「父上。少しよろしいですか」

 

「ああ」

 

 ドラコは扉を閉じた。

 それだけではなく、杖を取り出し、防音呪文と侵入防止呪文を重ねた。

 

「人払いをするほどの話か?」

 

「あの人や死喰い人には聞かれたくありません」

 

 ドラコは父親の向かいへ座った。

 姿勢は整っていたが、指先は硬く組まれている。

 

「父上は」

 

 一度、言葉を切った。

 

「ダンブルドア側につく気はありませんか」

 

 ルシウスは、すぐには答えなかった。

 驚かなかったわけではない。

 

 ただ、今日までに驚く量を使い果たしていた。

 

「それは、ダンブルドア本人からの提案か?」

 

「ええ」

 

 ドラコは顔を上げた。

 

「でも、僕もダンブルドア側につくべきだと思います」

 

 そこは意外だった。

 息子は、父親の指示に従うことを当然として育った。

 それが今、自分で家の進路を決めようとしている。

 

「理由を聞こう」

 

「闇の帝王の力無しでもマインは健康になりました。ダンブルドアは信用はできませんが、マインのことを気にかけています」

 

「闇の帝王が勝てば、マルフォイ家はさらに栄える」

 

「本当にそう思っているのですか」

 

 ドラコは目を逸らさなかった。

 父親は、息子に本音を見抜かれていた。

 

「勝者に早くついた者は、重く用いられる」

 

 ルシウスは言った。

 

「だが、早くつきすぎた者は、勝者が変わった時に逃げられない」

 

「では」

 

「寝返るなら、一番よいタイミングで寝返るべきだ」

 

 ドラコの肩がわずかに動いた。

 

「反対しないのですか」

 

「賛成したわけでもない」

 

 ルシウスは椅子へ深く座った。

 

「忠誠心だけで家を存続させられるなら、純血家はこれほど減っていない」

 

「では、何を待つのです」

 

「闇の帝王が、我々を必要としていながら、我々を追う余裕を失う瞬間だ」

 

 ルシウスは、この数日で起きたことを頭の中へ並べた。

 

 ベラトリックスは妊娠した。

 デルフィーも妊娠した。

 

 ロックハートはアンブリッジに敗北し、戦力として数えるには不安がある。

 バーティは魔法省へ潜入するため、表立って動けなくなる。

 闇の帝王は、ダンブルドアとトムとタイムターナーへ同時に手を伸ばそうとしている。

 指が多くても、全てをつかむことはできない。

 

「幸い」

 

 ルシウスは静かに言った。

 

「妊婦が二人増えた」

 

 ドラコが眉を寄せた。

 

「それを幸いと言うのですか」

 

「少なくともベラトリックスが身重になれば、死喰い人の戦力は確実に減る」

 

「叔母上は妊娠していても戦うと思います」

 

「ナルシッサが止める」

 

 それだけは確信できた。

 

「もう一人は?」

 

「ロックハートが止める」

 

「止められますか」

 

「止められなくても、一緒に止められる」

 

 戦力が二人減る可能性がある。

 十分だった。

 ドラコは、言うべきか迷った顔をした。

 

「父上は、闇の帝王を裏切ることが怖くないのですか」

 

「怖いに決まっている」

 

 ルシウスは即答した。

 怖くない人間がどうなるかは、朝食の席で学んだばかりである。

 

「だが、お前とナルシッサを失う方が怖い」

 

 ドラコが黙った。

 

「ローゼマインもだ」

 

 付け加えると、息子の表情が少し緩んだ。

 ルシウスは机の引き出しを開けた。

 

 中には、ダンブルドアの自伝が入っている。

 金色の文字が刻まれた表紙を、ドラコが見つめた。

 

「読んだのですか」

 

「ああ。あの老人に妹がいたとは知らなかった」

 

 ルシウスはダンブルドアの妹について書かれた章を開いた。

 

 幼い頃に傷つけられ、魔力を抑えきれなくなり、家の中に閉じ込められるようにして育った少女。

 家族に愛されていた。

 守られてもいた。

 それでも、兄たちが自分たちの理想と未来に目を奪われたわずかな隙に、命を落とした。

 ページの端を押さえていたルシウスの指に、知らず力がこもった。

 

 アリアナとマインは似ていない。

 マインは屋敷に閉じ込めておけば大人しくしているような娘ではない。鍵をかければ窓から出る方法を考え、杖を取り上げればハウスエルフを丸め込み、本を取り上げれば屋敷そのものを敵と見なす。

 何より、あれほど騒がしい少女を儚いなどと評する者がいれば、ルシウスはその者の観察眼を疑う。

 

 だが、似ていた。

 身体が弱く、本人の意思とは関係なく大きな力に巻き込まれ、周囲の都合で居場所を決められるところが。

 家族が守っているつもりで、本人が何を望んでいるのかを見落としかねないところまで。

 

 あの老人は、マインの能力を高く評価している。

 魔法書研究会も、羽ペン通信も、出版社も、面倒を起こしても微笑んで許している。

 

 甘いからではない。

 マインを信じているからでもない。

 もう一度、間に合いたいのだ。

 

 ダンブルドアはマインを見ているのではない。

 少なくとも、マインだけを見ているのではなかった。

 あの老人は、マインの向こうに、救えなかった妹を見ている。

 だから守る。

 今度こそ、争いに巻き込ませないために。

 今度こそ、本人の知らないところで人生を決めないために。

 今度こそ、死んでから後悔せずに済むように。

 

 ずるい老人だと思った。

 自らの失敗を告白し、後悔を並べることで、読者に理解を求めている。そんな手に乗るつもりはなかった。

 それでも、妹を守れなかった兄の文章を、娘を危険から遠ざけきれない父親が読めば、完全に無視することは難しい。

 マインがいなくなったあとのマルフォイ邸を想像しかけ、ルシウスは即座に思考を打ち切った。

 想像する必要などない。

 あの娘は勝手に危険へ突っ込み、勝手に生還し、泥だらけのまま屋敷へ帰ってきて、第一声で本の心配をする。

 そうでなければ困る。

 ルシウスは本を閉じ、引き出しへ戻した。

 

「ダンブルドアへは、まだ何も伝えるな」

 

「なぜです」

 

「向こうが我々を必要としていると確信するまで待つ」

 

「遅れれば、取り返しがつかなくなります」

 

「早すぎれば、全員死ぬ」

 

 息子の顔には、まだ反論が残っていた。

 けれど、ルシウスは譲らなかった。

 

 道徳心で裏切るつもりはない。

 正義に目覚めたわけでもない。

 闇の帝王が間違っているから、ダンブルドアへつくのでもない。

 

 ただ、マルフォイ家を残す。

 そのために最も勝率の高い瞬間を選ぶ。

 

「その時が来たら」

 

 ドラコが尋ねた。

 

「父上は、本当に動くのですか」

 

 屋敷のどこかから、ベラトリックスの笑い声が聞こえる。続いて、「妊婦は走るな」というナルシッサの声が飛んだ。

 別の廊下では、ロックハートが子どもの名前について話し、デルフィーに却下されている。

 

 闇の帝王の本拠地となった屋敷は、以前より騒がしく、以前より危険で、以前より家族が増えていた。

 

 ルシウスは胃のあたりへ手を置いた。

 今日も痛んでいる。

 だが、まだ生きている。

 

「ああ」

 

 ルシウスは答えた。

 

「マルフォイ家の存続のためなら」

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。